#52/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/01/03 23:28 (499)
虫けら 永山
★内容
“戯殺神”は命を摘み取ろうとしていた。
犯行は計画的だが、厳密なものではなく、非常にフレキシブルだった。二日
前の夕刻に殺意を抱き、追い掛けようとしたが、バイクに乗った相手はあっさ
り去ってしまった。翌日、手間を掛けてバイクを調達した戯殺神は今日になっ
てから、陽が暮れた町中を疾駆する相手のバイクを慎重につけ、住所を掴んだ。
築二十年近く経っていそうな、安普請のアパートの一階二号室。独り暮らしら
しい。明かりの点灯具合から、他の部屋――三、四、六号室にも人がいると分
かる。
いかにしてターゲットのみを殺そうか、思案に入った。生活パターンを把握
した上で、一人きりになったところを襲うのが確実だ。
だが、今夜はそうする間もなく、天は戯殺神に絶好の機会を与えてくれた。
二号室から、ターゲットの大柄なシルエットが再び現れたのである。申し訳
程度の駐輪場に向かうことなく、門を通って道に出る。徒歩でどこに行くのか。
戯殺神は、この近くにコンビニエンスストアがあったのを思い出した。恐ら
くそこだろうと当たりを付け、経路を脳裏に描く。やるなら、大通りの信号を
渡りきった直後の、細い道に入ったときだと結論づけた。無論、周囲に人がい
ればやり過ごさねばならないが。
ひと気の乏しい暗い道で声を掛けても怪しまれるだけ。加えて、体格だけを
取り上げれば、相手の方が大きい。太り気味であるが、喧嘩慣れしている可能
性も捨てきれない。戯殺神は無言で行動を起こした。
駐車場にあった石を拾い、相手に気付かれないように、信号を渡った。小径
に入った刹那、第三者の接近に注意しつつ、距離を詰める。携帯電話使用中で
ないと確認し、背後から襟首を掴まえると、すかさず右膝横に蹴りを食らわし
た。案の定、相手は声を出す間もなく、道に倒れた。
ここで騒がれては面倒だ。石を握った右手をそのまま、相手の口に叩き込む。
厚手の革手袋のおかげで、こちらは怪我をせずに済んだ。無論、相手の口は血
の海だ。そのまま石を押し込み、声を奪う。もがく腕に掴まれないよう注意し
ながら、何度か頬を左右から殴り付けた。口中の石の効果もあって、さらに血
が溢れる。喉が詰まったか、流れの悪い排水孔のような音がした。
仕上げをいかにするか、戯殺神は一瞬考えた後、用意しておいたプラスドラ
イバーを取り出すと、相手の左耳の穴に突き刺した。細長い金属部分が、見る
間に消える。脳に達する感触を得て、手際よくかき回す。
間もなく、事切れる瞬間を感じ取った。
戯殺神は喜びを噛みしめる間も惜しんで、その場を離れた。
* *
どこまでも吸い込まれそうな青空の下、グラウンドのあちこちでは、黄色く
甲高い声が飛び交い、白い砂埃が待っていた。
運動場の西の隅、半分がた埋めた古タイヤの列が二本、赤、青、黄、緑……
と続いている。数人の男子児童が集まっていた。
タイヤの列を東から見てその右端には、男児二人が片足をタイヤに掛けてス
タンバイしていた。レース前の緊張感が漂う。タイヤからタイヤへ飛び跳ね、
最後まで渡り切る。もちろん早い方が勝ち。地面に落ちたら、スタートからや
り直し。転落即敗北の可能性が非常に高い。
「用意」
レンズの小さな眼鏡をした子が、右手をピストルの形にして天に向けた。男
児二人の足に力がこもったのがよく分かる。タイヤのゴムと靴底が擦れて、き
ゅきゅと音がした。
「どん!」
合図と同時に、二人は一つ目のタイヤに立ち、その勢いのまま、二つ目、三
つ目と飛び移っていく。互角のスタート。いや、中程に差し掛かったが、まだ
互角だ。周りの男児が囃し立てる。
二人は騒ぎ声にも動じたり焦ったりすることなく、軽快なジャンプを繰り返
した。東側を飛ぶ有森礼一郎は集中力と冷静さを保ち、西側を飛ぶ遠藤直樹は
直感とリズムで進んでいるところがあった。
あと三つ。まだ差はつかない。――と、そのとき。
