#2997/5495 長編
★タイトル (AZA ) 95/ 3/19 9:50 (183)
十三の瞳 8 永山
★内容
−−緋野山の殺人鬼。私は今になって、ようやく「あの事件」を思い出した。
あの緋野山で、何年か前に起こった大量殺人。犯人は不明のまま、今に至って
いる。衣服の切れ端が見つかって、「十三(JUZA)」という名前の人物が
犯人ではないかと、無責任に書き立てられていた。そんな記憶が朧気にある。
「じゃ、じゃあ、私達を襲ったのも、緋野山の殺人鬼『十三』だと言うの?」
「可能性はある。行こう」
裏口まで来ると、あの巨大な影が、ロープにつながれたまま宙に浮き、ぐっ
たりとしていた。懐中電灯でぶら下がっている奴の顔を照らしてみる。
「……だめだ。髪の毛が邪魔で、見えやしない」
沼井は懐中電灯を私から受け取ると、一人で進み出た。巨体の影の真下に立
つ格好になる。そこから照らし出せば、確認できる。
「こいつは……見たことのない顔だ」
見上げながら、沼井はつぶやくように言った。
「何かメタリックなサングラスみたいな物をしている。君の叔父さんより、さ
らにがっしりとした身体つきだよ……」
私を安心させるためか、彼はほっとした様子の表情を向けてきた。
そのとき、ぶら下がっていた巨体の足が動いた!
「きゃあっ!」
絶叫していたのは自分だった。私はいつの間にか、両手で顔を覆っていた。
その指の隙間から、覗き見ると……。
巨大な影−−「十三」は生きていた。
沼井は十三の両足に首を挟まれ、身動きできなくなっていた。呼吸できない
のか、顔を真っ赤にして、必死に脱出しようとしている。
「友彦! 友彦!」
声を限りに、その名を呼ぶだけで、私にはどうすることもできない。手足の
力が、完全に抜けてしまっている。脱力感だけでなく、目の前の光景にも、私
が何もできないでいる理由はある。
十三を吊り上げているロープ、その一部が屋根の縁に擦れて、切れそうにな
っている。殺人鬼一人の体重は持ちこたえたロープも、沼井を加えた重量には
耐えられないのかもしれない……。
私の視界に、ふと、斧が入ってきた。屋根から転落したとき、十三が手放し
た物だ。
かなり迷った挙げ句、斧を取りに身を投げた。返す刀、立ち上がる勢いで、
十三の足に斧を叩き込む!
斧の分厚い刃は、間違いなく十三の太股に食い込んだ。……それなのに、こ
の殺人鬼はそのまま沼井を絞め続けている。
頭上で、がらがらと何かが崩れたような音。
屋根に突き刺した枝伐り鋏が抜けてしまったんだ! 直感した私は斧を持っ
たまま、その場を逃げ出した。
一度だけ振り返ると、うつろな、恨めしそうな沼井の瞳と目があった。
平沼達江は、ほとんど転がるようにして、坂を駆け下りていた。心臓は張り
裂けそうなぐらい鼓動を早めているのに、まだ終点が見えない。
(もう……だめ……)
声の出ない彼女は、頭の中でも切れ切れにつぶやいた。耳鳴りに似て、その
言葉は脳裏に続けて響き、絶望感を煽る。
そんな達江の後ろ、影−−十三がついに姿を現した。その小脇には、西瓜大
の丸い物を抱えている。
影は達江に追い付くと、十メートルほど先にうずくまる彼女の背中に、抱え
ていた物を投げつけた。
「が、うっ」
異様なうめき声を発して倒れた達江の背には、べったりと血が付着した。
達江は、痺れる腕に力を入れ、何とか立ち上がろうとする。その途中、投げ
つけられた物に目が行った。
「……ひ、ひひひいっ!」
自分の耳さえ痛くなりそうな絶叫。
達江が見たのは、沼井の頭部だった。右のこめかみを下に、生気がまるで感
じられない二つの目で達江を見ている。切断面は、幼稚園児が色紙を切ったと
きみたいに、じぐざぐに乱れていた。斧のない影は、あの枝伐り鋏で首を切断
したらしい。皮と肉を鋏で切り、最後に骨を腕の力でへし折ったのだろう。ま
だ切断したばかりのためか、その傷口からは血がぼたぼた、滴っている。出来
