#97/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/06/30 22:48 (449)
お題>うどん 永山
★内容
神原国彦は携帯電話を胸ポケットに押し込むと、スーツが泥で汚れるのも厭
わず、横たわる温井純也のすぐ脇に跪いた。苦しげに呻く温井の上半身に腕を
回し、ゆっくりと抱きかかえた。傍らには、日下元太郎が呆然とした体で立ち
尽くしている。エリート学生も眼前の事態はあまりにも日常から離れすぎて、
手に負えないらしい。それも不思議じゃないなと神原は頭の片隅で思った。
「大丈夫か。助けは呼んだ。気をしっかり持て」
ポロシャツの腹の辺りが血で赤く染まっている。その染みは今も領地を急速
に拡大しつつある。
「……う……」
「何だ?」
「や、やられ……た」
「無理して喋るな。傷は浅い。助かるから」
夜の野外、暗がりだったが、外灯の明かりだけでも傷の深さははっきりと分
かった。それでも「傷は浅い」と云わずにはいられなかった。
「やられた。う」
神原の言を聞き入れず、温井はかすれた悲鳴のような声で続けた。背後で砂
利を踏み締める音が、荒々しく起こる。このときになってようやく、他の面々
も駆け付けてきた。
神原は喋ろうとするのをやめない温井を思い、あとから来た学生連中に立ち
止まるよう叫んだ。足音が消え、そして耳を澄ませる。
「云いたいことがあるなら云え。云ったら、すぐ大人しくしろよ。助かるんだ
からな、おまえは」
「う……うどん……」
現状の危急性に全くそぐわない、珍妙に聞こえるフレーズを口走った温井は、
次に「げっ!」という奇声とともに、口から血を吐いた。量はさほどでもなか
ったが、激しい勢いで飛び散る。刺し傷が内臓に達しているらしい。
さしもの神原もしかめっ面になったが、励ますことはやめなかった。
しかし温井は間断のない咳を続けた。かと思うと、不意に首を後ろにがくり
と折った。目は閉じられ、口は開きっ放しで血はただただ流れ続ける。意識を
失っていた。
「温井君! 温井! おい、起きろ。起きるんだ!」
「この中で、『うどん』が指し示す人物はいますか」
年輩の刑事がログハウス一階のダイニングの上座に仁王立ちし、木製テーブ
ルに着く神原達七名を見渡した。言葉遣いは丁寧だが、威圧感のある物言いに、
場の緊張が密度を増す。彼の後ろにはキャスター付きホワイトボードがあって、
その表面には縦に関係者の名前が記されている。
山間のキャンプ場に泊まり掛けで遊びに来た某国立大学の学生グループの内
の一人、温井純也が刺殺された。現場はペンション風ログハウスから約三十メ
ートル離れた駐車スペースの一角で、犯行推定時刻は出血量その他より午後八
時からの一時間以内と見られる。風呂に行ったはずの温井が二時間経っても戻
らないし、風呂場にいないということで騒ぎになり、全員で探し始めたのが午
後九時半頃。程なくして虫の息の温井を見つけた。
凶器は未発見、他の遺留品も今のところ見当たらない。雨が止んで間もなか
ったが、現場周辺は砂利が敷き詰められていたため、足跡も検出不能だった。
しかし警察は、駐車場以外のぬかるんだ地面に残る足跡から、事件関係者は
遺体発見時に敷地内にいた面々であると断定した。内訳は、学生グループの残
り三名――日下元太郎、鈴木哲郎、藤田主水にプラスして、骨休めのためこの
地の温泉に浸かりに来た神原国彦、若き昆虫学者の月見里佳子、婚前旅行に来
た免田義徳と有働和美のカップル。都合七名に絞り込まれていた。
厄介なのは、七人全員にアリバイがない事実である。神原は一人で温泉に入
っていた。月見里は部屋で読書。免田と有働は雨が上がったので外に出てみた
と云うが、カップルなので確実な証言とは見なされない。学生連中は三人とも
酒を飲んで各自の部屋で寝ていたらしいが、これまた証人なし。肝心の被害者
の行動もはっきりしないが、車の中に置いたままの洗面道具を取りに行ったと
ころを襲われたものと推測されている。