「殺さないで!」
すぐ近くでした女の子の悲鳴に、片方の男児が足を踏み外した。有森だった。
遠藤はその事態に気付いたのか否か、一気に渡り切ると、ガッツポーズ。
有森は肘をタイヤに掛けた姿勢のまま、大きなため息をした。
「今の、なしだろう?」
敗者の気持ちを代弁するかのように、集まっていた男児の一人が言い出した。
「有森が落ちたのは、伊之上が叫んだからだ」
と、悲鳴を上げた女の子を指差す。当の伊之上由奈はタイヤの上に手をやり、
何かしげしげと見ている。一番近くにいた有森はさらに近付き、彼女の視線の
先を追った。
「てんとう虫か」
赤地に黒い星を背負ったドーム型の小さな虫が、黄色いタイヤの頂上付近を
うろうろしていた。それも二匹。
「遠藤、やり直しだぞ」
「何でだよ」
異議を唱えた男児、牛木等と遠藤との間でちょっとした口論が始まっていた。
「だから有森が落ちたのは、叫び声のせいで」
「叫び声なんか、俺はちっとも気にならなかったぜ」
「そりゃあ、おまえの方が伊之上から遠いからだよ」
「関係ねえよ。あんなので驚いて落っこちるのが悪いんだ」
「そんなことあるか。近い方が驚くに決まってる。なあ、有森も思うだろ?」
牛木の声に、有森は振り返った。
が、その牛木の目線は有森を通り越し、伊之上に注がれている。
「だいたい何で伊之上、いきなり叫ぶんだよ」
「てんとう虫を踏まれたくなかったってさ」
察しを付けた有森は苦笑い。その返事は伊之上にも聞こえたらしく、跪いた
まま振り向いた。大きな丸い眼鏡越しに、瞳が状況を探る風に見つめる。
「この子達が踏まれそうだったから、思わず」
静かだが、はっきりした物言いをした伊之上。
「たかが虫一匹で、大声出したのかよ?」
信じられんと言いたげに、牛木は目を丸くする。有森は有森で、「よく見つ
けられたなあ」とつぶやいていた。
「とにかく、おまえのばかでかい声のおかげで、有森は負けた。責任取れよな」
「どうやって」
「おまえからも、もう一回勝負しろって遠藤に言え」
傍らに立つ有森が「無茶な」と微苦笑をこぼす。
と、牛木が視線を戻し、「笑っている場合じゃないっ」と声を大にした。全
身に力が入ったか、肩が震えていた。
「負けだと、俺達の班は修学旅行で荷物持ちだ。忘れてんのか?」
「覚えてる。でも、あいつが落ちずにゴールして、僕が落ちたのは事実だから
なあ。どうしようもないんじゃないか」
「だから、その落ちたのは、大声にびっくりしたからだろってんだ」
片足で地面を踏み鳴らす牛木。同じ班の他の男児も、口々に不平を漏らした。
遠藤を見ると、俺の勝ちは動かないとばかり、腕組みをして、退屈そうに貧
乏揺すり。
「ふーん」
伊之上は事態を飲み込めた風に息をつくと、てんとう虫二匹をタイヤから別
の場所へ逃がしてやり、それから眼鏡の位置を直した。
「遠藤君。私からもお願い」
すいと近付いた伊之上に、遠藤は腕組みの姿勢のまま、反り返らざるを得な
くなり、やがてバランスを崩した。よろめいて二、三歩後退し、腕組みを解く。
「な何だよっ」
「もう一回、勝負してあげて」
伊之上は小首を傾げてしなを作り、ウィンクまでした。
「どーしてだよ」
遠藤の反応の台詞は短くなりがちだ。その上、返事を聞かない内からそっぽ
を向いてしまった。
「分かってるくせにぃ」
今一歩接近し、手を取る伊之上。遠藤は火に触れたときみたいに、その手を
引っ込めた。
「そりゃあもちろん、悪いのは私よ。けれど、私一人だと責任を取れない。だ
から、こうして頼んでいるの。お願い」
「……本当のこと言うと、俺はおまえの声、聞いてない」
「すごーい。集中してたんだ? それなら何遍やっても、きっと勝つわ」
「ででもなあ……班の連中のこともあるし、簡単には引き下がれねえな」
「そうよね。一回勝ったつもりなのに、また最初からやり直しなんて、馬鹿ら
しい。だったら、三本勝負の一本目ってことにならないかしら」
「三本勝負?」
「うん。遠藤君はあと一回勝てば終わり。有森君は二回勝たなくちゃだめ」
