#2967/5495 長編
★タイトル (AZA ) 95/ 2/21 7:57 (200)
ミステリマニアの殺人 4 永山
★内容
香代は目尻を押さえた。涙が出ている気がしたのだが、指の先を見ても濡れ
ている気配はなかった。
「飽くまで否定なさると」
吉田という名の刑事は、匙を投げるような言い方をした。無論、ポーズだけ
だろう。
「当然です。私は冴場さんを殺してなんかいません」
「じゃあ、凶器に付着していたあなたの指紋はどういうことですかな? 説明
してもらいましょう」
一転、身を乗り出してきた刑事。思わず、香代は身を引いた。すぐには言い
訳なんか思い付けない。
「……」
「桜井さん、あなた、何年も被害者−−冴場さんの家に行ってないということ
でしたな? それなのに、冴場さんのカッターナイフにあなたの指紋が付くと
は、実におかしい。一人でに指紋が付くなんてあり得ない。それとも、何です
か。何年かぶりに冴場さんと再会したとき、冴場さんがカッターナイフを持っ
ていて、あなたにそれをさわらせたとでも? 馬鹿な」
「……その凶器、見せてください」
ようやく活路を見い出した思いで、香代は静かに言った。
「いいでしょう。おい」
吉田刑事は後方にいた浜本刑事に合図を送った。すぐに、吉田と香代との間
のテーブル上に、ビニール袋に包まれたカッターナイフが置かれた。
「これを見て何か? あっと、さわらないでくださいよ。妙なことをされちゃ
あ困るから」
手で触れられぬものの、じっと見ている分には支障ない。何か発見できるか
もしれない。香代は集中した。
「ご覧の通り、冴場さんの物に間違いない」
「……刑事さん。冴場さんの名が彫られているからと言って、冴場さんの物と
は限らないんじゃありませんか」
「そりゃあ理屈ですなあ。折角だが、我々が今、問題にしているのは、これが
被害者の物かどうかではなく、これにあなたの指紋があったってことなんです
がね。このカッターが凶器であることに間違いはないんだ」
「では、このカッター、冴場さんがいつ買った物かは分かっているのでしょう
か?」
「何ですと?」
質問の意味が分からないといった風に聞き返してくる吉田。
「冴場さんがこれを買ったのはいつかと聞いているんです」
「それは分かるが……それに答えたところで何の意味があるんですかな」
「あります。とにかく、購入時期が分かっているのかいないのか、それを聞か
せてください」
ここは強気で出てやろうと、香代はきっと視線に力を込めた。
「遺憾ながら、そこまでは調べ上げていませんよ。こんなどこにでもあるよう
なカッターナイフの追跡となると、いかに警察と言えども難しい」
「だったら、私が冴場さんとお付き合いしていた頃、すでにそのカッターが冴
場さんの手元にあったのかもしれない。そういうことになりますわね?」
「……まあ、そうでしょうな。可能性はあります」
不承不承の様子でうなずく吉田。香代の言いたいことが読めたらしい。
「そうなりますと、このカッターに私の指紋が付着していても、何の不思議も
ないんじゃありません? 指紋は上からさわりさえしなければ、相当の長い間、
そのまま残っているはずです」
「……正確なところを伺いましょう。あなたと冴場さんが以前付き合っていた
のは、何年前ですか?」
刑事の問いかけに、香代は頭の中で指折り数えてみた。あれは大学三回生の
とき……。
「三年前です。もっと正確な時期がお知りになりたいのでしたら、その頃あっ
た、『セブンワンダーズ』内で起こった殺人事件の記録に当たってください。
その数カ月前まで、私と冴場さんは付き合ってましたから」
「ああ、例の殺人事件のこと。なるほど」
狼狽したように、吉田刑事は言葉を濁した。
「念のため、これも聞いておきましょう……。冴場さん宅には何度も行かれた
ことがあったと?」
「もちろんですわ」
内心の、これで乗り切ったという勝利感から、香代は胸を張るようにして言
ってやった。
「カッターにさわるような機会があったと」
「ええ。あの頃−−今もそうかもしれませんが−−の冴場さんはフリーライタ
