#2913/5495 長編
★タイトル (AZA ) 94/12/29 9: 5 (199)
海の泡と消ゆ 1 武雷暗緑
★内容
「だめだ。死んでいる……」
腕を取っていたチモテー・オルレアン医師は、首を横に振った。脈を診たが、
無駄だったらしい。
「何てことだ」
頭を抱えたのは、髪の長い男。彼、アントニー・マルシャンは、これからの
ことを憂慮、苦悩しているようだ。
「海の上で、こんなことになるなんて! オルレアン、あんたのせいだ!」
「わ、わしは、あなたにも、アンドレさんにもちゃんと忠告したはずだ。治る
かひどくなるか、二つに一つだって。マリーさんを海に連れ出そうと決めたの
は、我々全員の一致した意見であり、責任だ。そうじゃないかね」
「ふん」
狼狽を隠すように言い訳する医師を、マルシャンは鼻で嘲った。そして、皮
肉を込めた調子で続ける。
「……知らせるかどうか、だな。どう思うね、先生?」
「さて」
軽々しく判断を下すまいとしてか、医師はへの字に口を結んだ。白い物が混
じった口髭が、鼻息で揺れた。
焦れったいようにマルシャンが叫ぶ。
「まだ旅は始まったばかりなんだ。が、何としても隠し通さねばならない理由
があるんだ、こちらには」
「しかし……この船には刑事も乗っておる。隠しおおせるかどうか」
「私だってマリーをこのままにしときたくなんかない」
マルシャンは、ベッドに横たわる女性を手で示した。その傍らのソファには、
彫刻のように動かなくなった初老の紳士が腰を下ろしたままでいる。
かまわず、マルシャンは続けた。
「だが、どうしようもない。我々の益になるようにことを運ぶには、隠してお
くしかないんだ。せめて、この旅が終わるまで」
「分かりました。最善は尽くそう」
医師は髭をなでながら、苦々しげに言った。
「フィリップ、おまえも手伝ってくれるな」
質問と言うよりも命令の口調で、マルシャンは部屋の隅にいた男に言った。
「もちろんでございます」
男は固い調子で応じると、軽く頭を下げた。
* *
甲板から景色を眺めている金沢に、私は声をかけた。
「金沢、ここにいたのかい」
「船旅なら、景色を楽しまなくてはね」
仏日混血の彼は、金髪に近い栗色の髪をひとなでした。風は弱い。
「のんびりしてられないだろう? ユニコーンから予告があったんだぜ」
「予告か」
彼は身体の向きを換え、手すりにもたれるようにした。昼下がりの太陽は、
さほどまぶしくない。
「君は、船がニューヨークに入港するまで、お宝の前にへばり着いていろと言
うのかな? 旅は七日も続くんだ。少しぐらい、楽しんでもいいじゃないか」
「だが、こうしている間にも、ユニコーンが狙っているんじゃないかと思うと、気にな
ってしょうがない」
「狙っているのは間違いないさ。だが、盗むのはもっと後だろう。あの『生命
の環』を盗むのは」
「生命の環」−−それが今回、怪盗ユニコーンの狙っている宝石だ。環と言
っても、ネックレスやファッションリング等ではない。冠なのである。純金の
環に五つほどの山がある冠で、リングの側面には誕生石十二個が埋め込まれて
いる。安く見積っても五百万フラン(事件当時、約一億一千万円)は下らない
という代物である。
何故、そんな高価な物が船に乗せられているのか? 我々が今、乗船してい
るのは、宝石会社が仕立てた豪華客船で、一種のイベント船だ。ルアーブル−
ニューヨーク間・約六千キロを六泊七日で航行する間、船内は宝石展示場、あ
るいは即売場と化すらしい。その主催社側が、お得意様の一つであるレオド一
家を招待し、またレオド家所有の「生命の環」の出展を依頼したのも、ごく自
然な成行きだったと聞く。
そのことが、公にされてから数日後、怪盗からの予告が、主催社と所有者双
方に対し、届いたのだった。
『親愛なるアンドレ・レオド氏へ。貴殿が所有される<生命の環>を頂くため、
船旅にご同行したい。摩天楼の灯火と引き替えに、<生命の環>は貴殿の手を
離れる。心の準備を忘れることないよう。 永遠のユニコーン』
依頼者のレオド氏から見せてもらった、いつもと同じユニコーンカードには、
こんな文句が記されていた。
