#2783/5495 長編
★タイトル (AZA ) 94/ 9/30 9:10 (200)
夏、十三(8) 永山
★内容
「ね、ねえ」
「何だよ、留美?」
息を切らしながら、兄妹は会話をする。真ん中のアキは静かなままだ。
「どうして、そんな殺人鬼みたいなのがここにいるのよ」
「知るかよ。どこかから殺人犯が脱走したんじゃないか?」
「そ、そう言えばさ、隣の小屋が滅茶苦茶だったって聞いたじゃない。あれっ
て、そいつが荒らしてったのかな」
「かもな」
倫が言ったところで、急にアキが口を開いた。
「……登山道を行くより、草むらの中を行った方がいいかも」
「どうして、アキちゃん?」
「……追っている方だって道なりに下りている。このままじゃ、体力のある方
が勝つに決まってるわ!」
ヒステリックに叫ぶアキ。倫は落ち着かせようとアキの肩に手をかけたが、
びくっとした表情で振り向かれ、拒絶されてしまった。
「分かるもんか。自分たちのの方が若いんだ」
適当なことを言って繕う倫。
突然、アキが立ち止まった。その背中にぶつかりそうになる倫。
「どうしたの?」
「ルミが……」
わずかに先を進んでいたルミの姿がなかった。倫は動揺した。
「留美っ! どこだ?」
その声に答えるように、少し先の茂みから黒い塊が放り出された。どさっと
泥の地面に落ちる。倫とアキは息を飲んだ。目を見張り、すぐに閉じた。
−−その黒い塊はルミの頭部だった。
「留美!」
倫は思わず飛び出そうとしたが、アキに腕にしがみつかれ、動けない。
「は、放してくれ。留美が」
「だめよ、倫さん! 留美はもう……。それに、あそこを見て」
震える指で、アキは茂みの一点を示した。倫はその先に巨体が身を潜めてい
るのを認めた。
「……あいつだ……」
絶望的な声が勝手にこぼれるのを、倫は感じていた。どこから来たのか知ら
ないが、相手はこの山を知り尽くしているとしか考えられない。近道の存在に
ついても頭に入っているのだろう。
見ている間にも、次から次へと投げ出される物がある。確認したくなかった
が、嫌でも目に入ってしまう。ルミの手、足、内臓……。
そうして、巨体は立ち上がり、右手に斧、左手に火をともしたライターを持
って、登山道へ進み出てきた。
「逃げろ!」
「どこへ?」
聞き返され、倫は惑った。もう下には行けない。茂みに逃げてもすぐにつか
まるだろう。小屋に引き返しても逃げ場はない上に、相手は近道を知っている
らしい……。
倫は即断した。無言でアキの腕を引き、上に向かう。
影は慌てた様子もなく、ゆっくりと一本道を登り始めた。近道は使わず、じ
わじわと追いつめる腹積もりのようである……。
倫は泣けなかった。妹が目の前であんなことになったのに、涙が出ない。見
せつけられた光景があまりに非現実的な出来事だったせいかもしれない。それ
に、彼は今、妹と同じ年齢のアキから頼られていた。ここで自分が取り乱して
はと、気を張り詰めているのも理由になるだろう。
倫は後ろを振り返った。巨体の影は離れるでもなく近付くでもなく、一定の
間隔をおいてついてくる。
「でかいのに何て素早いんだ」
切れそうな息で倫は言った。
このとき、アキが突如、ある行動に出た。持っていた石付きのロープを相手
めがけて思い切り投げたのだ。
「アキちゃん!」
驚きで叫ぶ倫。振り返ると、アキが投げたそれは弧を描いて、影の手前辺り
にに落ちかけていた。そして突風。
ロープが影の足をからめ取る。こちらの期待以上に絡んだらしく、影は巨体
をもんどりうって倒れてしまった。必死に解こうともがいている。
「やった!」
びしょぬれのまま、倫とアキは同時に叫んでいた。この幸運に感謝した。そ
して一目散に坂を駆け上がる。少しでも差を広げたい。
「ついた」
小屋を前にして、倫が言った。夕方、同じようにここに立ったのが、嘘のよ
うな気がした。
「……ど、どうするんですか?」
アキは道の方を見ながら聞いてきた。ロープの効果があったか、まだまだ影
は追い付かない−−だろう。
「あいつを小屋におびき寄せて、小屋ごと丸焼きにする。いくら服が濡れてい
ても、灯油をまいて火を着ければ」
「おおお……おびき寄せるって」
口を押さえるアキ。
