#3241/5495 長編
★タイトル (AZA ) 96/ 4/16 0:19 (175)
SHINOBI 1 甲賀明日夫
★内容
彼女は名前を呼ばれた気がして、目を覚ました。瞼をこじ開け、辺りを見回
すと、自分は腰掛けたまま、机にもたれかかって眠っていたことを思い出す。
「クラステフ先生! エミール=クラステフ先生!」
やはり呼ばれていた。
目をこすってから、窓から外の明るさを確かめる。眠ろうとしてから、まだ
さほど時間は経っていないように感じられた。
「先生!」
さっきから怒鳴り散らしているだみ声の持ち主は、がつんがつんと扉の板を
叩き始めた。
「聞こえてるわよ!」
寝起きのためにいらいらして怒鳴り返す。と同時に、大きなあくびが出た、
片手を口に当て、もう片方の手を天井に向けて大きく伸ばす。
「起きていましたか。では、先生、ここを開けてください」
「私だって女よ。ちょっとぐらい、身だしなみを整える時間がほしいねっ」
鏡を手に苦笑いしながら、クラステフはもう片方の手で栗色の髪をなでつけ
た。巻き毛のように見えるが、ほとんど手入れしないで癖がついてしまったも
のだ。
(この歳になっても、そばかすが残っているなんて)
鏡で自分の顔を見る度、クラステフは思った。
「さあ、どうぞ!」
声の主−−文科研究所職員のマリオを招き入れるクラステフ。
「お客さんです。お偉い方」
「お偉いって、どういうことよ」
「王立海軍からでさあ」
先ほどまでの丁寧な口調はどこへやら、面白がるように言う。
「海軍ですって? 軍が言語学者に何の用があるって?」
「それは聞いておりません。とにかく、早く願いますよ」
「分かったわ。案内して」
部屋を出て、廊下を行く。木の壁はあちこちが割れたり腐りかけたりで、お
世辞にもきれいとは言い難い。
二度、角を曲がって、取って付けたような応接室−−研究所内で一番ましな
部屋−−に到達した。
「さあ、どうぞ」
「私一人だけ?」
戸を開けようとするマリオに、急いで声をかけるクラステフ。
「そう言われていますので」
「相手から?」
「さようで」
いよいよ関わり合いたくない匂いが漂ってきたなと感じたクラステフだった
が、マリオが戸を開けてしまった。当然、室内の客はクラステフへと視線を向
けてきた。涼やかな目元だった。
「おお、あなたが、言語研究では第一人者のエミール=クラステフ先生ですか」
あらかじめ用意していたらしき台詞を、客人の男は早口に言った。それと同
時に立ち上がり、クラステフへと近づいてくる。いかにも軍の人間らしく、正
確で無駄のない動き。
当たり前だが、相手は軍の制服を着ている。それも将校の物らしい。接近さ
れるとクラステフは威圧感を覚えた。
紺色の制服の胸には何やら勲章がぶら下がり、肩にはひらひらと飾りの紐み
たいな物が数本着いている。帯剣したまま入ってくるのは、軍人にとって当然
の権利であった。
「お目にかかれて光栄です」
「私もですわ」
人並みに挨拶を返してから、クラステフは相手に尋ねた。
「お名前をお聞かせ願えないのでしょうか?」
「失礼を。私はクレイグ=ケントラッキー。海軍大尉です」
整った目鼻立ちをした客は、声の響きもいい。
返答を聞いて、クラステフは少し安心した。相手の話し言葉は、事前の予想
より遥かに優しげであった。
「海軍大尉が、一介の学者風情にどのようなご用件でしょう?」
「そこまで卑下なさるな。女性で、あなたのように学問を究めようとする人が
いるのは、頼もしいことだ。国にとっても」
「お褒めの言葉に受け取っておきましょう」
「では、本題に移りましょう。無論、クラステフ先生の語学力を見込んでの用
件です」
「ひょっとして、海で遺跡でも見つかりました? 古代の文字を刻んだ……」
それだったら喜んで手伝おうと思いながら、返事を待つクラステフ。
「いえいえ。残念ながら、そんな夢のある話ではありません。通訳というやつ
ですよ」
「でしたらすでに、海軍にも専属の方がいらっしゃるはず」
「もちろん。だが、全ての言語に通じている訳でないのも至極当然でありまし
ょう」
「つまり……国籍不明の密航者か漂流者でも?」
相手の言葉から推測するクラステフ。
「その通り。昨夕、ネゼルランから帰ってきた商船にね。これがまた、見たこ
とのない風体をしており、おおよその推測さえ着けられない」
「ネゼルラン人じゃなかったわけですか」
「ネゼルラン語や我がユトヴィア語を初めとし、十三ヶ国語で試しましたが、
まったく通じないのです」
「外見から推測できないのですか? 髪や目の色や顔立ちなんかから、どの地
域なのかぐらい」
「金髪で黒の眸でしたが……顔はエイシア系そのものでしてね」
「ということは、混血ではない?」
分からなくて首を振るクラステフ。
「どうですかね? 専門家じゃありませんので」
「私だって、民族学は専門ではないんですけど」
「多少は知識はありましょう? それでですね、体格は小さい方ですな、あれ
は」
「持ち物は何かありました?」
「それはもう、大変なものでしたよ」
両腕を広げ、あきれた格好を取るケントラッキー。