「どうして、盗むのは後だと言えるんだ?」
「今、王冠は主催社の管理下に置かれている。公に展示されるのは、明日の昼
食後となっていたね、確か。盗むとしたら、展示後が楽なのは異存ないだろう」
「まあね」
「それにしてもだ、展示が始まってから、すぐに盗んだら、どうなる? 当然、
大騒ぎになって、一斉に捜索開始となる。そうなれば、例えユニコーンと言え
ども、残る六日程の間、冠を隠し通すのは難しいんじゃないかな。
こう考えてくると、なるべくニューヨークに近付いてから盗み出すのがいい。
港が近くならば、共犯者が手助けすることも楽になるしね」
「なるほど」
「そもそも、ユニコーンは宣言しているじゃないか。『摩天楼の灯火と引き替
え』だとね」
「そいつはなあ。いくらユニコーンが約束を守る賊だからって……。それにだ
よ、ユニコーンが君の考えの裏をかくことも有り得る」
「僕の思考の裏を、か。いや、リスクが大きいね。そんなことをしても、盗み
という行動を起こせば、その事実はすぐに発覚する。裏をかいてまで、盗んだ
としても、効果がないと判断できるね。ま、この考え方のさらに裏をかくとい
うことも、ないとは言えないけどねえ」
「ああ、もういいよ。どちらにしても、君は盗まれた後のことを考えているん
だね」
「最善を尽くすには、最悪の場合も考えねばならない。それに、いつかのマド
モアゼル・ビビアンヌの件のようなら、盗まれないようにする対策も立てよう
があるんだが、今度のようなのは、読みようがない」
金沢は、ここで、やや自嘲的な笑みを浮かべた。マドモアゼル・ビビアンヌ
にまつわる事件で、金沢はユニコーンの手口を事前に見破っておきながら、最
後に起こったハプニングで、相手を捕らえ損なったばかりか、守るべきネック
レスをも持ち去られてしまったのだ。
「頼みがあるんだがね、ロック」
「何だ、改まって?」
「自分は今度の事件で、プライドのために、ユニコーンを泳がせるようなこと
をするかもしれない。いや、今、こうして景色を眺めているのも、すでにその
表れかもしれないな。プライド、この間の失敗を返してやろうと、ユニコーン
を泳がせ、いい気にさせておいて、最後にひっくり返してやりたいという、つ
まらないプライドだ。このプライドが、君から見て目に余るようなら、遠慮な
く注意・警告してくれないか」
「分かったよ」
私が承諾すると、金沢は嬉しそうに私の両手を握り、幾度か上下に振った。
「金沢さん、どこにいらしてたんです?」
部屋に戻ると、私達はいきなり非難を浴びた。
「これは、アーキンスさん。どうかしましたか?」
「どうかしたじゃありませんよ」
細身で中背の男は、襟元を正しながら、眼鏡の奥からこちらを見据えた。小
さな目を一杯に開いている。
「当方は、レオド氏の言葉を信用したからこそ、あなたのような探偵を雇い入
れたんです。それなのに、この有様では、責任者たる私の立場がありません」
イベント船を仕立てた主催社側の責任者、テッド・アーキンスはアメリカ人
にしては、流暢なフランス語をこなす。そうでなければ、やっていけない職務
ではあろう。
「おや。それじゃ、もう盗まれましたか?」
金沢が、ゆっくりと聞き返す。
「冗談じゃありません。『生命の環』は、厳重に保管されています。カーター
刑事も見張ってくれているし」
「では、いいじゃないですか。勝負は展示が行われてから。特に、旅の終盤で
しょうからね。あの、立ち話も何ですから、部屋に入って……」
「そうですね……。いや、こんな重大な話、そこらの客室でする訳にはいきま
せん。私の部屋に行きましょう」
話し方とは裏腹に、アーキンスは自信に満ち溢れた態度で、先陣を切って歩
き出した。私達もその背中について行く。考えるに、彼の言葉遣いは文語的な
フランス語からマスターしたためのものではないか。
アーキンスの部屋は、一般の客室からは離れた、四階展示会場の横にある特
別室だった。ちなみに、私や金沢の部屋は、船倉に近い個室だった。無理に部
屋を確保してもらったのだから、これで上等というものだろう。
「もう一度、確認しときますが、展示を取りやめる気は、そちらにはないんで
すね?」
