AWC 空白 〜 青陽寮殺人事件 1    永山


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#5000/5495 長編
★タイトル (AZA     )  99/12/27   1:44  (200)
空白 〜 青陽寮殺人事件 1    永山
★内容
「犯人はあなただ、吉崎さん」
 氷上はいきなり言い切り、腕を真っ直ぐに伸ばして相手を指差した。
「何故」
 吉崎は短く聞き返した。冷静なのか、怒りを溜め込んだ爆発寸前の静けさか、
それとも見破られての自失。いずれにしろ顔の表情に変化は見られない。
 だが、手の表情は微妙に変化した。告発直後から、吉崎は手をしきりに閉じ
たり開いたりし、指先をこすり合わせて汗を拭おうとする素振りが見られた。
さらに、氷上がしばらく黙したのを不気味に感じたのかもしれない。吉崎は同
じ意味の台詞を繰り返した。
「何故。何故、私が犯人なんだ?」
「理屈は非常に簡単です。殺害現場である廊下が犯行当時、停電によって真っ
暗であったことは、先ほど証明しました。電球や鉢植えや虫の死骸からね。ま
た、城西寺太郎氏は後ろから頭をいきなり殴られ、絶命しているのも事実です。
そして被害者は自らの血を指先に付け、『よしすけ』と書き遺した」
「だから群馬さんが犯人なんじゃないのか? 群馬佳祐さんが」
 群馬を見据えながらの吉崎の抗弁に、氷上はきっぱり首を横方向に振った。
「暗闇で、後ろから殴り殺された被害者が、どうして犯人の名前を知ることが
できるんですか」
「それは……」
「見えたのか? しかし被害者は懐中電灯を持っていなかった。
 では、聴覚か? 被害者は補聴器がなければほとんど何も聞こえなくなるほ
どの難聴者だった。被害者は補聴器を外した状態で見つかっている。つまり、
犯人の声を聞いたのではない。
 触覚? 廊下で暗がりの中、相手が誰なのか分かるほど触れ合うというのは
非常に不自然な状況です。唯一、肉体関係を持つ間柄ならなくもないかもしれ
ませんが、群馬さんと被害者がそんな関係にあった痕跡ははどこにもない。
 嗅覚はどうか。群馬さんは、人間の鼻で嗅ぎ分けられるほど個性的な匂いを
持ってはいない。
 味覚? 試した経験はないので断言は避けますが、相手を嘗めて誰なのか判
断する人を、私は知りません。
 まさか第六感で名前を書いたんでもありますまい。城西寺太郎氏は、そんな
お茶目でふざけた真似をする人ではない。
 以上により、あの血文字を書いたのは被害者ではなく、別の人間、そう、犯
人だと考えるのが自然です。書いた理由は、群馬さんに罪を被せるためでしょ
う。しかし念のため、この理由だけで群馬さんを容疑者から外すのはやめます。
裏をかくケースを排除する根拠は、どこにもないからです。
 さて、『よしすけ』と書くからには、事件発生時において、群馬佳祐さんが
この屋敷に来られていたことを知っていなければならない。これにかなうのは、
あなたの他に勅使河原さん、別田さん、それに群馬さん本人です」
「四人の誰もが犯人であり得るということを示しただけじゃないか」
「断ったはずです、最後までご静聴くださいと。次の条件を出しましょう。犯
人は、『佳祐』と書いて『よしすけ』と読むことを知っていなければならない」
「そんなもの、誰だって知っている」
「今のはいい突っ込みだ、吉崎さん。しかし、誰だって知っている訳ではない
のですよ。勅使河原さんと別田さんは、群馬さんのことをそれぞれ『けいすけ
くん』『けいちゃん』と呼んでるんです。言い換えれば、『佳』の字を『圭』
と勘違いなさって、そのまま『圭』と読んでしまっている。群馬さんの下の名
前を『よしすけ』と読むのは、本人以外には、吉崎さん、あなたしかいない」
 完全に言葉に詰まった吉崎。この段階で充分だったかもしれないが、氷上は
推理を最後まで披露することにした。
「群馬さんが犯人だとして、偽装のために自分自身の名前を書けるだろうか? 
書けるとしたら、それは非常に勇気のある人です。もちろん、群馬さんにそれ
ができなかったとは証明できません。ここで行き詰まるかと思えた我が思考で
すが、幸運にも今朝、群馬さんが帰国子女である事実を知らされました。そし
て、これはまだこの屋敷内のほんの一握りの人しかご存知ないことですが……
群馬さん、あなたは平仮名を書けますか?」
「いいえ」
 群馬は短く、きっぱりと答えた。その場にいるほとんどの者が息を飲んだか
のようだった。その雰囲気に圧されたのか、群馬は言い足した。
「漢字も書けません。片仮名なら書けます」
「ありがとう。さあ、これで群馬さん自身も、あの血文字を書けないことにな
りました。残るは吉崎さんお一人です」
 すでに肩を落とし、うなだれている吉崎を、氷上は満足をもって眺めた。
(素直で結構。少々手こずったが、これでこの事件も片付いた。次はどこに首
を突っ込むとするかな)