以上のような状況により、被害者の遺したダイイングメッセージに注目が行
くのは極自然な成り行きだった。
「随分とストレートですね」
神原は愛想笑いが出ないように表情を引き締め、感想を漏らした。目と鼻の
先に立つ刑事が、じろりと見下ろしてきた。
「あなたが証言したのですよ。被害者の温井さんは『うどん』と云い残し、絶
命したと。手がかりの一つと見なし、こうして皆さんに伺うのは常道でしょう。
それともあれは冗談か聞き違いだったとでも?」
「いえいえ。私だけでなく、日下君も聞いていますから、まず間違いない。な
あ、日下君?」
知り合って半日ほどだが、打ち解けた口調で同意を求める神原。日下は青白
い顔をはっと上げ、かくかくと音が聞こえてきそうな首の振り方をした。刑事
の方を見ずに、独り言めいて喋る。
「絶対に、『うどん』と云っていました」
「そうですか。お二方の証言があるのならば、間違いないと云えるでしょう。
そこで最初に戻る。『うどん』から連想される人物は、この中にいますか」
「仲間を売るようなこと云ったら、やばいっしょ」
刑事から一番離れた席で、ふてくされたように鈴木がつぶやいた。勿論、刑
事は聞き逃さない。
「心当たりがあるのなら、云ってもらえますか。大きな声で、はっきりと」
刑事に求められると、意外にも鈴木はにやりと口元で笑い、嬉しそうに応じ
た。
「俺達の中で、うどん好きなのが一人いる。藤田。違うとは云わさないぜ」
芝居臭く、鈴木は藤田を指差した。藤田は掛けた眼鏡の真ん中を、人差し指
でぐいと押し上げ、己を告発した相手を黙って睨み返した。
「彼のうどん好きなら、私も聞きました。笑い話の種になっていたみたいです」
月見里が云った。殺人事件が起きたというのに、狼狽えた様子は微塵もない。
「どのような笑い話で?」
刑事は彼女だけでなく、場にいる全員に尋ねた。数秒の静寂を挟み、藤田自
身が口を開く。
「一年生のとき、学際のイベントで、うどんの早食いがあったんですよ。ぶっ
ちぎりのトップだったんだけど、最後に来て吹いてしまって」
「鼻からうどんが出た。それも左右一本ずつ。皆、大爆笑」
落ちの部分だけ、鈴木が澄ました調子で云った。藤田は横目でまたも睨みつ
けるが、口の方は怒りを閉じ込めるかのように硬く結んである。
「それ以来、こいつを鼻うどんて呼ぶようになった奴が何人かいたという訳で
す。ああ、死んだ温井もそう呼んでいましたよ」
「うどんではなく、鼻うどんですか」
鈴木達の話をどう受け取ったのか、刑事の表情に変化はない。
「虫の息だったんだから、『鼻』を省略してもおかしくはないでしょう」
「本名を云えばいいとも思えますがね。死ぬ間際に渾名とは、どうもしっくり
来ない」
刑事の疑問に、鈴木は肩をすくめた。そこに隙を見い出したのか、藤田が急
に逆襲に転じた。
「おい、鈴木。おまえだって、面白い渾名を戴いていたことがあったな。後頭
部の髪を刈り上げていた頃。何だったけな、あれは」
「……分かっているのなら、さっさと云えばいい」
鈴木はそっぽを向き、藤田は刑事を見た。
「刑事さん。鈴木にはウドという渾名があったんですよ。入学してからしばら
く、後頭部を刈り上げて、あとは髪を立ててね。芸能人のウド鈴木と似た髪型
で、名字も一緒だから、ウドと呼ばれていた」
「被害者が云ったのはうどんではなく、ウドだったと?」
「その可能性もあるんじゃないかというだけのことです」
積もった怒気を吐き出してすっきりしたのか、藤田は椅子に深く座り直し、
腹の上で両手を組んだ。本気で鈴木を疑っているのかどうかは、判断できない。
「俺は、今はウドじゃない」
鈴木が低い声でつぶやいた。刑事は適当な感じで首肯し、
「うどんにしろウドにしろ、本名を云わないという疑問は残る。まあ、こうい
うのも今風なのかもしれませんがね」
と僅かに困惑の色を見せた。それからはたと閃いたみたいに、手を打った。
「本名というのなら、有働さんが最も近いようですが。その、発音が」
