AWC 夏、十三(1)     永山


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#2776/5495 長編
★タイトル (AZA     )  94/ 9/30   8:46  (180)
夏、十三(1)     永山
★内容
 夏が来れば思い出す一つの記憶が、鮫島晶子にはある。思い出さざるを得な
いと言った方が的確かもしれない。
(倫君……)
 八の月のカレンダーを眺めながら、彼女は心の中、そうつぶやいた。
 それは苦い、いや、痛い記憶であった。あのことを思い出すと、痛みで脳が
破裂しそうになるのが、晶子の偽らざるところである。そして、そんな肉体的
な苦痛以上に、精神的な苦痛を感じるのだ。夢のような、狂ったような夏の出
来事……。
「ひとりぼっちの私」
 意味もなく、晶子は声に出していた。

           *           *

「緋野山、とは、よく、言ったもの、ね」
 ルミこと大沢留美は道端にへたり込んだ。最初から飛ばし気味だった彼女は、
息づかいも荒い。
「ルミ、どういう意味?」
 問い返したのはルミのクラスメート、アキ。同じくオーバーペースだったと
みえて、ルミの横に腰を下ろす。二人はこの春、一緒に中学生になったばかり
だ。共に今年の誕生日を迎えて十三才になっている。
 やっと息を整えたルミは、隣の友人に説明を始めた。
「この暑さよ、アキ。緋野山の『ひ』は火、ファイヤーなんじゃないかってこ
と」
 そうして地面に木の枝で漢字を書く。
「それじゃあ、字が違うな」
 坂道の下の方から声がした。
「兄貴、どう違うって!」
 疲れと暑さでいらいらしている様子のルミは、大声を張り上げた。
 それにすぐに答えようとはせずに、ゆっくりと上がってきたのはルミの兄で
ある大沢倫。
「私が書いた字がそこから見えた訳、兄貴?」
 目の前の倫にルミはかみつくように言った。
「え? 違うさ。俺が言いたいのはな、気温が高いのは『暑い』を使い、ファ
イヤーによる温度上昇は『暑い』でなく『熱い』を使うってことだ」
 ルミから枝を取り上げると、彼は立ったまま起用に「暑」「熱」と書いた。
「だから、どうしてもしゃれたければ、『火』じゃなくて、太陽の『陽』でも
あて字にすべきだな」
「もう、こんなとこまで来て、国語の勉強なんかしたくもない」
「あ、そんな口、利いていいのかな? 宿題、手伝ってやんない。帰ってから
地獄の夏休みを味わうことに……」
「あ、謝る、謝ります。お兄さまは勉強もできて、スポーツもできて、文武両
道、即断即決、質実剛健、えーと、他に四字熟語知らない?」
 ルミがアキに尋ねる。それには答えず、倫と顔を見合わせてアキは大笑い。
膨れっ面になっていたルミも、すぐに笑い出した。
「あらあら、にぎやかね」
 中年のおばさんめいた声。アキの母だ。それを支えるようにして、左横には
夫−−アキから見れば父親−−が付いている。
「何だ、みんな立ち止まって。もうへばったのか?」
「いえ、僕は平気なんですけど、留美とアキちゃんが」
 アキの父−−鮫島雅志の言葉に、倫は優等生ぶって答えた。事実、彼は優等
生で、高校でもトップクラスの成績である。
「もう、疲れたよ。休もうよ」
「そんな言葉遣いするもんじゃないぞ、留美。すみません、鮫島さん」
 鮫島雅志に対して頭を下げる倫。鮫島はもったいぶったように顎髭をなでて
から、
「いやいや、構わないよ。そうだな、じゃあ、この辺りで一服するか」
 と言って、背中のリュックを地面に下ろした。

 緋野山は、素人が登山・キャンプをするには手頃な山だと言えた。ゆったり
とした傾斜が続く登山道はさほどの重装備をすることなしに、登ることができ
る。ただ、緋野山の坂はいたずらに長く、山頂にたどり着くにはどうしても一
泊する必要があった。その辺りはよく心得られており、山の中腹には小屋が二
つ、設置されている。それぞれ十人が宿泊するのに充分な広さだ。定員の関係
で、休憩だけならともかく、小屋で寝泊まりするには前もって予約の必要があ
ったが、宿泊料金は無料。
 夏休みも終わりに近付いた今日、その予約をしている一組が、鮫島一家三人
と大沢家の子供二人であった。
「天気、悪くなるかもしれませんね、ほら」
 水筒の麦茶をあおった後、大沢倫が言った。彼の視線が向いている方へ、他
の四人は目をやる。
「本当だ。雲があるな」
 鮫島が言った。
 その通り、かなり離れてはいるが、空に黒い雲が湧き出ていた。空全体の青
さに比すれば、取るに足りない程度であっても、やはり気になる。
「雨雲らしいな……。一応、折りたたみの傘を持っては来ているが、降らない
でくれるに越したことはない」
 腕時計をかざす鮫島。午後三時を回ったところだった。
「よし、そろそろ出発しようか。五時には小屋に着いておきたいもんだ」
 鮫島の号令で、皆立ち上がった。
 休憩したことで元気を回復した様子の中学生二人は、かしましくお喋りをし
ながら、先頭を切って一本道を行く。
「そんなに張り切っていると、またすぐにばてるぞ」
 倫が注意したが、その声には微笑のようなものが含まれている。
「いい景色。空気も味が違うみたい」
 感想をもらしたのは鮫島夫人。普段の家事仕事から解放された彼女は、息を
切らせながらも登山を満喫していることが、はっきりと見て取れる。久々に足
を通したジーンズも、よく似合っている。
「若さを取り戻した感じだ」
 夫の雅志が言った。
「あら? じゃあ、家にいる私はおばさんだってことかしら?」
「そそんなつもりは。そう、誉めたんだよ、そう」
 妻の思わぬ反論に、鮫島雅志は急いでどもりながら言い足した。
「ま、いいわよ。ただし、もし、私が年寄りじみても、それはあなたのせいで
すからね。これまでほとんどどこにも連れていってくれなかった」
「分かったよ。だから、こうしてせめてもの穴埋めに、山歩きをして、自然を
楽しむと言うか何と言うか」
 苦笑しながら、鮫島は口をもごもごさせる。その頃には妻が笑顔になってい
たので、鮫島の苦笑いは本当の笑いになっていった。
「景色がいいのに、木が邪魔になってる場所が多いわねえ」
 鮫島夫人は話題を転じた。彼女の言葉のように、緋野山登山道の周囲は、緑
に囲まれていることが多く、景色が開けているのはほんの一部である。それだ
け、この山が深いということであろう。
「そりゃあ、考えようだな。例えば、向こうの山から見たら、無粋な登山道な
んか見えない方が景色はいいに決まっている」
「それもそうね」
 夫の言葉に同意する鮫島夫人。休憩後の出発からまだそんなに経っていない
が、額にはもう汗が玉になってにじんでいた。

