#498/566 ●短編
★タイトル (AZA ) 21/05/07 21:41 (224)
掴み損ねた夢をもう一度 永山
★内容
木平洋一《きだいらよういち》はいつもの夢で目を覚ました。
いつもの悪夢、いつものシーンで途絶えて、目が覚める。布団の上で上体を起こした
彼の息は荒かった。じっとりとした汗が寝間着を重くしている。
(何であのとき、ミスをしたんだ俺は)
常夜灯の下、大きく息をついて己の両手のひらを見つめる。手をこすり合わせて汗を
拭うも、じきに滲んできた。
(あのときから、何もかもが俺の手の中から逃げていった。栄光も名誉も、プライド
も)
思い出したくない過去を嫌でも思い出す。
* *
木平はラグビー選手だった。
小学生のとき初めてラグビーボールに触れたが、その頃は才能の欠片も見せていな
い。楕円のボールに手こずり、グランドの端から端まで追っかけ、蹴ろうとしては派手
に空振りをして尻餅をついた。他のスポーツはおしなべてこなせる子供だっただけに、
周りの者から笑われたが、それでもラグビーを楽しく感じた。
力を発揮し始めたのは、中学に入って身体が作られ出した頃。その学校はたまたま中
学ラグビーの強豪の一つに数えられるところだったのだが、テスト入部した木平はたち
まち虜になり才能を開花させると、先輩を実質的に追い抜いた。
中学でレギュラーとして二度の全国優勝を経験。この実績をひっさげて、高校でも屈
指のラグビー強豪校に入る。全国大会で優勝一回準優勝二回の成績を収めた。
大学時代は多少の遊びを覚えたせいもあってか、やや低迷したが、請われて入った企
業の社会人ラグビーチームでさらなる伸びしろを見せ、個人として成長。日本代表入り
を果たす。
ポジションはウィングスリークォーターバック。右が得意だが、左も難なくこなす。
高校まではさしたる技術を使わずともライン際を駆け抜け、中央突破もできていたの
で、あまり必要としなかったステップは苦手だったが、よいコーチに巡り会えたことで
大学時代の停滞分を取り戻せたと言えよう。海外での代表戦で活躍し、レギュラーとし
て認められた。折良く、ワールドカップ開催の年が巡ってきた。
このときの日本代表の目標は、決勝トーナメントで一つでも多く勝つこと。予選リー
グを甘く見ていた訳ではない。その証拠にグループリーグ(プール)は引き分け一つ、
残りは全勝で一位通過。
迎えた決勝トーナメント緒戦。対戦相手は優勝こそないものの安定した実力のフラン
ス。これを僅差で破ってトーナメント初勝利を飾り、勢いに乗る。
続く準決勝で大の苦手としている対戦国の一つ、オーストラリアとぶつかる。トーナ
メント一回戦のオーストラリアは荒天で二日に渡って順延され、試合間隔がタイトにな
るという不利な状況が生まれており、ひょっとしたら日本が……の空気が醸成されつつ
あった。そんな中、日本が先制トライを決めたことで、緒戦からの勢いを継続、いや増
大させて完全に波に乗った。中盤までに二桁の差をつけ、終盤、激しく追い上げられる
も逃げ切っての勝利を掴み取る。
始まる前は決勝トーナメントでの初勝利をというのが本音の目標だったが、蓋を開け
てみるとあれよあれよという間に決勝進出。こうなるともはや優勝しかないでしょう、
という期待が国中に溢れかえっていた。
相手はニュージーランド。南アフリカ、英国と優勝候補常連国を下して盤石の勝ち上
がり。この黒の戦闘集団に勝つとしたら、木平の出来次第だと戦前の予想がなされてい
た。事実、予選・決勝の全ての試合において、木平は大活躍している。ポジション的に
本職であるトライの量産はもとより、大事な場面でボールを蹴り出してピンチをしのぐ
こと及び得点につなげること多数。やることなすこと全てうまく行っていた。日本悲願
の優勝が彼の出来映えに掛かっていると期待されるのも無理からぬところである。不安
材料としてはここまでに大車輪の活躍を見せた木平は満身創痍であり、スタートからの
