#381/1159 ●連載
★タイトル (AZA ) 05/02/04 02:51 (458)
週明けの殺人者 1 永山
★内容
僕の学校には“週明けの鬼”がいる。
勿論、ニックネーム。週明け――僕ら高校生にとっての週明けである月曜日
に、必ず小テストを行う先生のニックネームだ。その御面相を物の見事に表す、
鬼面(おにつら)なる姓の数学教師は、学習した範囲とは全く無関係に、超難
問か、若しくは引っかけクイズめいた出題をする。それこそ、「こんなもん解
けっこねえよ!」と叫びたくなるような。
だが、こんなとんでもない小テストでも、悉く満点を取る人間が同じクラス
にいるから、迷惑極まりない。
一ノ瀬和葉(いちのせかずは)。
本当の“週明けの鬼”は彼女の方だと思わずにいられない。個人的に。
だってそうじゃないか。毎月曜、鬼のように難しい小テストで、満点を取り
続けるなんて。
ここだけの話、僕も中学時代までは、自分は頭がいい、賢い、天才かも、と
密かに自尊心なんかを持っていた。勉強ができるだけじゃなく、スポーツも通
り一遍そつなくこなせ、リーダーシップを持ち、日常生活でも機転が利く。異
性からもてもしたと自分で云うとナルシストに堕すが、事実だから。
そういった尊大さが、現在はきれいに消えた。七日市学園に入って僅か一ヶ
月ほどで、価値観をぐらぐらと揺さぶられ、自信は粉々に砕けた。プライドだ
けはまだ残滓として頭の片隅にあるようだが、厄介なお荷物に過ぎない。
そうなった最大の理由である一ノ瀬は、何の因果か初対面から僕を気に入り、
大親友だと公言する有様。一ノ瀬から親友と見込まれたがために、僕は早々に
砕け散ったのかもしれない。
この春から我が母校となった七日市学園は、優秀な高校とされている。
個性を重んじるその校風(なのか? 選択基準でしかない気もする)が世間
から支持され、人気を博す。入学者選抜は所謂一芸入試の枠が大きく、できる
ことなら新入生全員を一芸入試で決めたいのが、学園側の本音だとか。将来天
才になりそうな人間を“確保”する為の制度故、手当たり次第に採る風なとこ
ろがなくもない。だが、世の中に天才はそうはいない。単なる神童レベル、つ
まり“二十歳過ぎればたたの人”の方が圧倒的多数だ。多くの神童が入学後、
ショックを受けて凡人と化すのが通例らしい。あるいは本当に天才だとしても、
天才同士、そりが合わないことは往々にしてある。学園の環境が合わないとし
て、さっさと出て行く生徒も結構いると聞いた。
一方で、学力による入学試験も行われる。一芸入試で定員に満たなかった分
を補充する形だが、結果的にはこちらの方が多数を占める。僕もその他大勢の
一人だった。それでも、僕だって神童レベルに達していると信じていたが……。
徒し事はさておき。
いかに個性的な生徒が集まる学校であっても、教室内の風景は他と大きな違
いはなかろう(僕のまだまだ短い人生経験において、高校にはここにしか通っ
ていない、故に他の高校と比較できないので推測するほかない)。特に、昼休
みともなれば。天才だって飯は食う。
「みつるっち、この意味を教えてくれよん」
昼休み、一ノ瀬が赤毛をなびかせ、食事中の僕のところにやって来て肩をつ
つく。“みつるっち”とは僕を差す。僕の名はももたみつる。漢字で書けば百
田充となる。
僕に対する一ノ瀬の呼び方は一定でなく、みつるっちの他に、おみっちゃん、
みっちー、じゅうちん、ももっち、ももたっち、ヒャッキーと枚挙に遑がない。
使い分けの節もなくはない気がするが、天才の考えは容易には理解できない。
ただ、使用頻度トップは、みつるっちだ。
その天才の彼女が、僕なんぞに教えを教えを請うのは珍しい……ことでもな