「到着!」
 元気よく言ったのは、大沢倫。別に彼が子供っぽいのではなくて、へばって
いる妹とその友達の二人に、自分が元気いっぱいなことを見せようとしている。
そんな素振りだ。
「もうだめ。くたくた」
 腰砕けになるようにして、ルミは小屋の玄関先に座り込んだ。アキもそれに
続く。最初の休憩からもう一度、休憩を入れたのだが、飛ばしすぎの報いは大
きかったと見える。
「着いたか。ほう、他には誰もいないのか」
 鮫島は感心した風。
「休憩している日帰りの人達がいるかと思っていたんだが。まあ、この方が何
かとやりやすいがね」
「とりあえず、中に入ってみましょ」
 夫人の方は、外見ほど疲れてはいない声で言った。
 小屋と言っても全部が全部、木でできている訳ではない。そもそも、玄関の
扉からして丸太小屋のそれを装っているものの、実際は金属製のドアに縦割り
にした短い丸太を張り付けている代物だ。密閉性・安全性からすればこれが妥
当なのかもしれないが、あまり粋ではない。
 ともかく中に入って、食堂らしき一番広い部屋で五人がくつろいでいると、
何やら外が騒がしくなった。人の声がする。
「あ? やっぱり日帰りがいたのか」
 と、鮫島。
 だが、それは違っていた。鮫島らのいる小屋の扉がノックされた。と同時に、
「すみませーん」
 という、複数の声が。
 何だろうという気持ちと面倒だなという気持ちが入り交じりながらも、鮫島
は応対することにした。
「何か?」
 扉を開けると、鮫島の目の前には若者−−少なくとも鮫島よりは年若い七人
がいた。男四人、女三人。
「あの、今日、こちらでお泊まりの方ですか?」
 一番前の男が言った。見たところ、この男が七人の中では年長者らしい。髪
は長くぼさぼさで、がっしりした身体。ちょっと年齢の想像がつかない。
「そうですが、あなた方は?」
「申し遅れました、私は宮田優一と言います。後ろにいるのは私の後輩やその
知り合いといったグループです。実は私達も今夜は小屋の方で一泊する予定だ
ったんですが、こちらの小屋が……」
 口を閉ざした宮田。態度からして、実際に見てほしいということだろう。鮫
島は中の四人に、もう一つの小屋の様子を見ることを告げた。
「私も行きます」
 と言ったのは鮫島夫人。彼女の方は、隣の小屋がどうこうより、夫が知らな
い人達とどこかへ行くことを危惧したのかもしれない。
「あれです」
 十メートルほど行ったところで、宮田が指差したその先は、鮫島達が今夜泊
まる場所と同じ形の小屋があった。
 が、少し、違うところもある。窓ガラスが一枚、割れているのだ。
「あれは?」
 さすがに訝しく思い、鮫島は身を乗り出した。
「何だか分かりません。我々が来たときには、すでに割れていたんです。あそ
このガラスだけじゃなく、裏側のガラスも何枚か割られていて、かなりひどい
有り様です。でも、それだけなら何とか寝泊まりできないこともないと考えた
んですが、中を見て愕然としました」
 宮田ら七人は、中に入っていく。わずかに躊躇してから、鮫島は夫人と共に
続いた。
「泥だらけ……」
 宮田に説明されるまでもなく、中の異変は分かった。床には泥の足跡がたく
さんある。日差しのせいか乾いてはいるが、そんなに古い物ではない。
「誰かが忍び込んだ?」
「そうらしいんです。何かが盗まれたとか、そういう形跡はないみたいなんで
すけれどね。庭にある水飲み場の蛇口が泥だらけでした」
「係の人は、何も言ってなかったんですか」
「係と言いますと、小屋の管理をしている? ええ、何も言っていませんでし
た。いつもの通り……あ、私、ここは三度目なんです」
 宮田は予約した証となるカードを取り出した。
「職務怠慢だな。小屋がこんな状態なのに放って置いた上、人に貸すなんて」
 憤慨する鮫島に、宮田が話しかけてくる。
「そこでお願いなんですが……。あの、お名前は?」
「あ、鮫島です、鮫島雅志。こっちは女房でして」
 こちらがまだ名乗っていなかったことを思い出し、鮫島は少し慌てた。妻と
一緒になって頭を下げる。

−−続く




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