#584/1159 ●連載
★タイトル (RAD ) 07/09/20 21:36 (489)
BookS!(21)■遭遇■ 悠木 歩
★内容
■遭遇■
「ん、んんっ」
重ね合った唇から、くぐもった声が漏れた。
男の手が、女の胸へと伸びる。
「あっ、いや」
重ねていた唇を離し、女は抵抗の意を示す。その手が、男の手をそっと押し
返した。しかしその抵抗は弱い。男の動きを瞬間は止めたものの、再度戻って
来た手に女は容易く道を譲ってしまう。
「いや………やだって、言っているのに………」
大きな掌が、服の上から女の胸を包み込む。
「まだ………話、終わって、ない」
甘い声は、女が男の行為を心から拒んではいないことを示す。
「話、何だっけ?」
胸の谷間に埋めた顔が、女を見上げた。
「んーっ、もう。命令してくれたら、あの坊やを探し出して、必ず本を、奪っ
てくるわ」
「なんだ、そんなことか」
胸から顔を離して、男は立ち上がる。かなりの長身に、今度は女のほうが男
を見上げる形になった。
「たぶん、鳴瀬の生徒よ。磯部ってヤツのクラスを調べていけば、きっと見つ
かるはずだから」
緩んでいた表情を引き締め、女、神埼雛子は言った。
「いいよ、そんなこと、しなくたって」
微笑んだ男は、雛子の身体をそっと抱きしめる。
「だって本、必要なんでしょう?」
「ん? いまぼくに必要なのは、君だよ」
そう言って、男は雛子を押し倒す。
強い力ではない。
不意を付いたのでもない。
雛子が拒むつもりであれば、充分撥ね退けられる程度の力で、である。
「もう!」
ベッドに倒れこんだ雛子は、頬を膨らませて怒った顔を作る。だが本心では
ない。その証拠に男の手が服のボタンに掛かるのを、許してしまう。
「あの坊や、次には敵として現れるかも知れないのに」
小振りだが、形の整った胸が外気に晒される。男のものとは思えない、白く
細い指が二つの丘陵を包み込んだ。
「あんっ」
赤く色づいた唇から、切ないが漏れる。
「そのときは、君が返り討ちにしてくれるんだろう?」
「もち………ろんよ。ん、私、グラウドは………無敵………だも、の」
切れ切れの言葉。
臍の辺りから胸へと、まるでナメクジのように男の舌が這う。官能のあまり、
雛子は正常に言葉を紡げなくなっていた。
「本を持つ者同士、焦らなくてもまた必ず出会う。本のことは、そのとき考え
ればいいさ。それよりいまは、二人きりの夜を楽しもう」
「ん、うん………」
頬を朱に染めた雛子が、小さく頷いた。
カーテンのわずかな隙間から射す光は強く白く、とてもそれが午前のものと
は思い難い。
「んんっ」
瞼を直撃する光に、男は顔を顰めながら目を開ける。
「ごめんなさい………起こしちゃったわね」
声のするほうへと、男の顔が動く。そこには身支度をする、神崎雛子の姿が
あった。
「君のせいじゃない………もう、出掛けちゃうの?」
「うん、ほら、話したでしょう。今日、ライブがあるんだ。だからそのリハー
サルとか打ち合わせとか」
「そうか、残念。もう少し、一緒に居たかったけど。今度、ライブ観に行くよ」
「それは嬉しいけど………無理はしないで。お仕事、忙しいんでしょう?」
「ん、まあ。けど、何とかなりそうだよ」
「そう、良かった………じゃあ私、行くから」
「気をつけて」
身支度を終えた雛子は、ドアのノブに手を掛けた。だが何かを思い出したよ
う、急に振り返り、ベッドに横たわる男の下へと歩み寄る。
「行って来ます」
と、一言。それから、男の唇に自分の唇を重ね合わす。短い時間の、小鳥の
ようなキス。
「これで元気、出たわ。今日のライブ、きっと上手く行く」
唇を離した雛子は、頬を真っ赤に染め上げ、さながらまだ無垢な少女のよう
な表情を見せた。そして少し名残惜しそうにしながら、今度は本当にドアを開
け、部屋を後にする。
「行ったみたいね」
雛子が立ち去って二分ほど。別の女の声がした。
「何だ、来ていたの?」
「何だ、は酷いわね」