途中から、有森達の方にも目を向けた伊之上。本人にその気があるか否かは
不明だが、なかなか交渉上手のようだ。
「それなら、まあ……」
遠藤が受け入れそうな素振りを示した。それを機に、有森も口を開く。
「こっちはそれで充分。やってくれるだけで助かるな」
「ね? 有森君もああ言ってるんだし、受けてあげてよ」
「うーん……」
「さっと受けたら格好いいわよ、男らしくて」
「そそうか」
話がまとまった。
昆虫が飛んで来ないよう、皆で厳重に注意する中、レースは続けられた。
* *
「そんなこともあったなあ」
有森礼一郎は、貝の殻に触れた指先をおしぼりで拭った。
「それで、どっちが勝ったんだったっけ?」
そう尋ねた伊之上由奈は視線を皿に落とし、フォークでパスタを巻き取った。
パスタに絡むきのこが、その過程で離れてしまった。
「覚えてない? 僕が勝った。逆転二連勝さ」
有森はコップを空にし、ウェイトレスに水のお代わりを頼んだ。
「君のおかげで、荷物持ちをせずに済んだ。遠藤の奴は後悔しきりだったがね」
「ああ、そうそう、思い出した。たくさんの紙袋やバッグを持って歩いていた
わね。私のこと、恨んだかな?」
今度はフォークの先で突き刺したきのこを口に運ぶ。
有森はナイフとフォークを手にしたまま、動きを止めて応じた。
「まさか。だって……言っていいのかな、これ?」
「えっ、何なに?」
伊之上の動作も止まる。眼鏡をしなくなった彼女の瞳が、興味ありげに有森
に向いた。
「小学生の話だから、まあ、いいか。遠藤の奴、君のことを好きだったんだよ」
「へえー? 全然気付かなかった。でも、今さらだけど、ちょっと嬉しいかも」
「ということは、君も遠藤を?」
「違う違う。そんなんじゃなく、普通に、人から好かれて嬉しいってことよ」
「それなら、誰が好きだったんだい?」
「あの頃はいなかった。私の初恋は中学になってから」
伊之上はフォークを置き、唇を紙ナプキンで押さえた。
「何だ。嘘じゃないだろうね」
「嘘ついてもしょうがないでしょうに。有森君こそ、誰かいた?」
質問を受けた有森は、一瞬、視線を店の窓の外にやり、じきに戻した。それ
から両腕を軽く開く。
「過去の話はこれくらいで、現在の話をしないか。少なくとも生産的だぜ」
「生産的かどうかは置くとして、現在の話にも興味があるのは確かね。何の仕
事をしてるのか、教えてくれないの? さっき、道端で聞いたときは、はぐら
かされたけれど」
「先に君が答えてくれたら話してもいいよ、伊之上さん」
「まっとうな職業よ。学習教材を作ってるの」
「学習教材って一体……教科書ってこと?」
「教科書は扱っていないけど、問題集や地図、科学実験のキット。私の担当は
図鑑だけどね。昆虫好きが高じて、こうなっちゃった訳」
空いた皿を横にやり、両手で頬杖をついた伊之上。目を細め、にこにこする。
「虫も殺さぬ顔と言うけれど、伊之上さんの場合、文字通りっていう訳だ」
「でもないわよ」
「虫を殺したことがあるって意味か……ああ、蚊とかごきぶりは別だよ」
有森が言うと、伊之上は小さくうなずき、付け足した。
「それもあるけど、解剖した経験が山ほどあるもの」
「なるほど。実を言うと、僕は解剖したことが一度しかないんだ。学校の授業
で解剖があっても、人任せにしてばかり」
「ふうん。じゃあ、有森君こそ、虫も殺さぬって訳ね。でも、何で? 男の方
が解剖って好きそうに思える」
「気持ち悪いし、無駄じゃないか。教科書の内容と同じであることを確認する
だけじゃあ、意味が乏しい。一度で充分さ」
有森はコップを手に取ると、水を一気に飲む。解剖の場面の記憶を思い出し
てしまい、それを押し流そうとしたかのように。
「体験は大切でしょ。一度より二度、二度より三度。それと、生命の神秘を目
の当たりにして、感動する。大切な学習の一つだわ」
「……大真面目に言うねえ」
苦笑を禁じ得ない様の有森。
「残念ながら、僕は感動しなかったな」
「基本的に、恐いという気持ちが先に立ってしまっていたからじゃないの?
