AWC 名無しの文庫本の冒険   永山


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#83/569 ●短編
★タイトル (AZA     )  03/04/23  21:36  (496)
名無しの文庫本の冒険   永山
★内容
※本作は、電脳ミステリ作家倶楽部の第二回競作イベント「共通の謎に挑戦!」
のテーマに決まった“書店の謎”に対し、自分なりに応えた物です。

           *           *

 東日本一円に展開する大型書店「ゼーダ」は、不景気のご時世に健闘してい
ると言えた。緻密なリサーチ後の新規出店、人気作家や漫画家、タレントを呼
んでのイベント開催、新古書店に対抗すべく開発したサービス――漫画のカバ
ー五冊分及びそのレシートをレアグッズと交換する――等の企業努力が報われ
ていた。
 そんなゼーダでも、夏真っ盛りの午後ともなると、客足は途絶えがちになる。
梶尾裕美(かじおひろみ)がアルバイトをするゼーダQ店も同様だった。冷房
の利いた書店は、金をかけずに暑さから逃れられるテリトリーの一つだが、同
じ逃げ込むのなら、漫画さえ立ち読み自由の新古書店の方がいいらしい。
 レジを任された梶尾は椅子に座り、欠伸を噛み殺した。店内に客がいない訳
ではないが、買う人がいない。注文票の整理が終わると、特にすることがなく
なった。あとは防犯カメラのモニター映像を、ちらちらと見るくらい。と、そ
の四分割され画面の一つに目を止めた。ショートヘアの前髪を手で敢えて起こ
し、視界をよくしてから画面に顔を近付ける。
 向かって右下の画面に注目することは、あまりない。文芸書の類を置いたコ
ーナーを映すのだが、他の三画面――漫画コーナー、雑誌コーナー、辞書や専
門書のコーナーに比べると、万引きの被害が少ないためである。少なくとも、
梶尾がいるときに文芸書コーナーで万引きが起きたことは一度もない。
 そして今、梶尾が意識を向けたのも、客の万引きらしき行動を見たからでは
なかった。挙動不審には違いないのだが、明らかに万引きではない。
「何してるのかしら?」
 思わず、つぶやいていた。しばらく見守る。
 白黒画像の主役は中年男性。身なりはきちんとしたスーツ姿で、足下に黒っ
ぽい縦長の丸バッグを置いている。やや薄くなった頭と眼鏡が目を引くが、梶
尾は見た覚えがなかった。
 男性は文庫本の棚の前に立っていた。その一角に手を伸ばし、一冊引き出し
ては、またすぐに戻すという行為を繰り返している。
 探している本があるのなら、わざわざ引き出さなくても、背表紙で題名が分
かるはず。値段を確かめるにしても、やはり背表紙を見れば印刷してある。粗
筋を読むためにしては、手にしている時間が短すぎた。
「梶尾さん。一部入れ替えを始めようと思うから、引き続いてレジ、頼むよ」
 背後の扉が開き、顔を覗かせたのは、正従業員の篠井悟郎(しのいごろう)。
昨日の台風の影響で遅れて到着した書籍を、店長や他の従業員とともに奥で荷
ほどきしていたのだ。梶尾に気があるのかどうか知らないが、こうしてしょっ
ちゅう声を掛けて様子を見に来る。
「あ、篠井さん。少しだけ、レジをお願いしたいんですけど、いいですか」
「何かあったのか?」
 ドアの向こうに戻りかけていた篠井は、すぐさま近寄ってきた。察しよく、
モニターを覗き込む。梶尾は問題の画面を指差した。
「こちらのお客様が、ちょっと気になって……私、聞いてきますね」
「ああ、それなら僕が。何を見たのか、話してくれ」
「時間がありませんから、私が」
 篠井の声を吹っ切り、梶尾はカウンターの仕切りを開けて、売場スペースに
出ると、文芸書の文庫コーナーに急いだ。
「お客様」
 営業スマイルを作ってから、穏やかな調子で呼び掛ける。
 中年男性はびくりとして手を止め、身体ごと振り返った。右腕だけは文庫本
