#383/1159 ●連載
★タイトル (AZA ) 05/02/08 20:36 (496)
週明けの殺人者 3 永山
★内容
事件に首を突っ込みたがっているのは、一ノ瀬や十文字先輩だけでなく、僕
自身もどうやらそうらしいと気が付いた。身を守るため、音無にいいところを
見せたいため、十文字先輩の仇討ち……と、あれこれ理由を用意できるが、行
き着くのは、解いてみたいのだということ。一ノ瀬がいみじくも云った通り、
滅多にできない体験を今しているのだ。このチャンスを逃せば二度とないだろ
う。小説を書く上で足しになるかもしれないし、事件を解けたら、自信を得ら
れそうな気がする。
だから次の休み時間、僕は行動を起こした。手始めに、昼から登校してきた
音無に接近し、探りを入れる。ちなみに一ノ瀬には、君が同席すると話がこじ
れると云い含め、今回ばかりは遠ざけることに成功した。
「学園長と両親同伴で、警察に事情を話していたんだ」
音無は僕に、妙な事態に巻き込んで済まないと詫びた(そんなの、しなくて
いいのに)あと、意外と簡単に話してくれた。
「刀が間違いなく我が家の物であると確認の後、刀を納めた経緯や同じ型の物
が存在するか否か、学園での保管体制、盗難が起きた際の処理、その他諸々の
点を訊ねられた。私は部室での発見時の様子について、再確認された」
「大変だったみたいだ」
「義務を果たしたまで。刀が辻斬り殺人事件の凶器と認定されたそうだから、
辻斬り殺人犯逮捕の端緒となるやもしれぬと、警察は色めき立っている。高校
生の私を平日にも拘わらず事情聴取したのも、それ故だろう」
音無の口ぶりでは、彼女自身が警察から疑われている訳ではないようだが、
彼女のことだから、疑われても全てを受け入れ、これも市民の義務だと耐えて
いる可能性だってある。僕がその点を訊ねると、果たせる哉、「よく分かった
な」と男勝りの口調で認めた。
「無理あるまい。辻斬り殺人の件は措くとしても、昨日の事件では疑われても
致し方ない立場に私はいる。顧問の万丈目先生と部員との間でトラブルがなか
ったか、散々聞かれた。ぼかして部員と表現していたが、あれは私一人に絞っ
ているのだと思う」
「実際のところ、どうだったの? 万丈目先生はよき顧問だった?」
「何もなかった。万丈目先生は特に剣道にお詳しい訳でなく、何年か前に請わ
れて顧問に就かれたと聞く。可もなく不可もなく、と私が云ってよいものかど
うか分からないが、少なくとも私は万丈目先生に感謝していた」
気丈な口調だったのが最後に来て、ほんの少し、崩れ掛けたような。声が裏
返りそうになったのが、僕にも分かった。だが、そのまま崩壊することはなく、
持ち堪えた。
「警察が剣道部全員を疑いの目で見るとしても、私は同じことを云う。誰も万
丈目先生を殺めはしない」
「ここ最近、万丈目先生に、何か変わった様子はなかったかい?」
音無は僕を見つめ返しながら、しばらく考えていた。やがて、意志の強さを
感じさせる唇が、ゆっくりと動いた。
「……いや、なかったと思う。今の問い掛けに何の意味が?」
僕は、万丈目先生が辻斬り殺人犯の正体に感づき、個人的に接近を試みたの
ではないかという説を披露した。
「――で、もしそうだとしたら、辻斬り殺人犯と一対一で対面する直前には、
当然、何らかの兆候が表れたんじゃないかと考えたんだけど、どうだろうか」
「私からの答は同じだ。なかった」
僕は時計を見た。次の授業まで一分あるかないか。まだまだ聞きたいことは
あるが、情報を得るための質問は切り上げ、十文字先輩が事件に興味を持ち、
その後、襲われた一件を伝えた。
「音無さんも注意した方がいいよ。いくら剣道の達人でも、不意を突かれたら」
「そうならないように鍛練を積んできたつもりだが、折角の忠告、気を付ける
こととしよう。むしろ、百田君こそ充分に用心してほしい」
その台詞には、五代先輩に云われたのと近いものがあった。女性ながら柔道
や剣道の達人の目には、僕はよほどひ弱に映るとみえる。さすがに音無は僕を
剣道部に誘いはしなかったが、代わりにこんなことを付け足した。
「お気の毒とは思うが、無礼を承知で云わせてもらうと、その十文字先輩は介
入しなくてよい領域に踏み込んだがために、しっぺ返しを受けたのではないか
