#2994/5495 長編
★タイトル (AZA ) 95/ 3/19 9:36 (190)
十三の瞳 5 永山
★内容
「……分かった。もう少し待とう。そうだな、もう十分して千田が戻ってこな
かったら、三人で回ってみよう。いいな?」
私は無言でうなずき返した。沼井と一緒なら、何だっていい。
「それに、吉村達も心配だ。外も見に行かないと」
沼井は額に手をやった。汗をかいている。
電気は来ているものの、空調設備がおかしくなったのかしら。エアコンがう
まく作動していないらしかった。
「あー、悪いけど、窓、空けてくれないか」
沼井は、窓に近い阿川に頼んだ。
「分かった」
と答え、阿川は立ち上がり、窓に手をかけた。がらっと音がしたかと思うと、
山の冷たい空気が流れ込んできた。
「網戸、きちっと閉まらない」
見れば、阿川は網戸をぴたりと閉めようと、苦戦していた。
「いいじゃない。蚊なんかいないんだから」
私が声をかけたとき、阿川の方から悲鳴が。
「きゃあっ!」
私と沼井は顔を見合わせた。
「どうした?」
すぐに沼井は立ち上がり、阿川のいるところへ近付こうとした。
それを、私が引き留める。何だか分からないけど、嫌な予感を全身で感じて
しょうがない。
「う、腕が……私の手が……」
振り向いた阿川の顔は、白く見えた。
それと対称的に、彼女の足下には血溜まりが赤く広がっている。
私は見た。阿川の左手だけが、窓枠を握りしめたまま、宙に浮いているのを。
そして阿川の左腕の先から、水でうすめた赤絵の具のような液体が流れている
のを。
「いきなり……斧が……網戸を……突き破ってきて」
泣きそうな声。現状を把握できていない。
阿川の言葉の通り、斧は網戸の網を切り裂き、そのまま引っかかっていた。
私はもちろん、沼井も、この情景にはあぜんとして、動くことさえままなら
ない。差し迫った未知の恐怖と、助けなければという思いが交錯する。
逡巡している内にも、斧がぎりぎりと音を立て始める。網戸から抜き取って、
次の一振りを与えようとしているらしい。
「あ、阿川! こっちに来い! 逃げるんだ!」
沼井が振り絞ったような声を出した。からからに乾いている。
「で、でも、私の手が……離れないのよ」
阿川は窓枠を掴んだままの、自分の左手の指を、右手でもって開かせようと
する。その手つきは震えが止まらない。
「いいから! 殺されるぞ!」
沼井は叫びながら、私を抱き抱えるようにして立ち上がらせてくれた。それ
と同時に、ばね仕掛けのおもちゃのような瞬発力で、阿川の元へと接近、彼女
の右手を掴む。普段では考えられぬほどの力で、彼は私と阿川を抱えるように、
部屋を飛び出した。
背後では、窓ガラスの割れる音が激しくなっている。沼井は足で部屋のドア
を閉じると、私に聞いてきた。
「何か、重たい物はないか?」
「……ソファかテーブルぐらいしか」
私は遊興室前の広いスペースを指差しながら、答えた。
「そんなんじゃだめだろうな……」
と言いながらも、沼井はすばしこく動き回って、部屋の前にソファとテーブ
ルを積み上げた。
「よし、この部屋から離れよう。−−そうだ、何か武器になりそうな物は?」
「奥の方に物置があって、そこに何かあるかも」
私が言うと、彼はペンション奥へと向かって行った。私と阿川もそれに続く。
しかし、阿川は傷がひどく、額には大量の玉の汗を浮かべていた。自分がどう
行動しているのか分かっていないかもしれない。
「ここか」
戸を開け放すと、物置内に光が射した。スコップ、ロープ、折り畳み式の梯
子、ペンキか何かの缶、芝刈り機、高枝伐り鋏、鋸、ホース、携帯用ガスコン
ロ、テント用の鉄杭……そういった物が見える。
何か思い付いたのか、沼井は私にこう言った。
「屋根に出る通路は、この中にあるのか?」
「あるけど、私も知らない。どこか隠し扉みたいになってるはず」
「よし、じゃあ、梯子を掛けておいてくれ。一旦、屋根に逃げよう」
おろおろしながらも、私は梯子を担いで、奥の裏口から出ると、壁にそれを
立てかけた。
戻ってみると、沼井は武器になりそうな物を選別しているらしかった。
「芝刈り機は電池が切れてやがる。ガスコンロもだめだな。この缶は……空っ
ぽか」
「鋸は?」