を本棚に押し込もうとする格好のままだ。
「どうかなさいましたでしょうか」
「ここの店員ですね?」
 外見からは想像しがたい高い声で、男性は言った。梶尾がはいとうなずくと、
相手は続いて顎を振って本棚を示した。
「これは何なのか、説明をしてもらえませんか。気になって仕方がなかったん
ですが」
 男が示したのは、三段ある棚の一番上、その左詰め。
 よく分からない成り行きに梶尾は小首を傾げたが、棚の本の状態を見て、思
わず「えっ?」と声を漏らした。
 文庫に限ったことではないが、本は作者名の五十音順に並べてある。そして
同じ作者でも出版社ごとにまとめている。通常、ある作家がある出版社から出
す文庫本は何作品になろうとも、背表紙の色合いが統一されるものだ。だから
当然、棚のあちらこちらには色の固まりができることになる。
 だが、梶尾がたった今、目の当たりにしたのは、白の固まり。白色の背表紙
がない訳ではない。異様なのは、題名も作者名も、何の字もそこにない点だ。
「これ……」
 指先で触れて、その白いのは、背表紙とは反対側の裁断面、小口と呼ばれる
箇所と確認する。文庫本何冊かが、反対向きに入れられているものと分かった。
「これ……」
 同じフレーズを口にしつつ、梶尾は男性客の顔を見た。まさか、お客様がな
さったのですかと聞く訳にもいかない。そもそも、相手の質問から考えると、
この人も不思議がっているのは確か。
 梶尾はモニターで見たことを思い起こした。
 そこへ中年男性が再び口を開く。
「私がここに来たとき、真っ先に目に着きました。この角の部分だけ、白くな
ってたんですから、当然です。一体何だろうと思い、手に取ってみたところ、
本が反対向きになっている。最初は無視して通り過ぎたものの、自分で言うの
も何ですが、私はどうも几帳面なところがありまして、直したくなった。それ
でぶつぶつ言いながら、一冊ずつ取り出して直しているところへ、あなたに声
を掛けられたものだから、びっくりした」
「びっくり?」
「この店の方針で、反対向きに入れているのかと。それを勝手に直した私を咎
めに来たのかと」
 探りを入れるような調子で、中年男性は言った。
 梶尾は、いえいえそうではありませんとこうべを垂れた。
「他のお客様の冗談と言いますか、いたずらでしょう。私どもの方で直してお
きますから、お客様はどうぞ。あ、この辺りの文庫がご入り用でしたら、申し
訳ありませんが少々お待ちください」
 断ってから、直しにかかる。自分の家の本なら、まとめて引き抜き、くるっ
と半回転させて、また押し込むところだ。でも、売り物をそんな乱暴に扱うこ
とは許されない。一冊ずつ抜いては、正しい向きにして戻す。
 そこへやって来たのは篠井。
「どうしたんだい」
「篠井さん、他の仕事は……?」
「ちゃんと断ってきた。で?」
「本を逆向きに入れてあるんです」
 目線を振ると、篠井も気付いたらしい。奇妙な物を見たときの目つきになっ
て、口を半開きにした。
「何だい、これ?」
「ですから、文庫本が反対向きに。あちらのお客様が言うには、来店したとき
からこうなっていたと。あのー、もしかしてお店の判断で反対向きにしたんじ
ゃないですよね?」
「当たり前だ。そんなことするもんか。僕が朝見たときは、こんなことになっ
ていなかった。誰か質の悪い客がやったんだよ。いや、そんな奴は客と呼びた
くないね。梶尾さん、気が付かなかったのかい?」
「気が付いたことって?」
 二人がかりでやって、文庫本は全て元通りになった。反対向きに入れられて
いたのは、阿馬一吉(あうまいちよし)という推理作家の全作品のようだ。四
つの出版社から合計十五作ほどが出ている。無論、同じ作品で二冊以上置いて
いる物もあるため、冊数で言えば十八冊になる。
「君は今日、昼から入って、モニターをずっと見てたろ。この辺で不審な動き