と思う。警察に任せておけばいいものを」
暗に、僕を非難したのだろうか。確かめる余裕が今はない。僕は急ぎ、最後
の用件を持ち出した。
「それじゃあ、駄目かな。放課後、一緒に先輩のお見舞いに行こうと考えてい
たんだけどね」
すると、豈図らんや、音無は首をしっかりと縦に振った。
「勿論、同行する。私のしたことではなくても、源を辿れば我が家の刀が事件
を引き起こしたと云える。巻き込んでしまったお詫びをしなければいけない」
ちょうど、チャイムが授業の始まりを告げた。
十文字先輩の足首の怪我は、やはり捻挫だった。強く打たれた首筋の方に鈍
痛が残り、むしろこちらの方が重症だという。結局、母親の強い意向があって
大事を取り、一日入院に決まった。
入院先の総合病院に向かったのは、僕自身を含めて総勢四名にのぼった。他
の三人は、音無、五代先輩、そして七尾陽市朗学園長。音無と学園長とは、本
日二度目の顔合わせになるのかな。
一ノ瀬が着いて行くと云い出さなかったのは、幸いだった。事件への関心を
失った訳ではないだろうけど、元来、動きたがらない質だから(発作的に遠出
したくなる特徴も備えているようだが)、今は七日市学園か自宅でコンピュー
タを触っているはず。
五代先輩が同行するのは不思議と云えば不思議だが、十文字先輩と同じクラ
スで副委員長、更には父親が警察関係者だからと考えれば納得が行く。柔道の
練習を休んでまで見舞うのは、案外本気で心配しているのかな。
学園長が普段使う車が、僕らの移動手段だ。ハンドルを握る男は、七尾家お
抱えの運転手で、名前は知らないし、聞こうとも思わなかった。間近で見るの
も初めてだが、大卒一、二年目くらいだろうか。案外若い。顔の各パーツが若
干中央寄りに配されている他は、至って平凡な風貌である。帽子のおかげで個
性が消えているが、運転手としてはこれでいいのかもしれない。
「学園長が同行されるということは、学園長も二つの事件に関連があると考え
ているんですか」
この場を利して、僕は遠慮なく訊ねた。後部座席で間に音無を挟み反対側に
座る五代先輩が、いい顔をしないのが横目で捉えられた。
助手席の七尾学園長は、ゆっくりと頭を動かし、ルームミラーに視線を投げ
た。顎髭を撫でると、僕を咎めることなく、親しげな雰囲気を漂わせて答える。
「軽々に判断を下せる問題ではないが、あくまで一個人の直感でよいのなら、
関係していると私は思っておるよ。だからこそ、百田君や音無君を同行させた」
「下世話な話になりますが、記者会見をやるんでしょうか」
「いずれ、せねばならん。学園内だけに止まらず、世間の関心の高い事件とつ
ながっておるようだからな。七日市学園のセキュリティは磐石だと信じている。
辻斬り殺人の犯人が出入りできるはずがない。にも拘わらず、辻斬り殺人の凶
器が学園内で発見された。この厳然たる事実が公式発表された暁には……」
言葉が途切れた。云いたくないに違いない。学校の責任者という立場になく
とも、考えたくないケース。散々議論した僕には、容易に想像がつく。
「……辻斬り殺人犯は七日市学園の関係者であると、世間は見なす」
学園長は自身の脳裏に浮かんだ推測を、あたかも一般的な見方であるかのよ
うに換言することで、辛うじてプライドを保った。そんな風に映った。
「それに対して、学園長の沈黙は許されまい。ただ、生徒諸君に責はない。恐
らく報道の人間が多数押し寄せ、学園周辺を彷徨くことになるが、動じず、毅
然とした態度を保ってもらいたい。断るまでもないが、彼らの取材に応じるか
否かは、君達の自由。我々教師の側からは、賢明な振る舞いを求めるのみだ」
訓示的な台詞が出たのを機に、僕は質問攻勢を休止した。これ以上根ほり葉
ほり聞くのは、それこそ賢明でないと思う。口をつぐむ代わりに、少し推理を
重ねてみる。
事件のキーポイントは恐らく、凶器の持ち出し及び持ち込み方法だろう。
僕は事件後、展示のガラスケースを見た。警報装置の類は設置されていない
ようだったから、あそこから盗むのなら、鍵を使って開けるか、ガラスを破れ
ば事足りる。車を待つ間に音無に訊ねたところ、ガラスの損傷はあったという。
厳密さを求めれば、これで直ちにケースの鍵を扱えない者の犯行と断じること
