#570/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 21/02/04 20:23 (474)
期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ 永宮淳司
★内容
※本作は第17回ミステリーズ!新人賞に投じて二次選考まで通過したものです。誤字
脱字等は直していません。振り仮名の方式は要項に従っています(小説投稿サイトのア
ルファポリスと同じみたいですね)。
期間限定UPということでとりあえず、今年の二月十四日頃までは公開の予定です。
その後削除するか非公開風状態にするかはまだ決めていません。(^^;
〜 〜 〜
その日、|小野寺真矢《おのでらまや》は人を殺した。包丁で刺したのだ。
推理作家の彼女は作品の中では多数の男女の命を奪ってきたが、現実にやるのはこれ
が初めてだった。初めてで緊張して余計な力が入ったのか、引き抜いた刃先がほんのわ
ずか、小さな三日月のように欠けていた。
空には黒い雲が垂れ込め、雨風は強くなりつつあった。深夜故に光量不足ではあった
が、それでも窓から見える川面は随分波立っていると分かる。
小野寺真矢にとって、|磯田愛子《いそだあいこ》は憎んでも憎みきれない敵であっ
た。
今、その磯田が無防備にも背中を向けている。鼻歌交じりに、何か作業をしている。
荒れ模様の天気のおかげで、家への侵入は予想以上に楽にできた。物音にも気付かれ
にくいようだ。
(こいつは人が苦心して産み出したアイディアを勝手に使った、許せない輩だ)
恨みの言葉を頭の中で唱え、用意した包丁を思い切って振りかぶり、そして刺した。
数秒のタイムラグを挟んで、どんと音を立てて床に横倒しになる磯田。震えながら、
首を横に曲げ、見上げてきた。信じられない、とでも言いたげな目をしている。
「な、何」
か細い声は、状況を掴めていないようだった。
近付く嵐のおかげで、たとえ少々叫ばれても近所に声は届くまい。しかしそれでも、
なるべく早く片付けたかった。
凶器は刺さったままだ。引き抜いている暇はない。手近のテーブルにあった花瓶をと
っさに持ち、再び、思い切って振り下ろす。
磯田の顔面にヒット。ぐにゃ、というような嫌な感触が花瓶を通じてさえ伝わってき
た。(おまえが悪いんだ。他人のトリックを使って、賞を取って、プロになって、有名
になって――)
殺人という行為が、こんなにもしんどいものだとは予想外だった。殺意を持続すべ
く、脳裏で恨み言を唱え続ける必要があった。己を無にする作業に近かったかもしれな
い。
二度ぐらい殴ると、磯田は身体を回して俯せになった。左手は後頭部を守っている。
まだ防衛本能?が働くということは、とどめを刺す必要があるのか。ちょうどこちらを
向いている背中には、包丁が突き立っている。あれを抜いて、もう一度刺せば。
(――え?)
ビニールで二重にくるんである包丁の柄に手を伸ばそうとしたところで、磯田の右手
に意識が向いた。
血で赤く色づいた五指の内、人差し指を伸ばした磯田は、板張りの床に何かを書こう
としているらしかった。
(まさか、ダイイングメッセージを残そうとしている? さすが、推理作家の端くれ)
被害者本人はまだ生きているのだから、現時点では単なるメッセージだが。
(どんな言葉を書くのか、見届けてやろうじゃない。何を書かれようと、どうせ滅茶苦
茶にして壊すんだからかまわない。万が一にも、この女の枯れた頭脳に死の瞬間、天啓
がおりてきて、素晴らしいダイイングメッセージを書くようなら、アレンジして作品で
使えるかもしれないし)
期待せずに見守っていると、やがて磯田の指が弱々しくではあるが、床を這うように
動き始めた。どうやら平仮名らしい。
(す、ず、き?)
声に出さずに頭の中で一文字ずつ読んでいたが、最後に混乱して悲鳴を上げかけた。
(鈴木? どうしてその名前を書く?)