た血溜まりは、徐々に土へと吸い込まれていく。
地面についた達江の両手が、余震でも起こったかのごとく、小刻みに震え出
した。それはどんどん激しくなり、やがて彼女は『倒壊』した。それでもまだ、
震えは止まらない。
彼女は土くれを噛みながら、肩越しに追手の姿を探す。
すぐそこに、殺人鬼の姿があった。
死ぬんだ。私も死ぬんだ。みんな死んで、首から上をちょんぎられて……。
新聞で前の事件を知ったとき、文章から伝わってくるその凄惨さに寒気を覚え
ると共に、日本にジェイソンが現れたのかと思って、笑えた。関係のない世界
の話だと思った。所詮、他人事。いつものようにこれですむはずだったのに…
…今、現実に目の前に立っているのは、紛れもない殺人鬼。
ぼんやりしていると、達江は衝撃を受けた。強い力で両肩を掴まれ、無理矢
理、正面を向かされた。沼井の言っていたように、メタリックなサングラス状
の物をかけた顔が、すぐそこにあった。
「いやあ!」
顔を背け、目を閉じる。手にした斧は、何の役にも立っていない。それだけ、
恐ろしさが先に立っている。
閉じた目はすぐに開かざるを得なくなった。彼女の胸を襲った、強烈な痛み。
骨に何かがぶつかっている。
「あ、あ、あ」
開いた目で彼女は見た。鳩尾の辺りに、何かを突き立てられたと分かる。枝
伐り鋏だった。自分の身体に、信じられない物が突き刺さっている。その異様
さが、彼女の感じる痛みを倍加させる。
影は、女の悲鳴をさらに聞きたいらしく、声なきリクエストをしてきた。そ
う、鋏を押す力に、さらに力が加わった。
「い、いやあっ! やめて!」
不意に息苦しくなった。口中に鉄の味と嫌な匂いが広がる。胸の傷が気管支
か食道に達したか、流れ出た血が口を満たしつつある。
達江は激しくせき込み、血を吐き散らした。いくら吐き出しても、次々と血
があふれてくる。
涙とよだれと血とでぬるぬるになって手で、彼女は鋏の柄を掴んだ。少しで
もかかる力を弱めたい一心であった。
影の方は、それを待っていたらしかった。影は、達江が斧を手放したのを見
届け、悠々とした態度で、それを拾った。
よく帰ってきたな。そんな挨拶のつもりか、影は斧の刃をひとなめした。
達江は、かかる力がなくなったのを幸いに、自分の鳩尾から鋏を引き抜こう
と試みる。手が滑るが、渾身の力で挑み、どうにか抜くことができた。
「げっ! ほっ!」
抜いた瞬間、今まで以上の大量の血が、噴き出してきた。栓の役目を果たし
ていた鋏を抜いたせいだ。
焦った達江は、鋏の先をまた自分の傷へと差し込んだ。それが正常な判断に
基づく動作かどうか、それは分からない。
その様子を面白く思ったか、影は手伝ってやるとばかり、鋏の柄を掴んだ。
そして先ほどと同様、いやそれよりさらに強い力で押し込んでくる。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ……」
鋏の見えている部分が短くなるに従って、達江は短い声を上げ続けた。そし
てとうとう、刃先は彼女の背中に達した。
さなぎから成虫がかえる場面と錯覚しそうな光景が展開される。背中の、や
や右よりの箇所が一点、盛り上がり、やがて衣服ごと裂けて血があふれ出す。
血の染みは、沼井の首を投げられたときに付いた赤とすぐに混じり合い、区別
つかなくなる。
達江は目を剥き、声もなく前屈みになった。
影は声がないことを不満としたのだろう。貫通させた鋏を、ぐるぐると回し
始めた。すり鉢で山芋でもすっているかのように、一定のリズムでもって。
「い痛い、いた痛い」
と、達江の口からは同じ単語が重なって流れ出る。その口は真っ赤だった。
鋏の動きが止められた。
大きく口を開けたままの達江が顔を上げると、目の前の影は斧を手に、どこ
かに狙いを定めていた。次に、左足を引っ張られたかと思うと、その太股に強
い衝撃を受けた。斧が標的としていたのは彼女の左太股だった。
(……なーんだ)