はできない。鍵で錠を開けて刀を盗み、施錠した後、ガラスを破壊したという
偽装工作もなかったとは云い切れないからだ。
鍵は三つあり、学園長と教頭が一つずつ所有、あとの一つは職員室奥にある
各教室の鍵を掛けるボードにあった。鍵が行方不明になったことはないらしい
が、見咎められずに持ち出し、返しておくのは不可能ではあるまい。
凶器の普段の隠し場所は、やはり竹刀の中が有力であろう。竹刀に隠して校
外に持ち出し、犯行を重ね、再び竹刀に隠して校内に持ち込み、今度の事件で
最後の血を吸ったのではないか。そしてもし本当に、万丈目先生が辻斬り犯を
見つけ、そいつを呼び出した挙げ句に逆襲されたのだとすれば、犯人は常に刀
を携帯していたのかもしれない。刀を竹刀に隠していたのなら、犯人は校内で
竹刀を持ち歩いていても不自然でない者だ。
よって、竹刀に関する犯人の条件をまとめると、
1.校内で竹刀を常時携帯している
2.校内に竹刀を頻繁に持ち込める
3.校外へ竹刀を頻繁に持ち出せる
となる。
竹刀といえば真っ先に剣道部をイメージするが、部員達は全員竹刀を部室に
置いており、いちいち家に持ち帰りはしないという。たとえば家で素振りをし
たいときは、家にあるもう一本を使うらしい。剣道部員が犯人だなんて、音無
が悲しむ結末だし、これはないことにしておく。
他に、竹刀を持って学校に出入りする……格技の授業で剣道を選択した男子
生徒が思い浮かんだ。だが、彼らは常時携帯している訳ではない。万丈目先生
に呼び出されたとき、たまたま凶器入り竹刀を携帯していた可能性もあるから、
完全には除外できないが。
それよりも僕が本命と考えたのは、普段から竹刀を持ち歩き、トレードマー
クにしている先生の存在だ。週明けの鬼こと鬼面万次郎(まんじろう)、数学
教師である(ちなみに、体育教師に竹刀を持ち歩くような人はいない。鬼面先
生にしても生徒に体罰を与えるために使う訳でなく、単なる差し棒代わりに過
ぎない)。
鬼面先生が犯人……信じがたい構図だ。辻斬りをやるような悪人に見えない。
小テストで難問奇問を出して喜ぶ様からして、どちらかと云えば、研究者タイ
プに近いのではないかと思う。無差別殺人なんて無意味で割の合わない行為を
行う柄じゃない。
「百田君、何をぐずぐずしている? 到着だ」
音無の声で我に返る。僕の両隣は既に空席。女子生徒二人はとっくに降りて
いた。学生鞄を音無は座席に置いたままにし、先輩は持って出ていた。
「事件の解明をまだ考えてたでしょう?」
遅れて降りた僕に、五代先輩が鞄を振りつつ、非難がましい口調で話し掛け
てきた。図星だけに顔を背けてしまう。
それ以上の会話がないまま、病棟に入る。大型の総合病院で、受付のあるロ
ビーもやたらと広い。学園長が素通りしたので、僕らも着いて行く。部屋番号
は既に承知しているらしい。
棟を移り、エレベーターを使い、都合五分余り掛けてその病室に着いた。個
室だった。
学園長がノックをしてから名乗って用件を告げると、ドアが開き、病院内に
しては派手な洋服を着た女性が現れた。美人だから許される、ぎりぎりのライ
ンといったところかな。
想像した通り、十文字先輩の母親だった。学園長に対しては厳しい目を向け
たが、僕ら生徒にはにこやかな笑みを浮かべて、挨拶を返してくれる。
「それで十文字君の具合はいかがなんでしょうか?」
五代先輩が聞く。極めて事務的な口調だと僕には思えたが、これは多分、母
親を前にしているからだろう。
「あなた達が来てくれて、ちょうどよかった。十分ほど前に目覚めたところよ」
目が覚めた? どういう意味だろう。
「龍太郎が、疲れた感じがするので少し眠りたいというから、お薬をもらって
寝かせていたの。話はできるようだから、皆さん、相手になってあげて」
僕らが何も云わない内に、おばさんはドアを開き、僕らが見舞いに来た事実
を十文字先輩に伝えた。
「入ってもらってよ。僕なら大丈夫だから」
案外元気そうな声がした。他人事ながらほっとする。
おばさんは学園長と話があるということで、病室を離れ、このフロアの待合
いスペースの方に二人で行ってしまった。まあ、僕らにとっては余計な緊張を
しなくて済む分、好都合だ。
部屋に入ってドアを閉じ、ベッド上の先輩と向き合うと、首と右足首に巻か