「最初、袋一つであとは何も持ってないように見えたんですが、調べてみて驚
かされましたね。あまり長くない刀が二本、小さいながら鋭い刃物がいくつか
出てきたし、黒っぽい衣装も出てきました」
「刀に刃物ですか。それで軍が……」
「ええ、まあ、密航者と言うだけで充分な理由ですがね。その他にも奇妙な物
をたくさんを持っていましたが、とても説明できません。見てもらうしかない」
「刀の形はどうでした? 特に鍔」
「ちょっと見かけない、珍しい物でしたな。これも確か、エイシア系ですよ」
「エイシア人である可能性が高いと見ていいかもしれません。とりあえず、そ
の手の資料を持って行きますから、案内をお願いします」
「無論、そのつもりで訪ねさせてもらったのです。どうぞ、表に。馬車を待た
せてあります」
立ち上がると、クレイグ=ケントラッキーはクラステフへ手を差し伸べた。
密航者はすでに港から移送されており、おかげでクラステフは馬車に揺られ
る時間が短くて済んだ。
「案外、簡単な警備だけですわね」
通路を抜けながら、クラステフは率直に漏らした。
石造りの通路は、天井が卵形の曲線を描いている。わずかながら苔むしてい
ることからも分かるように、石の向こうはすぐ外界らしい。何か一つ道具を手
に入れさえすれば、楽に破れそうな気がする。警備に就いている人数も、これ
までのところ二人しか見かけていない。
「さほど、凶悪な連中がいるわけでもないですからね」
先を行くケントラッキー。
「あいつらだって、密航がばれて身柄を拘束された上に、罪を重ねてまで自由
になっても、益はないと分かっているんですよ。逃げても、目立って仕方がな
い。まずは、見つかってしまう」
「分かりましたわ」
牢の前に到達した。牢は六つあったが、人がいるのは一つだけだ。
樫だろうか、太い木でできた格子の向こうに、男がうずくまっている。いや、
うずくまっているのではない。膝から下を折り、かかとに自分の臀部を付ける
ような格好で座っている。身体の向きはクラステフらから見て右向きで、両手
は太ももの上に置かれていた。
「彼ですね」
「ええ。奇妙な風体でしょう」
ケントラッキーの言う通りだった。
金髪で、服装もいかにもユーロペ系のなりをしている。だが、その肌の色は、
白粉で白くしているのはあきらかであり、顔の造作もエイシア人だった。
「話しかけてみたときの反応はどうだったんですか?」
ケントラッキーに尋ねるクラステフ。問題の男は、二人をまるで気にしてい
ないのか、身じろぎ一つない。
「船倉から引きずり出して、船員やら港湾官が聞いたときは、だんまりだった
そうです。こちらに連れて来てから、色々な言葉で聞いてみたところ、返事し
始めたんですが、我々には理解できない言葉でしたのでね。その内、あいつも
無駄な努力と悟ったようで、また口を閉ざしてしまい、今朝からはあの通り」
ケントラッキーは牢内の男を手で示した。
「食事はどうです?」
「あの男ですか? 食べていますよ」
「あの、そのような意味ではなくて、ナイフやフォークを使っているかどうか」
「先生、密航者にナイフやフォークを使わせやしませんよ」
苦笑を浮かべたケントラッキー。
「いくら逃げる可能性は低かろうと、凶器となる道具を渡すわけにはいきませ
ん」
「あ、そうでしたわね。でも、それじゃ、どうやって食事を?」
「パンとスープだけですから、何の道具もいりません」
「そうですか……。食文化から出身圏を探れるかと期待したんですけれど」
「ご希望に添えず、残念ですな。何なら、試みにフォークの一本も使わせてみ
ましょうか?」
本気で言ったらしく、ケントラッキーは足の向きを換えようとする。すぐに
もフォークを取りに行く態勢だ。
「すみません、結構です。とりあえず、話しかけてみましょう」
クラステフは小脇に抱えていた資料を開いた。彼女にしても、研究している
言語すべてを空で操れるわけではない。
「ケントラッキー大尉。彼に試した言語を全部、お聞かせください」
「−−なるほどね」
海軍大尉は質問の意味を理解したようで、すらすらと十三の言語を答えた。
「それぞれの通訳者本人も連れて来ましょうか」
「いえ、それには及びません。エイシア系だとすれば、かなり絞り込めました。
それから……ネゼルランからの船に潜んでいたと」
確認を取る。
「その通り」
「教えてくださいますか、大尉。これらの国の中で、ネゼルランと交易のある
のはどこでしょう?」
と、クラステフは資料の端に書き出したいくつかの国名を、ケントラッキー
に見せた。
肩を寄せるようにして、国名リストを眺めるケントラッキー。
「これとこれ、それにこの三つだと思いますね。状況は刻々と変化するもので
すが、我々がつかんでいる情報では、これで正しいはずです」
「分かりました。−−念のために聞いておきますが、この三国の中に、ネゼル
ランのみと交易を行っている国、ありますか?」
「ネゼルランとだけですか? ふん、そうですね、ネゼルランただ一国はさす
がにないですが、もう一国−−エイシアの大国、『眠れる獅子』と言われるシ
ンナとも交わりを持っている国があります。それが、このヤパンです」
−−続く