私は、鋸を手に持ちながら聞いた。
「そんな薄刃のじゃ、斧に太刀打ちできるもんか。放っとけ! それより、阿
川の傷口を何かで押さえてやらないと」
言われてから、私は思い出した。気持ち悪さを飲み込んで、阿川の腕を取る。
左手首の辺りをハンカチできつく縛り、さらに羽織っていた服をその上から被
せ、これもきつく巻き付けた。これでいいのか分からないけど、これしかしよ
うがない。阿川の顔面は、相変わらず血の気に乏しい。
突然、がたがたがたっと騒がしい音がした。何だか知らないけど、斧を持っ
た「あいつ‡ず、部屋のドアを突破しかけている。
「もう来やがった。くそっ、屋根に上がるぞ!」
沼井はスコップ、ロープ、枝伐り鋏を抱えて、裏口へと向かった。私は阿川
を支えてやりながら、それに続く。
左手のない阿川を梯子に昇らせるのは、大ごとだった。まず、沼井がいち早
く駆け上がり、ロープを垂らす。それを輪にして阿川の胴にかける。上から沼
井が引っ張り、下から私が押して、ようやく阿川は屋根に到達できた。
私が昇りきったところで、沼井は梯子そのものも、屋根上に引き上げた。
「これでしばらくは時間が稼げる。うまくすれば、奴をやり過ごせるかもしれ
ない。とにかく、静かにしていよう」
息を詰めて待つ。
時折、何かが壊れるような激しい音が聞こえてきて、身体をびくっとさせて
しまう。「あいつ」が暴れているんだ。
「阿川は大丈夫か」
阿川は弱いうめき声を断続的にさせているだけ。応答のない彼女に代わって、
私が答える。
「とにかく、止血しないと危ないかも……。ほら」
阿川の左腕の先がまだ出血しているのは、暗がりでもはっきりと分かる。
「しまった……電話すればよかったんだ。警察でも救急でもいいから、呼んで
いれば……」
悔やんでも遅かった。屋根に上がってしまっては電話は使えない。もちろん、
携帯電話なんて、ここには持って来ていない。
「何者なんだ、あいつは」
「分かるもんですか、あんなの。頭がおかしいのよ。斧を持って暴れて……。
千田君も、吉村君や遥子も、それに叔父も、あいつにやられたのよ。そうに違
いないわ!」
「大声、出すなよ。気付かれたって、簡単には上がって来れないだろうけど、
気付かれない方がいいに決まっているんだからな」
注意されて、私は慌てて口をつぐんだ。耳を澄ますまでもなく、「あいつ」
がペンションのあちこちを徘徊する気配が伝わってくる。
私は両膝を抱え、そのまま顔をうずめた。
「早く、どこかに行って……」
「何とかしたいな」
運んできた武器を点検するようにしていた沼井は、ふっと思い付いたように
漏らした。
「屋根に出る通路があるって言ったな? 屋根から、逆に降りて行くことはで
きるか?」
「降りてどうするつもりよ?」
私は目を見開き、沼井を問い詰める。沼井は微笑んだようだった。
「大げさに言うなよ。下のあいつと戦おうってんじゃない。電話をかけたいだ
けだ。で、どうなんだ? 降りられるのか?」
「それは……ガラスを蹴破るでもすれば、できないことないと思うけど……。
でも、もし、『あいつ』に見つかったらどうするのよ」
「逃げるさ」
「逃げるのは当たり前よ。その逃げる姿を見つかったら、屋根への通路が相手
に知られちゃうじゃないの。そうなったら、どうしようもないわ!」
「そんときは、自分達が急いで屋根から降りたらいい。梯子を取り払ってしま
えば、相手は屋根の上で立ち往生だ」
「そんな生やさしいかしら? これぐらいの高さ、楽に飛び降りるわ、きっと」
この意見には、沼井も詰まった。
「そうなったら、すぐに追い付かれて、殺されるかもしれないのよ。そうなっ
たら、どう責任を取ってくれるのよ」
「責任なんて言われても困るが……。阿川を見殺しにもできまい」
「私より彼女の方が大事なの?」
「馬鹿言うな! こんなときに何を言ってるんだ?」
「馬鹿とは何よ! だいたい、こんなけが人を連れていたら、逃げ切れるもの
も逃げられなくなるじゃないの。ほんとに、考えなしなんだから!」
このときの私は、常軌を逸していたのだと思う。阿川の意識が朦朧としてい
るらしいのを横目で見て、さらにまくし立てた。
「あのとき、彼女なんか放っておいて、すぐに外に飛び出せばよかったのよ!
