#536/1159 ●連載
★タイトル (AZA ) 07/05/18 20:09 (405)
気まぐれ月光 9(終) 永山
★内容
「切り裂かれていたエアテントの柱って、風船みたいな素材なのかな?」
「風船て、ゴム風船? なら、材質は全く逆と云える。とても丈夫だそうだよ。
伸縮性が高く、短時間で膨らませ、同じく短時間で縮めることができんだって」
「みつるっち〜。要するに、刃物で切り裂いたら、一気に小さくなるのかって
ことが知りたいんだ」
「ああ、それなら……その通り」
どうやら一ノ瀬もトリックに察しが付いている。僕はそれが分かったから、
応えるのを渋ってしまった。
「もう一つ。柱ってのは、独立してるっしょ? その膨らましたときのサイズ
は、遺体が見付かった建物の内部に、ぴったり収まるぐらいで」
「そうだよ」
「じゃ、これで合っているのかも。少なくとも、これが一つの解答であること
は間違いなし!」
「ぜひ、聞きたい。実は、十文字先輩から一つの答を教えて貰ってるんだ」
「答え合わせだね。犯人は前もって、現場の床に、膨らませていない状態のエ
アテントの柱を、平べったく敷いておいた。ビニールシートにでも見えるよう
に。あ、空気の吹き込み口を、部屋の左奥にある楕円の穴から通し、外に出し
ておくことが肝心。
それから被害者を理由を付けて呼び出し、中で鍵を掛けて待つよう指示を出
す。そして、お酒か、じゃなきゃ睡眠薬入りの飲食物でも与えておいたのかな。
とりあえず、お酒ってことにして――被害者は待つ間、お酒をずっと飲んでい
て、その内、深い眠りに落ちる。
犯人はそれを見計らい、送風機を稼働、空気をエアテントに送り込む。電気
は敷地内のラインが生きていたならそこから引っ張ればいいし、なければ発電
機を持ち込めば済む話。エアテントの柱は瞬く間に――といっても二、三十分
ぐらい掛かるのかな? とにかく、めいっぱい膨らんだところで送風ストップ。
この時点で、被害者は地面から高さ十メートル以上に押し上げられている。目
覚めればまだ助かったかもしれないけれど、実際は人事不省のままだったんだ
ろうね。犯人は令の楕円の穴から刃物を差し込み、エアテントの下部を一気に
切り裂いた! 近所の人が耳にした破裂音は、このときのものだね。足場を不
意に外された格好の被害者は、自由落下に近い形で建物の床に叩き付けられ、
命を落とした」
お見事。図を使って説明できない分、十文字先輩よりも時間を要したが、最
終的な答案は全く一緒である。そのことを伝えると、一ノ瀬は「わーい!」と
小さな子供みたいに喜んだ。
「これで一安心だねっ。超常現象的な謎じゃないと分かった」
「ま、まあ、そうだな」
「四谷さんや二階堂さんには、教えてあげたの? 犯人はまだ不明でも、密室
が解けたというだけで、だいぶ安心できるんじゃないかな」
「さほど恐がっている風には見えなかったぞ、彼女達」
「ノンノン! それだからだめなんだ、みつるっちは。女の子の心理を理解し
ようと努力しないと、剣豪を振り向かせるのも夢のまた夢だよ〜」
また始まった。一ノ瀬に云われる筋合いではないとつくづく思うのだが。だ
いたし、音無に気があるのに、一ノ瀬や四谷、二階堂といった他の女子大勢と
親しくする方が、よっぽどマイナスじゃないのか。
それにだ。教えようにも、彼女達の電話番号を僕は知らない。知っているの
は、十文字先輩だ。そう主張すると、一ノ瀬はさも当然のように、
「じゃ、直接訪ねて教えてあげればいい」