雛子の消えたドアが開き、髪の長い女が笑いながら入って来る。
「それで?」
「バルスームがブックスの呼び出しに成功したようよ。魔術師グァだとか」
「へえ」
男はベッドから立ち上がり、部屋の隅へと向かう。そこで冷蔵庫を開け、琥
珀色のボトルを取り出す。麦茶か烏龍茶か、あるいはアルコールの類か。男は
ボトルの中身をグラスへと注ぎ、そして喉に流し込む。
「理解し兼ねるわね。何でわざわざバルスームに情報を流したのか。それを今
度は、あの子を使って狙わせたり、一方では放っておけと言ってみたり」
「ふう。そのほうが、面白いだろう?」
グラスの中身を飲み干した男は、大きく息を吐き、笑みを以って女に答えた。
「君もぼくに抱かれるかい?」
「命令かしら」
「いや、ぼくは望まない女性を、無理に抱いたりはしないよ」
「まあ、とんだ偽善者ですこと」
女は何処か悪意に満ちた笑みを返す。
互いに笑みを浮かべる中、部屋の空気は緊張に包まれ、常人にはとても居た
たまれないものとなっていた。
片手に握った竹刀を真っ直ぐ前に突き出す。それからゆっくりとした動作で、
それを頭上へ振り被る。そして再び同じ速度で、竹刀を元の高さにと下ろす。
黎は宗一郎と共に、柔剣道の専門店を訪れていた。
スポーツの一つとして括られる剣道であったが、竹刀や防具と言った道具類
を入手するには専門店を訪ねる必要がある。一般のスポーツ用品店で、それら
のものが扱われることは少ない。
三日前、黎は紫音のブックス、リアードによって竹刀を斬られていた。当然、
予備は持ち合わせていたものの、失った分の補充が必要と考えてのことであっ
た。
最近ではわざわざ店を訪れなくても、インターネットを通じての購入が可能
である。しかし自分の使うものは直接その目で見て、その手で触れた上で購入
したい。何より黎は、専門店独特の雰囲気が嫌いではなかった。
宗一郎は別に、誘った訳ではなかった。黎が竹刀を買いに行くと知り、勝手
に着いて来たのだ。
「これを貰います」
購入を決めた黎は、選んだ竹刀を店番の老人に手渡す。
「はい、毎度どうもありがとうございます」
禿頭に痩身、縁の黒さがやたらと目立つ老眼鏡の老人は、定番の文句を口に
しながらも、何処か無愛想であった。だがその無愛想さも、黎にとっては不思
議と心地よかった。
「おい、買ったぞ」
「おう、もう少し待て」
包装を終えた竹刀を手に、宗一郎の下へ戻る。そこもまた竹刀のコーナーで
あったが、宗一郎が見ていたのは、黎が購入したものとは些か違っていた。
宗一郎が手に取り、眺めていたのは通常より大分短い竹刀。二刀流用のもの
であった。
「まさかお前、まだ諦めていなかったのか?」
「うむ、これがな、実際やって見ると、中々面白くてな。少し本格的に学んで
みようかと思って」
冗談が冗談ではなくなってしまったのだろうか。確かにこの男には、何かを
始めると必要以上に真剣になってしまう傾向があったのだが。
「俺はお前の冗談に付き合うつもりは、ないんだけどな」
「ああ、分かっている」
答える宗一郎だが、黎の言葉がちゃんと耳に入っているのかは怪しい。
「それにしても、今日はいい天気だな」
「そうだな」
「理奈子ちゃんは元気か?」
「ああ、分かっている」
どうやら本当に黎の言葉が耳には入っていないらしい。こうなると宗一郎の
関心がその竹刀から外れるまでには、相当の時間を要するであろう。
「先に帰るぞ」
「うん、大丈夫だ」
「ここに鎖鎌は売っていないからな」
「承知した」
黎は竹刀に見入る宗一郎を残し、店を後にした。
取り敢えず駅に向かう。
黎の家の最寄り駅までは、電車で二十分ほど。現在時刻は午前から午後に変
わったばかりであった。真っ直ぐ帰れば、一時には家に着く。
「寄り道、するかな」
券売機で切符を求めた黎は、帰宅するのとは反対側のホームへ歩いた。
陽は頂点に差し掛かろうとしていた。
アスファルトとコンクリートで構成された街は、熱を溜め込み、あるいは反