れた包帯に目が行く。さっき安心したのは早計だったかと思わずにいられない。
「こんな格好で失礼。母は心配性でね、大げさにされてしまった」
「十文字君らしくないわね、襲われて怪我をするなんて、間抜けな」
いきなり、きつい言い種の五代先輩。生徒ばかりになって緊張から解放され
たせいか、物腰自体、幾分ざっくばらんになっている。
「云わないでくれ、副委員長。不覚を取ったと、海よりも深く反省していたと
ころなんだ」
……洒落の意図があるのだろうか。一ノ瀬の駄洒落よりはましだが。
「これに懲りて、莫迦な真似はやめた方がいいと思う。身のためにも」
莫迦な真似とは、探偵行為を差すに違いない。僕は密かに首をすくめた。
「お初にお目に掛かります、十文字先輩」
折を見計らっていた音無が口を開いた。ベッドの足下の脇に立ち、頭を軽く
垂れて、続ける。
「私は、一年一組の音無亜有香といいます。この度は音無家の刀が元で、事件
に巻き込んでしまい、申し訳なく――」
「申し訳なくなんかない。そうか、君が音無君か。噂はかねがね。よろしく」
掛け布団の中から手を出した十文字先輩。気付いた音無が急いで駆け寄り、
握手を交わした。先輩は右手だけ、音無は両手。
「僕は感謝しているくらいだ。こんなチャンスは滅多にない」
十文字先輩は、五代先輩に睨まれたのを感づいていないか、無視の様子だ。
「己の不甲斐なさに打ち拉がれる僕を立ち直らせてくれる良薬は、君達の証言
を聞くことだ。こうして来てくれて大変ありがたいよ」
話が聞けるものと決めて掛かっているらしい。僕はそのつもりで来たからい
いけれど、音無はどうなんだろう。もう一人の先輩の視線も気になる。と思っ
ていたら、当の五代先輩が口を開いた。
「事件の話をするのなら、私は帰らせてもらうわ。関係ないことだし」
「そんなこと云わず、いてくれたまえ。何分と経っていない。何に乗ってきた
のか知らないが、足代だって莫迦にならないだろう」
「だったら、席を外す。終わったら呼んで」
会話を続ければだらだらと引き延ばされると考えたか、返事を待たず、廊下
に出てしまった。ドアを閉めた拍子の風が、室内に渦を短い間生む。
十文字先輩はドアから視線を外し、鼻で嘆息すると頚元をさすった。そして
五代先輩の存在を忘れたかのように、「さあ、話してくれ」と持ち掛けてきた。
「僕からでいいですか」
「長居させては悪いし、君達を信頼しているから、二人まとめて聞くとしよう。
そうだな、音無君が話し、百田君が補ってくれ」
音無に軸を置いたのは恐らく、僕よりも彼女の方が事件と深い関わりを持っ
ていると睨んだから。
音無は、辻斬り殺人との関連性を除き、余すところなく説明した。僕の知る
話と寸分違わない内容で、過不足がなく、簡潔にして要領を得た話ぶりは、口
を挟む役目を僕から奪った。結局、補足したのは、僕一人で行動していた場面
のみだった。
「話してくれて、だいぶ事件の様相が見えてきた。質問、確認しておきたい点
が三つ――大まかに分けて三項目ある」
眉間に皺を作った先輩は、難しい表情をしつつも、元気が出たように見える。
やはり探偵志望の人には事件の話が良薬のようだ。
「まず、万丈目先生は携帯電話をお持ちなのかな?」
これは音無が詳しいだろう。というよりも、僕は万丈目先生のプライベート
をほとんど知らない。見ると、音無は「はい」と答えた。
「では、音無君が受けた呼び出し電話だが、発信記録の調査はまだ終わってな
いのだろうか」
「私は何も知らされておらず、お答えのしようがありません。ただ、警察が調
べているのは確実。刑事の方がそのような意味合いの言葉を口にしていたので」
「そうか、まだ早いか……。じゃあ、君の携帯電話の番号を知っている人を教
えて欲しい。あ、ひとまず、学校関係者の中でね」
「剣道部の全部員は、名簿が行き渡っており、知っています。職員方の中では、
顧問の万丈目先生と学園長、教頭先生がご存知のはずです」
「顧問は分かるが、学園長や教頭までも?」
「刀が盗まれた件に関して突発事に対応できるよう、番号をお伝えしました」
「納得。他には? クラス担任とかさ。親しくしている先生や生徒……」
「他の先生方には、私からは伝えていません。生徒……友達については、時間