い。帰国子女の彼女は(だからという訳でもないようであるが)、日本語に弱
いところがあって、割と頻繁に頼ってくる。
「どれどれ」
内心、またかと思いつつ、僕が振り返ると、目の前には新聞。やけに皺だら
けのそれは、一枚きりだ。一面とテレビ欄のページである。弁当箱を包んで持
って来たのだろう。日付からして今日の朝刊らしい。独り暮らしの一ノ瀬だか
ら、その日の新聞を持って来ても誰も困りはしない。
「例によって、読めない漢字?」
「ブ〜。外れさ。この漫画が分かりましぇーんかむばっく」
彼女の長細い指は、テレビ欄の裏、左上隅にある四コマ漫画を示している。
話は逸れるが、一ノ瀬の台詞の末尾を気にしてはいけない。先ほどの「くれ
よん」もそうだ。理由を問えば、彼女は説明してくれるだろう。時間を掛けて
延々と。そして恐らく、実際には意味などないことを説明するに過ぎない。こ
れは彼女の罠なのだ。
閑話休題(まただよ)。
僕は新聞に顔を近付け、漫画に目を通した。さして面白い出来映えではない。
昨今話題の政治と芸能の二大ニュースを重ね合わせ、皮肉っただけ。難解な中
身では決してない。
元ネタのニュースを知らないんだなと見当を付け、僕は一ノ瀬に最初から説
明しようと、箸を置いて話し始めた。ところが彼女と来たら、オーバーに頭を
振った。悩めるベートーベンだ。いや、ベートーベンは赤毛じゃなかったかな?
「みつるっちの今の答は、まったくもってノーグッド。ミーは、この漫画が面
白いのかを聞いてるんだ」
「それならまあ、面白くない部類に入ると思うよ。こういうのが好きな人もい
るだろうけどね」
「ふむ、やはり面白くない、と。安心した。人それぞれ、好みがあるのは分か
るさっ。ミーの感覚では、新聞に載るほどじゃない」
ミー、ミーと喧しい猫のようだが、これは一ノ瀬の一人称。某漫画の有名キ
ャラクターめくからやめたらと一度だけ進言したが、聞き入れられなかった。
「ん?」
猫のような目つきで、彼女が僕を見た。僕が彼女をじっと見ていたからだ。
「どうかしたん? ウズベキスタン」
ウズベキスタンに拘っていては会話が弾まない。とにかく気にしない。
「意外に思った。君が漫画の善し悪しを気にするとは」
正直な感想を漏らす。箸を持ってから続けた。
「コンピュータと数学が、君の最大の関心事じゃなかったのかい?」
「何をゆー。これはユーの為に持って来たのさっ」
「僕の?」
「こんな程度で新聞に載れる。君の小説も何とかなる」
口に持っていこうとした里芋の煮付けが、箸先から滑り、幸いにも弁当箱の
中に落ちた。
本気で云ってるんだろうな。僕は密かに嘆息した。
高校に入ってからこっち、自信喪失続行中の僕は、何か拠り所が欲しくて、
手遊びで昔やった小説書きを復活した。それを一ノ瀬に知られ、時折、こうし
て話題にされる。
ここでまともに取り合うと、深みにはまる。他の大部分のクラスメートには
今もって隠している秘密だ、話を打ち切らせるには無視するに限る。
無理にでも別の話題が欲しい目に、ある記事が留まった。
「へえー、辻斬りがまた出たんだ?」
「バルキリー?」
全然違う。第一、何でそんな単語を知っているんだ。
「バルキリーじゃない。つ、じ、ぎ、り」
「く、び、か、り?」
「これだよ」
明らかにわざと惚け、自らの首を掻き切るポーズをした一ノ瀬に、僕は紙面
の一点を差し示した。大小様々なサイズで、<また“辻斬り”殺人><犠牲者
四人目>といった見出しが踊る。月曜毎に刃物による殺人を重ねる凶悪な犯人
だ。最初の犯行から既に一ヶ月近いが、捜査に進展があったとの話は聞かない。
「新聞の見出しはいい加減だよねっ。ミーの知る限り、辻斬りは絶滅したはず