をしてた奴に気付かなかったかい?」
 カウンターの方へ引き返しながら、篠井は梶尾に言う。普段に比べて、若干
きつめの口調に、梶尾は首をすくめた。
「気付きませんよー。お客さんが来るんですから、ずっと画面を睨んでる訳に
いかないし、一冊ずつ手に取って、棚に戻すときにひっくり返されたら、気付
きませんてば」
「……筋道は通っている。すまないな、怒った言い方をして」
「いえ」
 梶尾はカウンター内に戻り、レジに立ってもらっていた従業員に礼を言って、
交代した。事情の説明は、篠井が引き受けてくれた。

           *           *

「そのときはそれで終わったんだけれども」
 梶尾はテーブルの上に置いた両手を、強く握りしめた。ここからが佳境だと
の思いを込める。
「はいはい、それでどうなった」
 スプーンに掬い取ったアイスクリームを舐めながら、元村愛子(もとむらあ
いこ)が応じた。長い髪をじゃまくさそうに何度もかき上げ、早いペースで食
べ物を片付けていく。それでいて話は聞き逃していないらしく、相槌は適切だ。
 学内のカフェテリアは夏期休暇中とあって、利用者の姿は、彼女達二人の他
には、部活動を終えたあとと思しき男子学生のグループがテーブル二脚を埋め
ているのみ。その彼らも、閑散とした雰囲気に遠慮してか、大人数の割には静
かに会話を交わしている。
「同じようなことが、翌日も起きたのよ」
「つまり、翌日も文庫本が反対向きになって、書架に収まってたってこと?」
「うん」
「同じような、って言ったよね? 同じ、じゃなくて」
「二日目は、阿馬一吉じゃなく、瑠璃木開(るりきかい)の本がやられたの」
「瑠璃木って、名前だけ聞いたことある。ファンタジー畑の人だったわよね」
 そう述べる元村は、エンターテイメント小説と言えばミステリしか読まない。
当然、謎というものに人一倍興味を持つ質であり、それ故、梶尾は相談相手に
彼女を選んだ。
「そうよ。今は吸血鬼とホラーとファンタジーを融合させたような『ドラクロ
ア』シリーズで、女性、それも私達みたいな年齢層に大人気の作家」
「『私達』の中に私は含まれてない訳ね」
 自らを指差し、けらけらと笑うと、元村はアイスの皿を片付けた。次は濃厚
なカスタードパフェ、その次はフルーツサンドイッチが待っている。溶けやす
い物から順に片付けているのだ。
「名前を知ってるだけでも偉いわ」
「訳の分かんないフォローはいいから、その瑠璃木作品のひっくり返し現場を
目撃した人はいなかったの?」
「いなかった。気付いたときにはやられてたってやつ。と言うか、まさか連続
して起きるとは思いもしなかったのよ。誰だって、一回きりのいたずらだと思
うんじゃない?」
「でも二回続いたから、犯人をぜひ見つけたい!となったのかあ」
「違うわよ。大した実害はないし、二回ぐらいじゃあ、まだそんなにね。とこ
ろが、これが七日間連続となったら、ちょっと見過ごせないでしょ」
「へえ、一週間も。だけど、犯人を見つけるのは簡単じゃないの? 防犯モニ
ターの画像を見ればいいんだから」
「犯行現場を目撃してないんだから無理よ」
「え? ひょっとして防犯モニター、録画はしてないの?」
 くぐもった声になったのは、スプーンをくわえたまま喋ったため。梶尾はた
め息をまじえて首肯した。
「正確には、全然録画してない訳じゃなくて、一時間分だけエンドレスで撮っ
ているらしいわ。らしいっていうのは、アルバイトの私には詳しく教えられな
いっていう防犯上の事情があって」
「防犯云々はともかく、録画したそばから消えちゃうって意味ね。しょうがな
いなあ。じゃ、三日目以降、被害に遭った作家を教えてよ。ひょっとして、阿
馬に戻ったとか?」
「ううん。七日間とも別の作家。三日目から順に、舟山蓮(ふなやまれん)、
渡辺三郎太(わたなべさぶろうた)、根神利沙(ねがみりさ)、谷中伸勝(た