とのたまう始末。住所を調べろというのか。週明けの月曜以降でいいだろう。
適当に受け流し、話題転換に努める。
「暇があったら、メイさんにも聞いてみてよ。これだけのデータで、密室トリ
ックが解けるか」
「覚えてたら、そうしてあげよう、うん。それにしても、やけに気にするじゃ
ないか〜、メイねえさんのこと」
「一ノ瀬の親戚なら、当然、頭脳明晰なのかと思ってさ」
「ミーから云えるのは、メイねえさんは頭の回転は早いし、雑学の豊富さ、勘
のよさもずば抜けてるよん。だから、一瞬で解くかもね。十文字先輩が論理型
だとしたら、メイねえさんは直感型。だからって訳でもないんだろうけど、メ
イねえさん、コンピュータは全然だめ。ネットするぐらい」
一ノ瀬と比べたら、たいていの人は“だめ”ってことになりそう。
「ある意味、当然なのかもしれないと思えるんだよね。コンピュータに直感を
持たせるのは、ただ持たせるだけなら簡単簡単。でも人の直感みたいに得体の
知れない有効な閃きを付与させるのが、ひっじょーに難しい。人の閃き自体、
仕組みがよく分からないんだから、システムを作って移植する訳にいかない。
経験から学習させる手法があるけれど、これも成功と失敗、それぞれの経験を
渾然一体に学んで、初めて閃きに役立つんじゃないかなと。けれど、成功にも
失敗にも色んな段階があって、しかも単純に点数で評価できないから厄介なん
だ。極ノーマルな正解を出した成功よりも、惜しいところで間違えたけれどユ
ニークな発想をした失敗を高く評価してこそ、直感力が育つ――」
いつの間にやら、一ノ瀬の専門分野の話になっていた。僕は会話を切り上げ
るタイミングを計って、ただただ言葉の洪水に耳を傾けた。
外靴に履き替えるとき、床がきゅっと鳴った。二階堂は校舎を出、すっかり
暮れた空の下、校門を目指した。夜風が吹いている。
新しくできた友達に付き合ったり、名探偵を志す先輩に協力したりと、先週
は時間の多くをいつもと異なる使い方をした。悪くはない使い方であったが、
習慣化していた練習時間を削ったことで、どことはなしに落ち着かない。
今週はこれまでのペースに戻して……否、多少、増やしてみよう。
二階堂は心に決め、故に、月曜はひとまず、あらゆる誘いを断った。以前な
ら、平気で――というよりもそんなことすら考えずに、瞬時に拒否できていた
のが、ほんのちょっと、断りづらくなったという変化はあった。
これが今回限りなのか、ずっと続くのかは、二階堂本人にも分からない。
レッスンを受けている自分が、音を奏でる自分が本来の二階堂早苗なのだと
いう実感も、間違いなくある。充実の度合いを比べれば、後者が圧倒的に高い。
それが現状。
(ついていません)
校門を出た二階堂は、外灯の下、時刻を確認した。
(遅くなった日に限って、迎えに来られないなんて)
呟くでもなく、ため息をつき、歩を進める。月は出ているが、全体的に暗い
のは否めない。
程なくして大通りの明かりが見えて来る。そこから漂う賑わいに、鬱陶しさ
と安堵感を覚えつつ、急ぎ足になりかける。その直後――。
「やっとお帰りか。二階堂早苗」
斜め後ろからの男の声に、二階堂は足を止めた。待ち構えていたらしい男の
声には、聞き覚えがあった。およそ一年前の記憶だ。二階堂は身体ごと振り返
り、記憶の確認作業を行った。
「――矢張り、あなたでしたか」
「覚えてくれたとは、光栄の至り」
男の名は照井和己。私立K文化音大付属中学で同学年だった。彼はピアノ、
二階堂はバイオリンが専門であり、親しく話したことはない。その上、三年生
