#2780/5495 長編
★タイトル (AZA ) 94/ 9/30 8:59 (200)
夏、十三(5) 永山
★内容
「何か変な音、聞こえなかった?」
藤本にそう言われ、錦野博樹は内心、舌打ちをした。
折角、いいムードに持って来たところなのに。
「風だよ」
「ううん、そんなんじゃない。何か動物が吠えているみたいな」
草の上、列んで座っていたのだが、藤本は立ち上がってしまった。ジーンズ
を通してでも色気の漂う太股が、博樹の目の高さに来る。
博樹は喉を鳴らしてから、仕方なしに立ち上がった。
「気味悪いわ。戻りましょ」
「そんな……。声なんか、どうせ」
弟の奴と君の友達がよろしくやっているんだよと続けたかったが、やめた。
どうも彼女はすぐには落とせそうにない。こんな話をしたら逆効果だと、博樹
は判断したからだ。
「分かったよ。帰ろう、小屋に」
腕時計を見たが、星明かりだけでは暗く、はっきりとは確認できなかった。
中途半端な時間に二人して帰ると、宮田先輩に冷やかされるな。錦野博樹はつ
まらぬ心配をしていた。
藤本を先にして、今来た道を引き返す。後ろから彼女のすらりとした肢体を
見つめていると、興奮してきてしまう。博樹はどうにか自分を抑制していた。
気を紛らわせるため、彼は空を見上げた。知っている星座を広大なキャンバ
スに描こうと試みる。そうしていると意外に早く、興奮は収まってきた。これ
なら平常心で小屋に戻れそうだ。
博樹がそんなことを思っていたとき、
「っ!」
前方で、そんな極々短い悲鳴が、確かにした。あまりに短いために聞き取れ
なかったが、藤本の声だ。
目の高さを通常の位置に戻した博樹は、信じられないものを見た。
前を行く藤本利香のシルエット−−その足が三本になっている。真ん中の一
本はやけに細い。よく見ると、その付け根から何かが滴り落ちていた。
「どうしたの」
その声は、すぐにかき消された。右手の茂みから、巨大な怪物のような影が
飛び出してきたのだ。
「うわっ!」
声を上げて、博樹はその場を飛び退いた。自分の意志とは無関係に、吹き飛
ばされたような案配だ。
影は、藤本の方へ歩み寄っていく。このとき、博樹はようやく理解した。藤
本利香は細長い棒で身体を串刺しにされているのだ、と。その黒い棒は彼女の
下腹部を前方から貫き、股をわずかに左にそれて突き抜けている。棒の先は今、
巨大な影が棒の反対側を押し込むことで、地面に深く潜っていく。
藤本のしなやかな身体は、完全に地面に釘付けにされた。その光景は、博樹
に昆虫採集を想起させた。
「うっう」
低く短い声が聞こえる。彼女はまだ息があるらしい。痛みのショックで気を
失いかけているだけなのかもしれない。すぐに病院へ運べば助かるはずだ。
博樹は勇気を奮い立たせた。空手をやっていることも、それに拍車をかけた
のであろう。彼は構えを取りながら、なるべく相手に気付かれぬようそっと進
み出た。
だが−−あとになって思えば、彼が勇気を出したこと、空手をやっていたこ
とは不幸だったとしか言いようがなかったのだ。
影は女の方が声を出せないでいるのを確かめると、目を着けておいた男へと
身体を向けた。男は、奇妙な格好でそろそろと近付いてくるところだった。影
の姿を正面から見て、びくりとしたのが窺えた。
これは面白い。
影は愉快になった。向こうから近付いてくる奴は、滅多にいない。存分にか
わいがってやろうと決めた。
「そ、そこをどけ!」
震え気味の怒声が、影にも聞こえた。
「何でこんなことするのか知らないが、それ以上やると許さない」
ますます愉快になった影は、こちらからも近付いてやることにした。大股で
一歩、踏み出す。あっという間に二人の距離は狭まった。
そこへ、男の蹴りが来た。
「せいやあっ!」
蹴りは確かに影の右すねに命中した。相手は渾身の力を込めて放ったらしか
ったが、影にとっては痛くも何ともなかった。
「ちっ」
男は舌打ちし、さらに狙いを定めるかのようにしている。
影はもう一発、蹴らしてみることにした。
「せい、やああっ!」
今度のは少しだけ効いた。と言うのも、二発目の蹴りは、影の膝の側面より
やや裏側にヒットしたからである。いわゆる関節蹴りになっていた。
影はそろそろ本気を出すかと思った。
「もう一つ、くれてやろうか」
調子に乗っているらしい相手の男は、そんなことを言っている。
影はかまわずに、また一歩を踏み出した。
そこへ、今度は右足の蹴りが来た。影は素早く左腕を下ろし、相手の右足首
を掴まえる。
「あ、が」
