#2781/5495 長編
★タイトル (AZA ) 94/ 9/30 9: 4 (200)
夏、十三(6) 永山
★内容
鮫島は目を凝らした。そうするまでもなく、相手は外灯の明かりが届く位置
に進んでくる。
「……君は、藤本さん……?」
短くなっていた煙草を、口からぽろりと落とした鮫島。藤本のあまりの異常
に息を飲む。腹の下辺りから細い棒が突き出ている。足の間からも棒が出てお
り、その先が地面に触れる音が、ときにずるずると聞こえる。ぽたぽたという
音も聞こえた。赤い液体、血。
「−−た、す、け、て」
呆気に取られていた鮫島は、彼女の言葉をようやく聞き取ることができた。
彼女の身体を受け止め、右脇腹を下に横たえさせる。
「どうしたんだ? 他の五人は?」
「……知ら、な、い。とにかく、逃げ、て」
それだけを一気に喋ると、藤本は血を吐いた。
「みんなを呼んでくる。ここで待ってなさい。動いてはだめだ」
「嫌!」
突然、藤本は大声を出した。何かにおびえているらしく、激しく首を振って
いる。
「お、置いて、いかないで」
「だが、その怪我では動かなん方がいい。せめて、血を止めないと」
「逃げ、る! 影、大きな影、襲って」
藤本はしがみついてきた。平均的な女性のものとは思えぬ、大変な力だ。
鮫島は、息も絶え絶えの藤本の言葉をどうにか理解した。何者かに襲われた
らしい。最初は事故か、それとも若い連中の間で喧嘩が起こり、大事になった
のかと考えていたが、違う。
「分かった分かった。小屋に連れて行くから」
鮫島は彼女に肩を貸し、支えながら小屋へ向かい始めた。藤本の苦しそうな
うめき声がする。
そのとき−−。
「!」
鮫島は、肩に痛みを感じた。貸している方でない右の肩が、焼けるように痛
くなる。
「がっ……。何だ?」
振り向くと、自分の右肩に異物が突き立っているのが分かった。
「お、斧じゃないか……」
斧だけが刺さっている。それを持つ腕は見えない。どうやら、斧を投げつけ
られたらしい。
「逃げて!」
横の藤本が叫ぶ。
鮫島は、藤本の言っていた大きな影がすぐ後ろに迫っていることを悟った。
「わ、分かった」
と答えたものの、恐れと未知への恐怖とで足の運びがおぼつかない。藤本は
ここまでたどり着くのがやっとだったようで、今ではほとんど自力で歩けてい
ない。
もう少しで小屋の入口というところで、鮫島は痛む右肩に強い力を受け、後
ろに引き倒された。当然、藤本もバランスを失い、横へ転倒する。
鮫島の肩にあった斧はなくなっていた。
その代わり、彼の目の上に立つ影の手に、斧が握られている。
見下ろされている。鮫島はそれだけで恐怖した。
小屋の中の者に知らせなくては。鮫島はそう判断した。
「逃げろおーぅ! みんなあーぁ、逃げろおーぅ!」
暗かった小屋の窓から、明かりが漏れた。誰かが気付いたらしい。
ほっとした鮫島の口が、不意にふさがれた。
「も、むっ」
自分で自分の口を見ると、中から腕が生えていた。頭上の巨大な影の腕だ。
奴が腕を突っ込んできたのだ。
苦しい。息ができない上に、口が張り裂けそうだ。
「ぃっ!」
鮫島は次の瞬間、声にならぬ悲鳴を上げた。
突っ込まれた腕が、鮫島の舌を鷲掴みにしたのである。
何をする! 必死で喋ろうとしたが、とても舌が動かせる状態ではない。両
腕を相手の腕にかけ、何とかやめさせようとする。
ぶち。
嫌な音が、口の中でした。血の味が広がってきたような気がする。鮫島は爪
を相手の腕に食い込ませた。だが、効かない。
痛みをこらえ、鮫島は腕に噛みついてやった。骨をも砕けよと、ありったけ
の力を込める。
これには影の奴もひるんだ様子で、舌を握る手はゆるめられた。
しかし、腕が口中から抜かれる気配はなかった。逆にさらに突き入れてくる
のだ。
「おおおおっ!」
不自由なままの舌で、鮫島は絶叫する。もはや、噛みついてなぞいられなか
った。吐きそうになる。何とかこの拳を吐き出さなくては……。
鮫島の思いとは無関係に、舌が再び掴まれた。嫌な音が立て続けに起こった。
ぶちぶちぶちっ。
鮫島は気を失いそうだった。いや、失いたかったのだ。
彼は自分の目で、信じられない物を見てしまった。己の口から、かなり長い、
赤い物が引き出された。
それは……鮫島の舌だった。
もはや声を上げることもできず、口いっぱいに満ちて今もあふれ続ける血液
に喉をつまらせ、嘔吐きそうになる。
影は鮫島の舌を地面にたたきつけた。巨大な赤いなめくじのよう……。
鮫島はおぞましい空想を打ち消し、逃げなければと立ち上がった。小屋を見
ると、明かりがついてざわついているだけだ。鮫島が感じていたほど時間は経
過していなかったらしい。
俺は俺で逃げる。だから、おまえ達も勝手に逃げてくれ!