薄れる意識の中、それでも痛みを感じながら、達江は思い当たった。
(私がやったことを、やり返しているのね……。胸を突いたから、私の胸に穴
を開けて……。左足の太股を斧で切りつけたから、こうして)
彼女が自分の太股を見ると、ちょうど、切断されるところだった。
(切断するのか……。お返しがきついわね……十倍返し……で利く、かしら。
ホワイトデーならよかった、のに)
そこから先、達江はせいぜい、楽しかったことを思い浮かべた。走馬燈とは
よく言ったもので、次々と思い出が映像となって現れる。
そのフィルムは、唐突に切れた。フィルムが切れ、空回りする映写機の音。
脳裏の幕に映るのは、ただただ白。それが端から赤く染まり、一瞬の内に黒く、
闇に覆われた。
影は、満足して笑みを浮かべていた。唇の端を歪め、声なき冷酷な笑い。
その右手の隙間からは、黒髪の束が覗く。長い髪を逆立てるようにして、平
沼達江の頭部がぶら下がっていた。
影はその首を、近くに転がるもう一つの首−−沼井友彦の首の横へ並べた。
最後まで手を焼かせた、忌々しい二人だったが、こうして終わってみると、
何となく惜しくもある。せめて、こうやって並べてやろう。
それから影は、首に巻き付いたままのロープに手をやった。斧をあてがい、
器用にロープを切った。
このぐらいの荒縄、引きちぎれるように腕力をつけないとだめだな。いい勉
強になった。そんなことをまじめに考えながら、大事な斧を胸に抱くと、影は
歩き出した。二つの死体を踏みつけながら、影は進む。巨体に似合わず、身軽
な影は、すぐに目的地へ到着した。目指していたいのは坂の上のペンション。
玄関に入ろうとした寸前、一人の男の死体が目に入ってきた。眼帯をした男
の死体だ。
こいつも面白かったな。影は思い出して、にやりと笑う。
地震発生直後、影は襲撃を開始した。まず、夜道で見つけた男と女を殺して
から、ペンションの玄関に向かった。そこのノブを回し、ドアを開けた途端、
切りかかって来た男がいた。
それがこいつだ……。影は足で、片目の男の頭を蹴飛ばした。勢いよく飛ん
だ頭部は、ぽちゃんという音を立て、沼かどこかに落ちた。
どうしてこいつが襲いかかってきたのか知らないが、いくら不意を突かれよ
うとも、斧を使わせたら俺の方が上だ。手首の骨を砕いて斧を取り上げると、
二刀流を気取って、いたぶってやった。よく分からん男だったが、普通でない
反応に楽しめた。
影は自尊心を新たに、玄関をくぐった。目玉のない死体があった。
影は愉快に思った。−−どうやらこの男、俺を誰かと勘違いしたまま死んだ
らしいな。恐らく、片目の男と間違えて。
次に、影は壁の異常に気が付いた。今まで見落としていたが、壁から覗く古
そうな死体。正確なところは分からなかったが、影はおおよその察しを付けた。
この死体が、片目の男にあんな行動を取らせたのだな……。
ペンション内を大方回った後、影は、少しがっかりしていた。獲物はもうい
ないのか、たった七人では物足りない……。
影はふっと、ある物に注意を留めた。人が泊まっていた部屋としては一番奥、
パンジーの絵が入口を飾る部屋でのことだ。
ファイルが開いて、その中身が見えていた。
こいつは……。影は久しぶりに、ある種の感傷にとらわれていた。
「俺の写真じゃないか……」
これも久しぶりに、影は声を出した。
影はファイルの最初のページを見た。「行動心理学 資料」と記してある。
影は、今よりずっと若い自分の写真が張ってあるページを、ざっと読んだ。
そして。
−−カメラを持っていた男、あいつは俺の顔を知っているよう見受けられた。
これのことだったんだな。……とにかく、ここに残してはおけない。
影が出した結論は、実に明快だった。ファイルを丸ごと鷲掴みにすると、影
は自分だけの住処を目指し、外に出た。
東の空は、まだ少しも明るんではいない。地震発生から、わずか三時間弱の
出来事だった。
−−終わり