になかのぶかつ)、そして吉沢拓已(よしざわたくや)よ。舟山と根神は説明
なくても知ってるよね」
「もっちろん。舟山連は本格の騎手で、私のお気に入り作家の一人。根神はサ
スペンスのプリンセス。すっごく鼻につくタイプの美人だけど、書く物は面白
いから困ったもんだわ」
 別に困る必要はないんじゃない?と感じたものの、梶尾はそのことを口には
出さず、先を急いだ。各作家名の漢字表記を示してやりながら、説明を進める。
「四日目の渡辺三郎太については、あんまり言葉にしたくないんだけど、官能
小説書く人。一応、恋愛小説に分類されてるけどね。そこそこ売れてるみたい
だけど、私は読んだことない。谷中伸勝は正統派の恋愛小説家。少し古いけど、
よくテレビドラマ化されてる人気作家ね。大御所に入れちゃっていいかもしれ
ない。吉沢拓已はSFがメインだけど、ホラーやファンタジー、それにミステ
リも書く」
「私は知らない……ってことは、その人、ライトノベル系?」
「ミステリはライトノベルね、うん」
 ミステリ好きの元村も、一般にライトノベルと総称される作品群にまでは守
備範囲を広げていない。
「この七日間、誰一人として犯人を目撃しなかったの?」
「ええ、そうなのよー。私がバイトに入ったのは一、二、三、六日目で、あと
は他の人から聞いただけなんだけど、誰も見なかったって」
「仮に、同一人物の仕業とするわよ。そうしたら、犯人は一週間、書店に通い
詰めたんだから、店員に何度も見られているはず。たとえ犯行現場を押さえら
れなくても、暑い盛りに連日現れる客って、印象に残るんじゃないかしら」
「そうは言っても、この程度の被害で防犯モニター専任のバイトを新しく雇う
ことなんてなかったし、店内を疑いの目で見回ることもしなかったから。折角
好調な売り上げをキープしてるのに、つまんないことでお客と揉めて、悪い評
判を流されでもしたら、目も当てられないもの」
「ふーん。まあ、実際、七日間で収まったんだしね、判断は正しかったのかも
しれない。で、その程度のつまんない事件だからこそ、私に相談を持ち掛けた
ということか」
 きれいに舐めたスプーンで、梶尾を差し示す元村。梶尾は怯まず、「これだ
けおごってあげて、文句を垂れるの?」と言い返した。
「文句はありません。たださあ、犯人を捕まえるチャンスが七日間もあったの
に、凄くお間抜けだなあと思ってさ」
「いいのよ。犯人が誰か、なんてことに興味はあんまりないの。今となっては
ね。あなたに考えてもらいたいのは、何故こんなことをしたかっていう理由」
「面白いからやってみるけど、でも、正解かどうか、確かめようがないじゃん。
それでもいいの?」
 とうとうサンドイッチに手を伸ばし、口をもぐもぐさせながら、元村の目が
梶尾を見る。
「いいわよ。その代わり、私を納得させるだけの答を出して。実を言うと、気
になって、ここ最近、寝付きが悪いのよ。ぐっすり眠れるように、説得力のあ
る答か、物凄く面白い答を見つけてちょうだい。それ以外だと、おごった分、
返してもらおうかなっと」
「やれやれ、ね。寝付きが悪いのは、電気代をけちって、クーラーを使ってな
いんからじゃないの?」
「失礼ね。そんなことない。とにかく、考えてよ。こういうの、好きでしょ?」
 梶尾がテーブルを指で叩くと、元村はアイスティをストローで飲み、食欲の
方を一息つかせた。
「これがもし、一人の作家の作品にだけ行われたのなら、真っ先に思い付く案
があるんだけどな」
「一応、聞かせて」
 身を乗り出した梶尾。彼女の前には、皿やコップといった邪魔になる物はほ
とんどない。
「その作家の本を売るためよ」
「……よく分からないわ」
「本を反対向きに棚に入れたら、どうなる?」
「題名が見えなくなる。作者名も。そんなことしたら、売れなくなるわよ」
「そうとも言い切れないんだな、これが。反対向きってことは、普通と違う。
