#3289/5495 長編
★タイトル (AZA ) 96/ 6/ 1 22: 3 (164)
バトン・タッチ 6 名古山珠代
★内容
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どうして死んじゃったの?
プロになるんだって、あれだけ言っていたのに。
それをかなえる前に、いなくなっちゃうなんて。子供の帽子一つのために、
命を落とすなんて。
目の前で見ていて、事故を防ぐことができなかった私……。
悔しい。もっともっと、言っておけばよかった。前の道、狭いから、車には
よく注意してねって。
ずうっと、小説の話ができると思っていたのに。一度も口に出して言わなか
ったけれど、おねえちゃんがプロになったら、私、それを追いかけるつもりだ
ったんだよ。自分で考えて、自分で書くつもりだった。
それなのに……。何だか、いっぺんになくしちゃった。目標も先生も友達も
一度になくしてしまった。そんな気分。
−−どうすればいいんだろう?
井藤悦子は、新しい年に入ってすぐ、亡くなってしまった。交通事故だった。
水曜日、風の強い夕方だった。現場は、縁川家の前の路上。
いつものように、縁川優の家を訪ねる途中だった悦子。先を行く優を追って、
少し気が急いていたのかもしれない。
家まであと少しというところで、下校途中なのだろう、小学生の集団が走っ
てきた。道を横断しなければならない二人は、立ち止まり、子供達が過ぎるの
を待つ。
すぐに、道は開けた。優が先に、進み始める。それに続いて、悦子が−−。
そのとき、青っぽい色の布の固まりが、悦子の眼前を横切った。見れば、小
さなサイズの帽子。先ほどの小学生の一人が、慌てて追いかけてくるのも、認
められた。
−−取ってあげよう。悦子は、何の気なしに思ったのだろう。
風に翻弄され、転がる帽子。悦子は手を伸ばすが、わずかに届かなかった。
追いかける。
気がそれた。悦子は恐らく、左手方向に車が姿を現したことを、全く知らな
かったのだろう。
そして。
一瞬の静寂。それから……叫び声、怒声、泣き声。
すぐに病院に運ばれたが、悦子は助からなかった。
さっきからしつこいぐらいに呼ばれ続けたせいで、不本意ながらも、恵美は
振り返る意を決した。
「片山さん、何かご用でしょうか?」
全く柔らかさのないその声に、呼びかけていた桃代の表情が変わる。笑顔が
固まり、一拍ほど置いてから、泣き出しそうな感じで口をつぐむ。
その間に、恵美は廊下を今までと逆方向へ歩き、相手との距離を詰めた。
「用があるのでしたら、早くしていただきたいんですけど」
「……どうして、そんな喋り方するのぉ?」
かわい子ぶった口調。身振りも同様で、両手を拳にし、胸に当てる。そして
その手を、顔に持って行く。今度は泣き真似か。
「いっつも、『モモ』とか『桃代』って呼んでくれるのにぃ」
対して、恵美は、答える前に、ふーっと大きく息をはいた。次に相手をじっ
と見つめると、小さな子を諭す調子で始める。
「……あのね、モモちゃん。あんたがね、私のこと、『ミドリ』って呼ぶの、
やめないからよ。私の名字は『へりかわ』。『みどりかわ』じゃないんだから」
「何だぁ。……ごめん」
ぴょこんと音がしそうな、かくかくとした動作で、桃代は頭を下げた。栗色
っぽい艶を持つ髪が波立つ。
「分かればよろしい。それで? どうかしたの?」
往来−−廊下−−で立ち話も迷惑だと考え、窓側の壁に寄った恵美。
呼応するように壁にもたれた桃代は、小さな声で何やら言っている。
「モモとミドリなら、バランスがいいんだけどな」
「何か言った?」
「別に。ねえ、何て呼べばいい? 前の、『メグ』じゃ嫌なんでしょ?」
恵美の表情が、わずかにしかめっ面になった。質問をはぐらかされたと感じ
ているのだ。
しかし、つまるところ、相手に調子を合わせることにした。とりあえず、意
思表示しておく。
「嫌。昔のアニメにあったからね、魔女っ子物で。嫌いじゃないんだけど、小
学校のとき、同じあだ名で、よくからかわれたのよ。ほとんど誰も、元のアニ
メを見たことないくせに」
「それなら、これはぽいしてと……。『へりちゃん』もだめだっけ?」
「ヘリコプターじゃあるまいし。何かが減っていくみたいで、感じ悪いし」
「それじゃあ」
「もう、ユキは本名で呼んでくれてるんだから、『恵美』でいい。それより、
早く用を言って。今日はなるべく早く、学校を出たいのよ」
恵美は右手首を返すと、赤革の時計で時間を確かめる。それからおもむろに、
そして強引に、話を元に戻す。
「えっと、文化祭の話」
「あっ」