寄り添って座るカップルを見据え、探る風に聞いた。即座に反応したのは男
の方だった。
「うどんではなく、『うどう』だったとでも? 笑い話にもならない」
免田は案外冷静な口ぶりで応じつつ、有働の手を握る。
「第一、ここで知り合ったばかりの学生さんをどうこうするなんて、ある訳な
い。動機がないというやつですよ」
「裏の動機があるかもしれないし、酔った学生が有働さんによからぬことを働
こうとしたのかもしれない。その弾みで……というのもないとは云い切れませ
ん」
「そんなの、ありません!」
有働が甲高い声で否定した。長い髪が乱れて、顔の前に掛かる。それを鬱陶
しそうに払った。
免田は彼女の肩に手を回し、刑事に抗議を続けた。
「そういう笑い話みたいなことを証拠にするというのなら、僕も当てはまるん
じゃありませんかね? 免田の免は麺類の麺に通じる。うどんは麺類だ、とね」
「それはあまりにこじつけが過ぎるというものです」
「じゃあ、私もかしら」
不意に割って入ったのは、月見里。最前から爪をいじっていたようだが、今
はやめている。
「私の名前、読み方は『やまなし』ですけれど、字面は月見里ですものね。う
どんから月見うどんを連想できなくはありません。いかがです?」
「月見里さん、いい加減にしてください」
刑事がたしなめるが、月見里はまだ言葉を重ねた。ただし、これ以降は真剣
な様子が感じられた。
「私の記憶では、確かに学生さん達と知り合いましたが、正式な自己紹介はし
ていませんでした。そうじゃありません、皆さん?」
女昆虫学者が他の関係者を順に見回す。神原は真っ先に頷いた。
「云われてみれば、そうだった。私は名字だけを名乗り、月見里さんは、名前
と、えっとクサカゲロウの研究をしている昆虫学者だと自己紹介したんでした
な。免田さんは……うん、免田さんも名字と某企業の会社員をしていると云っ
たあと、有働さんを恋人の和美だと紹介した。結婚するとも云ってましたな」
「つまり……有働さんの名字を、学生さん、君達は知らなかったのか?」
これは重要だと察したらしい刑事が、鋭い語調で云う。日下がおずおずと答
えを返した。
「そ、そういえば、有働さんの名前は、事件があってここに集められたときに、
初めて聞きました。それに、月見里さんの漢字も、初めて知りました。ま、間
違いないです」
この話を、鈴木と藤田も支持した。被害者が「有働」と云い残した可能性は
なくなった。また月見うどんからの連想という馬鹿げた説も、完全に消えた。
「犯人を見たのなら、やはり名前を口にすると思うのですよ」
刑事はあくまで自然な状況に拘りたいようだ。
「亡くなった温井さんは、犯人を見なかったとは考えられませんか」
神原が思い付きを口にする。
「見なかったから、犯人の名前も分からない。そこで何か他の意味で犯人を示
す『うどん』を云った……」
「被害者は真正面から刺されており、さらにあの場所は外灯のおかげで明るか
った。仮に突然刺されたとしても、顔ぐらい見えたでしょう」
刑事は冷静に否定した。神原自身も、倒れた温井を見つけたときの情景を思
い起こし、納得する。
手詰まりの雰囲気が醸成され始めたそのとき、建物の外が騒がしくなった。
警官やここの管理者を交えて、揉めている気配が感じられる。
「何事だ、まったく」
神原達にそのままお待ちくださいと云い置き、刑事が出て行く。
だが、命令を無視して立ち上がった鈴木は、窓ガラス越しに外を見た。すぐ
に舌打ちする。
「見えねえな」
最前、刑事が通ったドアから、鈴木もまた出て行こうとする。
「勝手な行動は、やめといた方がいいんじゃないか」
藤田が撫然として忠告するが、鈴木は立ち止まって振り返り、「馬鹿野郎。
隠れていた犯人が出て来たのかもしれないぜ」と嬉しそうな表情を見せた。
「そうか。隠れているという可能性も捨てきれんな」
神原は盲点を突かれた思いで、つい腰を浮かせた。しかし、鈴木が戸口前に
立つ制服警官に押し戻されるのを目の当たりにし、続いて出て行くのはあっさ