ーをやっているかたわら、小さな出版社で編集の作業なんかもやっていたんで
す。アルバイト感覚だったみたいで、よく仕事を家に持ち帰ってくることもあ
りました。その手伝いを私がしたとき、カッターに指紋が付いても不思議じゃ
ないでしょう?」
「……三年間もカッターの刃を替えないなんてこと、ありますかねえ」
「そこまでは分かりません。あの人、いくつもカッターを持っていましたから
本当に三年間、刃を替えなかった物があったかもしれません。そうじゃなけれ
ば、昔、私が替え刃の一つに触れてしまっていたんじゃないでしょうか。それ
をたまたま、今になってカッターナイフに装着したと考えれば、辻褄は合いま
す」
もはや形勢は逆転しつつあった。吉田は浜本と顔を見合わせたかと思うと、
急ににこやかな表情を作った。
「分かりました。今日のところはお引き取りください。長時間、拘束して申し
訳ありませんでしたな」
「いえ、推理小説で慣れっこになってますから。分かってもらえたらいいです」
皮肉のつもりで香代は返事をした。そして立ち上がる。
「送って差し上げましょう。もちろん、パトカーでなく、普通の乗用車で……」
そう声をかけてきた浜本刑事に、香代は冷たく言い放った。
「結構です。夫に来てもらいますから」
桜井香代を帰してから、吉田は大きくため息を付いていた。
「あーあ、推理小説好きの人間なんて、取り調べるもんじゃない」
「そうですねえ。やりにくいったらありませんよ」
浜本も同調する。
「こちらがいくら揺さぶっても、動じない。さっきの指紋の件なんかもそうで
す。普通だったら、『三年も経ったら、指紋は消えちまうんだよ!』とか言っ
て相手を追い詰められるのに……。推理小説を読んでいる連中はそれが嘘だっ
て分かるから、簡単には折れない。本当にやりにくいですよ」
「また分からなくなってきた。今のところ、動機では桜井香代しかいない気は
するんだがな。被害者のメモから分かった他の女は、程度をわきまえた付き合
いをしていたようだから動機になるとは思えないし」
「こうなりゃ、もう一度、『ミホ』を捜すしかないでしょう」
浜本は、半ば自棄になったような口ぶりで言った。
「そうだな……。アドレスにあった番号に片っ端からかけて、見つからないっ
てのは納得できん。きっと、正体をごまかしている輩がいるんだ。となると、
ミホこそいよいよ怪しくなる。それは間違いないのだが」
言っている内に、自信が薄れてきた吉田。桜井香代と電話のミホの、いった
いどちらの方向に重きを置くべきなのか、判断しかねるのだ。迷いのため、思
考の森に分け入る……。
「−−聞いてますか、警部?」
部下の声に我に返った吉田。顔を上げ、何だ、と目で尋ねる。
「思い付きですけれど、『ミホ』とは女性の愛称とも考えられませんか」
「愛称? ニックネームか?」
「そんなところです。例を挙げると……例えば、美由紀をユキちゃんと呼ぶよ
うな。もし、被害者がミホなる女性とそこそこ親しければ、女性は自分で自分
を愛称で呼ぶこともあるのではないでしょうか」
「ふむ」
面白い考えだと思った。これでは、イニシャルを追っていくだけでは、網の
目の間から漏れてしまっていた可能性が出てくる。
「しかし、愛称を言い出したらきりがなくなるぞ。極端な話、クラブの女なん
か、本名とはまるで違う名前を持っていることがよくある。そうなりゃお手上
げ状態だ」
「いえ、多分、このミホ、風俗関係じゃないでしょうから、本名の一部だと思
いますよ。とりあえず、愛称がミホになりそうな名前を考えてみましょう」
それから二人は、紙とボールペンを持ち出してきて、我が子に名付けるかの
ごとく、熱心に名前を考え始めた。
帰宅してすぐ、仁は妻に聞いた。聞かずにはおられない。
「びっくりしたぞ。帰ってきたら真っ暗だし、何のメモも残っていない。疲れ
ていたけど、まんじりともできずにいると、急に電話があって、警察に迎えに
来てくれときた。いったい、どうなっているんだ?」
なるべく平穏に聞いたつもりだったが、香代はなかなか喋ろうとしない。
