#407/566 ●短編
★タイトル (AZA ) 12/03/28 15:41 (450)
冷めた和 永山
★内容
逆紅に続き、北田が車を降り、ともに門扉を目指して歩いていると、小学三、
四年生ぐらいの男の子二人が、そこから相次いで飛び出してきた。枝のような
細い棒を手に、フラフープに似た金属製の輪っかを転がし、追い掛けている。
「坂があるから、外に出てはだめと言っただろう」
逆紅が穏やかだが強い調子で注意すると、少年達は「はーい」と言いながら、
輪っかを掴まえ、門の内へと戻っていった。
「――子供はいなかったよな?」
「親戚の子らだ。以前、外でやるのを許していた頃、あの輪がどこまでも転が
っていってね。人や車が通れば、危ないところだったんだ」
逆紅の説明に、北田が頷く。
漫画家・逆紅三太郎の家は、小高い丘のてっぺんにある。鳥瞰すれば、顔に
見えるように建てられていた。家屋が髪と鼻筋、庭にある二つの丸い池が小さ
な目、オーロラを模したオブジェが口、敷地を取り囲む塀が輪郭、そして二つ
ある車庫が耳といった具合だ。来客が駐車場に車を停めると、色とりどりの髭
が生えていくように見えなくもない。
が、大勢がひっきりなしに出入りしたのも昔の話。今は、爆発的ではないが
安定した人気を保つ連載二本を抱えるベテランに収まっていた。
人気絶頂だった頃、ファンが押しかけると煩わしいからという理由で、交通
の便の悪い土地に作られた。周りも林ばかりで、ご近所と呼べる家並みは皆無。
家の正面と裏とに、下り坂がだらだらと麓まで続く。おかげで現在はまことに
静かで、漫画を描くのに適した住環境と言えた。
「元々は、自転車だったんだ、あの輪。がたが来て壊れる前に、分解してああ
いう遊び道具にしたら、結構受けた。夏はともかく、冬は他の遊びが乏しいか
らな」
お盆の頃と年末年始は、逆紅の家に親戚や知り合いが集まって過ごすのが恒
例になっていた。仕事の関係者はほとんど呼ばないが、たまに例外がいる。今
年末の北田もそうだ。彼は逆紅の描いている雑誌の編集者である。かつての担
当で、今はよき理解者で相談相手といった存在だ。
「冬、ここに来させてもらったのは初めてだが、寒いねえ。晴れた日の昼だと
いうのに、池に氷が張っているじゃないか」
池の脇を通りながら、北田は首を竦めた。逆紅も筋肉の乗った肩を、今はす
ぼめている。
「ああ、あれは親戚のちび共に好評なんだ」
逆紅の笑いを交えた声が、北田の耳に届く。風が強くて続きがしかと聞こえ
ない。二人は家の中に入った。応接間に向かう。暖房が効いていて、人心地つ
けた。
「氷がどうして子供に好評なんだろう?」
フランス窓から中庭を眺め、改めて池の氷を確認した北田。逆紅は一段と大
きな笑い声を立てた。
「分厚くて頑丈な氷が勝手にできるからさ、スケートをするのにいいんだよ。
あんたを迎えに出発するまでは、あの子らが滑ってた。二人ぐらいがちょうど
いいんだ。一つの池が直径三メートル足らずだから単調だし、大勢だとよほど
うまく滑らないと頻繁にぶつかる」
「逆紅さんは滑れたっけ?」
窓際を離れ、ソファに腰を下ろした北田は、記憶をたぐった。確か、スケー
トだけでなくスキーも滑れないか、滑れても上手ではなかったはず。
すでにソファに収まっていた逆紅は、苦笑しながら首を左右に振った。漫画
家というイメージにはそぐわない、肉体派の彼には専用の大きなソファが置い
てある。
「試しに滑ってみたが、全然だめだった。滑り芸は苦手だな」
自分の台詞が気に入ったのか、逆紅はまた声を立てて笑う。北田は少し考え、
昔、連載が短期で終了したギャグ漫画のことを言っているのだと気付く。
北田が気付いたことを察してか、逆紅は「僕の本領はやはり、サスペンスに
ある」と付け加えた。
「よい原作があれば、ぜひ描きたいもんだ。前にも言ったけどさ、吾妻橋京さ