り断念した。代わりに、その警官に聞く。
「何があったのですか」
「大したことではありません。ご安心ください」
「いや、しかし、もしも隠れ潜んでいた容疑者が現れるか、目撃されるかした
のなら、我々にも大変重要なことでしょう」
「そのようなことは起きていません」
云い切る警官だが、彼に外の情報がどれほど届いているのか、断言するだけ
の根拠を持っているのか、甚だ怪しい。
そこへ先ほどの刑事が戻って来た。背後に、管理者と背の高い女性を引き連
れて。
「そちらの方は」
警察関係者とはとても思えない若い女性を目で追いながら、神原は刑事に問
うた。女性はすらりとしたモデル体型だが、大きなリュックを担いでいる。髪
は見事な栗色だ。
「こちらに今夜泊まる予定の方で、到着が遅れていたという話です。疲れてい
るから早く休みたいと仰るので、とりあえず部屋にご案内を」
現場保存の必要があるとは云え、旅行者を締め出す訳にもいかない。部屋で
大人しくしていてもらう、これが警察にできるぎりぎりの譲歩だろう。
「ここは食堂?」
女性が管理者に聞いている。そうですよという返事に、女性は荷物を下ろし
た。
「何を」
刑事が咎める。早く出ていってもらいたい気持ちで溢れていた。女性はリュ
ックの口を解きながら、にっこりと微笑む。
「食堂ですることと云えば、食事よね。遅い夕食を食べる」
「待ってください。お部屋の方で願います」
「お腹空いてるのだけれど、だめ? 広い部屋で食べたいわ」
「事件の捜査中です。皆さんから事情を伺っているので、ここは」
「つまり、事件を解決したら、この場所は空くのね」
テンポよい話しぶりに、刑事も乗せられたか、首を縦に振った。振ってから、
「事件を、解決したら、ですと?」と慌て気味に付け加える。
「そう云ったわ」
「事件が解決したら、ではなく、事件を解決したら、と云うからには……」
「私にも事件を考えさせてもらいます。一刻も早く安寧を得て、ぐっすりと眠
れるようにね」
「な」
刑事も、事件関係者も圧倒されていた。その合間に、女性は空いていた椅子
に腰掛け、足を組んだ。
「始めましょう。悪いけれども、最初から。私にも分かるように」
「しかし、ですな」
「事件のあらましを整理する意味でも、もう一度見直すことは必要ではありま
せん?」
「そりゃそうだが」
月見里と有働を除くこの場の全員が、思わぬ第三者に参っていた。美貌に当
てられたのかもしれない。
「混乱させるのは、やめていただきたんですけれど」
女性陣の内、有働が険しい顔つきで云った。
「混乱ではなく、秩序をもたらすつもりよ」
「秩序? じゃ、じゃあ、あなた、本気で犯人を捕まえる気なの? 信じられ
ない!」
「逮捕は警察の仕事で、私は事件の真相を見てみたいだけなんだけれど、まあ、
いいわ」
「解けなかったら、どう責任を取る気?」
「公務執行妨害罪で捕まってもいいけれど、あなたはそれだけじゃ満足しそう
にないわね。有り金全部渡すっていうのは、警察の人がいるから難しいし。ど
うしましょ?」
尖った顎を僅かに上げ、思案げにする女性。
「別に物なんていらない。土下座してくれればいいわ。ほんとにもう、折角の
旅行なのに、殺人事件なんかが起きて、いらいらしてるのよっ。その上に、あ
なたのようなおかしな……」
免田に止められ、やっと黙る有働。
「それじゃ、話もまとまったことですし、刑事さん?」
女性は優雅な調子で、説明を始めるよう促した。
刑事の話が終わると、件の女性はまず、神原と日下を振り返った。
「温井さんの最後の言葉を聞いたのは、あなた方だけ?」
「そうなります」
神原が代表する形で答えた。
「正確に、『うどん』と?」
「正確にと問われると、少し難しいものがありますが……『う、うどん』と言
ったきりで、あとは『げっ!』と凄い勢いで血を吐いた。こんな具合だったな
あ、日下君?」
「ええ、ええ。そんな風に聞こえました」
「なるほど」
微笑混じりに頷くと彼女は椅子を動かし、月見里に身体毎向いた。