時の特待留学生を決める選考を巡り、間接的に反目した仲ですらある。
「その目、少しは驚いてくれているようだ」
中学時代の堅物のイメージは薄まり、髪を伸ばして遊び慣れた雰囲気に変化
していた。身に着けた私服はブランド物で固めている。ぼんぼんが背伸びした
感は拭えないものの、あと少し痩せれば異性の目に留まるようになるかもしれ
ない。
「わたくしの人生に、照井和己が再び登場するとは想像もしていません。その
意味で、驚いたと云えます」
それだけ答え、去ろうとした二階堂を、照井は止めた。
「待てよ」
「最前の話をよく聞いていなかった? あなたが再び登場するとは想像してい
ません、と現在形にした意味が分からないほど愚か者ではないはず」
「今、こうしてあったのが偶然だとでも? こっちは、二階堂が出て来るのを
待っていたんだ。ずっとな」
「わたくしは関心ありません。せめて、明日以降、出直してちょうだい」
「君には残念だが、これは命令なんだよ」
舌打ち混じりに低く告げたかと思うと、照井は懐から煌めく何かを取り出し
た。意外と器用な手さばきで、その何かを開く。二つ折りにされていたナイフ
が、今やいつでも使用可能になっていた。
「大声を上げて人を呼んでも無駄だと、予め警告しておこう。捕まろうと、確
実に傷を負わせてやる。天才バイオリニストが、手の腱をやられたくはあるま
い」
「……」
非常にまずい状況と察した。照井は捨て身のつもりで、姿を現したらしい。
せめて、声を掛けられた当初の、相手に背を向けた姿勢であったなら、無傷で
逃げ切れるかもしれないが、この至近距離で向き合っていては、きびすを返す
そのワンアクションが、致命的ミスにつながる恐れありだ。
「仕方ないですわね。話を聞くしましょう」
平静を装い、抑えた調子で云った二階堂。相手の目的を知りたい。
照井は刃物をちらつかせながら、二階堂の腕を掴み、より暗がりへと引っ張
っていった。やがて、小さな神社の前まで来た。現在の置かれた立場もあるか
もしれないが、恐いほど静かだ。学校の近くにこんな場所があることを、二階
堂は把握していなかった。
「ここでならゆっくり話ができる。座れよ」
ナイフの刃先が、神社の階段を示す。二階堂は躊躇ったが、従った。立ち上
がりやすい高さの段に、腰を下ろす。照井は立ったまま、二階堂から視線を外
すことなく話を続ける。
「プロに頼んだのに、どうしてこんなことになったか、理解に苦しむよ。うま
く行けば、すぐさま君に容疑が掛けられ、噂になっていたはずなのに」
「……何の話をしているのか、皆目分かりません。分かるように」
「知りたければ、黙って聞くことだ。どうせ、長くはないのだから」
長くはないとは、何のことなのか。そちらの方が気に掛かる。しかし、今は
ただ大人しく聞く外あるまい
「遊園地の建設予定地だった場所で、殺人があっただろ。あれは僕が依頼した
プロの仕業なんだよ」
突然の告白に、息を飲む二階堂。中学時の知り合いが関与していた意外さも
さりながら、そのことを明かされた意味を考えると、恐ろしさが一気にこみ上
げる。捨て身の相手が、最終的にこちらをどうするつもりなのか……嫌な想像
が膨らむ。
「殺しにしてくれなんて注文はしていない。七日市学園の二階堂早苗が窮地に
陥り、いられなくなるような状況を作り上げてほしいと頼んだだけなのに。連
中は、他から受けた殺しの依頼も同時に片付けたらしい。まったく、冷や汗も
のだよ。それでうまく行ったなら、僕もまだ喜べるんだが、現実はどうだ?