だったら感動できないわ」
学習教材を世に送り出す仕事をしている身故か、伊之上はたった今出た有森
の言葉を否定しようとする。
「さあね。理由なんてどうでもいい。過去のことだし。あれ、おかしいな?
現在の話をしていたはずが、いつの間にか昔話に逆戻りだ」
声高に笑う有森。近くのテーブルに着く男性三人組が、何事かと一瞬だけ振
り返った。
「それなら、話してちょうだい」
伊之上は背筋を伸ばし、手を膝の上に置いた。大きめのその瞳で相手をじっ
と見つめる。
「有森君の今のお仕事。言いたくないのは、まさかリストラを食らったからと
かじゃないわよね」
「どんな根拠があって、リストラじゃないと言えるんだい?」
「じゃあ、そのまさかなの?」
「いやいや。ちゃんと職を持っているさ。その前に、聞いておきたくなった。
君は何故、僕がリストラされたと考えなかったのか」
「まず、身なり。きちんとしたスーツ姿」
指差しながら答えた伊之上。有森の傍らの椅子には、立派な仕立てのスーツ
が置いてある。すぐさま反論があった。
「職探し中の男だって、こういう格好をするだろう」
「ううん。有森君を見ると、職を求めている人ほど緊張していないし、切羽詰
まってもいない。ばったり会ったときにも思ったわ、この暑さにも関わらず、
隙のない格好してるわって。どこにも疲れた感じがないと言えばいいのかなぁ」
「詰まるところ、フィーリング、直感か」
「言葉で表しにくいだけよ。一見、どこにでもいるサラリーマン、よくよく見
れば決めるところは決めてる、そんな雰囲気。有森君、本当はどこかの一流企
業に勤めてるんじゃないの? こうしてさぼっているところを見つかったから、
言い出しにくいとか」
「さぼっていたんじゃないさ」
「だったら営業? でも外回りにしては、随分のんびりくつろいでる。携帯電
話だって一回も鳴らないようだし。スイッチ切った?」
「持たない主義なんだ。営業じゃないし、そもそもサラリーマンとは違う」
「いい加減、教えてくれていいんじゃない?」
「もちろん、話すつもりさ。ただ、聞いて驚かないでくれよ」
秘密めかす態度に拍車の掛かる有森。伊之上はしばし口をつぐんだが、程な
く笑みを見せた。
「どこかの国の大統領だって聞いたって、今さら驚かないわよ」
「それじゃ、ちょっと耳を貸して」
有森は右の手のひらを上に向け、人差し指で招く仕種をした。尊大な態度に、
伊之上は鼻で息をついて苦笑した。
「大きな声で言えない商売?」
「そうなるな。ああ、書く物を持ってたら、貸してほしい」
耳打ちをあきらめたか、有森は紙ナプキンを一枚取ると、宙に文字を書く動
作をした。伊之上はシャープペンシルとボールペンの一体型ペンを渡しながら、
感想を述べた。
「有森君は持ってないってこと? 確かにサラリーマンじゃない感じがするわ」
「どうも。叫ばないでくれよ。僕の仕事は」
有森がペンを走らせる。
“殺し屋”。
「――嘘でしょっ。センスない冗談」
「信じられないのも無理ないと思うが、たとえば、僕が携帯電話を持たないの
は、仕事の真っ直中に着信があったら困るからさ。マナーモードにしていても、
邪魔なことには変わりないからね」
「まさか」
伊之上の目の色が変わる。冗談と思っていたのが半信半疑になった。
有森はペンを返してから、小声で続けた。
「僕がペンを持っていないのも、そんな物を身に着けていたら、現場に不用意
に落としかねないだろ。だから、小物類を一切排除した。ネクタイピンも使っ
てないし、ボタンも特別あつらえの丈夫な糸で結ってある。仕事に臨む際には、
ぴっちりした水泳キャップを被るんだ。髪の毛が抜け落ちないようにね」
「……」
「きちっとした身なりは、第三者に見られても怪しまれないため。それでいて、
印象に強く残ることのない姿だから便利だ。無論、時と場合によるが」