射させ、陽炎を立たせる。さながら街は、灼熱地獄の様を呈していた。しかし
それにも関わらず、通りは溢れんばかりに人でごった返している。
「失敗だったかな」
思うように歩けず、汗が吹き出る。集団で道を塞ぐ派手な恰好の若者に苛立
つし、喉も渇いた。日本有数の繁華街は黎にとって、暇つぶしに歩くにはとて
も適さない場所であったことに気づかされる。
何処かで食事をと考えていたが、この人手である。どの店も混雑が予想され
た。駅に引き返し、地元へ戻るのが利口だろうかと考え始めていたときであっ
た。
「よう、兄さんじゃないか!」
雑多な音が行き交う中、一際大きな声が響く。最初、黎はそれが自分に向け
られたものとは思わなかった。
「兄さん、俺だ、俺だよ」
前方から一人の男が近づいてくる。
つばを後ろ向きにして帽子を被り、かりゆしのようなシャツにジーンズ姿。
鏡のようなサングラスは、明らかに黎を見据えている。
しかし目上であろう男に見覚えはなかった。記憶を幾ら辿ってみても、目前
の男と一致する人物は出て来ない。
「よう、元気そうじゃないか。嬉しいよ」
男は黎の左肩をぽんと叩き、言葉通り嬉しそうに笑う。その気安さは、ごく
近しい者へ向けられるもであった。だがこの期に及んでも、黎は男を思い出せ
ない。
「あの、どなたでしたでしょうか?」
ここで分かったふりをしても仕方ない。黎は素直に男を思い出せないでいる
ことを伝えた。
「何だ、分からないのかよ。俺だって」
男は指で自分を指さす。
見て分からないから訊ねているのだ。それを「俺だ」では埒が明かない。
「ああ、サングラスだな。これをしているから、分からないのか」
そう言って男はサングラスを外すと、自分の顔を突き出して黎へと見せる。
人懐こい態度には不似合いな目が現れる。その鋭い眼差しには何処か覚えが
あった。
一体何時何処で会ったのか、記憶を探ると、そこに引っ掛かるものを見つけ
る。見つけたものを更に探り、やがて男が何者であったのかへと辿り着く。
「お、お前は、スコーピオン!」
男の正体は、鳴瀬大学で黎を襲ったブックスであった。
心中舌打ちをする黎。
迂闊だったと猛省する。
元々は竹刀を買って帰るだけの外出。荷物にもなるし、特に必要もないだろ
うと、本を持って来ていなかったのだ。
しかしこんな人混みの中、仕掛けてくるとは。
鳴瀬でも周囲には人が居た。だが紫音によれば、相手は結界を張っていたの
だろうとのことだった。紫音たちが公園で襲って来たときのように。それであ
の騒ぎの中、黎が助けを求めても、人が気づくことがなかったらしい。
正しくはマンガや小説で術者が使う結界とは異なる。よくは分からないが一
部の空間を、他次元方向に少しだけずらし、周囲との繋がりを断つのだと言う。
しかしいま、黎とスコーピオンは雑踏の真っ只中に在る。この状態から周囲
との繋がりを断つ結界を張るのはとても困難に思われた。
相手は無関係な人々まで巻き込む腹積もりなのだろか。黎は歯噛みする。
「おいおい、そう怖い顔するなって。今日の俺はお休み、オフ日だ。仕掛ける
積もりなんぞ、毛頭ないよ」
緊張し、身構える黎に対しスコーピオンは何とも暢気な口調で言うのだった。
「本気か?」
「本気も何も、やり合う気なら、のんびり声を掛けたりしないさ。ああ、それ
とな」
「何だ?」
「俺をスコーピオンと呼ぶな。ありゃあ雛子が勝手に付けた、アダ名だ。俺の
名はグラウドだ。よろしくな」
そう言ってグラウドと名のった男は右手を差し出して来る。気を許した訳で
はなかったが、条件反射でつい、黎も右手を差し出してしまう。グラウドがそ
の手を、強い力で握り返す。
「こんな所で立ち話も、ナンだな。兄さん、何処かで冷たいものでも奢ってく
れよ」
「えっ………ああ、そのくらいの金は持っている」
一度は自分の命を狙って来た、憎むべき敵である。本来ならここで馴れ合う