全然、君に捜査の手が伸びやしない。依頼した相手に、恐々ながら、話が違う
と抗議したよ。そうしたら、僕の用意した物証が吹き飛んでしまったらしいと
いう返事だったから、呆れたね」
「物証?」
思わず、聞き返す。聞き返してから、はっと口を押さえた二階堂。幸い、照
井は気にしなかった。
「君に関係する物だ。濡れ衣を着せるために、写真や自筆のスコアを用意して、
連中に渡しておいた。死体のそばで発見されるはずだったのに、手違いで吹き
飛んだようだとかどうとか……僕にはさっぱり理解できなかった。逆に連中か
ら脅されるんじゃないかと思えてきて、こっちからは接触しないと決めた」
冷笑する照井。似合っていないが、薄気味悪さはアップした。
「しょうがないから、自分で動かざるを得なくなった。最初は、一週間ぐらい
経った頃に、君を現場近くで目撃したといって名乗り出ようと考えていたんだ
が、今日のニュースで、密室の謎が解けたようなことを報道していたので、慌
てたよ。全面解決も近いんじゃないか?とね。そうなる前に、君を始末せねば」
「……」
「当初の狙いと違ってくるけど、同じ現場で襲われて死んだとなれば、何やか
やと噂が立つだろう。君の名声は地に落ちる」
このあと、現場まで連れて行き、殺そうということらしい。予期した中でも
最悪の方向が見えた。二階堂はともかくも時間稼ぎに取り掛かる。
「そのような手の込んだ真似をしなくとも、わたくしの悪い噂を立てるぐらい、
容易いでしょうに。何故、そうまでして……」
「そんな質問をするのか、君は!」
照井は鋭い批判調で云った。
「中三のときのこと(拙作『金差の勝利』参照)、忘れたとは云わせない。僕
ら一家は、あの事件に直接関与したと見なされて、以来、散々だ。僕は君を、
僕が味わったのと同じ目に遭わせてやる。そうでなきゃ気が済まない」
音量こそ低いが、激しく主張した照井。ナイフも激しく振られる。
が、次に一転して、穏やかな物腰になった。
「犯罪を引き受けるプロと知り合えたのは、落ちぶれたおかげもあったんだか
ら、皮肉なもんだねえ。で、あろうことか、プロが手違いを起こして、計画を
大幅に変える羽目になった訳だよ。ま、君の命をこの手で終わらせられるとい
うのも、悪くはない気分だ。隠しおおせるかどうか、まだ自信はないがね。い
ざとなれば、捕まってもかまわないと思っているし……どうでもいい」
「でも、事実、寄付の名目で不正に――」
「うるさい!」
照井は一喝し、反論を封じると、呼吸を整えた。乱れが収まった後、鬱積し
た感情を静かにぶち撒け始めた。
「だいたい、最初から気に入らなかったんだよ、君のことは。専門が異なると
いえど、才能を羨んだのは認める。ああ、認めるさ。だが、決定的に嫌いにな
ったのは、二年のときのことに原因がある。君は先輩の申し入れを拒絶し、願
いを踏みにじった」
「――卒業演奏の」
「そうだ。優秀な成績を収め、海外留学の決まっていたヒカル先輩の門出を、
君は祝福しようとしなかった。侮辱だ」
「それは違う」
「違わないっ。君が応じなかったせいで、先輩はあんな気まぐれな『月光』を
演奏したんだよ。最後に聴けたヒカル先輩の演奏が、あんな……くそっ」
当時の思い出や、刻まれた嫌な感覚が鮮烈に蘇ったらしい。照井の目が尋常
でない具合に見開かれている。明るければ、血走った眼球が観察できたに違い
ない。
「だめだな。これ以上喋っていると、興奮して喚いてしまう」
照井はナイフを持っていない方の手で、二階堂の手首を掴もうとした。身を
石の階段に押し付けるようにして抵抗すると、照井は右手のナイフをちらちら
と光らせた。
「立つんだ。余計な傷を付けられたいのか? ここで死にたいのか?」
左手が迫る。
一か八か、叫ぼうか。タイミングはいつが最適なのだろう……。時間の流れ
が遅くなったように錯覚する。
それでも左手は確実に迫っていた。
と、そのとき、影が差した。人の形が浮かび上がる。
「貴様、何をしている」