「……」
「指紋には特に注意を払わねばならない。今は地肌を出しているが、仕事の前
には、ある細工をする。何だと思う?」
「さ、さあ。分からない」
無理矢理絞り出したような声。相手の質問に対する答を考える余裕は、とて
もありそうにない。
「おいおい、少しは考えてくれよ。何かあるだろう。手袋をするとか。まあ、
手袋じゃないんだが。手袋だって始末に失敗すれば、足が付きかねないからな」
そしてテーブルの縁に両手首を据え、左右の指を順に開く有森。
「透明のマニキュアを塗るのさ。一本一本の指先に」
「そ、そうなんだ」
「透明のマニキュアなら、塗っていても誰にも気付かれない。指先の感触も、
慣れれば違和感ゼロ。手袋をするよりはずっと繊細な動きができる」
伊之上の喉が動く。相手を見る目は最早、何年かぶりに出会った友達ではな
く、怪物か異星人を前にしたときのそれに近い。
有森は握った右手を口元にやり、その甲と顎先とを何度かぶつけ、やがてく
っくっくと笑い始めた。
「その目は、完璧に信じてるな」
「……どういうこと?」
有森の台詞はちゃんと耳に届いていたらしい。伊之上の視線がきっ、となっ
て真正面の相手を射すくめる。
「嘘だ、嘘。殺し屋なんて訳ないじゃないか」
「――やっぱり」
ほっとしたように、強がったように、そして照れ隠しのように答えた伊之上。
「じゃあ、書く物や携帯電話を持ってないのも、他の理由があるのね。あ、持
ってないこと自体、嘘じゃない?」
「まあ、持ってるといえば持ってる。ほら」
テーブルの上空で、左手を突き出す有森は、自身の手首を差し示した。やや
大ぶりな腕時計がある。いや、時計のように見えるが……。
「これ、うちが開発中の腕時計型携帯電話。当然、時計機能もあるが、メイン
はデジタルカメラと音声の記録・再生、その次がやっと電話とiモードだな」
「……それはそれで凄く怪しいような気がするんですけども。ヒーロー物のト
ランシーバーみたいで」
「疑い深いなあ。すっかり信用なくしてしまったな。試作品でね、今、使い勝
手や耐久性なんかを調べているんだ」
「へえ。ちょっと見せて」
触れようとした伊之上の前から、試作品が消える。手をテーブルの下に隠し
た有森は、「あんまり見せられないんだ。企業秘密が詰まってる」と答えた。
「書く物を持ってない理由は?」
「あ、それも同じだ。録音できるから。メモ程度なら、声で吹き込む。その内、
電子ペンを使ったメモ機能を付けるかもしれないがね」
「結局、有森君て、どこかの電機メーカー勤務なのね」
「そう。具体的な企業名は、これが発売されたときのお楽しみ」
有森が言って笑う。テーブルの下で、左手首を握ったらしい。
伊之上は自分の腕時計を見た。
「私、そろそろ行かないと」
「もうそんな時間か」
有森が伝票を掴んだ。数字に目を通す。目元が緩んだ。
「よかった。これなら払える」
「えっ、いいわよ」
立ち上がり掛けていた伊之上が、座り直す。有森は逆に席を立った。
「あのときのお礼だ。おごらせてくれ」
「あのとき?」
「君のおかげで、荷物持ちをしなくて済んだ」
レジの方に向かう。あとを追う。
「でも」
「大した額じゃないし、素直におごられるもんだよ。ああ、ついでに言えば、
見返りも求めないと誓うよ」
軽い笑い声を立てる有森。財布を取り出してしまった。事実、大した額では
ないこともあって、伊之上は嘆息しつつ、
「次にまた会ったときは、私が」
と言った。対する有森はレシートを仕舞うと、彼女のために店のドアを開け
た。生暖かい空気が店内になだれ込む。
伊之上は表に出るなり、さっきのペンとメモ帳を取り出した。
「これ、私の電話番号」
破り取ったメモ書きを渡そうとする。有森は両手でブロックした。
「次は次。縁があればでいいだろう。一緒に昼食を摂ることができて、楽しか