気になるのはおかしいし、馴れ合うべきではないのだろう。しかしあまりにも
気さくなグラウドの態度に、気を張り詰めるのも馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
少なくともこのグラウドと言う男は、奸計を用いるタイプではなさそうだ。
何か相手の情報を得られれば儲けものと、黎はグラウドの提案を受け入れる
ことにした。
大通りに接した路地を少し入った喫茶店。窓に面した二人用の席がタイミン
グよく空いた。そこに腰を下ろした二人は、注文を先客の後片付けに来たウエ
イトレスに告げる。程なくして運ばれて来た飲み物がそれぞれの前に置かれる。
黎はアイスコーヒー、グラウドはクリームソーダ。
アイスコーヒーにミルクを垂らしながら、黎は横目で脇に置いた竹刀の包み
を確認する。ブックスに対し、そんなものが何の役にも立たないのはリアード
戦で経験済みだ。だが万一の場合、何もないよりはいいだろう。気休め程度に
はなる。
グラウドはソーダに浮かぶアイスを、柄の長いスプーンで一旦底に沈める。
そして浮かび上がって来たところをスプーンで掬い、口に運ぶ。
「こうしてな、解け掛かったアイスが、また美味いんだ」
とても戦士とは思い難い発言であった。鳴瀬で自分を襲って来たのが本当に
この男であったのか、黎は自信を失ってしまう。
「なあ、お前のリーダーはいないのか?」
「ん、雛子か」
スプーンを口に入れた状態のまま、グラウドは答える。やはりどうしても、
奇妙な長柄の武器を扱う戦士と、目の前の男とが一致しなくなってしまう。
しかし男の戦士としてではない一面はともかく、情報を一つ得られた。先刻、
通りで出会ったときにも聞いた、雛子という名前。鳴瀬でグラウドと一緒に居
たリーダーの女の名前に違いない。名前を知ったからと言って、すぐに黎の立
場が目に見えて優位になるものではないだろう。それでも知らないで居るより、
幾らもいい。今後、どんな情報が己の命を守るか分からない。それを考えれば、
クリームソーダ一杯の料金など、安いものである。
「あれは音楽の演奏会だそうだ。ライブ、って言うのか? 俺にはあいつの音
楽は、よく分からん。頭が痛くなるだけでな」
そう言って、グラウドは苦笑して見せた。
「だがまあ、お陰で他のブックス探しは休み。こうして俺も自由時間をもらえ
た訳だ」
もう一つ、得られた情報がある。
こうやってブックスであるグラウドに自由な時間を与えてやれる。つまりそ
れは雛子と言う女は紫音同様に、少なくとも黎よりも遥かにリーダーとして熟
練しているのだ。
もし黎がリーダーとしての力を付ければ、リルルカやミルルカも今時の女の
子のような恰好をして、街を闊歩するのだろうか。黎は無愛想な二人の少女が、
楽しげにはしゃぐ姿を想像する。
「お前、今日のことを雛子とやらに、報告するのか?」
「はあ? 何で? 兄さんは報告して欲しいのか?」
「いや、そうじゃないが………」
このグラウドと言う男には、女に対しての忠誠心がないのだろうか。紫音と
リアードの関係を見ていると、単にブックスはリーダーに従わなければならな
いと言う決まり、封印のためだけではないよう見える。その在り方は、リーダ
ーとブックスによって、様々なのかも知れない。
「第一、兄さんと街で出会って、仲良くお茶を飲んでたなんて話したら、俺は
雛子に相当悪態を吐かれるだろう」
さすがにその辺りのことは、グラウドも承知していたようだ。命を狙った者
と狙われたものが、こうして向かい合いアイスコーヒーを飲みながら傍目に見
て楽しそうに話している。実に異様な状況にあることを。
「ああ、ついでだ。一つ忠告してやるよ」
「ん?」
「雛子は鳴瀬の一件以来、ずっと兄さんのことを探しているぜ。あいつには、
必要ないといわれたらしいがな。気を付けたほうがいい。」
「なっ! まさかお前、それで俺に近づいて来たのか」