ん辺り、肌が合うと思うんだよな。いや、絶対に」
吾妻橋京は現代一線級の人気作家で、出す本のほとんどが映像化されるほど
だ。当然、小説誌だけでなく、漫画の原作依頼も殺到している。
「そのことなんだが、逆紅さんにクリスマスプレゼントがある。うちの社で口
説き落とせそうなんだ。先方も、逆紅三太郎先生ならと乗り気になっている感
触がある。いや、私の立場は、そういう報告を受けているだけなんだがね」
「本当か? そりゃ凄いプレゼントだ。ぜひ実現させてくれ。大ヒットを飛ば
しても体力的に保つのは、この先数年だろうからな。わははは」
逆紅が笑っていると、彼の妻が温かい飲み物を運んできた。
エプロン姿の彼女、多部信子は北田に挨拶しながら、前のテーブルにカップ
を置いた。逆紅よりも一回りほど年下で、小柄だが美人で通っている。今日は
忘年会を兼ねたクリスマスパーティが開かれるが、そこで供される料理のほと
んどが彼女の手作りだと聞く。
「どうも、奥さん」
「北田さん、お久しぶり。くつろいでいってください」
「準備の方は大丈夫だな?」
逆紅の言葉に、信子は「もちろんよ」と快活に応じた。その明るい表情を転
じ、少し眉根を寄せると、夫に耳打ちする。北田には聞こえなかったが、あま
りよい話ではなさそうだ。その証拠に、逆紅の顔に苦渋が走った。
「――分かった。あとで話そう」
多部信子が立ち去るのを待って、北田はなるべく気軽な調子で尋ねてみた。
「何かあった?」
「たいしたことじゃない。追加融資してほしいと、弟に頼まれているんだ」
「弟というと、確か真理夫さんとか言ったっけ。レストランをやってる」
「ああ。何かと苦しいらしい。店じまいして、それなりのところで雇ってもら
う道があるんだから、もう金を出すつもりはないんだが」
それから逆紅は何かを思い起こす風に、天井を見つめた。
「そういえば、車がなかったな。自慢のスポーツカーで来なかったってことは、
ひょっとしたら手放して金に換えたのかもしれん」
弟の店への執着心を感じ取ったか、逆紅は深い深いため息をついた。そのま
ま大きく伸びをして、ソファから立ち上がった。
「今、話した方がいいかな。嫌なことを後回しにするのは、性分に合わない」
「私が口出しすることじゃない。パーティの雰囲気を悪くされると、ちょっと
困るがね」
北田は冗談交じりに言ったが、逆紅は真に受けたらしい。立ったまま腕を組
み、迷う仕種を見せた。
「……パーティ中でもあいつが言ってきたら、そのとき考えるとしよう」
クリスマスパーティには、以下の面々が参加した。
ホスト役の逆紅夫妻、北田、多部真理夫の他に、信子の兄夫婦とその息子、
逆紅宅に食料などを届ける配達業者の関誠子とその息子、逆紅の学生時代から
の親友にして資料集め専門のアシスタントを務める浪川英志。都合十名になる。
担当編集者や描く方のアシスタントとの慰労会は、すでに別の形で開いたあと
だ。
パーティは騒がしくも陽気で賑やかに進んだ。逆紅と真理夫の仲も、北田が
懸念したほどではなく、険悪な空気が流れるどころか穏やかに会話を交わして
いた。小さな子供が場におり、隠し芸やカラオケといった定番のレクリエーシ
ョンが繰り広げられているせいもあったかもしれない。
「北田さん、一度でいいですから、関係者一同で店に来てください。サービス
しますよ」
北田のそばに立った真理夫は、そんな売り込みをしてきた。逆紅とかなり似
た顔立ちだが、頬が若干こけたような顔貌をしているから区別は簡単に付く。
しかし病的という雰囲気は欠片もなく、今出た誘い文句にも、金に困っている
オーナーの必死さは感じられない。
「機会があれば、寄らせていただくとしますよ」
当たり障りのない返事をしておいた。現実問題として、真理夫による金の相