「僕がやる。あいつを殺すしか手がないんだ。……嫌でも見えてしまうだろう
から今の内に言うけど、前庭をご覧」
アキは黙ったまま小屋先の前庭を見、さらに沈黙を深めた。
泥にまみれて、人間の身体の一部があちこちに転がっている。五体満足な遺
体もあったが、やはり泥で誰なのかは判別できない。
「夢……みたい」
言葉の持つ響きとは正反対に、アキは地獄を見たような表情である。
「そう、悪夢だ。悪夢であってほしかった」
何かを振り切るように言うと、倫は動き始めた。
「アキちゃん、君は隣の小屋に隠れていろ。決して明かりはつけるな。まさか
あいつも、あっちに隠れるとは思わないはずだから」
「倫さんは? おびき寄せてそれから……」
「火を放ったらすぐに逃げ出す。それから君のところに行くよ」
倫はアキの肩に手をやり、じっと瞳を見つめる。絶えきれなくなったらしい、
アキは涙をあふれさせた。
「……死なないで。もしも、もしも失敗しても絶対に逃げて!」
「僕を信じて」
倫は無理に笑みを作った。本心では、自分も逃げ出したい。だが、彼女と一
緒に隠れていても、いつか気付かれるに決まっている。
「明かりだけはつけるな!」
それだけを言って、倫はアキを小屋に入らせた。
そしてくるりと背を向け、さっきまで寝泊まりしていた小屋へと向かう。
雨は今頃になって上がりそうな気配。代わりに、空気がぶつかりあっている
らしく、空が遠くで鳴っている。
大沢倫は、開け放したままの壊れたドアを横目に、小屋の中に入ると、煌々
と明かりをともした。
「こちらに注意を向けてくれよ」
そして灯油の入ったポリタンクを見つけ、玄関とその両側に隣接する一部屋
とトイレを除き、小屋中にまき始めた。入口近くにまかないのは、相手を完全
に小屋の中に入らせるためだ。
最後に彼は、新たにロープを見つけ出し、ちょっとした仕掛けを作り上げた。
そこへ相手が到達したらロープに引っかかり、上から灯油がふりかかるという
仕掛け。急いで設置したから、想像通りにうまく行くかは分からないが……灯
油が相手にかかった瞬間、火を放てば効果が最大になると考えたのだ。
倫はマッチを手に、鼓動を高める己の心臓を意識していた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。だが、ついに影が現れたのを、倫
は窓から見た。体が固くなりそうだ。大きく深呼吸をし、ラジカセのスイッチ
を入れた。大音量で天気予報が流れ出す。<……山沿いでは雨風が強くなり、
ところによっては落雷に注意が必要でしょう。次に波の高さは……>
わずかに間をおいて、玄関のドアががたんと音を立てた。乱暴な音。
影は間違いなく、ラジオの音を頼りに動いている。倫は「時」を待った。
部屋の片隅に身を隠していると、倫のいる部屋のドアががたんと開けられた。
そして上から灯油がこぼれた!
灯油は相手を直撃こそしなかったが、その飛沫が相当かかったはず。
「くらえ!」
必死でマッチを擦り、倫は相手めがけて放り投げた。カーブを描き、マッチ
は影の手前に落ちた。ぼっという音が火の出現を告げる。
ひるんだ様子の影。いや、もはや影ではなく、その姿ははっきりと見えてい
た。何かメタリックなサングラス状の物を掛け、唇は真一文字に結ばれている。
髪はべったりと濡れて額に張り付いていた。身体の方は青っぽいような服で包
まれていた。足にはスパイクがつまった革製らしい靴がある。
「くたばれ!」
さらに叫び、倫は火の着いたマッチを投げた。相手の服の一部に燃え移る。
影−−明かりの下でもやはり「影」だ−−は、身を翻し、部屋の外に逃れた。
この隙に逃げ出そう。倫は思った。影が消えたドアとは逆方向へ進めば、窓
から外へ出て行ける。
倫が窓の方を向いたそのとき、背中に衝撃を受けた。
倫はすぐに分かった。くそ、斧を忘れていた……。
「ああ」
倫は痛みをこらえながら、背中に手をやり、斧を抜いた。
相手の攻撃はこれで終わりだと、倫は油断していた。そのはずなのに、ドア
からは第二の攻撃があった。
「ぐっ!」
彼は痛みの走った左脇腹を見た。鉄製の黒く細い棒が突き刺さっていた。
思い出す倫。誰かの遺体はこの棒で串刺しにされていたっけ……くそ!