男の気さくさに、つい緊張も薄れていたが、やはり所詮は敵であると言うこ
とか。
慌てる黎に、グラウドは溜息を以って答える。
「そのつもりなら、出会った時点でケリを着けてるって。俺はな、相手を騙す
とか、そう言うのは苦手だし、好きでもない」
男の言うことは、もっともである。そう判断した黎は、竹刀の包みに伸ばし
かけていた手を戻す。
「その、あいつって、誰のことだ?」
「んあ、ああ………そうだなあ、いくらなんでも、俺もこっちの情報を喋り過
ぎてるかな」
何を今更とも思える発言であったが、間違った言葉でもない。しかしこちら
を向いたグラウドであったが、その目が自分を見ていないことに黎は気づいた。
男の視線を追って、振り返る。
他の客に運ぶところであろう。ウエイトレスの持つトレイ。どうやらそこに
載せられたものへと、グラウドの関心は寄せられているらしい。
「い、いや、アレはナンなのかなと思ってな」
黎に気づかれたと知った男は、柄にもなく少し恥ずかしそうにする。
「食べてみるか?」
「え、あっ。いいのか?」
「ああ、チョコレートパフェくらいなら」
「いや、ナンか催促したみたいで、悪いなあ」
そう言いながらも、大の男が嬉しそうに笑うのだった。
黎との接触により、少なくとも一組、敵と成り得るブックスとリーダーの存
在が知れた。自分の存在を知られた場合、相手がどう出るのかは不明だが、こ
ちらもそれなりに準備をしておくのが懸命であろう。出来れば当面、そちらへ
と集中したいとも思う。しかしいまそれを言ってしまえば、我儘にしかならな
い。そもそもは竹村の家を出るためとは言え、歌手デビューすることを承知し
たのだ。そのために動いてくれている大人たちが居る。紫音は余程の無茶でも
言われない限り、亀田社長に従う義務がある。
紫音はいま、撮影スタジオに居た。テレビドラマ出演のためである。
ドラマ出演とは言うものの、ちゃんとした役が付いた訳ではない。全く実績
のない紫音にいきなり役が付くほど甘い世界ではないのだろう。紫音の役どこ
ろはファーストフード店の店員。ほぼエキストラ・クラスであった。「ほぼ」
としたのは、曲がりなりにも台詞があったためである。
「いらっしゃいませ」
テーブルを拭きながら、店に入って来た主人公に声を掛ける。ただそれだけ
である。時間にしてせいぜい二秒程度だろうか。
大した役でもないと思う紫音だったが、亀田社長に言わせれば大抜擢なのだ
そうだ。
元々、歌手になることを約束して亀田社長を訪れた紫音である。ドラマ出演
など考えてもいなかったし、正直興味もなかった。しかし今後どこで誰の世話
になるとも分からない。テレビスタッフと顔を繋いでおいて損はないと、亀田
社長に勧められ、受けた仕事だった。
何よりこの出演を得るため、おそらく社長は各所に頼みまわったに違いない。
その苦労を思えば無碍に断ることも出来ない。
スタジオの隅、忙しなく動き回るスタッフの邪魔にならぬよう、紫音は立っ
ていた。自分の出演シーンの撮影までは、まだ時間が掛かりそうだ。
「亀田さん、亀田さあん」
社長の名を呼びながら、こちらのほうへ歩いて来る男が居た。多分、スタッ
フの一人であろう。
「あっ、亀田社長なら、いまちょっと外へ出ています」
男に向かって、紫音は声を掛けた。
マネージャーの代わりとして紫音に同行していたのが、亀田社長だったので
ある。と言うより他に人手がないらしい。現在の所、紫音専属にマネージャー
として付けられる人材が、亀田社長の会社にはないのだ。
「ああ、そう。じゃあ戻ってきたら、杉浦が話をしたがっているって、伝えて
もらえるかな?」
「はい、分かりました。杉浦さんですね」
「ん、そう。じゃ、頼むよ」
そう言って立ち去ろうとした男だったが、途中で足を止める。
「えっと、君、誰?」
「あ、はい。私、亀田社長のところで、今度歌手デビューする予定の、久遠紫
音といいます」
「へぇ、亀田さんとこ、やっと女の子を入れたんだ。ふーん、へえっ」