起用ではすぐに潰される恐れが大。後半から投入し、俊足を活かすしかなかった。
迎えた決勝は静かな立ち上がりになった。今大会で先行逃げ切りのパターンが多い日
本に対し、ニュージーランドが慎重に構えたためだが、十五分が経過してニュージーラ
ンドがギアを上げる。ピンチを連続して迎えた日本だったが、怒濤の攻めをしのいでイ
ンターセプトからトライで先制。ゴールキックは外すも、直後のプレーでドロップゴー
ルを成功させてリードを広げる。しゃかりきになったニュージーランドを抑え込むこと
に全力を注ぐが、ワントライワンゴールを奪われ一点差に。
僅差かつロースコアで突入した後半から、ついに木平登場。フィールドに立つだけで
ムードが変わった。開始直後にトライ、そしてゴールを決めて七点を加算。傾き掛けて
いた流れをひっくり返した。その後は一進一退。残り時間が五分を切ったところで、点
差は四に縮まっていた。
敵チームの猛攻をしのいでかわして、隙あらば加点を狙う日本陣営。するとニュー
ジーランド側に焦りが生まれたか、ハイパントするも明らかなミスキック。これを落下
点近くの木平がキャッチすれば勝利を、優勝をぐっと引き寄せるという場面で、それは
起こった。
イージーボールに見えたのだが、わずかに風に流されたか、木平はキャッチミス。落
とすと分かった瞬間、競技場の日本側応援席と中継を見ていたお茶の間は悲鳴で満たさ
れた。
ゲームはその後、こぼれ球を捉えたニュージーランド選手がトライ、ゴールも成功さ
せて逆転、三点差。ここでノーサイドとなり、日本は優勝を逃した。
決勝に到るまでの活躍を帳消しにする大失敗に、木平を非難する声は日増しに大きく
なった。優勝していたら文句なし、仮に負けて準優勝でも英雄として帰国するはずだっ
たのが、一転して戦犯扱いの憂き目に遭ってしまった。
準優勝でも立派な成績であり、快挙だ。無論、木平を擁護する声もそれなりに大きか
ったのだが、当時の木平は若く、応援してくれていた人達の手のひら返しをスルーする
には、人生経験が浅かった。しばらくラグビーを休み、隠遁生活状態に入った。だがそ
れがきっかけで順調に交際していた女性とは別れ、練習まで休みがちに。挙げ句の果て
に居酒屋でアルコールが入ったところへ、周りの客が木平に気付き、キャッチミスを揶
揄し始めた。我慢に我慢を重ねそれでもからかいをやめない相手のサラリーマンに、大
声で怒鳴った。するとそれが新聞種になって、紙面を賑わせてしまった。いつの間にか
サラリーマンは木平に突き飛ばされ、怪我をしたことになっていた。この点は大声に驚
いて後ずさったサラリーマンが畳に落ちていたフォークを手で押さえつけてしまっただ
けという訂正が入ったものの、イメージダウンには歯止めが掛からず。
ラグビーの試合に復帰するも、心身のバランスを崩して絶不調。となると野次も大き
く、これが気になってならない木平のプレーはますますもって精彩を欠く悪循環に陥っ
た。
そんな木平を救った人がいる。
リハビリテーションのプログラム一環として行われたメンタルトレーニング。そのト
レーナーとして付いた女性、大角理恵《おおすみりえ》である。
ラグビー日本代表の木平を彼女はまるで知らないかのように、特別視することなく接
してきた。それだけでも新鮮だった。加えて、大角の指導の賜物か、精神面で大きな改
善が見られた木平は試合に復帰、かつての実力を再び発揮するようになった。
木平は大角理恵が自分にはなくてはならない人だと感じ、程なくして交際を申し入れ
る。首尾よくOKの返事をもらえた。木平の人生は明らかに上向き始めた。
本分も私生活も好調な木平だったが、夜は憂鬱になることが時々あった。あのワール
ドカップ決勝での落球を夢に見るのだ。夢の中での決勝戦は、スタンドを埋め尽くす観
客全員が異形の化け物になっていて、木平をブーイングして来る。文字通りの悪夢であ
る。
このくらいのことでと、木平は誰にも言わないでいたのだが、大角理恵と床を共にす
るようになってから程なくしてばれた。一人暮らしだと気付かなかったのだが、うなさ
