#3158/5495 長編
★タイトル (AZA ) 95/10/31 2:19 (199)
死線上のマリア 5 名古山珠代
★内容
「言ってません。嘘なんかついて、どうなると言うんですか」
「何時頃のことだ?」
「今日の夜……あれは夕食が終わったぐらいでしたから、七時二十分になるか
ならないかだったと思います。私、一人で三日月寮の食堂を出て、そのとき、
外に車が止まっているのに気付いたんです。しばらく様子を見ていたら、タク
シーが来て、そこから久保嘉奈子さんが降りてきました。それで、私、彼女を
知っていたから声をかけて……そこへ、先生が近付いてきたんです。私が事情
を説明したら、都合がいいとか言って、私に転校生を案内してやってくれって
……」
「ううん」
自分で自分の頭を叩く月谷。普段、指導を受けている教師がそんな仕種をす
るとは、何とも滑稽だが、現在の真理亜の心に、そこまでの余裕は全くない。
どんなにおかしなことでも、砂漠に落ちた一滴の水のごとく、すぐに消える。
「悪いなあ。全然、憶えていない。ぼける年じゃないんだが」
「当たり前です」
真理亜は、自分の口調が怒り声になっているのに気付いた。それを元に戻す
必要は感じない。
「酔ったせいかもしれんなあ」
月谷は頭をかきながら、のんきな調子で言った。
「思い出してください。ほら、家具納入の業者さんが来て。そうだわ、先生、
あの運転手の人と一緒に、これから飲みに行くんだと言っていました」
「飲みにねえ。確かに、今まで、僕は、足利が言うのとぴたりと一致する友達
と飲んでいた。だけど、そいつは今日、仕事でここに来てはいない」
「そんなことって」
視界が揺れるのを感じた真理亜。倒れてしまいそうなほどのめまいがあった
が、寸前で姿勢を保っている。
真理亜は、数少ない証拠を出すことにした。久保嘉奈子がいたという証拠。
「ほら、これを見てください」
取り出したのは、例のメモ。紙の上、月谷の文字が踊っている。
「部屋番号を書いたメモです。それを先生が、私に手渡した。その字、先生の
でしょう?」
どうだという気構えだったのに、真理亜の思惑は軽くすかされた。
「似ているが、はっきりしないなあ」
「先生の字ですわ!」
「……なあ、足利。仮に、これは僕が書いたものだとしよう。でも、こんな記
号を書いただけのメモが、何になる? 転校生がいた証拠にはならないんだよ」
「だったら、何のために、書いたと言うんですか?」
「さあ、そこまでは」
語尾を濁す月谷。
真理亜は、何もかも、信じられなくなりそうだった。
「こうなったら……臼井さん」
側でやり取りを見ていた寮母を見つめた。急に話しかけられたからか、彼女
の身体がびくっと震えたのが見て取れた。
「何か」
「問題の部屋を見てみたいんです。それで、全てが解決します」
「鍵を貸せってこと?」
「そうです。お願いします」
「もう、これでもめ事は最後にしてもらいたいわね」
寮母は、腰にあるポケットから、鍵を取り出した。
「私が開けてあげるわ」
と言うと、彼女は一階の九号室を目指して歩き出した。真理亜と月谷も、そ
れについていく。
「いい、足利さん? その目でしっかり、確かめなさい」
部屋の前、たしなめるように言ってか、寮母は鍵を鍵穴に差し込んだ。ゆっ
くり、鍵が回される。
確かに、錠の開く音がした。
「さあ、どうぞ」
「−−」
扉の向こうに開けた世界に、真理亜は我が目を疑った。
「何も……ない」
文字通り、部屋はもぬけの殻であった。数時間前にはあったはずの机もベッ
ドも、きれいになくなっている。
「……ここ、間違いなく九号室……」
うめくようにつぶやきながら、真理亜は部屋の外に回った。ドアに張ってあ
るプレートを見た。
B−1−9。
間違っていない。真理亜は首を傾げるしかなかった。
「ご覧、何もなかったろう?」
寮母は、わざとらしくあくびをしながら、嫌みったらしく言う。