「怒っているんじゃない。隠しごとをされるのがいやなんだよ」
「……ごめんなさい。すぐに話しておけばよかったんだけど」
うつむいたまま始めた香代。仁は、口をつぐんで静かに次を待った。
「この間、あなたが出張に行っていたときのことよ。刑事が訪ねてきて、冴場
鋭介のことで話が聞きたいって」
「冴場って、まさか……」
その名には、仁も聞き覚えがあった。香代の昔の彼氏……。あの不思議荘で
の殺人事件と共に、香代の最も思い出したくない事柄のはずだ。それが今にな
って出てくるとは……。
短い沈黙の後、香代が口を開いた。
「そうよ。学生の頃に知り合った、あの冴場……さん。刑事が来たのは、あの
人が殺されたかららしいの」
「殺された?」
「知らなかった? 新聞に出ていたんだけど」
「あの頃は疲れてて、あまり熱心に読まなかったからな」
「見てみる?」
仁がうなずくと、香代は新聞のラックに手を伸ばした。しばらく探していた
彼女は、やがて朝刊一部を取り出した。
「ここよ」
床に大きく広げられた新聞の一角を、妻の手が示す。そこには小さな顔写真
があり、その下には『冴場鋭介さん(29)』とあった。
仁は紙面を引き寄せると、記事の内容に神経を集中した。何度か読み返して
から、思わず、ため息が出た。
「……どうして警察は、君のことを……」
「手帳か何かに、私のことが書いてあったらしいの」
「何年も前に別れた君のことを?」
信じられない思いで、仁はつぶやいた。
すると、彼の妻は、またうつむいて、小さな声で言った。
「まだ話していないことがあるの。実はね……私、三ヶ月ぐらい前に、この人
と街で、ばったり出会っているのよ」
「本当かい?」
「ええ。でも、誓って偶然よ。−−信じて」
「それは信じるさ。だけど、間が悪いな。そんな偶然がなければ、こんな事件
に巻き込まれやしなかったはずだ」
「それで……最初のときは大したことなく、終わったんだけれど、今日が大変
だった。ほとんど犯人扱いされちゃって」
「どうして?」
「凶器から私の指紋が見つかったって言うのよ」
「指紋が……」
そんなに悪い状況なのか。仁は愕然とした。
それが表情にも出ていたらしい。香代がすぐに説明する。
「心配しなくてもいいの。こうやって帰してもらってるでしょう。普通、凶器
に指紋があったら、帰してくれないわよ」
「それもそうだな」
「気を悪くしないで聞いてほしいんだけれど……。凶器は冴場さんの物だった
の。だったら、以前、私が彼の家に出入りしていたとき、それに触れて指紋が
残っていたとしても不思議じゃないでしょう? 警察も確定できなかったから、
帰してもらえたの」
「そうか。だけど、いくら疑いが晴れたからと言って、これで終わりじゃない
かもしれない。知っていることは全て、話しておいた方がいい」
こう言うと、何故か香代は顔を背けた。不審に思った仁は、目で妻を追及し
た。それでも話さないと見るや、仁は言葉を添えた。
「……話してくれないか。せめて僕らの間に隠しごとはなしにしたい」
仁が待つまでもなく、香代は話し始めた。
「これもあなたが出張中のときのこと。と言っても、この前のじゃなく、もっ
と前。冴場さんとばったり出会ってから一ヶ月ぐらい」
「二ヶ月前ということ?」
単純な計算をして、仁は言った。
「そうなるわね。それまでに、あの男、私に電話を何度かよこしてきていた。
どうやったのか知らないけど、電話番号を調べ上げて」
「どんなこと言ってきた?」
「どうでもいいようなこと。会いに来いとか、話し相手になってくれとか。た
だ、しつこくて、嫌だった」
「そのとき、僕に言ってくれたらよかったんだ」
「これは私の問題だから、あなたに迷惑かけたくなかったの!」
「そんな迷惑だなんて、思いやしないさ。……まあいいよ。今は話を聞こう」
「ごめんなさい、大声出して……。そんな電話の一本が、始まりになった。そ
のとき、私もいい加減頭にきていたから、相手に絡んじゃって。売り言葉に買
い言葉で口喧嘩みたいになって……『どうしたら、電話かけるのをやめてくれ
るのよ』みたいなことを、つい言っちゃったの」
−−続く