心の中で叫び、鮫島は駆け出そうとしていた。すでに藤本のことは失念して
いるほどに、動揺している。
が、そのとき、彼の気持ちとは裏腹に、小屋の入口のドアが開いた。
おまえ!
鮫島は妻の姿を見て、来るなと絶叫したかった。しかし、声を発することは
かなわない。
「あなた、どうしたの?」
のんきな調子の妻の言葉。鮫島は涙が出てきた。この修羅場に妻も子供も巻
き込みたくない。
「あなた!」
鮫島は妻を小屋の中に押し戻そうと思った。
が、遅かった。新たに出現した、騒ぎ立てる女を疎ましく感じたのだろう、
影は鮫島と彼の妻との間を横切り、それこそ大きな「影」となった。
鮫島は妻の姿を見失ったまま、彼女の悲痛な叫びを耳にした。身が引き裂か
れる思い……。
さらに何度か斧を振り下ろした後、影は鮫島の視界から外れた。
ああ……おまえ……。
鮫島は、最愛の者が左腕を失い、さらにその自身の腕を口にくわえさせられ
ているのを見た。額も斧で割られたらしく、激しく出血している。
ぐったりとした鮫島の妻の身体を放り出し、影は鮫島に向かってきた。
ひい!
彼は今や、己のことしか頭になくなっていた。この瞬間には、子供のことさ
え忘れてしまっていた。腕を切断された妻の姿を見てから、鮫島は気がおかし
くなってしまったのかもしれない。
影に背中を向け、走り出した鮫島だったが、すぐに頭を鷲掴みにされた。万
力で締め付けられたらこうであろう、それほどの破壊力だ。頭の肉が内側に沈
んでいくような感覚。
それは恐ろしくも鮫島の感覚だけではなかった。実際に、影の指は鮫島の頭
の皮膚を突き破っていたのだ。さらに肉をえぐるように突き進む。
次に影は、両手で鮫島の頭を掴まえ直した。すぐさま、鮫島を身体ごと宙に
浮かせる。瞬間だが、鮫島の足の方が頭よりも高く上がる。その衝撃で、首の
骨がきしむような、外れるような不快音を立てた。
さらに容赦なく、影は鮫島を自分の頭上で振り回す。漫画で見る、怪力無双
の大男が丸太を振り回しているような光景だ。つむじ風でも起こりそうな勢い
がある。
何回転したことだろう。影は無造作に両手を鮫島の頭部から放した。砲丸投
げの要領で、一人の人間の身体が宙を飛ぶ。そして激突。鮫島は頭から小屋の
壁にぶち当たった。小屋が揺れ、大きな音が響き渡る。
「何だ?」
「逃げろ!」
そんな声が飛び交っていた。
アキは目を覚ました。さっき、母親に起こされたのだが、まだ寝ぼけ眼のま
まであった。その母親当人は、変な声を聞いたと言って、部屋を出て行ってし
まった。
そして今の揺れと音。ただ事ではないと分かったアキは、大沢倫とルミの兄
妹を起こしにかかった。
そうしているときに、部屋の扉が大きく開かれた。
びくっとして振り向くと、宮田優一が立っていた。
「逃げろ!」
訳が分からず、きょとんとするアキ。何かが起こっているのは分かるが、ど
うして逃げなければならないのか。
「どうかしたんですか」
倫が言った。
「説明してる暇はない。早く裏から逃げろ」
「で、でも、お母さんとお父さんが」
アキの言葉に宮田は一瞬、躊躇したような表情を見せた。