をください。いくら先輩の頼みでも、無闇にお話しできません」
明確な意思表示に、十文字先輩も首を縦に振り、承諾。
「でも、これには答えてくれないか。番号を知るであろう人について、警察に
は伝えたのかな」
「携帯電話の提出を求められ、応じた際に」
「それならまあいいか。次。現場の描写だが、君達は見たままを話してくれた
んだろう? だが、僕には腑に落ちない点がある。つまり、話を聞いた限りで
は、剣道部の部室に犯行の痕跡がなかったとしか思えない」
「痕跡って、ロッカーに遺体が。凶器だって」
ようやく口を出せる話になり、僕は急いで反応した。
十文字先輩はゆるゆると首を横に振った。痛みがあるのか、わずかに顔をし
かめ、歯ぎしりと舌打ちを交える。
「僕が問題にしたいのは、血痕だ。心臓を一突きにされた肉体から、血が飛び
散らないものだろうか。凶器が刺さったままならまだしも、抜いてあったんだ」
「云われてみれば確かに」
音無が頷く。僕も同様だ。僕はあの部室で血痕を見ていない。小さなものな
らあったのかもしれないが、気付かなかった。第一、心臓からの出血となると、
辺り一面が血の海と化すのが自然だろう。万丈目先生の服や肉体は血で染まっ
ていたが、部室内やロッカーはそうではなかったと記憶している。
「なるほど。死体移動の可能性がある訳だ。万丈目先生は男性にしては小柄で
体重も軽いはずだから、さほど困難ではあるまい。結構だね。剣道部の隣近所
に、空き部屋若しくは人が自由に出入りできる部屋はあったかな?」
「いえ……なかったと思います。全て他の運動部が入っているはずです」
思い出す風に返答した音無に続き、言い足す僕。
「事件のときには、どの部室も無人みたいでしたけどね」
「ならば百田君は、人が潜んでいた可能性をゼロと云えるかい?」
僕は少し考える時間をもらった。どこかの部屋のドアの向こう側に犯人が隠
れていても、息をひそめられたら、まず気付かなかっただろう。ただ、だ。
「ただ、事件発生時前後に部室を使っていなかった部はどこも、部屋にはきち
んと鍵を掛けていたと証言したみたいです。警察があとで確認していますし、
それぞれの鍵も所定の位置に保管されていたようだから……」
「だから人は潜んでいなかった、かね? そいつは断定できないだろう。鍵な
んて、その気になって手間を掛ければ、どうにでもなるさ」
「ええ。認めます」
先輩は優越感に満ちた微笑で首肯すると、僕らを等分に眺め、重ねて聞いて
きた。
「五時を過ぎて活動していた部があったのか、分かるかな」
「最大で午後七時まで活動可能なのはご存知と思いますが、火曜日は文化系の
クラブが体育館を使用できる決まりになっており、運動部の多くは火曜を休み
に当てています。火曜放課後に活動する運動部は確か、ソフトボール部、ラク
ロス部の二つのみかと。無論、水泳部はプールがありますから、そちらで活動
していたかもしれません」
「部活動のない日は、部員は部室に行かないものなのかい」
「それもお答えしかねる質問です。話を剣道部に限るなら、私は個人で練習を
するとき、部室に立ち寄ります。他の者もそうでしょう」
剣道の腕前を見込まれて入学した彼女だけに、日々の鍛錬は欠かさないとい
うことなのだろう。
音無の的確な返事に、満足げに頷く先輩。メモを取らないのは、記憶力に自
信があるのだろう。そして明日の退院後、探偵業に精を出すに違いない。
「それではとりあえず最後だ。刀の出て来た竹刀の持ち主は判明したのかな」
「私は聞いていません。また、少なくとも私は見覚えがなく、恐らく部員も同
じでしょう」
「では、百田君は?」
目だけを僕へ向けてきた先輩に、慌て気味に首を横に振る。
「音無さんが聞かされていないものを、僕が聞いてるはずないですよ」
「それもそうか。警察は当然、調べるに違いないんだがな。素手で握っていた
とすれば、犯人の分泌物が柄の辺りから出る。校内で手袋をするのは、今の時
季、不自然な行為だから、犯人は素手にせざるを得なかったと思う。有力な証
拠になるだけに、検出できても、そう簡単には漏らしてくれないか」
怪我で不自由な姿勢ながら、精一杯、慨嘆のポーズを取る先輩。
それにしても、そんな有力な証拠が見つかれば、十文字先輩や僕らの出る幕