だ」
「絶滅って……まあ、言葉本来の意味を考えたら、そうなるのかもしれないけ
れど、この場合は、刃物持って人を襲うからだろ」
「通り魔との違いを述べてみせよ」
「……イメージだと、通り魔は往来で大っぴらに、手当たり次第に人を傷つけ
ていく感じかな。辻斬りは、夜、人目がないのを見計らって襲う」
「何か当たってそう。さすが、物知り。雑学ってのは、物書きになるには必要
だよね。ミーには、余分な知識を蓄積する趣味はないけど」
それは君の自由だが、分からない漢字や言葉に出会ったとき、いちいち僕に
訊ねるのはどうかと思う。コンピュータ使いなら、楽に調べられるだろ。電子
辞書の一つでも携帯しろって。
と、僕が本格的に食事復帰を果たそうとした矢先、一ノ瀬の背後に立つ長い
黒髪の女生徒が目に入った。背が割と高く、姿勢のよい彼女もまた天才。いや、
達人と表現すべきか。
「邪魔だから、空けて」
彼女――音無亜有香(おとなしあゆか)が、突き刺すような視線とともに云
い、紺のリボンで結んだポニーテールを弾ませた。その視線を感じ取った訳で
もあるまいが、振り返ることなく後頭部を押さえる一ノ瀬。
「これはこれは。失礼したにゃ」
ようやく振り返り、云った。巫山戯口調もここまでならまだよかったのだろ
うが、あとが余計だった。
「黙って立ってないで、優しく云ってくれればすぐに退いたにゃ」
注意された人間が口にしてはいけない台詞だと僕は思う。案の定、音無の顔
つきが険しさを増した。
「自己中心的振る舞いにより他に迷惑を掛ける存在に、何故いちいち忠告せね
ばならない。本来、そちらが即座に気付き、行動に移すべきこと」
「ふに。じゃ、何で今さっき、注意してくれたにゃ? 主義に沿って、黙って
押し退けるか、回り道すればいいにゃ」
一ノ瀬の奴、まだ「にゃ」を使う。音無は険しい表情を維持したまま、口調
は淡々として応じた。
「次善の策を採ったまでのこと。自己中心的存在にこちらの欲求を直接物理的
にぶつけるのは意に反するし、遠慮しての遠回りはもっと莫迦げている」
「なるほどにゃ。でも、まだ分かんないにゃー。次善の策を採るまでしたのは、
急いでたからにゃ。その割に、すぐに通らないのは、腑に落ちないにゃ」
とっくに通路を空けた一ノ瀬は、ボートを漕ぐときみたいな手つきをした。
もしかすると、猫の仕種の摸写なのかもしれない。
「急ぎの用の有る無しではない。一般常識に従い、注意を発しただけだ」
「――果たして一般常識かなあ」
素に戻った顔つきで、一ノ瀬は僕の方を向いた。女の争い、基、天才の争い
に巻き込んでほしくないのだが。加えて、音無に悪いイメージを持たれたくな
い。好みの異性をこの学校の中から選べと命じられたら、僕はいの一番に彼女
を選ぶ(主に外見重視。すらりとした背格好、そして芯の強そうな目鼻立ちが
特に。肩胛骨を隠す程度の髪もいい)。剣道部に所属する音無には、美少女剣
士という形容がまさに当てはまる。
「ミーが悪かったのは認めるけどさ。こうしたねちっこい忠告は常識とは思え
ない。もっと優しく注意してにゃ」
それをあからさまに云う一ノ瀬も、常識的ではないと思うが。
音無はあきらめたような、呆れたような吐息をしてみせ、呟いた。
「不毛のようだ」
これまでの無駄を悟ったか、微風を起こして立ち去り、教室を出て行った。
そんな彼女の後ろ姿を視線で追尾していた一ノ瀬は、やがてぽつりとこぼす。
「もうふ?」
不毛だっての。分かってる癖に。
放課後、コンピュータ室で我が物顔でワークステーションを触る一ノ瀬に、
きちんと謝った方が後々の人間関係がスムーズだ、という極当たり前の忠告を
すると、「えー、謝る気はあるけど、面倒っちいなあ。ヒャッキーが代わりに