それが理由ではなかったが、真理亜は目頭が熱くなるのを感じた。泣いてし
まいそうになっている……。
彼女はしゃがみ込み、両手で顔をおおった。何を信じればいいのか分からな
い。自分の目や耳や、記憶さえも信じられない気がしてくる。
「もう気が済んだかい」
月谷の優しげな声が降ってきた。
「きっと、何かの勘違いだったんだ。さあ、怒ってないから、顔を上げて」
言われるがまま、真理亜は顔を上げた。さぞかしみっともない顔をしている
だろうなという思いが起こる。すると、今度は顔が赤くなるのを感じた。
「今夜のところはもう、部屋に戻って休みなさい。いいね」
教師の言葉に、真理亜はこくんとうなずいた。そして力無く、支えられるよ
うにして立ち上がる。
「一人で大丈夫か?」
大丈夫、と無言で答えた真理亜。
階段に一歩、足をかけたとき、月谷と寮母の会話がかすかに聞こえた。
「あまりきつく叱らないでやってくださいよ。精神的に参っているらしいから」
「分かってますよ。でも、全く、人騒がせだわ」
気が付くと、朝だった。
倒れるようにしてベッドに入ったとき、気分は興奮し、頭の中は様々な疑問
符が飛び交って、まるで眠れそうになかった。眠ろうとしても眠れない、夜の、
溶岩流のような時の流れに、目が冴えていく。
朝の光を感じた真理亜は、身体をゆっくりと起こした。自分が一睡もしなか
ったのか、それとも知らない内に眠ってしまったのか、それさえはっきりしな
い。
よろめきながらも、ベッドから立ち上がると、定まらぬ足取りで、手鏡を求
めた。自分の顔を映してみる。
見慣れない、やつれた少女の顔が、そこにはあった。
「ひどい顔」
誰も聞く者のいない、そんな言葉が、勝手に口をついて出た。声までおかし
くて、喉ががらがらしている。
眼球は赤みがかっており、目の下には隈もうっすらできている。顔全体が、
腫れぼったい感じがするのは気のせいか。
(久保さん……嘉奈子)
幻のように消えてしまった友人の名を呼びながら、真理亜は窓辺に近付いた。
昨夜のことが夢だったと思える何かが、その先にある。そんな気がした。
だが、窓の向こうの景色は、いつもと変わりなく、真理亜の目に映った。街
並みも木々も、空を飛び交う小鳥さえも、昨日と同じルートを飛んでいる気が
する。
日常的であるという意味では、嘉奈子が消えてしまったことは夢だったよう
に思えなくもない。平凡な日常の中で、人一人が消えるなんてあり得ない。し
かも、私の記憶にだけ残り、他の人の記憶からはかき消えてしまうなんて……。
真理亜はよほど、そう信じ込みたかった。
だがしかし、久保嘉奈子という存在は、確実に真理亜の記憶の中に刻みつけ
られている。それは決して小学四年生までの久保嘉奈子でなく、つい昨日、何
年かぶりに再会した久保嘉奈子なのだ。
しばらくすると、頭痛がしているのに気付いた。かなりの痛みで、じんじん
と頭の芯に響く感じだ。
真理亜は何度か首を振って、洗面所に向かった。
蛇口をひねり、思いっ切り、水を出す。ステンレス製の流しに跳ねて、水し
ぶきが飛び出すぐらいに、勢いよく。
真理亜はそろそろと両手を差し出した。水に触れた瞬間、心地よい冷たさが
伝わってくる。その感覚はやがて、全身へと広がる。生き返るような気持ち。
続けて顔を洗った。ようやく、真理亜の意識は元に戻りつつあった。
愛用のタオルで顔と手をぬぐってから、彼女は決意を声に出した。
「もう一度、確かめよう」
凛とした声。気持ちも喉も戻った。
正確な時間を確かめる。午前六時前。まだ、朝食の時刻には間がある。それ
までに、何かできることがありそう。生徒数が少ないから、ある程度、大胆に
振る舞えるに違いないという計算もあった。
(嘉奈子は昨日の夜、私の目の前に現れた。そして彼女を部屋に案内した。話
もした。他の生徒はどうか知らないけれど、月谷先生だって寮母の臼井さんだ
って、彼女を見ている。うん、絶対に間違いないわ。おかしいのは私じゃない。
他のみんなよ!)