意味が、意図が分からなかった。小野寺真矢を連想させるメッセージでないのであれ
ば、このまま放置しておいてよいものか。
しかし、ダイイングメッセージは見付け次第破壊するのが鉄則。己の書く推理小説の
中で犯人にそう語らせたこともある。
(――ぐずぐずしていたら、時間がなくなる)
磯田愛子の息の根を止めてから決断を下そう、と思った。
* *
「被害者はこの家の所有者で独り暮らしの磯田愛子、二十八歳、独身。|市浜万里奈《
いちはままりな》のペンネームで職業作家をやってるそうです」
「それ、誰情報なんだい? 被害者の顔、ちらと見たが、結構潰されていたように見え
たよ」
鑑識活動が終わるのを待つ間、刑事の|飛井田《ひいだ》は殺人の現場となった一軒
家を離れた位置から眺めていた。昨晩から降り続いた雨が小休止になったのはありがた
いが、風はどんどん強まっている。いよいよとなれば警察車両の中で待機となろう。
ともかく、部下の|八島《やじま》が持ってきた話の出所を聞く。
「もちろん、第一発見者の|門口《かどぐち》さんからです」
彼は、乗ってきた車の中で待ってもらっている女性の名を挙げた。
「彼女が担当編集者で、被害者のQ出版からプロデビューして以来の関係。付き合いが
長いから、被害者の顔が少々変わった程度なら分かるんでしょう。次回作の打ち合わせ
で、朝の九時に訪問する約束だったと」
「ふうん。市浜万里奈はどれくらい人気作家で、売れていたのかねえ?」
「そこまでは聞いていません。ただ、僕も知っているくらいですし、娘が市浜万里奈の
作品を原作にしたアニメを見ていた気がするから、それなりに人気あると思いますよ。
恐らく、事件が報じられればちょっとした衝撃と受け取られるくらいには」
「なるほどな。だが、見たところ家は中古物件のようだが」
「大きくはありませんが、気に入っていたらしいです。ちょっと南にある河原が、小学
生の頃の思い出の遊び場だとかで、懐かしさもあってここを選んだようです。女性編集
者が泣きながら、勝手に話してくれました」
八島の返答に、飛井田は思わず苦笑を浮かべた。今し方の飛井田の言葉を八島は、
「人気作家の割に新築じゃないなんて」というニュアンスに受け取ったようだ。飛井田
の真意としては、「防犯設備に金を掛けていないな」と言いたかったのだが。
改めて、「防犯設備は? 見たところ、カメラの類はなし、インターフォンもボタン
があるだけだ」と部下に水を向ける。
八島はそちら方面の情報は持ち合わせていなかったらしく、「そうですね」と応じる
にとどまった。
「危ないファンとかはいなかったのかな?」
「ファンレターを装って、皮肉まじりの批判を書き立てた手紙やメールはあったそうで
すが、実際に危害を加えられたり、つけ回されたりといったことはないと」
「他に、被害者が殺されるような心当たり、あるかどうか聞けたか?」
泣きはらした様子を遠目から見ていただけに、飛井田は期待せずに問うた。が、彼の
予想に反し、八島はにかっと得意げな笑みを覗かせる。
「聞けました。一人だけですが、小野寺真矢という名前を挙げました。かつて、被害者
と一緒に創作活動をしていた人物だそうです」
「その小野寺が、どんな動機を持つって言うんだろ?」
風がいよいよ強くなってきた。雨もまた降り出してきた気がする。上着のはためきを
押さえるために、首をすくめながら声のボリュームを上げる。
「聞いた話によるとですね。二人は高校生から大学生の頃にいわゆる共作、共同執筆を
していたんですが、市浜万里奈の方がそれとは別に書いた作品を、小説投稿サイトに投
