#3179/5495 長編
★タイトル (AZA ) 95/12/27 12: 7 (181)
床下の散歩者事件 1 桐鳩 吉太
★内容
服部慎吾は、自分の間抜けさ加減を呪っていた。
アパートに戻る道すがら、時間が気になって仕方がなく、やたらと腕時計を
見てしまう。時計という代物、焦っているときは、進むのがやけに早いように
感じられる。
道一本を挟んで、アパートが見える場所に来たところで、どうにか大丈夫だ
ろうと目算をつけた服部には、わずかだが余裕ができた。慌てて交通事故に遭
ってはつまらないとばかり、左右をよく注意してから、赤信号のまま、横断歩
道を渡った。
アパートの敷地内に入ると、外付けの階段を駆け昇る。階段の材質のためか、
服部の履く靴がいいのか、音はさほどしない。
自分が借りている部屋の前に来ると、忘れ物に気付いたときから握りっぱな
しだった鍵を、ドアのノブに差し込み、中に入る。
「辞書辞書……と」
ぶつぶつ言いながら探していると、意外と簡単に目的の物は見つかった。
そこで改めて時間を確かめると、何とか間に合いそうだと分かり、一安心。
息を整えつつ、辞書を鞄に放り込んだところで、ふと、彼はその音に気付いた。
(−−何だ?)
これまで、この部屋で耳にしたことのない音に、服部は聞き耳を立てた。
かすかであるが、さく、さくという音が、ほぼ一定のリズムを刻んでいるの
が聞き取れた。それは、階下から聞こえてくるように感じられる。
音の正体が気になった彼だったが、思考はそこで打ち切られた。やはり、講
義を優先しなければならない。今日は朝の一時限目、試験だ。持ち込みありの
小テストとは言え、単位に影響する。少しでも稼いでおく必要がある。
服部は、鞄を肩から提げると、靴の後ろを踏みつぶしたまま、部屋を出た。
講義が終わり、担当の助教授が退室したところで、服部は大きく伸びをした。
「お疲れみたいだな」
隣に座っていた戸倉が話しかけてきた。どうでもいいような口調である。
「朝一の外語、ぎりぎりに来てたっけ。寝坊でもしたか?」
「寝過ごしてなんかいないよ」
筆箱やらバインダーやらを片づけると、服部は立ち上がった。戸倉も続く。
そしていつものように、昼食のためにキャンパス内の食堂へと移動。
「おまえがアパートを出るとき、俺、起きていただろ」
同じアパートに入っているのだから知っているだろうと、服部は相手の顔を
見やる。
「そう言えば……。じゃあ、何でだよ」
「どじった。話すほどのことじゃないけどさ、アパートを出て、しばらく行っ
てから、辞書を忘れたのに気が付いて」
「ああ、そりゃあ、致命傷だわな。いつもならともかく、今日は辞書、必携だ
ぜ。持ち込みありのテストなんだから」
「分かっているって。だから、取りに帰ったんだよ」
メニューを選び、代金を払ってから、窓際の席に着く。
「それで遅れた訳か」
「そういうこと。おまえも含めて、他の連中は、みんな出払ったあとだったか
ら、どじったところを直接、見られずに済んで助かったぜ、全く」
「みんなって、葛井さんは残っているはずだろう?」
天丼の天ぷらをかじりながら、戸倉が聞いてくる。天ぷらからは、衣だけが
見事に脱げてしまっていた。
「あの人、学生じゃないんだから」
「葛井さんは……ああ、いたかも」
今朝の一件を思い起こす服部。すると当然のごとく、あの奇妙な音のことも
思い出されてきた。
「あれ、葛井さんが立てていた音だったのかな……」
「音って何だ?」
戸倉が案外、興味深そうに聞き返してきた。服部は、辞書を取りに戻った際
に耳慣れない音がしていたこと、その音はどうやら一階から聞こえてきたらし
いことを説明した。
「一階からとなると、葛井さんが音源か?」
妙な言い回しをする戸倉。
「音源てのは変だろ」
「いいから。おまえの部屋の下、葛井さんの部屋だろう?」
「そう。知っての通り、二号室の上が五号室だもんな」
「しかも、そのとき、アパートに残っていたのは葛井さんだけだと思われる。
てことは、音を立てていたのは葛井さん。簡単じゃねえか」
「だったら、何の音かってことも、考えてもらいたいね」
すっかり、箸の動きが止まっていた服部は、慌ててチキンフリッターに手を
着けた。
「どんな音だって?」
「さく、さく、さくって感じ」
「スナック菓子でも頬張っている音か?」
「あのな、菓子を食う音が二階に聞こえるか! そんなんじゃなくて、もっと
大きいんだよ」
「他にさく、さくって言ったら……掘ってる音か」
「ホッテル?」
「土を掘る音なら、そういう風に聞こえるんじゃねえか?」
「土」
考える服部。あの音が土を掘る音ではという発想が、それまでの彼には全く
浮かばなかった。アパートの敷地の中で、土が出ているところなんてほとんど
ないためかもしれない。
「そう言われたらそうかもしれないけど……どうもなあ。あのアパートのどこ
で、土をいじれるって?」
「庭……と言うには狭いが、裏に少し、地面が出ている」
「あんなところで、ごそごそと掘り返してたら、俺の目に入ってたはずだよ」
「そうかな」
「それに、あそこはアパートに住んでいる全員の共有地みたいなもんだろ?