れていたらしい。
「何でもないよ」
心配する彼女に対して、木平は最初とぼけて、何にうなされていたかをはぐらかして
いた。しかし、似たような症状が断続的に繰り返される。彼女の心配が収まるはずがな
い。結局、具体的に夢の中身を話すことになった。
そしてそれを聞いた大角は、木平の性格も踏まえて、「自分も怪物になったと思え
ば、少しは気が休まるんじゃないかしら」と敢えて軽い調子で言った。
木平はまさしく気休めでそう思い込んでみたところ、効果が出た。いきなり悪夢を見
なくなるなんていう劇的な効き目こそなかったが、頻度が減った。夢の中のブーイング
も聞き流せるようになってきた。
「ありがとう、理恵のおかげだ」
木平は大角理恵との付き合いを深め、二人とも結婚を見据えるようになった。
木平はラグビー選手だけあって、立派な体格を誇っている。ちょっとやそっと変装し
たくらいでは意味がない。冗談抜きに着ぐるみでも着ない限り、まず間違いなく気付か
れる存在と言えた。
決勝戦での悪夢のミス以来、しばらくは出歩くことが怖かった。外で人目にさらされ
るのが嫌で、引きこもりのような状態がしばらく続いた。変装してもすぐに分かってし
まう己の身体を恨みさえしたものだ。
だがときが経ち、この頃になるとだいぶ変わってきた。街中を歩いていて見付かるの
は同じ、キャッチミスの件を言われるのも同じ(「あのときは惜しかったよな〜」ぐら
いにマイルドな言い回しにはなっていたが)だったが、木平の方がうまく受け止められ
るようになっていた。ときには笑顔でスルー、ときには真顔で「本当に悔しいです」と
答えてから次大会への抱負を語り、またあるときにはおどけてキャッチミスした瞬間の
自分をセルフものまねしてみせた。
もう大丈夫だと、周囲も木平自身も思った。
ただ……木平の心の奥底に、何とも言い表しがたい澱のような物が溜まっていたのも
事実であった。
今さらミスを取り返すために、やり直しは利かない。信頼と栄光を完全に取り戻すに
は、次のワールドカップを待たねばならないだろう。
それとは別に、満たされぬ思いを埋めたかった。英雄として登り詰める寸前だった自
分を、再び脚光を浴びる存在にするために。
ぶっちゃけてしまえば、尊敬や憧れなどが詰まった視線と歓声と振動、あれを一度味
わったが最後、あの心地よい感覚をもう一度、すぐにでも全身に浴びて体感してみた
い。代わるもののない興奮を今一度感じ、次へのステップにしたい。
と、かような思いを胸の奥に抱いて、日々の暮らしを送っていた。
その日は会社は休みでラグビー部の練習もない。完全休暇だった。午後から大角理恵
とデートに行く予定の木平は、午前中を自主トレに当てていた。自宅から少し離れたと
ころにある河原で走り込んだり、筋トレ・ストレッチなどをやったり、あるいは遊具を
使って体幹を鍛えるなどしていると、ふと、がやがやしている気配が伝わってきた。ト
レーニングに夢中で気付くのが遅れたが、近くにある川の向こう岸にある建物、多分マ
ンションの周りに人が集まっているのが見えた。
そこから少し視線を上にやると、薄くではあるが白い煙が立ちのぼっているような。
煙の源はマンション……ということは。
「火事か?」
短く吐き捨てると、橋を探した。幸い、十五メートルほど川を遡った場所に橋が架か
っており、そこを渡ればマンションのそばまで行けそうだ。
木平は緩やかなアーチ状の橋をダッシュした。ものの一分とかけずに渡れるだろう。
が、一瞬、足を止めてしまった。何かが割れる音が小さく聞こえ、次の瞬間、マンショ
ンの一角から炎が吹き上がったのだ。下にいる野次馬?から悲鳴が上がる。
木平は再び猛ダッシュし、マンションの下まで駆け付けた。六階建てで、三階の部屋
から火が出て、どんどん燃え広がっている。
「消防車はどうなってるんです?」
主婦らしき女性を掴まえ、聞いてみた。
「はっきりとは分からないんですけど、交通渋滞に巻き込まれているとか。でも来たと