った。ここ、君の行き着け?」
ブロックを解くと、右親指で店を示す有森。欧風レストランと記された木の
吊り看板が、風でかすかに揺れた。伊之上はうなずいた。
「学生時代の友達が、アルバイトをしているの。夜だけなんだけどね。それで
行き着けになって」
「ふむ。ならば、僕もなるべく利用するとしよう。こうすれば、次の機会が生
まれやすくなるだろう」
伊之上の返事を待たずにきびすを返すと、有森は急ぎの用事はないと言って
いたにも関わらず、足早に去って行く。
夏の陽射しは、依然としてきつかった。
有森礼一郎は同僚の誘いを断って退社すると、地下鉄の駅へ向かった。定刻
より二時間ほど遅い。下り階段に差し掛かって、歩速を若干落とし、慎重な足
取りで進む。混雑していないのは、有森がわざと不便な出入口まで遠回りして
きたからだ。ここの地上出入口を利用する者は、オフィス街にあって数少ない。
改札を通り、フォームへ出る。さすがにここは人が多かった。だが、ごった
返すと呼ぶほどではない。有森は、先頭車両前から二つ目のドアが開く位置に
移動した。誰も並んでいなが、有森は決して先頭に立とうとはしない。かつて
はそうではなかった。何年か前、列の先頭に立っていた会社員が、後ろから見
知らぬ男(精神障害者で通院歴があったらしいが詳しくは分からない)に押さ
れ、線路に転落、折しも入ってきた電車にひかれて死亡するという事故を知っ
て以来、先頭に立たなくなった。立てなくなったのかもしれない。今は、フォ
ームの幅のちょうど中程、歯科医の広告を腹巻きにした円柱に寄り掛かり、電
車を待つのが習慣。
待つ間、線路を挟んで向こうにある壁を見つめるようにする。プラットフォ
ームの人々に目を向けると、つまらぬ点ばかり気になってしまう。ごみのぽい
捨て、喫煙コーナー以外での喫煙、階段の端に腰掛けて馬鹿話に興じる高校生
グループ、ベンチを二人分占領して化粧に専念する女、どんな嫌なことがあっ
たのか早々と酔い潰れている男。
電車が来た。この駅にいる客全員を乗せたらちょうど満員になる、それくら
いの混み方。だが実際は降りる客も多少はいるし、フォームの人間全てが乗り
込む訳でもない。実際、有森の乗った一両目には、たった一つだが空席もあっ
た。有森は座れなかったが。
吊革を持ち、目を瞑る。車輌内でも目を開けていると、他人の行動が気にな
って仕方がない。できれば耳も閉じたいくらいだ。耳栓では効果が薄いし、ヘ
ッドホンやイヤホンの類は、逆に自らが騒音の源になる危険性をはらんでいる
ので、使いたくなかった。
今日もまた、携帯電話の様々な音が耳障りだったが、辛抱を重ねる。三駅先
のK浜駅で降りた有森は地上に出ると、晴れ晴れとした表情になった。
しかしそれを即座に引っ込め、自然な顔つきになる。そしてしっかりした足
取りで、夜道を急ぐ。
やがて住宅街に通じる十字路に差し掛かり、右手に折れると、有森は塀際に
しゃがんだ。外灯の下、革靴の紐を結び直す。右、左の順に、きつく。
時刻を確認すると、すっくと立ち上がった。
“戯殺神”は標的の存在を夜道に認めると、歩みを速めた。同時に、懐から
得物を取り出す。レストランでくすねてきた大ぶりなフォーク。手の内側にそ
っと隠し持つ。全ては静かに、気配を消して。
背広姿の男の背中に近付き、今や、目と鼻の先。手を伸ばせば肩に届く。だ
が、相手の男が感づいた様子は皆無だ。
「すみません」
相手が角を折れた刹那、戯殺神は自ら声を掛けた。綿菓子にくるまれたよう
な声は、穏やかで優しげな響きを持つ。
「はい? 何でしょうか」
この男もまた、警戒心を抱かずに振り返ったようだ。直線移動をしていると
きよりも、曲がった直後の方が隙が生じやすい。スピードを緩めるからだろう
か。
「すみません、クラブハウスのSロックウェルの場所をご存知ありませんか」