稿するようになり、一年半ぐらいで門口の勤める出版社の目に留まり、書籍デビューを
果たします。その際に揉めています。出版社側が評価した作品の中に、二人で共作した
物の焼き直しがいくつも含まれていて。中には、まだアイディアの段階だったのを市浜
が勝手に小説に仕立てた物もあった。そのアイディアについて、小野寺は自分が一人で
創案したと言い、市浜は二人の会話の中で生まれたと主張し、平行線を辿った」
「要は、権利の主張か。そのときはどう決着したんだ?」
「出版社としては、若い女性の共作推理作家なら売りになると踏み、市浜とのコンビで
小野寺もデビューしないかと持ち掛けます。事実、高校や大学時代には彼女達が共同で
書いたストーリーを基にした劇が作られ、二人はサイン会まで開いていますから、人気
の出る素地はあったに違いありません。でも、その頃には手遅れ。小野寺はすでに市浜
に不信感を抱いていますから、話をあっさり蹴った。ならば小野寺単独でと言われて少
し迷うも、市浜の味方をするような出版社を信じられなかったらしく、最終的に断って
きたそうです。結局、小野寺はQ出版に比べたら小規模なL文芸から本を出してデビ
ュー、一応プロに名を連ねたものの、市浜との確執は冷戦状態みたいな具合に続いてい
たと」
「裁判沙汰にはなっていないんだろうかね」
「トリックだけでは権利主張できないそうで。焼き直しについても、そもそも共作して
いた頃、プロット作りは主に小野寺が、執筆は主に市浜がやっていたため、厳密な意味
での盗作には当たらない可能性が高そうだと踏んだようです。ネットに書き込んで下手
に騒いでも、小野寺自身の作家イメージにまで傷が付きかねないと考え、表立っての争
いは避けたみたいですね」
「ふむ――済んだようだぞ。第一発見者からは落ち着いたところで再度話を聞くとし
て、現場を見てみるとするか」
雨がきつくならない内に、屋根の下に入れるのはありがたい。飛井田らは現場となっ
た磯田愛子宅へ急いだ。
「どうした、眠そうじゃないの」
飛井田は顔馴染みの鑑識課員、|土岐沢《ときさわ》を見付けると気軽い調子で聞い
た。
四十になったばかりの割に白髪の目立つ土岐沢は、あくびをかみ殺しながら応じる。
「夜中にかり出されたばっかりでね。この悪天候で二人が急遽休んだところへ、交通事
故が二件続いただろ。交通鑑識班だけじゃ手が回らないって、サポートとして呼ばれた
の。それは仕事だからいいんだが、現場がこのすぐ近くの橋の上。被害者、血まみれだ
ったよ。それを終えて戻ったらまた出動で、また同じ方面に足を運んで、また血まみ
れ。げんなりもする」
「ああ、その件なら聞いた。ちゃんと歩道を歩いていたのに、欄干と車との間に挟まれ
て亡くなったっていう」
「ドライバーは大学生で飲酒運転。ひどい話だ」
頭をゆるゆると左右に振る土岐沢。それからスイッチを切り替えたかのように、磯田
愛子殺人事件の現場を調べて、判明したことを伝えていく。
「――凶器は包丁か何かなんだろうが、抜き取られて見付かっていない。この家の台所
の包丁は全部揃っているようだった。あと、気になる点が一つある」
「拝聴しようじゃない。何があった?」
「ここなんだけど」
しゃがんだ土岐沢は床の一点を指差した。コーティングの剥げた黒い木の板が、木目
を露わにしている。飛井田と八島は膝に手をつき、中腰の姿勢で注目した。
「拭き取られていたが、ルミノール反応が出た。一方、遺体はあっちを頭、こっちをつ
ま先って具合になっていた。で、足からの出血は見当たらなかった」
「その箇所のルミノール反応を取り立てて言うからには、滴り落ちた血痕ではないと思
ってる訳?」