談が漫画家・逆紅三太郎の仕事を停滞させるような事態になるなら、売り上げ
に貢献してやるのは意義があることかもしれない。
「ほとんどみんな酒を口にしてるな。全員泊まってくのかな」
北田はふと気になり、多部信子を掴まえて聞いてみた。酔った者を帰し、そ
いつが車で事故を起こしたとなると、逆紅の名前にも傷が付く。
「ええ。関さん親子だけ、お帰りになりますよ。あの方は飲んでいないはずで
す」
「なるほど」
安心した。関誠子とは今日が初対面だが、北田の眼にはしっかり者に映った。
配達先に子連れで招かれたという背景もあってか、気が張っているようだ。子
供達の姿が見えないが、さっきプレゼントされた車のおもちゃを見せっこして
いたから、どこかの部屋で遊んでいるのだろう。
パーティは予定していた段取りをほぼ消化し、最後にクリスマスらしく、ケ
ーキの切り分けが行われて、自然にお開きとなった。あとは各自が思い思いに
振る舞う。
「どうする?」
北田は逆紅に尋ねた。このあと、浪川を交えて年明けからの仕事の相談を少
しするつもりでいるのだが、逆紅の意向の最終確認をしておく。酔いの度合い
が傍目からでは分かりにくいし、酔ってないにしても弟・真理夫との話を先に
片付けようとするかもしれない。
「ああ。そうだな……」
機嫌はよいが眠そうな眼で、逆紅は応じた。
「先に真理夫と会っておく。さっき、そういう約束をしたんだ。長引くかもし
れん。だから、もし遅くて待ちきれなかったら、さっさと寝てくれてかまわな
い」
「分かった。浪川君にも伝えておくよ」
北田は一人、資料室を兼ねた図書室で待っていた。浪川から、この家で仕事
上の話や打ち合わせをするのは、たいてい応接間だと聞いていたが、逆紅の指
定でこの部屋になった。なるべく人に聞かれたくない、重要な話をするつもり
なのかもしれない、と北田は解釈した。図書室というだけあって、空調は適切
だし、防音もしっかりしている。あのユニークな池を眺められないのだけは、
ちょっと残念だが。
部屋には先ほどまでは浪川がいたのだが、しきりに船を漕いでしまっていた。
待たされてしびれを切らした、というよりも眠気に勝てなくなった彼が宛がわ
れた部屋に引っ込んでから、もうすぐ十分。
と思っていると、ドアが乱暴に開き、逆紅が息せき切って現れた。
「十時三十五分か。思ったよりは早かったね」
北田が腕時計から視線を上げながら言うと、相手は呼吸を整えつつ、何度か
首を縦に振った。
「そんなに急いでこなくても、大差ないのに」
苦笑混じりに北田は言って、逆紅に茶の入ったコップを渡した。それを飲ん
で、逆紅はようやく声を発した。
「すまん。説得に時間が掛かった」
「差し支えなければ、どうまとまったのか聞きたいな」
向かい合わせに座り、落ち着いて会話のできる状態になった。
「条件付きで少額の融資をすることになった。三月末までに立て直せなかった
ら、店を畳むという条件だ」
「ふむ。まあ、穏当なところか。だが、情にほだされ、ずるずると先延ばしさ
れやしないかね」
「いや、それはあり得ない。……元々、金を出すことに乗り気じゃなかった。
ある意味、こっちが説得されたことになるなあ。ま、小さい頃は本当に仲がよ
かったんだ。男兄弟にしては珍しいと言われるくらい。ちょっとやそっとじゃ、
完全に嫌うなんてできない」
逆紅がそう答えたとき、部屋のドアがノックも適当に開けられた。振り向く
と、真理夫がノブを持ってドアを押し開けた姿勢で立っていた。
「邪魔したかな?」
「いや、まだ本論に入ってなかった。どうした?」
「急用ができたんで、帰ろうと思う」
「こんな時間にか?」
「ああ。仕事のことで、思い付いたことがある。手を打っておきたい」
「そうか。遅いから、駅まで送っていってやろう。鍵はどこへやったかな」
ポケットをまさぐりながら逆紅が立ち上がろうとするのを、北田は袖を引っ