一人がやられている内に、私達は逃げ切れたはずよ、絶対」
「本気で言ってるのか、おい?」
「私は本気よ。助かる見込ゼロの人を連れてきて、全く、呆れるわ。どうせ、
いい格好をしたかったんでしょうけど、おあいにく様。沼井友彦の美談は新聞
にもテレビにも報じられることなく、みんな死んでしまうのよ。ふん!」
「……」
「電話だって、本当に冷静だったら、すぐに思い当たっていたわよねえ。それ
ができていないってことは、あなたは表面だけ冷静を繕っているだけなの。分
かるでしょ?」
「いい加減にしろっ!」
その叫び声に重なって、ぴっしゃりという音が私のすぐ側で起きた。同時に、
左の頬が熱を持ってくるのが分かる。
「……叩いたわね」
沼井はしばらく無言のままでいた。かと思ったら、いきなり手を伸ばしてき
て、私のこめかみ辺りを左右とも、両手の平で包んだ。
「ああ、叩いたさ。これで目が覚めなけりゃ、君も相当の大馬鹿だ。いいか、
起きてしまったことをぐずぐず言うな。変化する状況に対し、その時点での思
い付く限り最善の判断をして、とにかく逃げ延びるんだ。それしかないだろう
が?」
沼井にまっすぐに見つめられ、私は息を飲んだ。そして目に涙が溜まるのを
感じながら、何度もうなずいた。
「ごめん……なさい。……どうかしてた」
「いいよ、もう。あとで阿川に謝っておけよ」
沼井が優しく言ったとき、急に屋根全体が揺れた。
「きゃ!」
私がしがみつくと、沼井はそのまま、雨樋越しに顔をわずかに出した。
「……まずい。少々、騒ぎすぎたか」
彼が顎で示した先には、黒く巨大な影が立っていた。その正体は、未だ判然
としない。ただ、「あいつ」がこちらを見上げているのだけは分かった。さっ
きの揺れは地震ではなく、「あいつ」がペンションの壁を殴るか蹴り飛ばすか
したのに違いない。
私は当たり前のことを、敢えて聞いた。
「見つかったのね」
「そうらしい。さて、向こうの出方は……」
沼井は観察を続ける気らしい。武器は温存。
「あいつ」は、壁を斧で叩いたり、直接殴ったりを繰り返した。まさかとは
思うけど、ペンションそのものが崩れてしまいそうなほどの衝撃を受ける。
「念のため、ペンションの中への通路を確保しておこう。どこにある?」
私は三角の飾り窓を指差した。沼井は腰を屈めたままそちらへ向かい、窓枠
を掴んでバランスを取り、そのガラスを蹴り破った。
「足、大丈夫?」
「ああ。ひょっとしたら、どこか切ってるのかもしれないが、今の状況じゃ痛
みを感じやしない」
沼井の言葉に、私は無条件に納得していた。
下を見ると、「あいつ」は、まだ壁を叩き続けている。そして、斧を嫌に大
きく降りかぶったなと思ったら−−。
げしん。そんな音がして、斧がペンションの壁に食い込んだ。
「な、何をするつもり?」
−−続く