この棒は抜けなかった。抜こうとすると、さらなる激痛が自らを襲う。思っ
ている以上に深く突き刺さってしまったか、内臓にも痛みが発したようだ。
動けないでいる倫の頭上から、ガラスの雨が降る。いつの間に回り込んだの
か、影は窓ガラスのすぐ外にいた。
「うわあああー」
こちらを取られたらやばい! 倫は必死に追い払おうと斧をふるう。
がしん、がしん、がしん!
無闇と振り回し、窓枠を破壊していく。だが、その甲斐あって、影のそれ以
上の攻撃は防げている−−今のところ。
「来るなあ!」
倫は背後の炎が気になった。このままでは自分が焼け死にかねない。
炎が燃え移った毛布に目を留めた倫。彼は痛む脇腹を押さえながら、なるべ
く機敏に燃える毛布を取り、窓にいる影に投げつけた。
「ぐ」
短く影の声が聞こえた。低い、男の声らしかった。影は毛布を持て余してい
るようだ。窓から一歩離れ、前に毛布をはたき落とした。水たまりに浸かった
か、毛布の火はじゅっと煙を出して消えた。化繊の焦げた臭いが漂う。
そこへ倫は、持っていた斧を投げつけた。これが最大にして最後の手段だっ
た。が……倫は信じられない思いで、目の前に展開された光景を認識せざるを
得なかった。
影は斧を受け止めたのだ。回転して飛んできた斧の柄の部分を、正確に右手
でとらえた。そしておもむろに、刃を舌でなめる。あたかも、この斧は俺の分
身だとでも主張したいかのごとく。
「……だめ、か……」
精神の支えを失ったのと脇腹の痛みとで、倫は身体を折り曲げるようにその
場にしゃがみ込む。その彼の視線の向こうで、影は窓を乗り越え始めた。
部屋は徐々に火の手が回り始めている。
「……」
うつろな目でそれを眺めていた倫は、消えゆく意識の最後の地点で、はっと
我に返った。
「せめて……あの子だけは守る!」
倫は立ち上がった。激痛を忘れ、脇腹から棒を一気に引き抜いた。血が蛇口
をひねったときの水のようにあふれる。それでも、倫はもう気にならない。
影は倫に近付き、斧を振りかぶった。
「いあーっ!」
瞬間、倫は棒を影の喉めがけ、突き出した。竹刀の突きの要領。
「ぐ、ほ」
またも影から声が漏れた。喉への攻撃は有効だったらしい。顎を上に向け、
苦しんでいる。
倫はナイフを取り出した。それを逆手に持ち、影の喉を切り裂きにかかる!
倫は影に飛びかかり、ナイフを横に滑らせた。しかし、影も止まっていては
くれない。ナイフは顎先をかすめ、空振りに終わってしまった。
「ちくしょうが!」
とって返し、ナイフを口めがけて突き刺してやろうとする倫。が、手元が大
きく狂い、相手の服の胸元を切り裂いた。倫はそこに「JUZA−−」と刺繍
されているのをちらりと見た。
しかし、それを見ている余裕もなくなった。倫の口が巨大な手でふさがれる。
影の左手が倫の歯茎を頬の上から掴んでいるのだ。
ぎぎぎぎぎぎ……。
奇妙な音。倫は耳をふさぎたく思いながらも、歯茎にかかる重みに全身がし
びれてきた。
やがて、ばきっと音がした。倫の歯の一部が歯茎ごと破壊されてしまった。
口中に血があふれる。このままでは喉がつまりかねない。せき込む倫。
影はさらに手に力を加えた。瞬く間に倫の頬の肉は破られてしまう。相手の
指が入り込み、頬の左右には二つの穴が開いた。
−−続く