「ああ、Sロックウェルなら」
腕を肩の高さまで持ち上げ、ある方角を指差そうとする男。
戯殺神は背後から手を回し、相手の開いた口にフォークの先をくわえさせ、
後頭部を強く押した。間髪入れず、足を払う。
フォークの柄がアスファルト道路に押された。当然のごとく、その反対側は
喉奥に食い込む。突き刺さった切っ先は、あっさりと脳髄に達した。
男はしばらく虫の息だったが、程なくして絶命した。生ある者が死に至る瞬
間。戯殺神にはそれがよく分かった。経験を積むことで自然に体得した感覚。
フォークを放置し、戯殺神は立ち去った。同じ殺害方法を採らない戯殺神に
とって、指紋を残すミスさえ犯さなければ、全く問題のない行為である。一刻
も早く現場から離れる方が重要だ。何しろ、周りは家屋だらけ。物音はほとん
ど立てなかったが、それでも気配を感じ取って窓を開けたり、たまたま通りか
かったりする者がいないとは言い切れない。
戯殺神は駅に通じる道を、急ぐでなく、のんびりするでもなし、歩き始めた。
「この前一緒に来ていた男、誰よ?」
大澤美祐に興味津々に尋ねられ、伊之上はため息をついた。
休日の午後、伊之上と大澤がお喋りをする場は、この欧風レストラン――先
日、有森と入った――であることがほとんどだった。それは、大澤が夜ここで
ウェイトレスのアルバイトをするのと無関係ではない。
「期待に添えなくて悪いけれど、彼氏とかじゃないわよ」
その返事に、大澤はまだ疑わしそうに目玉を動かした。
「本当に?」
「小学校のときの友達。ばったり会って、ちょうど昼だったから、一緒にって
ことになった、ただそれだけ」
「小学校? よく覚えていたわねえ。顔も姿も全然違うでしょうに」
「小学校のときからの友達よ。高校まで同じだったわ」
「そういうのって、普通、高校のときの友達と言わない?」
「高校のときは、友達と呼べるほど親しくなかったからなあ。ほら、女子と男
子が一緒になって遊べる機会って、小学生の頃が一番多いでしょう?」
納得したのかどうか、大澤は話を進めた。
「結局、再会してみて、どうだったのよ。恋心が燃え上がりはしなかった?」
「まあねえ、いい感じはしたけれど、一回では判定のしようがないわ」
それからしばらく、伊之上は有森のことを話して聞かせた。大澤の好奇心を
眠らせるには、これが最も早い。隠すと逆効果だ。経験上、分かっていた。
一段落すると、今度は大澤が喋り出す。
「多分、あんた達二人が感動の再会を果たした日だと思うんだけどさ」
「感動の再会って訳じゃないわよ」
「その日の夜、ここのバイトに入ったんだけど、ちょっとした事件が」
伊之上の小さな抗議を無視し、話を続けたかと思うと秘密めかす大澤。伊之
上は負けじと、相手のウィンクに気付かぬふりをした。
「フォークが一本、消えたのよ」
「それって珍しい? 私が昔ファミレスでバイトしたとき、割とあったわよ。
フォークに限らず、灰皿とか塩なんかがなくなった。記念品のつもりかしら」
「確かに。でもね、そのフォークが殺人に使われたなら、珍しいでしょうが」
殺人と聞いて、しばらく言葉に詰まる伊之上。珍しいと言うよりも、今後ま
ずないんじゃないだろうか。
「まだ確認されてないから、公式発表を控えてるそうなんだけど、あんただけ
に教えてあげるね」
「無理に教えてもらわなくても。それに、喋っちゃだめなんじゃない?」
「いいから、いいから。K浜駅、知ってるでしょ? 割と近くだし」
「ええ。そういえば、K浜駅の近くで殺人事件が起きたとニュースでやってた」
事件が起きたのも有森と会った日の夜だった、と思い起こす伊之上。
「それよ。それの凶器が、うちのフォークらしいのよ」
「人殺しのために、フォークを持ち去ったお客さんがいるってこと?」
「お客さんとは限らないって、警察は思ってるみたいよ。私達も疑われたから」