張って止めた。
「まだアルコールが抜けてないだろ。肝心なときにへまを起こすことになるぞ」
「……だな。他にも運転できそうなのはいないか。関さんも帰られたあとだか
らな。しょうがない。真理夫、タクシーを呼べ。金なら出してやるよ」
鍵を探していたはずの手で、財布を取り出した逆紅。そこから紙幣を何枚か
出すと、弟に向けた。掃除機に飲み込まれる紙切れみたいに、紙幣は真理夫の
手に移動した。
「ありがたく、使わせてもらうよ」
薄笑いを浮かべ、軽く手を上げると、真理夫は立ち去った。ドアを閉める音
が残った。
* *
「――と、いうことで、生きた真理夫の姿が確かに確認できたのは、これが最
後です」
花畑刑事の説明に、私は黙って頷いた。すぐに続きを話してもらってよかっ
たのだが、地天馬が余計なことを呟いた。
「確かに確認、ね」
「……」
刑事は明らかに鼻白んだ。だが、以前に比べると許容する器が大きくなった
らしく、「二重表現でしたな」と苦々しげに応えた。
「続きを言ってよろしいですかな、地天馬さん?」
「もちろん。その前に断っておくと、二重表現が間違いだと言っている訳では
ないよ。単に無駄だと感じているに過ぎない」
「……えー、その後……次に真理夫が見つかるのは、遺体になってから。翌朝
八時過ぎ、逆紅の家のある丘を下りきったところにある、川の畔に横たわって
いた。見つけたのは、朝食のあと、思索を兼ねて散歩に出掛けた逆紅と北田、
浪川の三名。死亡推定時刻は――」
「花畑刑事、ちょっといいかな。家からその川辺まで、高低差と距離はそれぞ
れ何メートルぐらいあるんだろう?」
地天馬が手を挙げ、質問を挟む。花畑刑事は嫌そうな顔を一瞬見せたが、手
帳のページを繰って、すぐに答えた。
「高低差は調べていないが、距離なら分かる。直線距離にして約九百メートル。
どうしてこんなことを気にするんで?」
「寒い日の朝っぱらから、わざわざ散歩に行くような距離かどうかだね。それ
も、平坦な道のりではなく、帰りは確実に上り坂になるというのに」
「言われてみれば、変だな……。先を続けます、よろしいかな? ええと、死
亡推定時刻は前日の二十三時から日をまたいで一時の間で、死因は撲殺。頭の
前と後ろを一回ずつ、硬くて平らな物で殴られたと見られる。凶器はまだ見つ
かっていない」
「丘の下まで歩いて行き、タクシーを待つ間に、通りがかりの強盗にでも襲わ
れたのかな?」
私が思い付いた感想を述べると、花畑刑事が「どうでしょうな」と疑問を呈
した。
「強盗に限らず、誰かがふらりと通り掛かるような場所じゃないんですよ。そ
の上、金目の物はそっくり残っていたし、タクシーを呼んだ形跡もないと来て
いる」
「タクシーを呼んでいない?」
つい、叫ぶような声で反応してしまった。話の流れからして、当然、呼んだ
ものと考えていた。
「兄から受け取ったタクシー代は、そっくりそのまま、財布にありました。も
しかすると、わずかでも金を節約しようとしたのかもしれないが、何だかおか
しい。実を言うと、真理夫の言っていた仕事上の手を打つべきことというのも、
はっきりしていない。あったかどうかすら怪しいもんだ」
「警察は、逆紅三太郎氏に疑いを向けているんでしょう?」
地天馬が言った。公式に発表された訳ではないが、芸能誌やスポーツ新聞の
類には、ちらほらと噂の形で載っている。
「ええ、まあ。動機のある人物が、逆紅ぐらいしか見当たらない。ああ、あの
夜、逆紅の家にいた人物の中ではという意味ですがね」
「真理夫が逆紅を殺して金を奪うなら分かり易いが、その逆というのはいかな
る動機を想定しているんだろう?」
「逆紅は弟に対し、融資とは言えない程度の少額の金を、毎月振り込んでいる。
漫画家で成功した兄が苦しんでいる弟に恵んでやっているのかもしれないし、