何かに驚いたように、そして感心したように、男は腕を組み何度も頷く。
「あの、何か?」
「いや、何ね。知ってる? 亀田さんて元は大プロダクションの重役だったっ
て」
「いえ、初めて聞きました」
これには紫音も、少しだけ驚いた。年齢的には、そんな経歴があってもおか
しくはないだろう。ただ遥か目下の紫音に対してまでも腰の低い亀田社長に、
大会社の重役と言うイメージが何処かそぐわなく思えたのだった。
「亀田さんってほら、あんまり偉ぶったところがないでしょ? 当時ペーペー
だった俺なんかにも気軽に声、掛けてくれてさ。食えなかった時期、何度か飯、
奢って貰ったこともあったっけ」
「そうなんですか」
「そう、そんな人だからね。自分の手で新しい歌手を一から育ててみたい、っ
て独立してからも、俺みたいのが皆、協力してやりたいと思った訳よ。けど如
何せん………あの人、仕事は出来るんだけど、イマイチセンスがねぇ。それで
未だ、夢を叶えられないでいるんだよ」
それならば、紫音もそのイマイチなセンスに見出されたと言うことか。どう
やらこれから先、歌手としての未来は期待出来そうにないと感じる紫音だった。
「ああ、でも君ならひょっとして。ルックスも悪くないし………どんな歌、歌
ってるの?」
「それがまだ、出来ていないんです」
「なんだ、残念」
男は少しおどけたように、肩を落として見せた。
「あの人のコネクションは相当だぜ。その気になれば、すぐに超大物の作詞作
曲が付くのになあ。使おうとしないから」
まるでそれが自分のことのように男は嘆息する
「よし、俺から亀田さんに言っておこう」
「あっ、でもそれじゃあ………」
「君のためじゃない、俺もほら、亀田さんには恩があるし」
そのときだった。
「本番、入ります!」
スタジオ中、響き渡る声でそう聞こえて来た。
「いけねっ、もう戻らないと」
急ぎ足で引き返そうとした男だったが、その足が再度止まる。
「あっ、俺深夜枠持ってるから、君の出演、考えておくよ」
そう言って、今度こそ本当に立ち去った。
若く見えた男だったが、どうやら立場のある人間だったようだ。
「こう言うことか」
残された紫音は独りごちる。
社長の、顔を繋いでおいて損はない、と言う意味が分かった気がする。
「私、女優にだけはなりたくないわぁ」
大きく息を吐きながら呟く。
現在時刻は午後六時半になろうとしていた。スタジオに入ったのが、午前七
時。わずか二秒の撮影のため、紫音は半日待機していることになる。
スタジオの外、廊下を暫く歩くとそれほど広くないロビーに出る。数台の自
販機に数脚のスチール椅子、ソファにテーブル、そしてスタンドの灰皿。ロビ
ーと言うより、談話室、休憩室と言ったほうがいいだろうか。
紫音は紙コップでの飲み物の自販機前に立ち、思案していた。
「さて、何を飲みましょうか?」
冷たいものを飲むつもりだったが、ここは冷房が効いて、寒いくらいであっ
た。温かいコーヒーか紅茶にしようか。しかし冷たいものを断念するのも惜し
い。
たかだか一杯の飲み物を選ぶに当たって、紫音は真剣に悩む。そして意を決
し、コインの投入口に手を伸ばす。
「あっ」
小さな、軽い悲鳴。
続いて、チャリン、チャリン、と小銭が床を叩く音。
自販機に投入するはずだったコインを、何かに手を弾かれて落としてしまっ
た。
落としたコインは百円玉が一枚。しかし響いた音は二つ。
「ごめんなさい」
「すみません」
謝意を表す言葉も二つ。
一つは紫音の口から発せられたものである。そしてもう一つは別の人物によ
るもの。
紫音が迷っていた間に、別の人物が飲み物を購入しようとした。そして購入
を決めた紫音と、コインを投入するタイミングが合ってしまったらしい。
紫音より早く、相手のほうが腰を屈めた。そして床に落ちた二枚のコインを
拾い、立ち上がる。
「はい、これ」
相手は拾った一枚を、紫音へと差し出す。