一つ一つ、記憶を確かめた真理亜。確信が持ててきた。
彼女は部屋に戻ると、身支度を始める。あたかも、闘いに出るかのような、
そんな心意気で。
部屋を出る際、彼女は鍵をしっかりとかけた。何にも正体は見えないけれど、
嫌な予感があった。戸締まりだけは確実にしておきたかった。後で聞かれても、
自信を持って鍵をかけたと言えるように。
さらにもう一つ、真理亜は予防線を張ることにした。
今、彼女は寮母に対して半信半疑の気持ちである。もしも、寮母が真理亜に
対し、何らかの形で『悪意』を抱いているのであれば、真理亜の立場は弱い。
特に、向こうはスペアキーを握っているのだ。部屋に出入りすることなんて、
造作もない。そして恐ろしくも、真理亜はそれに気付くことができないかもし
れない……。
このような不気味な目にだけは、あいたくない。真理亜はせめて、誰かが鍵
を開け、部屋に出入りしたのなら、その事実を察したいと思った。
そのための方法−−髪の毛を張り付けること。部屋を出てドアを閉じてから、
ドアと壁のすき間の、簡単には目に付かない位置に、自分の髪の毛を張り付け
ておく。誰かがドアを開閉すれば、髪の毛が切れ、真理亜は知ることができる
という寸法。
それだけの準備をして、彼女は階段を静かに下りた。
一番に目指したのは、嘉奈子を案内した部屋、B−1−9。何をおいてもこ
の部屋を見たい。何故なら、先に他人の意見を聞いてしまうと、再び自信がな
くなりそうな不安があったから。
期待を全くせず、ノブにさわってみる。やはり動かない。
「開いていないか」
落胆することなしに、真理亜は考えていた次の行動に移った。足音を忍ばせ、
寮母の部屋の前を通り抜け、下駄箱へ。
(昨日、嘉奈子が靴を入れた箱は、誰も使っていなかったから、きれいだった。
もし、本当に嘉奈子がいなかったのなら、そこはまだきれいなまま。砂粒一つ、
残ってないはずよね)
しゃがみ込むと、真理亜は目的の下駄箱のふたを開けた。果たして、中はき
れいではあるが、明らかに外靴を入れた痕跡があった。下から二番目の高さだ
から、簡単に砂ぼこりが入るとも思えない。
(これで一つ、証拠が出てきたわ)
真理亜は内心、満足した。少しだけ、足場がはっきりしてくる。
(でも、これだけじゃ何にもならない。何だかんだと言い逃れされた挙げ句、
ごまかされてしまうのがオチだわ、きっと。何か決定的な事実がほしい……)
真理亜はすっくと身を起こすと、自分の下駄箱のふたを開けた。靴を取り出
すのももどかしく、はきかえるや否や、外に走り出そうとする。
が、はっと思い直し、動きを静かなものに切りかえる。寮母はきっと起き出
しているから、気付かれた面倒だ。真理亜は玄関をそっと押し開けた。
快晴。
降り注ぐ太陽の光は、今日もまた熱くなることを告げていた。こんな明るい
陽の下、探偵めいたことをするのは、どこかおかしく思われる。
でも、今の真理亜は、そんなことにかまっている場合にない。外に出ると、
彼女はやや警戒を解き、大胆に走った。そしてたどり着いたのは、B−1−9
の窓の下。真理亜が期待していた通り、カーテンが引かれているものの、その
すき間は部屋の中を観察するのに充分な幅がある。
真理亜は窓ガラスに肌をほとんど押し付けるようにして、中を見ようとした。
(見えにくい)
外が明るく、中が暗いのだから、それも当たり前だった。それでも、ガラス
表面に思い切り目を近付けると、部屋の様子はどうにか分かる。
(ほんとに、何もかも、片付けちゃってるみたいね。この部屋に私が入ったこ
とはないってなってるんだから、ここに私の髪の毛一本でも落ちているんだっ
たら、証拠になるかしら)
そんなことを考えてみる。しかし、これも簡単にあしらわれてしまいそうな
気がするのもまた事実。
(やっぱり、嘉奈子本人を見つけないといけないわ。彼女がこの場にいてくれ
たら、それで解決するんだもの。これこそ、動かぬ証拠ってやつ)
そう結論づけた真理亜だったが、いざ、どうすればそれがかなうかとなると、
いい方法は思い付かない。
ともかく、白雪寮に引き返そう。朝早くから調べ回っていたと知られてはい
けない。そのように、真理亜の深層の意識が、真理亜自身に危険信号を発して
いた。
彼女はそっと部屋に戻った。
−−続く