椅子に腰掛けながら、金沢は尋ねた。
「ええ。アンドレ・レオド氏も展示を希望していますしね」
「もう一つ。船客には、予告状が来たことは、知らせていないんでしたね?」
「当然です。この船は、我が社がお得意様を招待し、船旅を楽しんで頂きつつ、
素晴らしい宝石をご覧になってもらうために用意したのですから。余計なこと
で、お気を煩わせる訳にはいかないんです」
力説するアーキンス。
「ですから、あなた方もまた、探偵であるなんてことを言い触らさないで下さ
い。あくまでも、お得意様の一人となっているんですから。カーター刑事も、
ウチに所属しているトラブル処理員ということになっているのです。刑事とあ
なた達は知合いのようですが、くれぐれも『刑事さん』というような呼掛けは
しないでもらいたいですね」
「分かっています。うっかり言ってしまわないよう、気を付けますよ。“気に
なるのでしたら、英語で話しますか?”」
途中から英語に切り替えた金沢。
アーキンスは最初、唖然としていたが、やがて英語で何か一言吐き捨てると、
「……全く。冗談は程々にしてもらいたいですね。英語を理解する方なら、こ
の船には大勢おられます」
と言った。
「英語で思い出したが、この船には、著名なイギリス人旅行家のトミー・ブレ
ア氏も乗っているそうですね」
私は、ふっと思い出して、尋ねた。事件の依頼が持ち込まれたとき、主だっ
た乗客を教えてもらっていたのだ。
「その通りです。この船旅もまた手記になり、雑誌に載るかもしれませんから
ね。じっくりと楽しんでいただきたいものです」
「待ってくれませんか、アーキンスさんもロックも。今は余計な人物にまで、
思い巡らせることはない。我々が知るべきは、旅行家ではなくて、レオド氏に
関わりのある客です」
金沢はたしなめるように言った。
「そうでしたね。ええっと、乗船されている方で、アンドレ・レオド氏に関係
のあるのは、氏の妻でデザイナーでもあるマリー・レオドさん。その息子さん
で美大生のジル。マリーさんの兄、つまりアンドレ氏の義兄にあたるアントニ
ー・マルシャンさん。この方は某化粧品会社の重役で、元々、我が社のお得意
様です。他にも、マルシャン氏を通じての関係者なら数名、いますが」
「とりあえずはいいでしょう。その前に確認を。ユニコーンの予告が来たこと
を知っているのは、どなたまでです?」
「アンドレ氏とジル君は知っています。息子さんも、自宅に来た予告状を見て
しまったそうですからね。マルシャン氏もご存知のはずです」
「マリー夫人は?」
金沢は、納得のいかなさそうな顔をした。
「知っていて当然でしょう?」
「……もっと早く話すべきだったかもしれませんが……。実は、マリー・レオ
ドさんは精神的障害を持っておいでなのです」
「何ですって?」
「何年前のことでしたかね。友人方数人とヨットで海に漕ぎ出したマリーさん
は、嵐に遭ったんです。何人かはお亡くなりになる、惨事だったそうです。そ
のときのショックで、彼女は一種の自閉症のような状態になってしまった」
「途中かもしれませんが、ちょっと。だいたいの話は見えてきましたが、海の
事故で精神を病まれたマリー夫人が、どうして船旅に」
「それは、マリーさんの主治医であるチモテー・オルレアン医師の意向だそう
です。何年か、陸の上で治療を試みたが、さほど回復に向かわない。そこで、
荒療治ではあるが、船旅に連れ出し、再びマリーさんにショックを与えること
で、夫人を治そうというつもりのようです」
「あまり科学的とは思えませんが、それだけ人の心は計り知れないってことで
すかね。その医師はこの船に?」
「付添いとして、乗っています」
「その人は、予告のことは知っているのかな?」
「こちらとしては何とも……。かなり頻繁に、レオド家に出入りされている方
のようですから、知っているかもしれませんが」
今までは、割とはっきりした受け答えをしていたアーキンスは、急に自信を
なくしたような喋りになった。
「うむ、これも確認しとかないとね。どれ、カーターさんに会ってみるか」
金沢は、ことさら、「さん」に力を入れた。いつもは、カーターと呼んでい
るのだ。
−−続く