「あなたは名刺か何か、お持ち?」
「え、名刺? 持っていますが、それが何か」
困惑も露に、首を傾げる月見里。女性の方は上目遣いになった。
「全部拝見してもいいかしら」
「ぜ、全部? 何故? 一枚で充分ではないの?」
「最有力の仮説を検討するために、全てを見る必要があります。快くお願いし
ますね」
「……」
刑事を見やった月見里だが、止めてもらえないと悟ったか、「分かりました」
と立ち上がった。
「部屋に置いたままなので、取ってきます」
「え、それは困るな。仮説が当たっていて、問題の物を処分されたら困るから。
刑事さん、身体検査できます?」
いきなり問われた刑事は、どもった上にせき込んだ。息を整えてから、改め
て答える。
「私には無理だが、婦警がいますので、すぐにでも」
「抜かりなくて、結構なことだわ。さあ、月見里さん。どうしましょうか」
「……名刺くらい、好きなようにすればいいわ」
懐から名刺入れを取り出す月見里。だが、女性はそれには目もくれず、「全
部出してくださいね」と念押しする。
「それで全部よ」
「まだありますよね。さっき、部屋に行こうとさえしなければ、信じてもよか
ったんですが、あれで一層怪しみました。剥き出しの名刺が、多分、ポケット
の中か財布の中にでも入っているんじゃないかしら」
「……」
月見里は黙りこくり、スーツの胸ポケットからよれた一枚の名刺を取り出し、
木の机に放った。名刺は泥らしき汚れ跡を拭ってあった。
「月見里さん。この名刺はどうしたのですか」
名刺を摘み上げることなく、真上から指差した刑事は、怪訝さを隠さず、率
直に尋ねた。彼自身、まだ名刺の持つ意味を理解できていない証だろう。
「外で落としただけです。拾って、仕舞っていたのよ」
「いつです? 雨上がりのあとであることは間違いないようですが」
今度の問い掛けには、答えるのを渋る月見里。
刑事は「どういうことで?」と、探偵役を務める女性に助言を求めた。
「恐らく、亡くなった温井さんから取り返したんでしょう。彼を死なせてしま
った直後に」
「月見里さんが犯人だと?」
「そのようですね」
女性の言動から、刑事だけでなく誰もが察しはつけていたに違いないが、や
はり衝撃が走る。
名指しされた月見里は、空を握りしめた手を震わせた。
「どうしてそうなるのでしょうか。分かるように話してくださらないと」
声はまだまだ冷静さを保っている。
「温井さんは誰に刺されたか分かったはずなのに、名前を云わなかった。何故
でしょう? シンプルな一つの答があります。名前を知らなかったのではない
かしら、なんて」
「まさか! そりゃあない」
大人しく聞いていた鈴木が、我慢できなくなったみたいに声を発し、席を立
った。鼻の下を擦り、考えをまとめるためか、時間を取った。
「俺達は簡単にだが自己紹介をし合った。全員の名前を知っている。漢字でど
う書くかは知らなくても、発音はできるっしょ」
「その名前の読み方に、温井さんは疑念を抱いていたんじゃないかなって思っ
たの。より厳密を期すなら、温井さんは犯人が偽名を使っているのではないか
と疑った……」
「どういうことですか。さっぱり分からない」
刑事が片手で頭をかきむしる。
「温井さんは月見里さんの名を『やまなし』と聞いた。そこに錯誤はありませ
ん。しかしね、月見里さんがどこかで名刺を落とすのを目撃し、それをすぐ拾
った温井さんは、錯誤を犯した。あの昆虫学者、『やまなし』と名乗ったのに、
この名刺には『つきみさと』ってあるじゃないか。怪しいぞ……ってね」
「はあ?」
「この名刺には振り仮名も、ローマ字表記もないわ。月が見える里とは周りに
山のない土地、だから月見里をやまなしと読むんだそうだけれど、そういった
呼び知識がなければ、『つきみさと』と読むのが普通でしょう?」
女性と月見里を除く全員が異議なしとばかり、何度も首を縦に振った。
「温井さんは月見里さんが偽名を使っていると思い込んだ。あまりにも短絡的