やっといてよー」と来た。人にやらせてどうする、なんていう常識が通用する
相手ではない。通用する相手なら、そもそもこんな揉め事を引き起こすまい。
僕は分かったと云ってその場で話を引っ込め、これっきり忘れるつもりでい
た。僕は一ノ瀬の使い走りじゃないんだし、音無と会話できたからってだけで
喜ぶ歳でもない。
だが、コンピュータ室を出、自分一人の帰り途(と云っても校門を出て最初
の角を折れた地点)で、音無と鉢合わせしかけたのをきっかけに、ふと気が変
わった。よくあることさ。
「――失礼」
ぶつかりそうになったことから来る狼狽を一瞬の内に隠し、そのまま去ろう
とする音無に、僕は声を掛けた。
「一ノ瀬が、悪いことしたって云ってたよ」
聞こえなかったのか、一ノ瀬の話なぞ聞きたくないのか、音無は立ち止まる
ことなく、ずんずん行く。果たし合いに赴く剣士の如く。
「あ。あのさ」
一ノ瀬の謝意(あるのか?)を伝える義務感はさらさらなく、音無に悪い印
象を持たれたくない心理が、僕に彼女を追い掛けさせた。
初め音無は僕の追跡に気付かぬ様子だったが、校舎を目の前にして、いきな
り振り返った。夕刻という時間帯、鏡と化した生徒昇降口のドアの一枚ガラス
に、僕の姿が映ったらしい。
「私に用でもあるのか?」
足が止まった僕は、素直に答えるかどうか、迷った。さすがに一ノ瀬の名を
出すのはまずい空気を感じて、やめておく。
「音無さんも忘れ物? 僕も忘れ物を思い出したんだけど」
しれっとして応じる。咄嗟の思い付きであることを割り引いても、大してう
まい返事じゃないな。
「勝手にすればいい」
よほど急ぎの用事があるに違いない。僕の答を恐らく信じていない音無は、
軽い身のこなしで数段のステップを一気に跳び、大きなガラスドアを引き開け、
中に入った。ドアは危険防止の機能が故障しているのか、閉まるスピードが速
い。僕は一旦、ドアが閉まるのを待たねばならなかった。
上靴に履きかえるのももどかしく(履きかえたけど)、急いで追い掛ける。
音無は入ってすぐのところにある階段を、一段か二段飛ばしで駆け昇っていた。
三階には僕らの教室があるが、彼女は二階のフロアを選んだ。そこまでは認視
できたが、音無の姿はじきに壁に遮られて見えなくなった。
二階から行けるところというと……体育館の二階に直結した渡り廊下がある。
体育館の二階には運動部の部室が固まっている。音無は当然、剣道部の部室を
目指したに違いない。
若干乱れた呼吸をコントロールしつつ、僕はそこまで考えた。どうやら勘は
当たったようで、音無らしき女生徒の後ろ姿を体育館への渡り廊下で目撃した。
が、すぐに陰に隠れて、見えなくなる。というのも、全速力で駆け抜けるのは
危険との理由で、通路には段差がこしらえてあるためだ。通路に差し掛かる両
端で一旦なだらかな丘を形成し、次に下り坂となって中程は平らになっている。
二階以上の高さで各建物を結ぶ渡り廊下はいくつかあり、宙廊と総称される。
それぞれ番号が振られ、第三宙廊などという風に呼称されるが、生徒間でそん
な事細かな使い分けをする者はいない。
つまり、だ。体育館への宙廊が第二であることを、僕はあとで知った。
行き先の見当が付いた僕は、速度を若干落とした。第二宙廊を見通し、前に
進む。と、視界の下方から黒い丸が覗いた。それも一つではなく、いっぱい。
人の頭。黒は髪。体育館からこちら側――本館に向かう女子の集団だった。ほ
とんどがジャージ姿であるから、今部活スタートという訳か。あるいは体育の
補講かもしれない。
僕は右端に寄ってすれ違った。宙廊の段差を過ぎ、ふっと前を見ると、音無