実際、本人はそう説明した。だが、期間が長きに渡っているのが、こっちとし
ちゃあ気に入らない」
「なるほど。脅迫していたんじゃないかと」
「その通り。店の窮状を救うための融資として、大金が必要になった真理夫は
兄に、大幅な増額を要求した。逆紅はここで切らないと死ぬまでしゃぶられる
と感じ、真理夫殺害を決意したのではないかと」
物語を創るのに向いているんじゃないかと思わせるくらい、花畑刑事は想像
力豊かに語る。ところが次の瞬間には一転してトーンダウン。
「脅迫の材料が見つからないんじゃあ、仮説に過ぎん」
「いや、いい線を行っているとは思いますよ」
地天馬が珍しく誉めた。花畑刑事はよほど驚いたのか、俯き気味だった顔を
起こし、真ん丸にした眼で地天馬をじっと見た。
「動機はひとまず、棚上げにしましょう。警察が逆紅を引っ張って自白を迫る
という手に打って出ないのは、相手が著名人だからですか」
「それもないとは言わんが、もう一つ問題が。アリバイがあるんでね」
「真夜中にアリバイが。ふん、興味深い」
「さっき話した通り、逆紅は北田と仕事のことで話し込んでいたんですが、そ
ろそろ切り上げようかという頃になって、酔いから復活した浪川が加わり、結
局、徹夜になったと言っています」
「クリスマスにそんなに働くとは、よほどいいアイディアが浮かんだのかな」
作家として私が皮肉を込めて言うと、花畑刑事はその通りと首肯した。
「俺にはよく分からんが、逆紅の出したアイディアがなかなか優れているとい
うか、転がし甲斐のあるものだったとか言っていたな」
「朝までずっと、三人一緒だったのかな?」
地天馬の質問には、首を横に振る刑事。
「無論、厳密にずっと一緒ってことはありませんや。トイレに立ったり、飲み
物を取りに行ったりで席を外している」
「当然、漫画家先生も外したと」
「三人の証言を総合すると、記憶が定かではないが、四度は席を外したはずだ
ということで一致を見てますな。用足しが三度、飲み物が一度。残る二人も似
たようなもんです。それぞれ席を外した時間は、一度につき長くて三分ほど。
これじゃあ、川の近くで真理夫を殺して、戻るなんてできっこない、車を使っ
ても無理だ」
花畑刑事が言葉を区切ると、しばらく静かに聞いてた地天馬が口を開いた。
「先に、真理夫の行動について想像を巡らせてみるべきだと思う」
「というと?」
「花畑刑事。あなたが最前話した通りだとすると、真理夫は金を受け取ったあ
と、電話でタクシーを呼び、家で待つのが普通だ。ところが、遺体は川縁で発
見された。タクシーを呼んだ形跡もない。金だけ受け取って使うのが惜しいか
ら、駅まで歩こうとしたのか。厳寒の夜に? 僕は真理夫が芝居を打ったよう
な気がしてならない」
「芝居って、そりゃあ、タクシーを呼ぶと言ってたのに呼んでないのは、確か
に芝居だが」
「それだけじゃありませんよ。タクシーを呼んだと見せ掛けて呼んでいないの
なら、兄の家にとどまっていたんじゃないかな。寒さをしのぐには、それが一
番簡単で自然だ」
「そうだな、逆紅犯人説を採るのなら、弟が家に留まってくれてないと、席を
外した僅かな時間に殺すこと自体が不可能になる」
私は同意した。地天馬は満足げに頷くと、花畑刑事に言った。
「真理夫は逆紅の家を出ることなく、どこかに身を潜めていた、まずはこれを
大前提としたいが、いかがかな」
「……悪くありませんな。新しい見方だ」
そこまで言ってから、刑事は大きく首を傾げた。
「でも、事態が好転するとは思えん。被害者が家に留まっていたとして、何が
変わるんだか」
「少なくとも、家にいる者には真理夫を殺す機会が確実にあったことになる」
「それくらい分かってますよ、地天馬さん。だが、殺したあと、遺体を川の近
くまで運ばないとだめだ。有力容疑者たる逆紅に、そうする時間があったか?