葛井さんが一人で何かすれば、トラブルの種になる。まあ、俺達は許しても、
管理人がうるさく言ってきそうだ」
「そうだよな」
天丼を食べ終わった戸倉は、コップに残っていた水を干した。それから、話
を続けようとする。
「となると、残るは」
が、その途中で、第三者が割って入ってきた。
「聞いたことある声だなと思えば、やっぱり、君らだったか」
声のした後ろへ振り返ると、深緑色のジャケットを引っかけた、外見からは
年齢の判断し難い男が、同じように振り返っていた。つまり、服部達と彼とは、
狭い通路を挟み、背中合わせに座っていたことになる。
「先生でしたか」
やや緊張する服部。一方、戸倉の方はマイペースのままで、
「御厨先生は、何を食べているんで?」
と、覗き込むような格好をする。
「ご覧の通り、サンドイッチとカップスープの優雅な食事だ」
ジョークのつもりなのだろう、御厨は笑みを浮かべて言った。そして、男に
しては長い前髪をかき上げながら、続ける。
「本当は、こういうメニューが手っ取り早いからね。箸もスプーンも使わずに、
さっさと食べられる」
「何か急ぐ用でも?」
「いや、今はそうでもないんだが……単なる習慣だ」
「お忙しくないんでしたら、部の方に顔を出してくださいよ。顧問なんですか
ら」
戸倉の手は、揉み手の仕種をしている。
「部活なあ」
困った表情になる御厨。また前髪をかき上げた。
「ここだけの話だが」
きょろきょろと、食堂内を見渡す御厨。声は低められている。
「私は新入り講師だから、諸先生方にこき使われてねえ。君らが部活している
時間は、ほとんど潰れてしまうんだ」
「それは前にも聞きました。だけど、月に一度ぐらいは」
「ああ、分かった。考えておくよ。−−それよりも」
改まった雰囲気で、御厨は服部達を見つめてきた。
「さっきの話だが、なかなか面白そうじゃないか」
「さっきの話と言いますと……」
まだ緊張している服部は、察しが着かず、首を傾げた。
「君らが下宿しているアパートの話。下から聞こえる奇妙な音のことだよ。服
部君が聞いたんだろう?」
「あ、それですか」
内心、聞かれていたのかと驚く服部。
御厨は、やけににこにこしつつ、話に乗ってきた。
「そう、それそれ。君らの入っているアパートって、優馬荘だったね?」
「はあ」
「私もここの学生だった頃、あそこに下宿していたから、つい懐かしくて、聞
いていたんだ」
「そうでしたか」
「部屋は何号でした?」
戸倉が聞く。
「えーっと……忘れる年齢じゃないと思っていたんだが……。一階の真ん中の
部屋だったっけな」
「それでしたら、葛井さんと一緒だ。二号室ですよ」
「聞いているときから気になっていたんだが、その葛井という人物、何者なん
だね? 学生じゃないと言うし」
「ああ、葛井さんはフリーターですよ」
「無職なのか……。年齢は?」
「えらく気にされますね。何か問題でも?」
「いや、一応ね。優馬荘はうちの学生ばかり入るもんだと思っていたから、変
な人物だったらまずいなと、心配になって」
「変てことはないです。俺が保証します」
断言したのは戸倉。
「あんな美人、おかしいところなんてありませんよ」
「女なのかい?」
目を丸くする御厨。
「そうですよ。言ってませんでしたか?」
「聞いてないね。そうなると、だ」
急ににやつく御厨。あまり、大学の先生らしくない。
「私が心配するべきは、君らについてではなく、その葛井さんの身だな」
「あ、ひどいなあ。どういう意味です?」
「言わなきゃならないかね? 穏やかなところでは、覗きとか聞き耳を立てる
とかかな。エスカレートすれば、部屋に入り込んで」
「待ってくださいよ。本当にひどいなあ」
「そうですよ」
二人して抗議する学生。苦笑しながら、であるが。
「それにしても、意外だね。あのアパートは学生だけの物かと思っていたが、
それ以外の、しかも女性が入るとはねえ」
「葛井さんはガードが堅いですから、どうしようもないんですよ」
「それはどういう意味だろう? 婚約者でもいるとか」
「さあ、それはどうだか分かりませんが、とにかく、堅いんです。部屋にいる
ときだって、鍵は必ずかかっているし、カーテンも引いてあって」
「昼間からかね?」
訝しむ様子の御厨。
うなずきながら、それに答える服部。
「一度だって、開いているのを見たことがない有り様で」
「ふうん……」
何やら気になるのか、御厨は考え込む風になる。
「あの、もう時間が」
そんな御厨のことが気になった服部だが、時間も気になった。昼からの講義
が迫っている。食堂内は、徐々に人が減りつつあった。
「あ、悪かった。細かいことを、突っ込んで聞いてしまったな」
「いえ。それじゃ」
「失礼します」
服部が戸倉と共に席を立ち、今一度振り返って見たときも、御厨はまだ考え
るポーズを取っていた。
−−続く