がなくなるに違いあるまい。となると先輩の嘆く素振りも、探偵活動ができな
くことを危惧してのものだったりして。
「本日はここまでとしよう。怪我で落ち込んでいたが、君達が来てくれて助か
った。有意義な時間だったよ」
僕は、五代先輩を呼んできますと云って、病室を出た。胸の内では、自分の
推理(途中だけれど)を十文字先輩に話してみたい欲求があるが、それを話す
と辻斬り殺人にも触れない訳に行かず、今日のところは思い直した。
エレベーターホールのある方向へ廊下を行くと、待合いスペースがあった。
おばさんと学園長の姿は見掛けたが、五代先輩はいない。
簡単に見つかるつもりでいただけに、焦る。違うフロアに行かれたとしたら、
探すのは骨だ。
参ったなと頭を掻いていると、エレベーターが到着し、中から当の五代先輩
が現れる。僕の顔を見るなり、「あら、百田君。探してくれてたの」と来た。
「事件の話が終わったので……。どこにいたんですか」
「リハビリ施設を見に。充実してるわ。自分が柔道で負傷したときもここがい
いかもしれない。そんなことを考えていたら、さっき、PHSが鳴ってね。十
文字君が、話終わったと教えてくれた」
タイミングよく現れたのは、そのおかげか。僕が先走って飛び出すことはな
かったのだ。疑問の氷解と、少なくない恥ずかしさを覚えながらも、僕は先輩
とともに病室に引き返した。
五代先輩はドアを開けるなり、「話が終わったなら、お見舞いらしく、授業
のノートを」と学生鞄を胸元まで持ち上げ、中からコピー用紙数枚を取り出す。
「これは感謝感激。明日には退院だから、明日見せてもらえばいいと思ってい
たんだが、ありがたい」
「探偵ごっこをやめると誓うのなら渡す――と云ったら、どうする?」
挑戦的な目つきで、五代先輩は問い掛けた。ベッド上の探偵志願者は、事も
無げに即答した。
「僕は、ごっこなんてしていない。よって君の申し出は元々条件が不成立だ」
「また襲われて、今度は死んでも知らないからね」
「泣いてくれれば充分だ」
おいおい。もしや、このお二方、実は男女の仲というやつですか?
にやりとして答えた十文字先輩は、窮屈そうに肩をすくめると、
「心配してもらわなくても、もう襲われるようなどじは踏まない」
と宣言した。なかなか力強い口調だった。
学園長が十文字先輩の母親とどんな話をしたのかは知らない。
車で病院をあとにした僕らは、近くの駅まで送ってもらった。通学に利用し
ている駅ではないので、風景がちょっとばかり新鮮だ。
「充分に気を付けて帰るように」
学園長にくどいほど念を押され、僕らは車を降りた。音無とは帰る方角が一
緒だと承知しているが、五代先輩はどうなのかなと訊ねると、果たして同じだ
った。
電車を待つ間、先輩から、先の学園長にも増して、無茶な真似はよしなさい
よと繰り返し云われた僕は、ふとした好奇心を覚えた。
「五代先輩は、刑事事件絡みで何か嫌な思い出があるんでしょう? 身内に不
幸があったとか」
ちょっとした逆襲のつもりもあって、鎌をかけてみると、これが的中。先輩
は目を逸らし、線路の方を向いた。
「君には関係ない」
動揺が露だった。僕自身は何も分かっちゃいない。さっきの台詞だって、相
当に含みを持たせた、どうとでも解釈できる言い回しにした。その幅広いスト
ライクゾーンに、五代先輩にとっての絶好球(“好球”は違うか)があったよ
うだ。
「話してくださいよ。僕だって、聞けば、探偵ごっこをやめるかもしれない」
「百田」
音無に袖を引かれた。呼び捨ての上、ひどくきつい目をしている。明らかに、
僕に対する非難だ。もし仮に竹刀を今携えていたら、一撃を食らわしてきそう
な敵意さえ感じられる。どうやら僕はやりすぎたようだ。頭を冷やすまでもな
く、五代先輩の身内話云々は学園での殺人と無関係であろう。
ところが、謝ろうとした僕を遮り、五代先輩は一気に喋った。
「物語を話す気はないわ。事実を伝えるだけ。五代の家系は代々警察勤めで、
運がないのか、向いていないのか、三名の殉職者を出している。それに私自身、
ちょっとした事件に巻き込まれたこともあってね」
電車がプラットフォームに入ってきた。
先輩はさっさと乗り込み、音無が静かに続く。
僕は、同乗するのがはばかられて、一本あとの電車にしようと思った。