ないと思うんですがね、俺は」
花畑刑事の言う通り、席を外した三分で殺人を犯せても、遺体を下まで運び、
また家に戻ってくるのは至難の業だ。
「困難は分割しろと言いますが」
私は先達の至言を思い出しつつ、言ってみた。
「最初の三分で殺し、次の三分で車に積み込み、そのまた次の三分で川まで行
って戻るというのはどうですか」
私の意見に対し、刑事は唇を歪め、否定的な返事をよこした。
「一応、検討してみますが、無理でしょうな。遺体を車に積むのは何とかなっ
たとしても、家と川の間を車で往復するのが難しい。真理夫を追い掛けて殺し
た場合を想定して、車での移動時間を計測したんだが、三分では行くのがせい
ぜい。遺体を降ろし、また戻るにはあと……六分は最低でも必要じゃないかと。
これは分割できない、三分と六分で、連続した九分がいるって計算だ」
「そうですか。実地検証待ちだが、恐らくだめでしょうね」
私はしばし考え、次の思い付きを口にした。
「共犯者は?」
「今のところ、影も形も。強いて挙げると奥さんだが、運転が皆目できない。
遺体を担いで、えっちらおっちら運んだとも考えられんし」
「信子夫人の兄という人はどうです? 運転はできるんでしょう?」
「もちろん。でも、逆紅と仲が悪い訳じゃないが、犯罪を手伝うことはまずな
い。メリットが皆無だ」
捜査関係者が断言するのなら、確かなのであろう。
「じゃあ、北田と浪川が共犯というのはどうですか。この二人が共犯なら、ア
リバイ自体が無意味になりますし、漫画家を守るという動機が一応ある」
「下田警部も同じことを言ってましたよ。ベテラン漫画家を守るため、協力す
ることはあるかもしれんと。だが、聞き込みをしてみると、浪川が当夜、間違
いなくひどく酔っぱらっており、夜中になって起き出せたのはたまたまだとい
うことが分かった。言うなれば、浪川が加わったのは偶然だ。北田にしても、
現在は逆紅と直接関係のある仕事をしている訳じゃなし、逆紅が人気絶頂の頃
ならともかく、人生を棒に振るかもしれん危ない橋を渡ってまで、今の逆紅を
助けるのは考えにくい。そんな結論がすでに下された」
「直接捜査した人が言うのなら、そうなんでしょう」
私は共犯説の列挙を止め、黙した。手詰まり感が漂う中、花畑刑事が改めて
地天馬に噛みついた。
「どうなんです、地天馬さん。前提を決めても、何の進展もないんじゃありま
せんかね」
「やれやれ、だね。二人とも先走っているよ」
いらいらが口調にも露わな刑事とは対照的に、地天馬は悠然と言い放った。
「真理夫が家のどこかに潜んでいたとするなら、それが家主である逆紅の許可
を得ている可能性に言及しなければならないだろう。言い換えれば、真理夫の
芝居は逆紅も承知、いや、むしろ逆紅の主導で行われたんじゃないかと疑って
みるべきだ」
「逆紅が真理夫を」
「そう、犯人が被害者をコントロールして、自分にとって都合のよい状況を作
るのは、さほど珍しくない」
「ですが、コントロールったって、催眠術じゃあるまいし、川縁まで歩いて自
分で自分の頭を殴って死ね、なんて命令を真理夫が聞く訳ない」
「そんな意味ではないよ、花畑刑事。コントロールした目的は、これまでの議
論で出て来ている。手近にターゲットを置き、ちょっとした短い時間で殺害で