の姿は既になし。歩速を緩めた上、集団に気を取られたほんの一瞬の隙に、見
失ってしまったようだ。
まあいい、どうせ剣道部の部室だと思い直し、僕は再び駆け足になった。運
動部どころかどの部にも入っていない僕にとって、体育館二階は縁の薄い領域
ではあるが、入学時の案内で大凡の構造は分かる。どこに何の部室があるのか
も把握できていたので、迷わずに剣道部の部屋を目指せた。落書き一つない、
水色を更に淡くした色彩のきれいな壁が続く。角を二度折れて、その奥から二
番目のドア。間違いない。張られたプレートに“剣道部(女子)”の文字が刻
まれていた。部室前の廊下には、ロッカーが数個並ぶ。この隣、一番奥が男子
剣道部の部屋だ。
扉の前に人影はなかった(そもそも、今この通路には僕一人である)。音無
は中だろう。ノブを握る。楽に回った。
回したあとで、ノックが先だと思い直す。ノブを握りしめたまま、もう片方
の手でドアを叩くが、中からの応答はない。
次に声を掛けようとし……困った。剣道部に用事があって来たのではない。
音無を追い掛けていたとも今さら云えぬ。
ままよ(おお、こういうときに使うんだな)と、ドアを引いた。
「済みません。友達探してるんですが……」
音無以外の人がいた場合に備え、出任せの口実。だが、これを聞く者は誰も
いなかった。そう、誰も。
「音無さん?」
呼ぶが、さして広くない部室、人一人を遮るほどの物陰となると限られてく
る。足を踏み入れ、顔を左右に向けるだけで、粗方見渡せた。残るは左奥の壁
に居並ぶロッカーの中ぐらいだが、音無に限らず、剣道部の関係者ならそんな
ところに隠れる理由がない。元来、勝手に開けるなんてできるはずもなく、調
べずにおく。
「おかしいな。行き違いになるはずないんだけど」
不可思議さのあまり、呟いた。合理的な解釈をするなら……剣道部部室に行
くと決め付けたのがそもそも誤りで、どこか別の部屋に入ったとも考えられる。
「それにしては」
ドアを振り返る。鍵を掛けていないとは、何とも不用心な。
首を傾げた僕は、更に全く別の原因から、不審の念を抱いた。
扉横の壁に立てかけられた竹刀。使い古した物らしいが、一本だけ出しっ放
しとは不自然だ。剣道部にとって大事な道具の一つ。ましてや七日市学園の剣
道部は男女とも礼儀に厳しいとの評判である。仮に廃棄予定の物としてもおか
しい。
僕は壁際まで歩いて戻ると、その竹刀を手に取った。
瞬間、予想を遥かに越えた重みが伝わってきた。軽く持ち上げるつもりでい
ただけに、焦る。
中に何か入っている。両手で持ち、目を細める。竹の隙間から、光沢のある
物が見える。かなり細長い。ちょうど、竹刀を二回りほど小さくしたような形
状ではないか。
「まさか」
悪い予感がした。それでも確かめずにはいられない。僕は竹刀を分解した。
結果、予感が当たったことを知る。
中から刀が現れたのだ。鞘に収まっていない、剥き出しの形で。もしも心構
えなしに取り出していたら、手首から先が血の海と化したに違いない。
「鍔がないけど、よく斬れそうな」
やや曇った刃を見つめつつ、感想を漏らす。素人の僕が、これは美術品では
ないかと思わされるほど、端整な造作の刀だった。柄の部分には、音符を裏返
したような凝った紋様が施されていたが、意味は分からない。
見とれている場合じゃない。何故、校内にこんな物騒な物が。しかも、人目
から隠す風に。
戻す。とりあえず、元に戻す。
それからの選択肢にはいくつかあった。
知らんぷりを決め込む。剣道部の誰かに聞く。学園側に届ける。一足跳びに
警察に通報する。
え。警察?
何故、僕は警察への通報まで、選択肢に入れたのだろう。これが警察の出動
を要するほどの重大な犯罪か?