「ぐずぐずするな」
音無にいきなり腕を強く引っ張られ、痛さのあまり、飛び乗る。背中のすぐ
後ろでドアが音を立てて閉まった。
「百田君、そんなに鈍かったか?」
「いや……考え事を」
音無に問われ、適当に返事する。まあ、考え事をしていたのは事実だ。
「しっかりしてくれなきゃ困るわね。男の君が、私達を守るんだから」
五代先輩が笑いながら云った。柔道の達人と剣道の達人を僕が守るとは、分
かり易い冗談だ。目に見えて落ち込んだ僕を、元気づけてくれたのだろうか。
「あの……十文字先輩って、どういう人なんですか」
事件から遠い話題を選ぶ。
「どういうって、数学にかけては並ぶ者なしと称されるほどの数学おたく、そ
こに加えて、脳味噌のマゾヒストと囁かれるパズルおたくよ。有名でしょう?」
有名人の五代先輩が答えた。それにしても、おたくでマゾヒスト扱いとは。
「それは僕も知っています。分からないのは、普段からというか以前から探偵
志願なんでしょうか。五代先輩の口ぶりが、そう聞こえるんです」
「そうよ。一年生のときも同じクラスで、その頃から探偵ごっこをやっていた。
勿論、学園内は平穏そのものだから、新聞に載るような事件を、あれこれ推理
していたわ。転入してきた私に何かと親切に教えてくれたので、感謝はするも
のの、彼のそんなところだけは好きになれない」
「口でも注意した?」
「いいえ。ニュースを基に推理を広げることは、程度の差こそあれ、世間の人
大勢がやってることでしょう? 咎めはしなかった」
つまり、十文字先輩はやがて物足りなくなり、自分の足を使って情報を集め、
未解決事件の謎解きを始めたのだろう。五代先輩に確かめると、当たっていた。
「間の悪いことに、去年の冬、連続放火の愉快犯が出たでしょう? 調子に乗
って、次の放火場所を示す暗号を新聞社に送り付けてきた奴。知ってるかな」
覚えている。ほんのいっとき、世間を騒がせた事件だった。
「あの暗号を一番に解いて、警察に情報提供をしたのが、十文字君なのよ。大
して難しい暗号じゃなかったから、解けた人が他にもぽつぽつ出て、十文字君
一人の手柄にはならなかったんだけど、これで彼、調子づいちゃったのね」
なるほど。容易に想像できる構図だ。僕だって同じ立場なら、調子づく。
やがてそれぞれの降りるべき駅に着き、五代先輩、音無の順番で別れの挨拶
をした。さっきの守る云々の件はどこへやら、二人とも平気な体で改札口から
出て行くのが見えた。
車内に一人残った僕(無論、乗客は他にも大勢いる)は、事件について推理
を働かせるのがまだ後ろめたく感じられ、残りの時間を頭の休憩に当てた。や
っと自宅からの最寄り駅に着いて、足早に家路を行こうとしたが、待合いのコ
ーナーで呼び止められた。
「シロイチ〜。待ってたんだよ〜」
声の主は一ノ瀬だった。木目調のベンチに腰掛けたまま、人目をはばかるこ
となく、大げさな動作で手を振っている。膝上で何やらモバイル機器を開いて
いるとは云え、立ち上がってこちらに来る気はないらしい。
それにしても、シロイチって何なんだ。明らかに僕のことを差しているよう
だが。駆け寄り、訊ねた。
「シロイチって、僕のことか」
「そうだよん。おニューのニックネームさっ」
「何でシロイチ?」
「へへん、漢字の勉強をした成果なのだ」
分からん。詳しい説明を求める。
「百田の百から一を取ると、なーんだ?」
「……九十九? じゃないよな。九十九はつくもだ。えっと、ああ、漢字の勉
強と云うぐらいだから、白か?」
「卓球〜っ!」
……せめてピンポンと云ってくれ。いや、云わなくていいけど。
ともかく、この場に留まっていても仕方がないので、僕らは外に出た。幼な
じみではないが、家の方角が途中まで同じなのだ。
「一ノ瀬は何であんなところで待っていたのさ?」
「君を待っていたに決まってるジャマイカ。見舞いの顛末をおシエラレオネ」
餌をねだるペット犬が芸をするのにも似て、手を出してきた一ノ瀬。愚にも
つかない地口はいつものことだが、これを連発とは、彼女には珍しい照れ隠し
なのかもしれないな。
「そんなに知りたかったのなら、端から着いてくればよかったのに」
「鼻からでも口からでも、面倒臭かったにゃー。剣豪も一緒だったんしょ?