きるようにするためだ。あとは、同じく短い時間で、どうやって遺体を川の近
くに横たえるかの問題さ」
「何だ、結局そこに行き着くんですか」
気抜けしたように花畑刑事は肩を落とした。
「それが分からんから、頭を悩ませているのであって……。歩きも車もだめと
なると、あとは何があります? ヘリですかラジコンですか?」
「一つ、想像していることはある。仮に当たっていたとしても、証拠が残って
いるかどうか」
細い顎を撫でる地天馬。花畑刑事は貧乏揺すりをした。
「勿体ぶらず、さっさと披露してくれませんかね。証拠なんざ、当たっていれ
ばあとからでも見つかる」
「――花畑刑事。遺体が発見された朝、逆紅家の池で、誰かがスケートをしな
かっただろうか」
「ん?」
問われた内容が意外のさらに外だったのか、花畑刑事は強面を形成する眼を
大きく見開いた。デフォルメしたゴリラと表現したら、当人は怒るに違いない。
「分からなかったら、今からでも聞いてみて欲しいんだが」
「いや、それが分かっておるんですよ。警察が駆けつけたとき、男の子がズボ
ンを盛大に濡らして、乾かしていたのを何人かの捜査員が目撃して、その理由
を子供の親に尋ねたところ、池でスケートをしようとしたら、氷が割れてしま
ったと」
「ほう、それは素晴らしい証言かもしれないぞ。映像があれば、もっとよかっ
たんだが」
「実は映像もあります。見ちゃいませんが」
「何!」
地天馬はその表情に、驚きと喜びを同時に浮かべた。花畑刑事は心配げに相
手を覗き込む。
「ねえ、地天馬さん。ほんとにこんなことが、事件と関係あるんで?」
「あるとも。さっきは可能性だけだったのが、氷が割れたという事実が確認で
きたことにより、俄然、本命視すべき仮説になった。花畑刑事、その映像は父
親か母親かが、子供を撮ろうとしたものですか」
「確か、父親が撮ってたんだったかな。面白い動画が撮れると投稿する趣味が
あるらしくて」
「結構。何ら裏のない撮影だ、証拠として申し分ない。ああ、再確認しておき
たい。冬の間、逆紅家の池は分厚い氷を張るの常であり、割れるようなことは
まず起こらない。間違いないね?」
「実際に確かめちゃないが、皆、そんなことを言ってましたよ」
「よろしい。では、どうして事件の翌日、遺体の発見された朝に限って氷が割
れたのか。一晩でその男の子が劇的に太った訳ではあるまい。氷が薄かったと
考えるべきだ」
「でも、氷が自然に薄くなるなんて、あるか? 溶けてもないのに」
私が合いの手代わりに疑問を挟むと、地天馬はさらに調子づいた。
「自然に、ではないよ。犯人、恐らくは逆紅の手によって、元々できていた分
厚い氷は剥がされたのさ」
「剥がされた?」
花畑刑事とデュエットしてしまった。我々が互いに視線を交わす間にも、地
天馬の説明は続く。
「バールでも何でもいい。適切な工具がきっとあると思う。池の縁に先を突っ
込み、氷を起こし、最終的に池から剥ぎ取るんだ。それを二つの池でやると、
どうなるか。同じ大きさの巨大な円盤型の氷が二つ、揃う」
「そんな物……何に使うんだ」
花畑刑事が呻くように言った。きっと、頭の中で想像しているに違いない。
「遺体を挟むんだよ」
「何だって?」