自分の顔が、しまったという感じになるのが分かった。勢い、返事の方も曖
昧になる。
「そろそろ、ね?」
「助っ人する暇はない」
言うや否や、すたすたと歩いて行こうとした恵美だが、桃代にしっかと左腕
を掴まれてしまった。普段はかわいいかわいいしている桃代も、こういうとき
に出す力は、かなりのもの。
「行かないで! 約束したじゃない、体育祭のときに」
「う」
言われなくても、恵美には分かっていた。この場を去ろうとしたのは、思い
出したくなかっただけなのだ。
体育祭では、生徒は団体競技の他、何か一つ、個人競技に出なければならな
い。百メートル走を筆頭とする距離別徒競走、何の関連があるのか意味不明の
国名を関した各種リレー、障害物走、むかで競走、先端を地面に固定したバッ
トのグリップに自分の額を押し当て十回転、その後に競走開始となる四次元レ
ース等々、多種多様な種目の中から選ぶのだ。
まともに走ることがあまり得意でない、つまり足が速くない恵美は、いくら
か迷いを見せたものの、結局、去年と同じ障害物走を選んだ。去年は、飴玉を
探すのに往生したが、それでも一位を取っていた。まあ、客観的に見ても、無
難な選択だろう。
ところが、桃代も障害物走に出ることが決まってから、話がおかしくなる。
各レースの枠組みが決まってから、桃代が言い出したのだ。
「同じ組だ」
「うん」
「ね、どっちが早いか、何か賭けない?」
「うーん……」
「自信ないのお? 一年のとき、一着だったのにぃ」
「何だと。じゃ、乗った! 何を賭けるのよ?」
思い返せば、このとき、恵美は相手の口車に乗せられた。自分の意志で賭け
に乗ったつもりが、乗せられていたのだ……。
「さて。こんなの、どう?」
にやにや笑いの桃代。まるでチェシャ猫。
「あたしが勝ったら、文化祭で、我が部の手伝いをして」
「我が部って、モモ、何をしていたんだっけ? 忘れた」
「がくっ」
大げさにこける桃代。無論、わざとなのだろう。
「忘れたのぉ? もう、美術部だよー」
「忘れたってのは冗談だけどさ。私だって、文化祭の準備、忙しくなると思う
んだ。図書部、人が少ないから」
「ああ、そうだっけね。確か三人だけ」
ずけずけとした桃代の物言いに、恵美はいささか傷ついたらしい。
「そういう弱小部の一員を引っぱり出そうとするなんて、あこぎと思わない?
ユキに頼むとか。あの子、何にも入ってない」
「無理強いしたら、ユキはかわいそうだもん」
「私はかわいそうじゃないってか?」
「細かいことは気にしない。こっちの実状も、苦しいんだからさあ」
「だいいち、絵なんか描けないって」
恵美は、顔の前で手を振った。
「誰もそんなこと、期待しとらん。はっきり言って、雑用」
「なるほど」
「感心してないで、どうするの?」
「さて」
口真似をしてから、考える様子の恵美。
「いっそさあ、あたしが勝ったら恵美が美術部を手伝う、恵美が勝ったらあた
しが図書部を手伝うってのは?」
「うーん。問題あり、なのよねえ」
「勝てばいいじゃない。さっき、あれだけ自信ありげだったくせに」
「それはそうだけど」
渋る態度を見せていた恵美だが、最終的に、桃代に押し切られてしまった。
とにかく、賭けは成立した。
結果? 示すまでもない。今、桃代が言っている通り。
ただ一つ、恵美のために言い訳しておくと、彼女の走ったコースだけ、前日
の雨でぬかるんでいた、この点である。泥に足を取られて転んだのでは、勝て
るはずもない。
「まさか、反故にする気じゃないわよね」
「……物知りね。反故なんて言葉、簡単に出てくるなんて、凄い!」
「へっへー、この前、漢字の小テストで出たじゃん。って、ごまかさないでよ」
「ごまかしてる訳じゃなくて、ただ、ちょっと、今日は気が乗らない……」
「こっちは時間が足りないんだから。文化祭が始まってからじゃ、遅いの。あ
たし達に明日はない」
「……津村君、いるんでしょ?」
「もち、副部長だから。−−ははぁん」
にやにやする桃代。
「そういうことか。井藤さんのこと、まだ、気にしているんだ?」
「え、ま、まあ……。約束、破ったことになるんだし」
「そんなの、気にする柄じゃないって、あれは」
不安そうな恵美をよそに、勝手な保証をする桃代。
「恵美こそ、元気出たの?」
「うん、まあ……」
「向こうにだって、理由があるんだし。いいじゃない」
「……分かった。行く」
覚悟を決め、きっぱりと言い切った恵美。いつまでも拒んでだらだらするよ
り、さっさと手伝う方が話が早いだろう。
「そうこなくちゃ」
嬉々とした桃代の声が、騒がしい廊下に、一際高く響いた。
−−続く