いつの間に近付いたのだろう。凜とした声の主は、照井が向き直ると同時に、
何か長細い得物を振るった。先端が素早く、鋭く動いて、照井の右手首に命中
する。
照井は呻き声を漏らし、ナイフを真下に取り落とした。拾おうとしないのは、
手首の痛みがよほど激しいのか。左手で押さえ、苦しそうに呼吸する。
「な、何をする、いきなり……」
「この暗がりで、子女と二人きりで話すのに、刃物は必要あるまい」
声の主の横顔が、二階堂からもはっきりと認識できた。ポニーテールの女だ。
それも七日市学園の生徒。彼女の手には専用の袋に入った竹刀があった。女性
剣士を連想させる佇まいからは、びりびりと気が発散されているかのよう。今
も構えを解いていない。
「話をまだ続けるつもりであれば、立ち会わせて貰うとしよう」
一方的に宣言した女生徒に、一瞬、呆気に取られた様子の照井。だが、次に
は喚き散らしていた。
「ふ、ふ、巫山戯るな! これは僕と彼女との問題だ。事情を知らない奴が、
口を挟むことじゃあない」
「ほお。ならば、事情とやらを聞かせてほしい。その上で立ち会うとする」
「だから――分からない女だな」
懐に手を入れた照井。別の武器を用意している、と二階堂は察知し、声を上
げようとした。だが、それよりも早く、相手は警棒を取り出し、構えていた。
ワンタッチで伸びるタイプらしく、正規の物でないことは記すまでもない。
「竹刀なんて、恐くも何ともないんだ。さっきやられたのは、不意打ちだった
せいだからな」
「竹刀? そんな物、どこにある」
「え? ど、どこにって、その……」
再び呆気に取られた照井が、どもりながら指差す。
女生徒は自らの手元をちらとも見ずに、落ち着き払った声で応じる。
「これか。これは竹刀にあらず、真剣だ。その名も――月光丸」
「何だって? 莫迦な。そんな物、持ち歩いていいはずが……」
「許可は得ている。知らぬか? そこの学園で殺人事件が起きたことを」
「そ、それなら知っているが、それがどうした」
「この月光丸が凶器に使われてな。今まで、警察に提出したままだったのが、
本日、学園を通して返却となった。我が家の家宝を持ち帰るところだ。人目に
付くのは好ましくないため、このように竹刀に模して覆い隠しているがな」
「う、嘘だ」
「ならば、その身をもって試すか? 最前、手首に受けた痛み、忘れた訳では
あるまい。女の細腕で重みのある一撃を打てたのは、実はこれが妖刀であるか
らだ。妖刀故に、一旦、鞘から抜けば血を欲する。貴様が贄となるというので
あれば、これも喜ぶ。ほら、聞こえよう。鍔の鳴る音が」
一定の距離を保ったまま、剣の鍔の辺りを持って、つい、と掲げる。気のせ
いか、かたかたかたかた……という音が聞こえてきたような。
「――うわあぁっ」
突然、警棒を振りかぶって躍りかかる照井。
女性剣士の反応は早かった。
抜かずの剣を一閃。鮮やかな一太刀を敵のうなじに食らわせた。照井は崩れ
落ちた。薄暗い中、目を懲らすと、昏倒した様がはっきりと知れた。
「愚かな」
ポニーテールの女生徒は、手にした剣を目で撫でるように調べ、問題のない
ことを確認できたか、元の構えに戻した。
「かような戯れ言を真に受け、取り乱した挙げ句に飛び掛かって来るとは」
「……矢張り、単なる竹刀でしたの?」
礼を述べるよりも、相手の名を尋ねるよりも先に、思わず聞いた。
相手の女生徒は二階堂に微かな笑みを向け、手を差し出しながら答える。
「無論。このようなぞんざいな扱い、家宝にするはずがない。尤も、その家宝
とて妖刀などではないが。月光丸なる銘も、あれを見て咄嗟に思い付いた」
顎を振る動作につられ、二階堂が見上げた先には、この短い恐怖の一幕を照
らし続けた月があった。
「……あ、云い忘れていました。助けてくださって――ありがとう」
相手が同学年であることを校章の色で確かめてから、二階堂は礼を述べた。
火曜日の放課後、僕らはデューロに集まっていた。十文字先輩と一ノ瀬、音
無、二階堂、四谷。そして僕を含めた六人。
「大変な目に遭っていたんだ……」