普通と違うってことは、目立つ。目立つってことは、注意を引く訳よ。反対向
きの本は、手に取ってもらえる頻度が高まる」
「……手にしたからって、買うとは限りませんけど」
 とうとうとまくし立てた元村に、梶尾は殊更丁寧に反論した。だが相手は全
く動じず、口調も滑らかさをキープする。
「その通りよ。だけど、手に取ってもらえない本は、絶対に売れない」
「はあ……」
「手に取ってもらえる頻度が高いほど、売れる可能性も高まるはずよ」
「それはまあ、そうだろうけども。そんな動機って、ある? せいぜい二、三
冊、売り上げが伸びるぐらいのことよ」
「裕美のバイトしてる本屋さん以外でも、同じことをやったらどうよ? 何十
軒もの本屋で、特定の作家の作品をひっくり返す。全部合わせれば、相当な数
になるわ」
「費用対効果というか手間対効果を考えたら、かなり馬鹿々々しい気もするけ
れど……狂信的なファンならやりかねないかなあ」
 否定しきれないので、渋々ながら認める梶尾。だが、元村はこの説をさらに
広げた。
「あら。ファンが犯人と決め付けちゃだめよ。担当の編集者かもしれないし、
作者自身かもしれないんだから」
「ま、まさか。焼け石に水みたいなことやるなんて。第一、この考え方が当て
はまるのは、被害に遭ったのがただ一人の作家だった場合でしょ。私の体験に
は当てはまらない」
「一人の人間が、七人の作家を同時に応援しちゃいけないという法は、どこに
もないわ」
「確かにそうだけど」
 否定材料を探して、視線を宙にさまよわせる梶尾。壁に掛かるメニュー表を
意味もなく追っていた。
 すると突然、元村が笑い声を立てた。
「ははははは! なぁに、えらく真剣な顔してる。どうしたの? 本気で受け
取った、今の説?」
「……冗談だったの?」
「冗談じゃあないけど、まずあり得ない説だと思ってて、敢えて言いました。
明らかに穴のある説だから、すぐ気付くと思ったんだもの。悪気はないのよ」
「ど、どこに、穴が」
 力が抜けて、くずおれそうになる身体を支えるため、梶尾は両手をテーブル
についた。その弾みで、テーブル自体が一瞬、大きく傾いたものだから、元村
は家宝を守るかのような動作で飲み物のグラスを押さえる。
「興奮しないの。ほんと、簡単なこと……反対向きの本は目立つけど、手に取
ってもらったあと、そのお客が買わなかったとして、また反対向きに本棚に戻
されるかな?」
「……常識のある人なら、ちゃんとした向きにして、入れてくれる。多分」
「でしょ? だったら、この売り上げアップ作戦の効果がゼロに近いのは、自
明の理。折角目立たせても、買われないなら正常な形で棚に戻る、これの繰り
返しなんだから」
「要するに、駄目な説をいちいち口にしといて、長々と引っ張った挙げ句、こ
うして私をからかうつもりだったのね」
 疲労感たっぷりの声で、梶尾は尋ねた。皮肉でも何でもなく、とにかく疲れ
た。
「心外なお言葉を。こういう『日常の謎』ってものは、色んな可能性を見当し
た末に、真相が見えてくるものと相場が決まってる」
「日常の謎?」
「日常生活のどこにでも転がっていそうな、だけどちょっと不可解な現象――
これを日常の謎と呼んでいいんじゃないかしらね。ほんとは定義が難しくて、
今言ったような定義だと、ぽろぽろ例外がありそうだけど。まあ、裕美が持っ
て来たのは、差詰め、『恥ずかしがり屋の文庫本』事件と呼べるかな」
「……」
「他にも有名どころでは、『九マイルは遠すぎる』『背広、ジャケット、スー
ツ』『五十円玉二十枚の謎』てなところが該当するわね」
「有名って、どこで?」
「ミステリに出て来るのよ」
「……それは横に置くとしてよ」
 気を取り直し、お冷やを口に運ぶ梶尾。
「売り上げアップ作戦でないのなら、何が考えられるの?」
「そうねえ、たとえば……秘密の暗号を表していたとか」
「あんごお?」
 疑念たっぷりに復唱されて、元村はさすがに苦笑いを浮かべた。手を拭いて