……そうか。気付いた。直感を理性があとから追い掛け、意識する。
確かめるべく、僕は跪き、竹刀をもう一度、慎重に開いた。今度注目するの
は、中にある刃物ではなく、竹刀の内側。
そして頷く僕。
血痕。恐らく血痕と思われる黒ずんだ染みが、認視できるだけで三つ、小豆
大ほどのサイズではあるが、そこに存在していた。
出血する状況はいくつか考えられるので、この刃物自体が血痕の源であると
は、決め付けられない。だが、隠してあったという事実が、最悪のケースを想
起させるではないか。
まずいよな、と思った。触りまくって指紋をべたべた付けてしまった。これ
では頬被りできない。布か何かで拭えば僕の指紋だけでなく、他の痕跡も一切
合切消えてしまう。賢明に振る舞うなら、学園なり警察なりに正直に云って、
僕のこの指紋は無関係だと証を立てるすべきだろう。
しかし、この刃物がもし万が一、音無の物だったら――そんな想像が頭をよ
ぎった矢先、廊下に足音が響き、瞬く間にドアの前に人の気配が。迂闊にも開
け放したままだから、誰なのかはすぐに分かった。音無亜有香だった。
「何をしてる?」
やたらと刺々しい第一声。当然だな。
僕は立ち上がろうとした。が、音無はいつの間に用意したのか、右手に持っ
た竹刀を、すいと前に滑らす風に突き出した。さっき会ったときは持っていな
かったのだから、廊下のロッカーから取り出したのだろうけど、全く気付かな
かった。
先端が僕の顎先数センチで停まる。動いたら、間違いなく吹っ飛ばされる。
「悪いことはしていない」
立つのはあきらめ、跪いた姿勢のまま、両手を挙げて無抵抗を示す。竹刀の
中の刀を見つけた事実を云っていいものかどうか、まだ判断できない。
「答になっていない。何をしていたのかと聞いている。忘れ物ではないようだ
けれども、さっきのは嘘か」
簡単には疑惑を解いてくれないようだ。こんなとき、間を置くのはよくない。
素早い返答を心掛けた。
「一ノ瀬の伝言を音無さんに伝えなければいけないのを、すっかり忘れていた
んだ。できれば、校舎の中で話がしたかったから、ここまで来たんだよ。そう
したら、ドアが開いてて、誰もいないのに不用心だなと思って、中に入ったら
……そこの竹刀に蹴躓いちゃってね」
目で、床に転がる竹刀を示す。音無は一瞥すると、「よし」と云った。彼女
の手にした竹刀が引かれる。立っていいとの合図なのは分かるが、まだ狙いを
僕に定めているだけに、躊躇してしまう。
「立っていいよ。悪かった」
言葉にしてもらって、ようやく腰を上げることができた。僕は「勝手に入っ
た自分も悪い」云々と謝ろうとしたが、それよりも早く彼女が口を開いた。
「だが、伝言は後回しにしてもらいたい。急を要する事態があって……刀を見
なかったか?」
「か?」
刀?と鸚鵡返ししようしたのだが、続かなかった。血痕の件を抜きにしても、
校内に刃物を持ち込むという行為の割に、あまりに開けっ広げではないか。今
し方見つけたばかりですと答えていいものやら。
「ど、どうして、刀なんかがここに?」
「私の父が寄贈した物で、大中小三本の組になっている。学園長室の隣に飾っ
てあったのを知らないか? こう、ガラスケースに入ってだな」
身振り手振りで示そうとする彼女に対し、僕は首を横に振った。学園長室自
体なら見たことあるが、隣は、はて、どんなスペースだったろう?