「下準備として、遺体には適量の水を掛けておく。そうしておいてから二枚の
分厚い氷に挟み、しばらく夜の寒気にさらすとどうなるか。当然、凍る。凍ら
せた物を立てると、一つの巨大な車輪のようになるだろう」
「え? てことは……まさか」
「察しが付きましたか、花畑刑事」
「その、信じられんのだが……家の門から出て行くように、ぐいと押してやっ
て、丘の下まで転がしたと?」
花畑刑事の言った光景を、私も脳裏に描いてみた。遺体をサンドした巨大な
氷の車輪が、冬の星空の下、坂を転がっていく……。滑稽だが、一面、ある種
の美しさも感じられる。奇妙、いや、奇想の風景としか言いようがない。
「ええ。漫画家らしい発想だと思うのは、色眼鏡かな。逆紅三太郎の作品を読
んだことがない僕には、何とも言えない」
「もし仰る方法が実行されたとして、氷はどこへ消えたんです?」
「途中で多少砕けたでしょうが、大部分は川に落ちて流されるなり溶けるなり
した。痕跡が見つからなくても無理ない」
「なあ、地天馬。氷を剥がしたり遺体を挟んだりの準備を、三分間でできるか
な?」
私が別の疑問を呈すると、彼は「さっき君が言ったじゃないか。困難は分割
せよ、さ」と答えた。さらに付け足す。
「もう一つ考慮すべきは、逆紅が真理夫をコントロールしていたという点だ。
逆紅は自分が北田らと話している間、真理夫には氷を剥がす作業をさせていた
かもしれない。これなら、逆紅本人のアリバイは関係ない。言いくるめるのに
苦心したと思うが、氷の巨大な車輪を作ってみんなを驚かせたいから手伝って
くれとでも言ったかな。恐らくは相当な大金を餌にしたんだろうがね」
自信ありげに語った地天馬を前に、我々もそんな気がしてきた。
後日、下田警部と花畑刑事によりもたらされた報告によると、地天馬の推理
――今回は直感の占める割合が高かったが――は、見事に的を射ていた。逆紅
はこの奇想天外な絡繰りによほど自信を持っていたのであろう、事情聴取に出
向いた刑事が池の氷を使ったんじゃないかと仄めかすと、あっさり犯行を認め
たという。唯一、地天馬が気付かなかったのは、より頑丈に固まるよう、池の
水に大量の塩を投じていたことぐらいだった。
「つまり、計画的な犯行だった訳か」
「そのようだね。まあ、池の水を調べて、高い濃度の塩分が検出されたという
から、これも一つの傍証になる。裁判は大丈夫だろう」
そう述べる地天馬の手には、一冊のコミックがあった。タイトルは『青の判
定』。逆紅三太郎の代表作の一つだ。大方読み終わったようなので、私は感想
を聞いてみた。
「どうだった?」
「面白い面白くないの前に、未読でよかったと思ったよ」
「ん? 意味が分からん」
地天馬はコミックのページをぱらぱらとめくり、少し読み返す仕種をした。
「君はこの作品を読んでるのかい?」
「ああ。逆紅の漫画は結構読んだよ」
「じゃあ分かると思うが、彼の作風はどちらかというと現実世界に立脚した、
非常に手堅いサスペンスだ。今度の事件に関わる前に、もし僕がこれを読んで
いて、逆紅三太郎とは現実的な考えの持ち主なんだなと思い込んでいたとした
ら、解決までもっと時間を要したかもしれない」
本気とも冗談ともつかぬ調子でそう漏らすと、地天馬はコミックをぱたりと
閉じた。
――終