から話を続ける。
「ま、聞くだけ聞いてよ。たとえばの二段重ねになるけど、作家の頭文字を、
本をひっくり返された順に並べてみるの。やってみて」
「阿馬、瑠璃木、舟山、渡辺、根神、谷中、吉沢……あるふわねたよ。アルフ
って外国人はもう寝たよという解釈?」
「外国人かどうか知らないし、『寝た』はアイディアという意味の『ネタ』か
もしれないけれど、日本語にはなってる。暗号っぽいし。アルフもネタも符丁
で、別の意味を持つのかもね」
「うーん。意味深な文ができたのには驚いたけどさあ。それだったら、苦労し
て十何冊もの本全部をひっくり返さなくてもいいと思う。阿馬だったら阿馬の
一冊を逆向きにするだけで、充分よ」
「全然関係ない人が、故意か偶然かで、逆向きに本を戻すかもしれないじゃな
い。そういうのと区別できるように、まとめて逆向きにするの」
「じゃあ、何で『あ』が阿馬一吉なの? 最初に『あ』の付く作家は他にもい
っぱいいるわ。他の字も同じ。まあ、『る』は少ないけどね」
「それは……」
 言葉に詰まった元村。食べ物はまだ残っているのに、男みたいな腕組みをし
て、天井を見上げる。だが、それは返事に窮したのではなく、口の中の物を喉
に通して、すっきりするためだったらしい。目線を戻すと、元村はアイスティ
を口に含み、喉を鳴らした。
 そして言った。
「しいんたさつや」
「は?」
 突然の関西弁に、梶尾は頭では「死因他殺や」と理解しつつも、聞き返した。
だいたい、どういう脈略でこんなフレーズが飛び出したのか、分からない。
 元村は作家七名の名前を記した紙を引き寄せ、とんとんとつつくと、得意そ
うに言った。
「作家の名字じゃなく、名前の最後の字を並べてごらんなさいな」
「え? ……し……い……ん……」
 後半は声にしなかった。元村の言う通り、「しいんたさつや」になる。あま
りにもよくできているため、つい、笑い出しそうになった。
「名前の方でも文ができるなんて、すっごい偶然。でもさ、何で関西弁なのよ。
標準語で『しいんはたさつ』にすればいいのに」
「適当な作家がいなかったのね、きっと」
 そう答えた元村も、この自説を信じていないようだ。残りのサンドイッチを
ぱくぱくと片付け始めた。
「この説の弱点は」
 パンを頬張ったまま、自説の否定に掛かる。
「ゼーダQ店の本を使って、秘密の暗号文を伝える必然性がまず思い付かない
こと。それに一文字ずつ、というか二文字ずつなのかな、とにかく七日間に渡
って文を伝える理由も分からない。その上、死因が他殺ってことを伝えても、
中途半端もいいところ。死因は刺殺とか毒殺っていうんなら分かるけどね」
「暗号説ももういい。次は? あるの?」
「あるわよ。現時点ではこれが最後。名付けてゲーム説」
 サンドイッチをきれいに平らげ、手をはたいた元村。皿を脇に退けて、両肘
をついた。
「夏と言えば、暇人が多く発生するシーズンよね」
「発生って……要するに、夏休みの小中高校生と大学生ってことでしょうが」
「そうそう。暇を持て余した人間の中には、こういうゲームを考える輩もいる
かもしれないってことから発想したの。まず、その連中は七人組ね」
 七日間ということと関係があるのだろうと察した梶尾だが、話の腰を折るま
いと、黙っておいた。
「彼らは本を反対向きに棚に入れて、どのくらいの間、店員に気付かれずにい
るかを競うゲームをやっていたんじゃないかしら」
「……何のために」
「ゲームをするのに大した理由なんてないわ。裕美はどうしてオセロをする? 
どうしてトランプを? どうしてテレビゲームを? 暇つぶしをするのに面白
いから、でいいのよ」
「まあ、そういうものかもしれないわね。お金はかからないし、見つかっても
いたずらで済むし」
 妙に納得する梶尾。彼女は犯人像として、小学生のグループを思い描いたが、
果たしてそんな子達が店にやって来ていただろうか……?