「まあ、知らなくてもいい。その内の一本がひと月前に盗まれた」
「それも初耳だなぁ」
「盗難を知らないのは当たり前だ。不祥事に違いない故、校外はおろか、校内
向けにも伏せてある。展示スペースには模造刀を飾り、隠蔽している。この学
園は名前があるだけに、なおのこと隠したがる体質のようだ」
嫌悪する風に吐き捨てる音無。そんな秘密を僕なんかが知ってしまっていい
のかしらん。
「調査は秘密裏に行われていた。芳しい成果は上がっていなかったが、先の下
校途中、私の携帯電話に連絡が入った。刀が見つかったから、剣道部の部室に
来られないかと」
この話を聞いて、一遍に疑問と興味が湧いた。
「その電話、誰から?」
「顧問の万丈目(まんじょうめ)先生……と名乗っていたが、声が急いていた
上に、電波の調子もよくなかったため、判然としない。今となっては怪しむ気
持ちが強い。本当に刀が見つかったのなら、わざわざ部室になぞ置くまい。職
員室かどこかで厳重に保管するはず。電話が非通知であった点も、いささか腑
に落ちない」
だからこそ、音無はまず竹刀を構え、この部屋に踏み込んだ訳か。刀を持っ
ているかもしれない怪人物を相手に、一人で乗り込もうとは勇ましい。
「百田君は、この事件に関係ないのか」
事件と聞いて暫時、違和感に包まれたが、やがて、ああそうか事件だなと合
点した。
「天地神明に誓って無関係。盗難の話自体、初めて聞いた」
答えてから、音無の疑念の矛先をかわそうと、別の方向に話を持って行く。
「さっき、君のあとを追っていて、途中で見失っちゃったよ。一体どこへ?」
「資料室だ。鍵の所在を確かめておきたかった。もしも電話が偽りだとすれば、
鍵はそこにあるはずだから」
聡明かつ慎重な振る舞いに感心する。だが、一つ疑問点が。
「鍵は普段、職員室に保管してあるんじゃあ?」
「通常は職員室にある。他の部については知らないが、剣道部は万丈目先生が
保管されている。先生は本館二階の資料室におられるのが常」
「それで二階に」
僕は万丈目先生の小柄な体躯を思い浮かべながら、軽く頷いた。理科分野の
生物地学担当だから、ここで云う資料室とは当然、その手の資料室だろう。
しかし、体育館の二階には、理科に限らず、資料室なんてないはず。どうや
ら音無は本館の二階に行ったのに、僕は他の女生徒を追い掛けていたらしい。
心密かに思いを寄せる相手の後ろ姿を見間違えるとは、自分が情けなくなる。
「だが、鍵は手に入らなかった。先生の姿が見えなかったから」
音無は室内に鋭い視線を走らせた。
「百田君、鍵を持ってるんじゃないのか?」
「いや、だから、ドアは最初から開いていて……鍵の行方は僕は知らない」
「ふん」
疑惑が沸き返ったかのような音無の瞳。日常にあっても真剣勝負に挑んでい
るかのごとき、気迫漲るいつもの目に、鋭利な刃物のそれに似た光が加わる。
僕はせめて気圧されないよう、音無を見据え返した。
「電話が切れてから時間を空けるのはよくないと考え、部室に駆け付けたら、
百田君、君がいた」
僕を竹刀の柄で差し示す音無。品定めする目つきだったのが、ふっと緩んだ。
「もし仮に君が電話を掛けてきた相手なら、そのあと私に声を掛けるのは大胆
すぎる振る舞い。多分、君は事実、無関係なのだろう」
「信じてもらえて嬉しいよ。そのついでに云うけれど」
なるべくさりげない口調で、刀が竹刀の中にある事実を伝えた。
音無はほんの一瞬、目を見開くような動作を見せたが、あとは極めて冷静だ
った。素早くしゃがむと竹刀を取り、慣れた手つきで解体する。
「剥き出しの刀だよ。気を付けた方が」
「承知している」
うるさいとばかり、ぴしゃりとはねつけられた。見れば、彼女は竹刀の隙間
から刀の向きを確認した上で作業に取り掛かったらしい。やがて刀が出て来た
が、動揺する気配は微塵もなく、その柄を握りしめた。
「確かに、盗まれた物に違いないようだ」
顔の高さに刀を持って行き、片目を瞑って見据える。表情に若干の翳りが浮
かんだ。