影が手に力を入れると、男の口からはそんなうめきが聞こえた。
「は、放せ!」
言われても放すつもりはない。影は一気に左手を握りしめた。
「がああああ!」
ぼきぼきぼきと音がして、男の悲鳴と重なる。気が付くと、影の左手から相
手の右足首は消えていた。あまり強く握りすぎて足首が細く変形し、滑り落ち
てしまったようだ。
「うう」
男はそれでも立っていた。正拳とかいうかまえをしている。
影はひねり潰してやろうと、さらに身体を近付けた。
そこへ拳の連打が来た。
「あああああ!」
踏ん張りがきかないまでも、男は必死の形相で拳を影の腹に打ち込んでくる。
影は拳の動きを少し観察してから、右手の方を掴まえた。再び、力一杯握り
しめる。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴。腕の骨が砕けたせいだ。男の右手首がだらんと下がった。
「くそっ!」
男はまだ反撃をしてくる。指を立てた左手で、影の顔面を狙ってきたのだ。
しかしそれは、もはや速さに欠けていた。影は右の拳で相手の左手をぶん殴る。
奇妙な、何かが裂けるような音がした。
次には、男の絶叫が響き渡った。それはあまりに甲高くて、音として要をな
していなかったが。
錦野博樹は、自分の左手を見たくなかった。今までにない痛みが、びんびん
伝わってくる。それでも確認せずにはおられない。
「ひ」
博樹はまた絶叫しそうになった。自分の左手が今や手でなくなっている……。
親指を除く四本の指は、その付け根が手の甲へと飛び出していた。白い骨が皮
膚を突き破り、黒いような血が溢れ出ている。
呆然としていると、目の前の影が動きを見せた。背中に右手を回している。
すぐに何かを手にしたのが分かった。大きな斧が博樹の目の前に現れた。斧が
振り上げられる。
絶望しつつあった博樹は、さらなる恐怖で瞬時に意識を戻した。
しかし、正確な判断はできなかった。振り下ろされた斧に対して、彼は動か
せる左手で防ごうとしたのだ。
ぎゃぅ。
もはや声も出なかった。斧の刃は、彼の左手、人差し指と中指の間を捉え、
一気に左腕を真っ二つにした。肘の辺りまで、彼の左腕は二つに裂けてしまっ
たのだ。裂け目から、白いような黄色いような骨が見える。
と、とにかく、こいつから離れないと。博樹は掴まれている右腕を必死に引
き抜こうとした。だが、びくともしない。自分の腕の方が痛くなる−−と言っ
ても、それは左腕の痛みの比ではなかったが。
そうしていると、影が博樹の右腕を持ち直した。どうする気だと考える間も
なく、斧が博樹の右肩めがけ落ちてきた。
「あああー」
出なかった声が、再び出せた。それほどまでの衝撃。肩の骨が砕けると同時
に、腕の付け根もすっぱりと切断されてしまった。
影は、これで逃げられるぜとでも言いたげに、奪い取った腕を二、三度振り
回した。
死にたくない。現在の博樹の心を占めているのは、それだけであった。両腕
を失おうとも、右足の先が潰れていようとも、命だけは助かりたい。彼は片足
を引きずるようにして、逃げようとした。
あの巨大な影が立ちふさがっているから、小屋へは行けない。どこへ続くか
知らないが、今いる道を奥へ行くしかなかった。
だが、相手に背中を向けたのは完全に失敗だった。どんな攻撃が来るのか分
からない。それだけに恐怖が倍加する。
突然、彼の身体が宙に浮いた。一気に高く吊り上げられ、逆さまになる。引
きずっていた右足を取られたのだ。
「は、放してくれ」
当初の威勢のよさも忘れ、哀願する博樹。両腕の傷口からの出血がさらにひ
どくなった。
影はしばらく、博樹の身体を揺らして弄んでから、またも斧を取り出した。
まさか……。博樹は考えたくないことを想像した。そしてそれは実現する。
ぶつんという異音がして、博樹の身体は地面にたたきつけられた。いや、た
たきつけられたのではない。右足を太股から切断されたことで、落下したのだ。
痛みが三倍となって襲ってくる。気を失いそうなつらさだったが、まだ彼に
は生きる執念が残っていた。一本の足だけで逃走を続けようとする。
影は容赦なかった。今切り取ったばかりの右足を、ぶんと投げつける。それ
は博樹の背に命中し、彼は無様に転んだ。
彼はなくなった腕で、必死に起き上がろうとした。無論、それは無理だ。せ
いぜい、仰向けになるのがやっとだった。その仰向けになったところへ、思わ
ぬ感触があった。
息ができない……。意識が薄れながらも、博樹は思っていた。何を顔に押し
つけてきたんだ、こいつは?