「七人揃って行動する必要はないわね」
 梶尾の心理を見透かした風に、元村が言った。
「その日、ゲームにトライするAと、判定役のB。最低二人で店に行けば成り
立つ。Aは本を見つからないように、こっそりとひっくり返す。Bは店内を適
当にうろつきながら、店員が気付くまでの時間を計る」
「本当に暇でないと、できないゲームだわ」
 呆れ気味に感想を漏らす梶尾。
「だって、店員が気付くのがいつになるか、予測できないのよね? 下手をし
たら、閉店までずっといなくちゃならなくなる」
「さすがに、裕美もあなたの同僚も、そこまで間抜けじゃないでしょうが。せ
いぜい三時間ぐらいで気付くはず」
 元村の言いように、梶尾はむっとした。どちらに転んでも、貶されたことに
なるので、反駁はしなかったが。
 代わりに、いくつかある疑問をぶつけてみることにする。
「ゲームなら、公平でなくちゃいけないわよね。七人が七人とも、同じ作家を
同じ冊数だけひっくり返すのが公平じゃない? 冊数は同じだったかもしれな
いけれど、作家は明らかに異なってるわ」
「物事は多面的に見なくちゃだめ。公平を唱えるのなら、初日にトライする人
が一番有利じゃない?」
「ああ、そうね」
「私が思うに、作家と冊数は、トライする人が自分で決めたのよ。そして冊数
に応じて、ポイントを付けるルールを作ったんじゃないかなあ」
「ルール……」
「そう。たとえばね、十七冊を反対向きにして一時間保てば、その人の得点は
17×60=1020になる。四冊を反対向きにして、六時間ばれなかったな
ら、4×360=1440点を獲得。あとは何日目にトライしたかによって、
ボーナス点を割り振る。どう?」
「公平に近付く感じ。それ以上に、ゲーム性が上がって、面白いかも」
「説としてはどうなのかな? 面白くない?」
 さりげない調子だが、力のこもっているのが分かる口ぶりだ。元村にしては、
ここが肝心だとばかり、息を飲んで答を待つ様子がありありと分かる。
「うーん、まあね、面白い。三つの中では一番理屈が通っているし。証拠がな
いのが玉に瑕って感じ」
「てことは、おごった分ぐらいは、これで返したことになると。なるわよね? 
ならないはずがない」
「変な英訳文みたいな日本語を使わないでよ。はいはい、心配しなくても、こ
れでいいわ。ぐっすり眠れそうだから」
 梶尾が認めると、元村はようやく安心できたという風に、息を深くついた。
「いやあ、おいしかった。ごちそうさま。余は満足じゃ。殺人事件でもあった
ときは、イタリアンレストランで引き受けるから、またよろしく」
「殺人事件が起きて、謎解きを愛子に頼もうとは思わないよ」
 呆れた梶尾だったが、悩みの種だった謎が一応ではあるが氷解し、感謝して
いるのも事実である。おかげで今夜はよく眠れそう……と改めて思っただけで、
欠伸が出そうになった。

           *           *

「二日の午後二時から三時に掛けて、どちらにいました?」
「それが、新波(しんなみ)の殺された時刻ですか、刑事さん」
「ま、そういうことです。覚えている範囲で結構ですから」
「少々、お待ちくださいよ、日記を見ますので。と言っても独り身の上、たい
てい房に篭もって土と格闘していますから、ご期待に添えらるかどうか……あ
あ、二日はですね、昼から外出したんだ。お手伝いさんに一週間の休みをあげ
たのはいいのだけれど、食事が大変でしてね。昼、ちゃんとした物が食いたく
なって、駅に徒歩で向かいました」
「最寄りのN駅?」
「ええ。そこから上り電車に乗って」
「発車時刻は覚えていますか?」
「午後一時ちょうどじゃないでしょうか。駅に着いたのが、一時五分前ぐらい
だったので。確か一時ちょうどのがあったはずです」
「なるほど、結構です」
「それから三駅行って、Q駅で降りました。一時十五分頃でしょう。ここの駅
前商店街にある『ししくら』という食堂が気に入ってましてね。この日はどう
しても、牛カツ定食を食べたくなったんです」
「レシートの類はあります?」
「運がよければ、財布の中に残っている……あ、あった。どうぞ。インクが少
し薄いけれども、八月二日の午後一時四十五分とあるのがお分かりでしょう」
「……確かに。食べ終わりの時刻として、お話に矛盾はない。ですが、肝心の