話を聞いた僕の口からは、無意識の内にそんな感想が出ていた。いや、少し
は自覚しており、セーブを掛けたんだ。話を聞いて、音無って格好いい!と思
ったことを。
「学園長に報告した以外は、まだ内密にしておいてくれと警察から云われてい
るのですが」
二階堂が畏まった態度で締め括りに入る。
「十文字先輩は警察にお知り合いがいると聞いていますし、密室の謎を解かれ
たことでもありますから、お話ししました」
「でさあ、何で音無さんが正義の味方よろしく、駆け付けられたのかが分から
ないんだけど」
四谷が待ちかねたように割って入った。彼女自身は、二階堂のピンチに居合
わせることができなくて、相当に悔しがっていた。
「それは」
注目された音無は、十文字先輩の方を見やった。先輩は名探偵然とした気障
な手振りで、云ってくれていいよと合図を返す。
音無はこくりと頷き、口を開いた。
「十文字先輩に頼まれたので。『犯人が何らかの思い違いをし、二階堂さんと
四谷さんの二人を襲う可能性がないとは云えない。できる範囲でよいから、そ
れとなくガードしてやってほしい』と」
「へえ。先を読んだ訳だ。さすが、先輩。名探偵を自負するだけのことはあり
ますねー」
素直に感心する四谷。十文字先輩は首を横に振った。
「いやいや。誉められるようなことじゃない。まさか、今聞いたような背景が
あって、犯人が襲ってくるとは想像の埒外だった」
そこへ一ノ瀬が、新たな疑問を音無に向けて投げ掛ける。
「じゃあさ、昨日、どうして四谷さんじゃなく、二階堂さんの方を見守ってい
たのかにゃん? 二人同時に見守るのは、いかに剣豪でも無理っしょ」
「……。それは」
剣豪と呼ばれることへの抗議か、しばしの間を置いてから、音無は答える。
「四谷さんは昨日、明るい内に学園を出て、無事、帰途に就いたらしいことを
見届けた。あとは二階堂さんに集中するのは簡単なこと……と云いたいのだが、
実際は、自分も修練があったし、彼女がいつ帰るのか分からないため、目を離
さざるを得なかった。結果、出遅れて、二階堂さんには余計な思いをさせてし
まい、申し訳ない」
ポニーテールをゆっくりと揺らし、こうべを深く垂れる音無。お辞儀を向け
られた二階堂は、焦ったように「そんなことはなくてよ。何度も云わせないで
ほしいわ」と非常な早口で応じた。既にこのやり取りが、幾度となく繰り返さ
れたことを伺わせる。
「四谷君にも実害がなくて、ほっとしている。よかったよ」
十文字先輩が吐息混じりに云った。それが正直な感想なんだろう。密室トリ
ックの解明を五代先輩に伝え、そこから警察に話が行き、月曜の午前中にはニ
ュースになった。照井なる人物が実力行使に打って出るきっかけになったんだ
から、責任を感じているに違いない。
責任といえば、音無もそうかもしれない。この事件より前、学園内での殺人
事件で、彼女の家が学園に貸し出し、展示されていた刀が凶器に使われたと見
なされた。あのときからずっと、考えるところがあったのだと思う。それ故に、
十文字先輩に従ってボディガードを果たしたのだ。
「あとは実行犯の逮捕と、殺しの依頼者が別いるならば、そいつも捕まえる必
要がありますが、順調に行くでしょうか」
音無が不安げに表情を曇らせる。
受けて答える十文字先輩の口からは、気休めは出て来なかった。
「どうだろう。照井の逮捕からまだ一日と経過していないから、何とも云えな
いが、照井自身の口はそう堅くないかもしれない。最初は、プロの連中とやら
の報復を恐れて喋らなくても、いずれ白状すると踏んでいる。だが、プロの連
中とやらが、依頼者一人が口を割った程度で瓦解するような計画もしくは態勢
を組むものだろうか」
いきなり、脇腹に違和感を覚えて声を上げそうになった僕。何かと思いきや、
一ノ瀬が突っついている。何だよと目で問うと、「瓦解って?」と聞いてきた。
簡単に説明してやってから、再び先輩の話に耳を傾けた。
「用心し続けるべきだね。特に、四谷君と二階堂君は。かなり身近にまで現れ