「いいから逃げるんだ! 何とか下山して、助けを呼ぶんだ!」
「……何が」
起こっているのと続けようとしたとき、アキの背後で激しい音がした。
部屋の窓が叩き割られたのである。ガラスが飛び散り、近くにいたルミが悲
鳴を上げる。
「見たか? あんな奴が襲ってきてる。君の両親もてんでばらばらに逃げてい
るから、君達も逃げなさい!」
「で、でも、宮田さん」
妹の肩を抱きながら、倫が聞いた。
「俺は奴を引きつけてから、うまくやる! だから君らは早く助けを!」
宮田は素早く部屋に入ってくると、倫の背中をどんと押し、自分は割れた窓
の前に仁王立ちした。
アキ達はほとんど何も分からないまま、ともかくも懐中電灯を手にし、裏口
へと向かった。
宮田は空手の心得がある。だが、ガラス窓越し、薄暗い中に見た奴の力には
対抗できそうもないと悟っていた。
大男の動きを止めるには、足を狙うのが基本だ。しかし、奴の足は頑丈にで
きている。
次に考えたのは顎先に衝撃を与え、脳を揺さぶってやる戦法だ。しかし、二
メートルはありそうな奴の顎に、確実に一撃を加える自信はない。
確実に当てられる高さとなれば、腹がある。奴の土手っ腹に回し蹴りを叩き
込めば、悶絶させることができるかもしれない。しかし、奴の懐が深く、自分
の足を掴まれてしまってはどうしようもないだろう。
全て、「しかし」で否定されてしまう。
宮田が出した結論は、武器を使う、であった。
慌ただしく、小屋の内部に目を走らせる。刃物類は置いてない。自分が持っ
て来た登山ナイフが一本だ。野外バーベキューのときに使う小型ガスボンベが
目に着く。重さが問題だが、使えそうだ。さらに一つ、有力な武器を見つけた。
「よし」
宮田は震えながら気合いを入れた。それが武者震いだったのかどうかは分か
らない。
影の奴は、窓ガラスを破壊したものの、そこから入ることはあきらめたらし
い。現在は玄関をがんがんと殴りつける音が響いている。無論、鍵はかけてあ
るのだが、やがて破られよう。
宮田は玄関の扉のすぐ前で構えた。ガスを出しっ放しにしておくのは自分も
危ない。奴が姿を見せたと同時にバルブをゆるめ、着火するつもりだ。タイミ
ングが全て。
がんがんがん!
ほとんど絶える間なく続く破壊音。すでに、扉はこちら側に浮き上がり、鍵
の部分がぎしぎし言っている。
ばん!
唐突に扉が開いた。同時に巨体がおどり込んでくる。
宮田は慌てながらもバルブを開き、ライターで着火した。
ごっ。
炎が音を立て、空間に広がる。闇に光が増し、相手の姿の一部を露にする。
仮面でも付けているかのような、無表情。そんな顔が二メートル上に見えた。
残念ながら、炎は届かなかった。強襲を恐れ、ドアから離れすぎた宮田の失
敗だったかもしれない。
宮田は思い切って前に進み出た。火が奴に近付く。
相手は戸惑っている様子だ。斧を片手に両腕で十字を作り、熱さをこらえて
いる。
「燃えちまえ!」
勢いづける意味もあって、宮田は叫んだ。そしてさらに前に出る。
ついに炎の先が奴の服の袖に達する。巨体は無言のまま、進入路を逆走した。
逃がすかと、宮田は追った。そして、あっと思い、愕然とした。
−−続く