時間のアリバイをまだ伺ってません」
「そうでしたね。食後、書店に立ち寄りました。ゼーダという店です。時刻は
二時にはなってなかったでしょう。一時五十七、八分頃かと」
「やはりレシートがあると?」
「いえ。あのときは何も買わなかった。買えば、日記に付けますので、すぐ分
かります」
「それでは、知り合いにお会いになったとか、トイレを借りて店員が覚えてい
るというようなことはありますか」
「ううん、どうだろう。美術書の類を一時間弱、立ち読みしていた訳ですから、
目立ったかもしれません。ただ、あそこの書店は広いですからねえ」
「困りましたな。とりあえず、その書店に行った証明は棚上げにして……何時
までいたのですか」
「ですから一時間弱……二時五十分頃までいましたよ。そのあとは真っ直ぐ駅
に向かい、三時七分発の下りに乗って、家に帰りました。帰り着いたのは三時
半だったかな。実は三時半から自宅で人と会う約束があって、それに合わせて
行動したんですよ」
「実際に会われたんですね、その人とは」
「もちろんですとも。毛利という昔から付き合いのある美術雑誌の編集者です。
この日は仕事ではなく、趣味の囲碁を打つために来てもらったんですがね」
「連絡先を伺っておきましょう」
「では、これに……はい。どうぞ」
「どうも。しかしですねえ、肝心要のところが抜けているんですよ、先生の証
言には。一時五十分に食堂を出れば、Q駅を二時に出る下りの快速に乗れるで
しょう。そうしたら、犯行現場に最寄りのK駅に二時二十分に到着。ここから
犯行現場の新波さん宅まではゆっくり歩いても五分。充分に犯行可能と見なさ
ざるを得せん。ここ、ご自宅に戻るのも、K駅を……三時三分に出ればいい。
余裕を持って、三時半に間に合います」
「参りましたね。ところで、日記に面白いことを書いていた。これはアリバイ
になると思いますよ」
「ぜひ、伺いましょう」
「ゼーダ書店にいたとき、ちょっと変わった光景を目撃してる。だからこそ、
日記に付けたんですがね。美術書を見る前に、文庫本のコーナーを通りかかっ
たんですが、そのときふっと足を止めた。何故なら、棚の一角がやけに白かっ
たからです。目を凝らして確かめたところ、二十冊近くの文庫本が反対向き、
つまり背表紙を奥にして入れてあったのですよ」
「それは確かに……珍しい。で、そのことを店員に?」
「いいえ。不思議には思ったものの、元々小説には興味がないし、毛利との約
束もありましたから、放っておいて、美術書のある場所に急ぎました。ただ、
店を出る前にも文庫コーナーを通りかかったら、反対向きのままだったことも
覚えています」
「ふうむ。その文庫の奇妙な状態について店員が記憶していれば、先生のアリ
バイは間接的に証明される、ということですか」
「理解が早くてありがたいですね」
「分かりました。調べてみましょう。念のためにお伺いしますが、何という作
家だったかまでは、ご記憶に……ないでしょうねえ?」
「名前は分からないが、頭文字が『る』なのは間違いないと思いますね。よく
あるでしょう、ここからは何行の作家であることを示すためのプレートが本棚
に差し込んであるのを。あれが、『る行』だったんですよ。いやあ、『る行』
なんておかしいでしょう? ですが、ゼーダ書店ではそういう表現を平気で使
ってるんですねえ」
「ああ、自分も古本屋でそういう店を知っています。だが、おかげで絞り込み
易くなりました。これから早速、調べに行きますよ」

           *           *

「……もしもし。君か。今、周りに人はいないね? うん、例の件だ。助かっ
たよ。そう、めでたくアリバイ成立だ。書店で文庫本何冊かが反対向きになっ
ていたのを見たという証言を、警察も信じたようだ。ああ、分かっているさ。
君が仲間を誘って、一週間だっけか、文庫本を反対向きにしてくれたおかげだ。
礼は弾ませてもらうよ。いくらぐらいほしい? え、何だって。礼はいいとは
どういう……。ほう、君も殺したい奴がいるのか。なるほど。今度は私が君の
ためにアリバイ工作をすればいいということだね、了解した。その方が、私も
枕を高くして眠れるよ」

――終





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