ていたことは、ほぼ確実なんだから」
「え、どういうこと?」
名前の挙がった二人、殊に二階堂は実際に危ない目に遭遇したせいか、顔色
が変わる。全身が強張ったように見えた。
「照井の依頼を受けて、プロは二階堂君に接近したはずだ。声を掛けたかどう
かは別として、だよ。そして、四谷君に誘われ、君がマジカルワールドランド
建設予定地跡へ向かうことを掴むと、濡れ衣を着せるべく、殺しを速やかに決
行したと考えられる。あそこに行くことを口にしたのは、クレープ屋で二人が
話したときだけかい?」
「え、ええ……そうです」
二人が認めると、名探偵は満足げに首肯した。
「じゃあ、ほぼ決まりだな。二階堂君達をつけて、クレープ屋にいたんだ、一
人ないしは複数名の調査役が。そいつが実行犯を兼ねたかどうかは分からない
がね。調査役は目立ってはいけない。クレープ屋でその条件に適うとなると、
女性、それも若い女性である可能性が高まったと云える」
「……あの日、周りはそういう客ばっかだった気がする」
四谷が云った。思い出そうとして、早々にあきらめた体だ。二階堂にしても、
首を傾げるばかり。
「わたくしの記憶でも、同じような年頃の女子ばかりでした。わたくし達を窺
うような視線は感じませんでしたし……」
「いいんだ。君達は、これから身の回りで変事が起きないかを注意していれば
いい。プロの連中にしても手際に自信あるはずだから、今更、君達に危害を加
えることはないとは思う。ただ、気を付けなければ行けないのは、連中につな
がる何かを思い出したときだ。極秘裏に警察へ知らせるよう、細心の注意を払
う必要がある」
「……」
場の空気が緊張した。それを緩めるように、十文字先輩は頬を綻ばせる。
「ごめんごめん。脅かすつもりはないんだ。万が一を考慮しての話だから。用
心するに越したことはない、ぐらいに受け止めてくれたらいい」
これにて、事件関連の話題は終了。集まりもお開きとなった。
「わたくし、今日は母が迎えに来ることになっていますから、レッスンを早め
に切り上げねばなりません。ここで失礼をします」
「あ、じゃ、オレも」
立ち上がってお辞儀をした二階堂に続き、四谷も慌てて腰を上げた。戸口に
向かう二人の会話が、しばらく聞こえる。
「――ごたごた続きで、歌を聴いて貰えないでいたけど、いつならOK?」
「いつでも云ってきて」
二階堂の横顔が笑みに染まる。返事に表情を明るくした四谷に、バイオリン
の天才は「ただし」と続けた。
「新しくやりたいこともできたので、こちらの都合も聞いて貰う必要がありま
す」
「えー、何それ」
「わたくし、これまでに作曲はほとんど手掛けてきませんでしたけど、昨夜、
音無さんを目の当たりにして、初めて曲を作って、捧げてみたいと積極的に思
えたの」
な、何だって? 僕は思わず、音無へ振り返った。
彼女の耳にも会話は届いており、目を丸くする様がしかと見て取れた。
「おやおや。随分と気に入られたようだねえ」
愉快そうに十文字先輩。完全に、他人事として楽しんでいる。そうこうする
内に、二階堂と四谷の二人は、ドアの向こうに消えた。
「おお、さもアリナ○ン」
一ノ瀬も悪乗りした。って、商品名を使うのはなるべく控えてくれないか。
「剣豪は凛々しいもん。男女問わず、好かれるだろうから、必然的に競争相手
多くなるよね〜、うん」
云うに事欠いて、こいつは何を……。
音無は一ノ瀬の台詞をどう取ったのか、
「不本意ながら、同性から告白されたことは幾度となくある。しかし、曲を捧
げられるとしたら、初めての経験になる……」
なんてことを呟いている。
そうか。矢張り、そうなのか。音無にその気がないのが救いだけれど、それ
が即、こちらに望みがあるってことにはならない訳で。
「万が一、剣豪にその気が出て来たら、どうする、どぅする?」
一ノ瀬が耳打ちしてきた。ほんと、他人事だと思いやがって。
「早く行動に移した方がいいんじゃないかなー、みつるっち」
――『気まぐれ月光』終わり。『火のあるところ(仮題)』に続く