理屈から言えば、それは致し方ない。怒りにまかせての突発的な犯行じゃあ
るまいし、わざわざ仕事場のフォークを凶器に使う犯人がいるとは考えにくい
が、絶対にないとも言い切れまい。計画的にバイトに入り、フォークをくすね
て殺しに用いるというケースも考えられるのだから。
「事件後すぐ、バイトをやめた人っていないの?」
「そんなあからさまに怪しい奴なんて、どこにもいないわよ」
「じゃ、やっぱりお客さんの中かあ……私も疑われてる訳?」
「だったら面白いんだけど、そう単純じゃないみたいなのよ」
冗談めいた口吻の大澤。得意げに続けた。
「当日盗まれたフォークがそのまま使われたのかどうか、はっきりしないのよ。
今までも何本かフォークがなくなってるから、そっちが使われた可能性も捨て
切れないとか何とか」
「……ねえ、人を刺すなら、フォークよりもナイフを選ぶんじゃないかしら」
「うーん、人によりけりじゃない? うちのステーキ用ナイフ、大して鋭くな
いもの。見たことあるでしょ」
被害者がフォークでどのように殺されたのか、具体的には発表されていない。
「それにしても、フォークで人を殺すなんて、普通なら考え付かないわ」
「同感」
レストランで、声高に人殺しの話をする客は、さぞかし迷惑な存在だろう。
約ひと月後、伊之上は有森と再び会った。またも偶然の巡り合わせだったが、
時刻の方は午後三時。今回おごる番の伊之上はコーヒー代だけで済んだ。
「あなたがフォークを盗んだんじゃないでしょうね。殺し屋だなんて言ってい
たし、怪しいよ」
初めて入った小さな喫茶店のコーヒーを味わいながら、未だ解決しない例の
事件の話をしたあと、伊之上は相手に尋ねた。無論、冗談だ。
だが、有森は真顔が一層引き締まって、しばらく言葉が出ないでいた。
「有森君?」
「あ、いや、そいつのこと、知っているかもしれない」
「えっ、犯人を?」
「犯人そのものを知っている訳じゃないが、ネットの某掲示板でね。戯殺神と
名乗り、他愛のない書き込みをする奴がいたんだ。もう一年以上前になるんじ
ゃないかな。確か、レストランでくすねたフォークで人を殺した云々という内
容もあった。当時、そんな殺人事件は起こっていなかったから、誰もが馬鹿に
して相手にしなかったけど……」
「い、今はどうなの? その掲示板に戯殺神の書き込み」
「一年ほど前のその騒ぎを最後に、姿を消したよ。別の名前で居続けたってこ
とも、なきにしもあらずだがね」
「とにかく、警察に言わないと……」
心配顔になった伊之上に対し、有森は首を横に振った。
「そんな古いログを保管してる掲示板じゃないからな。たとえあったとしても、
犯罪の証拠になる訳でなし。掲示板を読んだ奴が、影響を受けて真似たという
仮定もできる。君も通報はやめとけ」
疑問に感じないでもない伊之上だったが、よくよく考えてみると、かつて大
げさにも戯殺神と名乗った人物が、実際に殺人を行って自己顕示せずにいられ
るとは思えない。便乗犯だとすれば、なおのこと戯殺神を名乗るであろう。
有森は軽く手を打って音を立てると、
「折角の再会に、人殺しの話が長々と続くのは似合わないと思う。異論は?」
と意向を尋ねた。
「これで異論あるなんて答えたら、まるで私が変人じゃない」
「いや、要するに、関係のない面倒に首を突っ込むのは、得てしてよくない結
果をもたらすものだから、やめた方がいいってことさ」
「……じゃあ、小学生のあのときも、遠藤君に再勝負のお願いなんかせずに、
『私はてんとう虫を助けたかっただけよ』って言えばよかったのかしらね」
「そこを突かれると、ちょっと痛いな」
有森は渋い表情を作って、コーヒーを飲み干した。そして水を向ける。
「それならせめて、君の好きな虫の話にしないか?」
――終&『戯殺神』To be continued.