精神疲労って堪えるし、後々まで尾を引くのさー」
そういう訳か。分からなくもない。一ノ瀬にとって、数少ない苦手なタイプ
が音無であろう。尤も音無も、一ノ瀬を苦手に感じている気配、大いにあるが。
「で? で? どんな感じだった?」
請われるままに、見舞いの模様を説明。と云っても、事件に対する十文字先
輩の見方が半分以上を占め、症状に関してはほんの少しになったが。
「やっぱり、十文字さんは犯人を全然見てないのかー」
がっかりと口で云いながらも、目はきらきらしている一ノ瀬。
「それにしても、十文字さんてさすがだねっ。血のことなんか、ミーは全然気
にならなかったよ」
「同感だけど、先輩は疑問点を列挙しただけで、解決した訳じゃないんだ。血
溜まりがなかったのは、死体移動を想定すれば片付くが、返り血の問題がある」
刀を引き抜いたのも、恐らく犯人だ。その際、大量の返り血を浴びたのでは
ないだろうか? 学校関係者である可能性の強い犯人が、血を如何にして隠し、
学内を動き回れたのか。犯行時刻とされる三時半から五時半までなら、まだま
だ人は多い。
「なーんだ。そんなの、エクスクラメーションマーク」
……簡単だと云いたいらしい。一ノ瀬の言葉を、ほぼリアルタイムで理解で
きる僕って、凄いかも。
「凶器を抜くとき、傘を差してたのさ、きっと。キ〜リング、インザレイン」
「往来で唱うなよ。君に聞いたのが間違いだったことが、よく分かった」
「ちょい。ミーは、いいアイディアと思ったんだけどな。刺すときに使うんだ。
開いた傘を万丈目先生に向け、傘のてっぺん辺りから刀の切っ先を突き出し、
刺し殺す。この状態のまま引き抜けば、噴き出した血を浴びずに済む」
説明されてみれば、悪くはないと思えてきた。
「でも、ここのところ晴天続きだよ。傘を持って来たら、不審がられる」
「置き傘、忘れ物の傘。校内にいくらでも転がってるよん」
いくらでもはオーバーだが、一ノ瀬の指摘は事実だ。生徒昇降口を入ってす
ぐのところにある据付けの傘立てには、少なくとも二、三本の傘が常に入って
いたように記憶している。
「綿密に調査すれば、置き傘の紛失が明らかになるかも。いや、違うにゃ。賢
い犯人は予め、犯行用の傘を持ってきて、傘立てに入れておいた。いかにも忘
れ物みたいにしてさ」
「傘使用説は認めてもいいけど、行き着く先は、どこで刺したのかに尽きる」
「今のミーは、十文字さんから間接的に閃きをもらって冴えてるから、何でも
お答えします。殺害現場は、シャワールームしかないっしょ」
七日市学園には、主に運動部に供する目的で、更衣室に隣接してシャワール
ームがある。
「それが当たっているとしたら、容疑者を絞れるかもしれないな」
僕は使った経験がないから分からないが、シャワールームへの出入りに何ら
かのチェックが行われているとすれば、容疑の枠を絞り込める。
「でもー、このくらいは警察もとっくに考え付いて、調べてるんじゃないかな。
血をきれいに洗い流すなら、シャワールームを真っ先に思い浮かべるもんねえ」
一ノ瀬が口元に人差し指を当て、上目遣いに天を見やる。学校がある間、目
に見える範囲では警察の動きは活発でなかったが、秘密裏にシャワールームの
調査を済ませたことは、充分にありそうだ。何しろ、事件のあった火曜日以降、
体育館は周辺設備を含め、全面的に立入禁止にされている。
「おお、運命の別れ道!」
突然、一ノ瀬が叫ぶ。はっとして景色を見渡すと、三叉路に差し掛かってい
た。ここで一ノ瀬とは家路が異なる。
独り暮らしの一ノ瀬が、電灯のスポットライトを浴びつつ、云った。
「よかったら、来てもいいよん。夕飯を作らせてあげるからさあ」
その申し出だと、僕の方にちっともメリットがないじゃないか。第一、僕の
料理の腕を知っているのか。食えるのか?
「ミーは味にはうるさくないから、非常識な奴が作った料理を除いたら、何で
も食べるよ」
「つまり、食えないほどまずい料理を作る奴は非常識だってことだろ」
「Ping−pong!」
……キングコングと聞き違えたよ、全く。gを発音するなって。
余計な疲労感を背負い、一ノ瀬と別れた。
――続く