「僅かだが、刃がこぼれているな。それに輝きが鈍い」
「あ、そういえば、竹刀の内側に染みが付いていた」
僕の言葉に、音無の表情が今度はきつく、険しくなったようだ。一ノ瀬に腹
を立てたときと違って、真剣味に溢れる分、今の方がより一層凛々しく映る。
「血の痕、か」
染みを見るや否や、呟いた。それから今度は竹刀を注視する。
「部の物ではない。他の部員が、昨日から今日にかけて新たに竹刀を持って来
たとしたら、断言はできないが……。恐らく、よそから持ち込んだ物だ」
「つまり……中に刀を隠して、ここまで運んだのかな」
意見を述べる僕に、音無は不思議そうな目を向けてきた。思わず、「何?」
と聞き返した。
「いや、ただ感心した。筋道が通っている」
そんな大層な推理だろうか。音無には、刀をこの部屋に持ち込んだ方法なん
て、頭になかったのかもしれない。
「刀が無事戻るなら穏便に済ませようと考えていたが、血痕があるとなれば、
また違ってくる。しかも、この部屋の鍵を如何にして開けたのか不明と来ては、
なおのこと」
「顧問の先生にうまいこと云って、借りたんじゃないかな」
「もしそうだとすれば、部員が犯人となってしまう。万丈目先生は剣道部部員
にのみ鍵をお貸しになる。例外は一切なしだ」
仲間を疑う発想は皆無なのだろう、音無は断固たる口調で云った。同時に、
僕に対する非難の意味も込めてあったような気がする。
「と、とにかくさ、万丈目先生に会わないと。先生に会えば、誰が鍵を借りて
いったのか、分かるじゃないか」
「云われるまでもなく、そうするつもりだが……」
声を途切れさせた音無。その矢のような視線が、僕の右頬をかすめ、奥にあ
るロッカーを射る。
「奇妙だ」
「え、何が?」
「――百田君。ロッカーを触らなかったか?」
「とんでもない。部屋には入ったが、ロッカーまで勝手に開けるような真似は
してないよ」
まだ疑われているのかと、慌てて弁明に努める。だが、音無の意図はそんな
ところになかった。
「一番左のロッカーに入れてあった物が、他のロッカーの上や、部屋の隅に置
いてある」
と云われても、部外者には理解できない。整理整頓されていないのが奇妙だ
という意味か?
「今朝方、虫の知らせを感じたが、これのことだったか……とても嫌な感覚」
音無は口中が乾いたのか、唾を飲み込む仕種を見せた。勿論、女の子だから
喉仏が動くなどという顕著な変化はない。
「百田君。頼みがある。済まないのだが、そのロッカーを開けてほしい」
「は?」
「腕力ならまだしも、攻撃力という観点なら、私の方が確実に上だろう。万が
一、そのロッカーに何者かが隠れていた場合、私が素早く対応せねばならない」
「そ、そりゃ、結構だけど」
そんなことを声に出して云ってしまっては、ロッカー内に怪人物が潜んでい
たとしても、そいつは怖気を振るうに違いない。若しくは、対策を立てる。た
とえば、扉を開けようとした僕の腕を掴まえて、人質に取るとか。
「恐がらなくていい。誰かが潜んでいるなぞ、まずはない。ただ、ロッカーの
中が空っぽか、別の物が押し込まれているかは分からない」
音無の気迫に押され、僕は素直に従った。向かって最も左のロッカーに近寄
ると、まだ恐る恐る手を伸ばす。振り返り、音無が刀をロッカーから遠ざけ、
竹刀を構えたのを見届けた。勇気を得て、最後の数センチを詰める。扉に触れ
るや、一気に開けた。
「――」
その瞬間、扉にしがみつく格好になった僕に、ロッカー内部は全く見えなか
った。見えるのは、目をいっぱいに見開いた音無。滅多にそんな表情をしない
だけに、彼女が何をロッカーに見たのか、気になる。そして好奇心以上に恐ろ
しさが湧いた。
「百田君。腹を据えることだ。私達は最悪の面倒事に巻き込まれた」
音無が懸命に冷静さを保とうとしているのが、その掠れ気味の声で分かった。
「みっともない悲鳴を上げたくないのなら、見ない方がいいかもしれない。ロ
ッカーの中には、万丈目先生の遺体がある」
い・た・い? 何ですか、それは。
――続く