           *           *

 四月二十八日。大型連休を目前にして、総都大学学生寮「青陽寮」は例年通
り、静けさを得つつあった。連休前の最後の講義が終わり、午後五時頃の出発
ラッシュをピークに、夜になっていよいよ人影はまばらとなった。平生の十分
の一ほどの賑わいもない。それは二つある棟――男子棟・女子棟とも同じだ。
「どっこにも行けない我が身を悲しむわ」
「あんた、まだいいじゃん。どうせ吉祐が誘いに来るでしょうに。私なんかバ
イトに明け暮れんのよ、全く」
「二人とも何言ってんのよ。私なんて、本当に暇なんだぞー!」
「よしよし、一緒に遊んであげる」
 寮生四人が、かしましくお喋りをしながら門をくぐる。声がやけに響いた。
 彼女達が手にしたポシェットやら鞄やらの中身はタオルにシャンプー、ドラ
イヤー等々。外の銭湯に入ってきた帰りだ。
 寮に浴室がない訳ではない。利用者が少ないこの時期を利用して、改修工事
中なのである。ボイラーを総取り替えしたり、タイルを剥がして張り直したり、
浴槽のひびを補修したりで昼間はなかなかやかましい。
「あ、急がないと」
「どうしたの?」
「もうすぐウェンズデイ・ドラマ・ナインの時間なのよ。あれ、欠かさず見な
きゃ気が済まない」
「ああ、大丈夫。野球中継延長になってるって」
「どうして分かるの?」
 玄関前に立ち、一人が不思議がって尋ねる。月明かりのない晩、橙色の光を
発散する電球の下は、寂しさと暖かさが奇妙に同居したような空気があった。
「五分くらい前かしら。帰りしな、どっかの家が大音量でテレビつけてて、聞
こえたの。七回とか言ってた」
「なーる。延長されたらどんなに早くても十分遅れか」
 ドラマ好きの子が安堵したその刹那。窓ガラスの開かれる音が低く響いた。
女子棟の一階の窓だ。
 何気なく、音の方向を見やった女学生らは異様な物まで目撃してしまった。
 人影が寮の廊下から外へ飛び出し、一目散に駆け出していく。
「な、何、あれ……?」
「さ、さあ」
 そんな囁き合いをかき消す大声が、間髪入れずに起こった。まさに絹を引き
裂くような悲鳴が、明らかに女子棟内から聞こえた。
 また別の声が叫ぶ。
「泥棒ーっ!」

 土橋家の夕餉を破ったのは、耳障りな電話のベルだった。
 電話までの距離が一番短いのは二人いる子供の内、愛香の方だ。しかし三歳
ではあまりに心許ない。妻の直子が当然のように立った。椅子の脚にすねでも
ぶつけたのか、小さく「痛っ」とつぶやきながらも、電話へと急ぐ。
「中盤で1対0。まだ分からんな」
 土橋孝治はテレビのニュース番組で野球の途中経過を一瞥し、機械的に飯を
口に運んだ。電話口でのやり取りが断片的に飛び込んできたが、意味を把握す
るまでには至らない。どこからの電話なのかは、妻の応対ぶりから即分かった。
「あなた。総都大学の学生課の方から」
 すでに席を立っていた土橋は皆まで言わせず、送受器を受け取った。食卓に
背を向け、低めた声で応対に出る。
「代わりました、土橋孝治です」
 用件は緊急のものであった。自然と声が緊迫感を帯びる。しかし、家族の団
らんに水を差すまいと、声はさらに低く、音量も小さくなる。
「分かりました、すぐ行くとしよう。待っていてください」
 固い調子で言って、電話を切った。振り向くと、妻の目が問い掛けてくる。
「何でしたの?」
「うむ……寮でちょっとしたトラブルがあったようだ。私が名前を貸している
クラブの学生も関係しているそうだから、責任上、顔を出しておくとするよ」
 土橋は眼鏡を押し上げ、平静に振る舞った。先の電話で伝え聞いた限り、大
ごとになる可能性が高い……。
 妻の直子は「まあ」と言ったきり、どう振る舞えばいいのか分からないとい
った風情を全身から発した。箸を掴んだ手を宙に浮かせ、もう片方の手はふっ
くらした頬にあてがわれる。
「中学や高校生じゃあるまいし、おもりなんて必要ないと思うんだがね。二時
間ほどで戻れるだろう。飯は置いといてくれ」
「はい。暗いから気を付けてくださいよ」
「お父さん、どっか行くのかー?」
 四歳になる勇太がご飯粒を飛ばしながら言った。子供心にも心配してくれる
のかと思いきや、
「お父さんのプリン、食べていーい?」
 と来た。食後のデザートのことを言っているのだ。
「愛香と半分こにしなさい」
 言い置いて、土橋は食卓を離れ、洗面所に向かった。視界の隅っこで、赤い
リボンが揺れたようだ。愛香が喜んだのだろう。
 ネクタイを首に回す。そこそこ名を知られた総都大学の助教授ともなると、
どんなときでも身なりぐらいはきちんとしておかなければ。
 角張った顎に手を当て、髭はよかろうと判断し、玄関へ足を向けた。