すぎるけれど、これは被害者自身、偽名を用いて悪事を働いた前歴があるのか
もしれない。全くの想像ですけどね。それは横に置くとして、温井さんはこれ
は脅迫の種になると、ほくそ笑んだんでしょう」
「脅迫?」
免田と有働、神原に刑事の声がカルテットを形成した。女性は口元を緩め、
月見里を凝視した。
「お金か、もしくは、この方の身体目当てかもしれない。とにかく、何らかの
利益を得られると考えた温井さんは、探りを入れるべく、月見里さんを駐車場
に呼び出したんでしょうね。落とし物を拾ったけれど、人目に触れるとやばい
からとかどうとか理屈を付けて。そして、まずは当たり障りのないところから
会話をスタート。そう、昆虫の研究ってどんなことをしてるんですか、とかか
しら」
「……」
「ねえ、月見里さん。素人からもしこう聞かれたら、どんな説明をします?」
「……クサカゲロウの生態を、と」
「そうじゃないでしょう。もっと面白く。だって、クサカゲロウには面白い逸
話があるんだから。それこそ、一般の人でもちょっと興味を引かれそうな。そ
れを話さない手はないと思いますね。興味を持ってもらうために」
「……」
「三千年に一度咲くとされる伝説の花。ここまで云えば、あなた自身が話して
くれる?」
「……やっぱり、優曇華を知っているのね」
月見里の口にした聞き慣れない単語に、刑事が反応する。
「うどんげ、とは何です? うどんの一種じゃないようですが」
「彼女の説明したように、三千年に一度咲くという伝説のある花です。極めて
珍しい物事が起きることの比喩に使われるほどです。私の研究テーマの一つで
もあるんですが……」
「ははあ……しかしおかしいですな。あなたは昆虫の研究者であって、植物で
はない」
「優曇華は植物を差す場合もありますが、私が云っているのは違います。クサ
カゲロウは草木の枝葉等に卵を産みつけます。一、二センチの柄を持ち、先は
小さな球状になっています。それが小さな花のように見え、優曇華もしくは優
曇華の花と呼ばれるのです」
「初めて聞いたな。ふむ。それで? 温井にそう云ったのか」
取り調べ口調になった刑事に、月見里は再び唇を硬く結んだ。
交代するかのように、探偵役を務める女性が口を開く。
「月見里さんはこの話を温井さんにした。そのあと、温井さんは徐々に核心に
迫っていった。ところが月見里さんには偽名なんてまるで覚えのないことです
から、話が噛み合わない。あるいは月見里さんはご自身の名の由来を語ろうと
したかもしれませんが、温井さんは酔っていたせいもあったのかしら、聞く耳
を持たなかったとも考えられます。業を煮やした温井さんは、隠し持っていた
ナイフを取り出し、月見里さんを脅かそうとした。それがもみ合いに発展し、
やがて事故が起きた」
「ナイフが、温井自身に刺さったのか」
刑事が呻くように聞いた。女性は顎を振った。髪が靡く。
「だと思います。月見里さんは慌てたでしょう。意味不明の言いがかりをつけ
られ、襲われ、挙げ句に相手は死んでしまった。不幸中の幸いで、返り血をほ
とんど浴びなかったあなたは、その場を逃げ出し、部屋に戻ったのではないと
思う。しかし、時間が経つにつれて、気が付いたのね。あのナイフに、自分の
指紋が付着したかもしれない。それに、あいつは自分の名刺を持っている様子
だった。取り戻さねば。そう決意して密かに部屋を出ようとした矢先、学生さ
ん達が、温井が行方不明だ!と騒ぎ始めた。月見里さんは捜索に協力するふり
をして、真っ先に駐車場に駆け付け、まず名刺を取り戻し、ポケットに仕舞う。
それからナイフを拭うために、被害者の背後に回って凶器を慎重に引き抜いた。
ナイフ全体を、多分被害者の衣服で拭う……と、死んだと思っていた温井さん
が声を上げた」
「……」
月見里が何かつぶやいたようだった。「恐かった」と云ったのかもしれなか
ったが、定かでない。
「恐らく、刺されたという事実と失血によるショックとで意識を失ったんです