「あっ、ありがとう。ぼんやりしていて、ごめんなさいね」
差し出されたコインを受け取り、紫音は再度詫びの言葉を述べた。
「ううん、私のほうこそ。別に慌てる必要もないのにね」
このとき、紫音は初めて笑顔で応じる相手の顔を見た。
少女であった。
歳は紫音と変わりないよう、見える。
背格好も大差なさそうである。
そして何より―――
「うっ!」
「くくっ!」
二つの唇が、同時に音を漏らす。そして共に大笑。
「やだ、そんなに………ふふふっ」
「あははっ………笑うことじゃ、ないのにね」
二人の少女を笑わせたのは、互いの髪型であった。
別段、特別な形をしていたのではない。とりたてて、滑稽なものでもなかっ
た。
今日の紫音は、長い髪を後ろで束ねていた。ポニーテールと称される形であ
った。
そして一方の少女も、紫音と全く同じ髪型、ポニーテールに纏めていたので
ある。
この場に第三者の目があったとしたなら、二人の少女にとって何がそんなに
可笑しいのか、理解に苦しんだであろう。実際、当事者である少女たちも、笑
った理由を人に説明など出来ない。
俗に、「箸が転がっても」と表現される年頃。
ただ偶然些細なトラブルに見舞われた者同士が同じ髪型をしていた。それだ
けのことが、互いの琴線に触れてしまったのだ。
「あなた、名前は?」
「すず………風谷美羽。あなたは?」
「久遠紫音」
それから今度は順番に、それぞれが希望する飲み物を買い求める。そしてど
ちらが誘うともなしに、窓に近いソファへと、向かい合う形で腰掛けた。
「久遠さんは、お仕事で?」
「あっ、紫音って呼んで。うん、そう、ドラマで。って言っても、ちょい役だ
けどね」
「じゃ私も美羽って読んで。私と一緒ね」
「あなたもドラマ?」
少女たちは嬉しそうに、互いに差し出した掌を互いに叩き合う。
そもそも紫音は人見知りをしない性格であった。初対面の相手であっても、
短時間で親しくなれる特技を持つ。そうしたこともあったが、どうやらこの美
羽と言う少女と紫音との相性は元々悪くないようである。
美羽自身、気さくな性質を持ち合わせ、人と話すことを好むようである。互
いに会話は弾む。友だちのこと、家のこと、所属する事務所のことと、話は多
岐に及ぶ。紫音がそうであるように、相手の美羽もまた話し上手であり、聞き
上手でもあった。そのためについ、紫音はしなくてもいい話までしてしまう。
尤も少女たちの間に、必要のある会話など存在しない。もし後に、誰かから
会話の内容を尋ねられても、その説明には窮したであろう。記憶に残るのかさ
え、甚だ怪しい。
しかしドラマの出番待ちで、ひたすら長く退屈な時間を過ごしていた紫音に
とって、それは今日唯一にして最大の楽しいひと時であった。
「あーっ、こんなところにいた!」
絶叫にも近い声に、会話は中断されてしまう。見れば廊下に、スーツ姿の若
い男が立っていた。
紫音には覚えのない男の視線は、美羽に向いている。彼女の関係者らしい。
「美羽ちゃん、そろそろ出番」
「えっ、もう、ですか」
男の言葉に、少女は慌てて立ち上がる。
「ごめんなさい、紫音さん。私、行かなくちゃいけないみたい」
「あ、うん。こちらこそ、引き止めちゃったみたいでごめんなさい。お話出来
て、楽しかったわ」
「私こそ」
少女は満面の笑みで紫音に応じる。
それから自分の飲んでいた紙コップをクズ籠に入れると、紫音に手を振る。
そして小走りに、マネージャーらしき男と立ち去って行った。
こうして楽しいひと時は終わりを迎えた。立ち去る少女の背に寂しさを感じ
る紫音だったが、ふとその顔に笑みが浮かんだ。
「この世界に居る限り、いずれ彼女とはまた会えるわよね」
それから程なくして亀田社長が現れ、紫音の出番を告げた。
協力:寺嶋公香氏
※本エピソードの制作には寺嶋公香氏にご協力を頂きました。この場をお借り
し御礼申し上げます(悠木)
【To be continues.】
───Next story ■五人目■───