影が押しつけてきた物−−それは博樹の右足の切断面であった。まだ血が流
れ出る切断面だけに、呼吸を妨げるのに充分、役に立つ。
「ぅぅぅ」
弱々しい声を漏らすだけとなった博樹。
そんな彼を、第四の衝撃が襲った。影の狙いは当然、左足であった。自慢の
蹴りを放った左足も、いとも簡単に切断されてしまった。
博樹は、まだ自分が生きていることがおかしくなってきた。両手両足をもが
れても生きていられるなんて、考えもしなかった。
そして彼は思った。何だ、俺も昆虫だったんだ。藤本さんだけじゃない、俺
も昆虫採集されたんだな。それで、お気に召されなかったから、手足を引きち
ぎられて遊ばれているんだ……。
その思考もすぐに中断された。それは永遠の中断であった。影の斧によって、
錦野博樹の頭部は胴から切り放された。
雲が流れて、ようやく月が顔を出していた。
影は満足していた。今、息の根を止めた男のように、反撃してくるのはやり
がいがある。「自分」に反撃する行為が思い上がりであることを分からせ、徐
徐に痛みを増すようなやり方で、存分にいたぶって殺す。これほどの快楽はち
ょっとない。
影は思い出した。もう一つの獲物をそのままにしていた。茂みの中からいき
なり棒−−建築資材の鉄筋−−を突き刺してやったら、あっさりと動かなくな
ってしまったが……もっと苦しめて殺してやりたい。
影は道を引き返した。迷いようのない一本道。
しかし、なかった。棒を突き刺してやったあの女が消えていたのだ。
影は地面を調べた。確かに、棒の突き刺さった痕がある。さらに血溜まりが
できていた。相当な量である。
影は目を先にやった。血が点々と続いている。棒を引きずったような線も、
途切れ途切れに残っている。
影は焦りながらも、また楽しくなった。あの深い傷だ、今から追いかければ
すぐに掴まえられるだろう。
影は巨体に似合わず、素早く行動を開始した。
鮫島は煙草を口に、小屋から出た。眠ろうとしたのだが、ちっとも眠くなら
なかい。昔から環境が変われば、眠れなくなる質だった。酒が効いていない。
義理はないのだが、男女六人の若者が戻ってこないのも気になる。
妻や子供達は、とうに寝床に着いている。宮田は部屋にこもっているらしい。
床にでも寝るといっていた彼だが、結局相部屋ということで落ち着いたようだ。
「はー」
煙を吐くと、すぐに闇に溶けてしまった。手にしていた携帯用吸殻入れに、
灰を落とす。この吸殻入れ、灰は肥料になるから別に捨ててもいいと思うのだ
が、山火事になると言われて、妻から持たされた物だ。
高ぶっていた気持ちが落ち着いてきた。そろそろ戻ろうかと思った鮫島。そ
の目の前に、異様な物体が現れた。
人間のようではある。ただ、普通の人にはない、細長い何かを持っていた。
−−続く