ね。刺さったままの凶器が微力ながら栓の役割を果たし、一時間前後が経過し
ても命を奪うまでには到らなかった。だが、その凶器を抜いたのがきっかけで、
意識を取り戻したと考えられます。恐怖に駆られたあなたは、他の人が聞きつ
けてくる前にその場を離れ、捜索隊にこっそり合流した。神原さん達に温井さ
んが何を云うのか、気が気でなかったことでしょう」
「事実なら、正当防衛だな。ナイフを抜く行為も遺体損壊には当たるまい」
刑事が独り言めかして云う。月見里に直接告げるのは酷だと判断したのか。
「月見里さん、この名刺を調べれば、これを温井さんが持っていたことが分か
るはずです」
女性が穏やかに云った。月見里は声を振り絞るようにして答えた。
「泥を拭ったついでに、指紋も消えたと思いますが」
「指紋ではありません。汗です。DNA鑑定にかけたら、染み込んだ汗は温井
さんのものだという判定が出るでしょうね。優秀な刑事さんが、これを突破口
に、事件の状況を忠実に再現してくれる」
「……ああ」
背筋を伸ばして姿勢よく座っていた月見里が、不意に身体を傾け、背凭れに
寄り掛かった。その姿勢のまま、ため息みたいな小声で認めた。
「ほぼ、当たっています」
「では、月見里さん。あなたが温井ともみ合ってる内に、刺してしまったと」
逸る刑事に対し、月見里は探偵役を見つめ、質問を発した。
「何がきっかけで、私を怪しいと思ったのです?」
「うーん……やっぱり、優曇華。クサカゲロウの研究をしている人が、うどん
というダイイングメッセージを聞いて、優曇華の話を披露しないのは多少不自
然だなって」
「ふふ。あのときは、極端に憶病になっていましたからね。下手に話して、薮
蛇になってはたまらないわ。でも、どうしてあの男は、優曇華と言い残したの
か……。確かに私は直前に話をしたけれども、やまなしと言い残す方がよほど
ありそうだと思うのに」
「偽名と疑っていたから。本名を残さないと意味がないと思ったんじゃないか
しら。とは云え、温井さんにしてみれば、月見里も偽名かもしれない。じゃあ、
何を云うかとなれば、聞いたばかりで耳に残っていた優曇華にするのは、そん
なにおかしくはないでしょ」
「あの、すみません。それ、クサカゲロウでもいいのでは?」
神原がおずおずと尋ねる。「優曇華」を「うどん、げっ」と聞き違い、思い
込みの原因を作った張本人として責任を感じていた。
探偵を務めきった女性は、神原を見、次に微笑を浮かべた。
「クサカゲロウだと、そちらの気弱そうな学生さんの名前と紛らわしいから、
云わなかったのかも――ですね、私の見方は」
彼女の指差した先には、きょとんとした顔でいる日下元太郎。なるほど、カ
ゲロウように頼りない。
事件が一応の収束を見せ、警察が食堂を開放すると、件の女性は早速食事を
始めた。神原達が脱力した感じで居残っているところへ、刑事が戻って来た。
「食事中のところを悪いのですが」
やや硬い口調の刑事は、彼女の横に立つ。
「んあ?」
妙な声音で受け答えをし、パンを飲み込んで口の中を空にした女性は、改め
て聞き返す。
「何?」
「今すぐじゃなく、あとでかまわないのですが、お話を伺えませんかね。感謝
状が出るかもしれませんし」
「感謝状には興味ありません」
「金一封も着くはずですが」
「感謝状にも金一封にも興味ない。ただ、月見里さんのためにも行きますから、
ご安心を」
目を細める女性に、刑事はほんのり頬を染め、それから首をぶるぶると横に
振り、「ええ、安心できました」と応じる。
「それでですな。食べながらでお答えできることを、今の内に聞いておきたい
のですよ。よろしいですか?」
「時間の節約ね。いいわ」
「そうですか。では最初に、あなたの名前から」
女性は飲んでいた缶飲料をテーブルに置き、不思議そうに口をすぼめた。
「あれ? 管理人さんから聞いていない?」
「はい、事件とは無関係だと考えたもので。お願いします」
「なるほど。じゃ、仕方ない。私の名前は一ノ瀬メイ。字はね――」
彼女は細かに答えた。
――終