 渡幸司郎は車を降りる前に、噛んでいたガムを包み紙に吐き捨てた。現場に
足を踏み入れるに当たって、ガムを噛んだままではまずい。くるんだ紙屑を、
車内の吸殻入れに押し込むとドアを開けた。太い腕で力強く閉める。眼前に、
総都大学の寮が臨めた。
 細い目をさらに細めた渡は白手袋をはめながら、寮の全景を大まかに頭に入
れた。よしと気合いを入れ、ロープをくぐる。腰を曲げると腹が少し苦しい感
じがした。また太ったことを嫌でも意識させられる。
「場所はどっちだ?」
 手近の制服警官に尋ねると、一階右奥の突き当たりとの返答。そちらの方へ
向かうと、鑑識課員らの行き交う姿があり、すぐに分かった。正確に言うなら
突き当たりの壁と直角を作る壁に部屋のドアがある。
 室内にはまだ遺体があった。女性らしい整頓の行き届いた空間を、今は多く
の人間が所狭しと動き回っている。
「どんな感じかね」
 鑑識員の中に馴染みの顔を見つけ、渡は近付いていった。ベテラン課員はし
ゃがんだまま、帽子の鍔を上げながら返事をよこす。
「恐らく、死んで間もないよ。一時間前後といったところか」
「お言葉だが、そりゃそうだろう。逃げる奴が目撃されたと聞いてる」
「おまえさん達が早いとこそいつを捕まえてくれれば、俺達もこんなに急かさ
れなくて済むのにな。死因は絞殺。凶器は現場には落ちてなかったが、俺の現
時点での見立てじゃあ、布をよじって紐にした感じだな」
「既製品のロープとかじゃないってことか。布……」
「おまえさんが首からぶら下げてるような物である可能性が高い」
 渡は喉元に手をやった。ただちに合点が行く。
「ネクタイか。犯人は男だな」
「加害者か被害者に男装の趣味があったかもしれんぞ。最近はよく分からんよ
うになってきたからな」
「まさか」
 部屋の棚に大きなうさぎのぬいぐるみを見つけ、渡は苦笑した。被害者に目
を転じると、化粧の痕跡があった。
「なかなか別嬪だな。死んでしまえば何にもならんが。名前、聞いてるかい?」
「いいや。そいつは刑事の仕事だろ」
 渡はうなずき、それならばと、刑事の姿を求めて視線を巡らせた。前に組ん
だことのある若い部下を手招きする。
「現場から逃走した奴はまだ見つからんか」
「はあ。そのようで……連絡ないですし」
 二十近く年上の渡に威圧されたのか、自信ない口調で応じる。
 不審人物を追跡しようと、男子学生数名が警察の到着を待たずに飛び出して
いったという。一歩間違えるといらぬ被害拡大をもたらしかねないだけに、警
察も早期発見に躍起になっていた。
「被害者の名前は」
「反町真弥、こういう字を書きます」
 開いた手帳をこちらに向けられる。いくらかへしゃげた文字を自分の手帳に
写し取ると、渡はさらに質問を重ねた。
「当然、この部屋の住人で、この大学の学生だよな」
「はい。寮生に聞いたところ、文学部二年とのことです。年齢は十九、今年で
二十歳になるはずだったんですね。実家は――」
 手帳を見ながら答える刑事。渡は片手を横に振った。
「寮の出入りはどうなってるんだ?」
「どう、とは……」
「だから、外部の者が自由に出入りできるのか、それともチェックしてるのか
ってことだ」
「あ。き、聞いてきます」
 渡の意図を飲み込み、若い刑事は駆け出していった。

――続く




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