しても、この細い路地を通れるのかしらってみんなで心配してるんですけどねえ」
女性はそう答えてから木平に気付いたようだった。ただ、顔は記憶にあっても名前は
思い出せないという風に、指差して「あの、あれ」と言うだけである。
木平は礼を述べ、マンションの周囲の道路をぐるっと駆け足で回ってみた。無論、マ
ンションの部屋、特に上の方に誰か取り残されていないかを見るために。
「どうにかしないと危ないんじゃない?」
「早く来てくれないかしら」
若干緊張を帯びた井戸端会議のようなやり取りが聞こえて来た。女性二人の見上げる
先、煙の向こうに目を凝らすと、三階の一室――火元のすぐ隣の部屋だ――のベランダ
越しに小さな子供が見えた。まだ小学校入学前なのは間違いない、とても小柄な子だっ
た。風で煙が少し流されると、そのそばには母親と思われる女性もいた。煙を吸い込ん
でしまったのだろう、膝をついて苦しげに咳き込む様子が確認できる。
咳がどうにか止まると、「助けて! 子供がいるんです!」と叫ぶが、すぐにまた咳
が止まらなくなる。それでもなお声を振り絞り、「子供が。子供だけでも助けて……」
と切れ切れに言う。子供が泣き出した。炎と煙の恐怖よりも、自分の母親の苦しげな様
子を目の当たりにしたことで、怯えているようだった。
「――」
木平は突如、使命感が宿るのを感じた。立っている位置からさらにマンションへ近付
き、ベランダのほぼ真下まで来た。
「おかあさん! 部屋の中は?」
両手でメガホンを作り、声を張り上げる。一拍遅れて「無理です、煙と火で通れませ
ん!」としわがれ声の返事が。
「どうしてもだめだとなったら、お子さんを」
木平はそう叫びながら、両肘を曲げ、手のひらを上向きの状態で胸の高さで腕をがっ
ちり構えた。
「私が受け止めます!」
木平が何をしようとしているのか、野次馬にも伝わったらしい。空気がざわっとなっ
た。中にはラグビーの木平だと気付いた者もいよう。
木平はそのざわざわした人垣の方を振り返り、「近所のみなさんは毛布でもクッショ
ンでも何でもいいから持って来て! 大人の人を受け止められそうな物なら何でも!」
と大声で頼む。すると何名かがゆっくりとだが動き出し、ほどなくして駆け足で取りに
戻った。
「さあ! 合図さえくれればこちらは準備できています!」
木平が三階の親子に向かって叫ぶと動じに、新たな爆発が起きた。携帯タイプのコン
ロにでも引火したのか、短いがかなり強烈な爆風が起きる。悲鳴が降ってきた。
時間がない? 下から見上げるばかりで部屋の様子がよく分からない。果たして悠長
に当人の決断を待っていていい状況なのだろうか。
木平は一度だけ彼女達親子を促すことにした。
「おかあさん! だめだと思ったらいつでもいいですからねっ」
「――お願いします!」
返事が耳に届く。木平が上を見て目を凝らすと、すでに母親の両手が子供の脇の下に
入り、抱え上げている。予想していたよりも行動が早い。木平の腹づもりでは、ここか
らもう一度母親の合図があって、それから子供を手放すという流れだったが、切迫した
状況にある母親は最初の「お願いします!」が合図のつもりなのか、木平の位置を確か
める動作を見せると、黙って子供をやや前向きに放った。
(来た!)
息を詰める木平。
(今の俺はあのときとは違う。今こそ絶対にミスできない闘いだ! 俺は打ち勝ってみ
せる! 悪夢を完璧に払拭するんだ!)
* *
木平はあの夢を見なくなった。ラグビーワールドカップ決勝でハイパントをキャッチ
し損ない、負けにつながった悪夢を。
彼は今や、別の夢を見ている。
夢の中で彼の隣には女の人が立ち、二人の間には子供がいる。
(何で。何でまた受け止め損なってしまったんだ、俺は)
木平は別の悪夢を見るようになっていた。
呆然として立ちつくす女性と、割れた頭から血を流し、横たわったまぴくりとも動か
ない子供。そして見下ろしてくるようなマンションの影。
そんな光景が脳裏に焼き付いて離れない。
終わり