飛井田が先回りして言うと、土岐沢は片膝立ちのまま、首を横に振った。
「滴下血痕かどうかは分からない。ただ、怪しいと言いたいんだよ。見てよ、他の場所
は血を拭っていないのに、ここだけ拭き取るなんて」
肩越しに視線を振って、見渡すそぶりをする土岐沢。確かに、被害者の胴体に当たる
位置に大きめの血だまりができていたが消そうとした痕跡は微塵も見られないし、他に
もいくらか飛散した血の跡が床にはあるが、どれもきれいなままである。
「もしや、犯人自身の血では?」
八島が気負い込んだ調子で述べた。
「かもしれない。ただ、そうだとしたら犯人の奴、『自分の血が落ちたのはこの箇所だ
けだ』とよく確信が持てたなって思うよ」
「それもそうですね。うーん」
「想像をたくましくしてもいいだろうか。現時点では、個人的見解ってやつになる」
鑑識課員の土岐沢は役割を越えぬようという意識からか、やや遠慮がちに許可を求め
た。飛井田は黙ってうなずく。いつものことだ。
「遺体は動かされたんじゃないかと思う。おなか辺りを中心に、頭と足の位置をぐるっ
と入れ替える具合にな」
「そう推理するのは、某かの理由があってのことかい? それとも全くの勘?」
「根拠はなくもない。搬出される前の遺体、見ただろ?」
「ああ」
「左手は後頭部にあてがい、右腕は身体に沿うように下ろされていたが、遺体の着てい
た黄色のジャケット、右肩に妙な具合にしわが寄っていた」
「そうだった。ああ、犯人が右手の位置を変えた可能性があるってことだな」
「そうそう。そこで右手をようく観察してみたら、ルミノール試薬を掛けるまでもな
く、指と爪の間に血がわずかながら残っていた。犯人が拭き取った可能性が高いだろ」
「ちょっと待ってくれよ、整理するから。えっと、手先に血が付いていた遺体、右腕は
動かされた形跡あり、そして土岐沢さんが想像するに遺体は向きを百八十度換えられた
んじゃないかと。――その拭われた床には、血文字でも書かれていたってか?」
「おう、ご名答だ。この推測を信じてくれるんなら、正式に進言したいね。ルミノール
反応の出た床板部分を切り取って持ち帰り、詳しい検査をすべきだと」
「血文字で何と書かれていたか、分かるものなのか? 拭き取ったんなら血痕、ぐちゃ
ぐちゃに乱されていそうだが」
「この板の感じなら、中に血が染み込んでいると期待できるだろ」
「そういうことか。よし、上に掛け合ってみるか」
普通ならダイイングメッセージなんてもの、鵜呑みにはしない。犯人による小細工の
可能性を考えれば、まともに受け取るだけ時間を無駄にする。
だが、今回は違う。ダイイングメッセージが書かれていたとして、犯人はそれを消そ
うとしている。少なくとも、犯人による偽装ではないと言えるだろう。
「血文字の跡が『おのでら』とでも浮かび上がってくれれば、万々歳だ」
具体的な名前が出たことに、土岐沢が目を丸くする。もう容疑者がいるのかと言わん
ばかりだ。
「でも飛井田さん。犯人が消したとは、まだ言い切れないんじゃありませんか」
八島が言い出した。
「殺人があって犯人が立ち去ったあと、ここを訪れた人物が死体と血文字を発見。何と
自分の名前が書かれている、これは処分しなければと急いで血を拭った可能性だって検
討すべきでは」
「犯人が犯行とは無関係の誰かXに罪をなすりつけようとメッセージを細工し、そのX
がたまたま犯人と入れ替わりにここを訪れたってか」
可能性は低そうだが、Xと被害者の間で訪問の約束でもあったのなら、コントロール
できないとも言い切れない。
飛井田が、また面倒なことを言い出しやがったなあと頭をかいていると、横合いから
土岐沢が口を挟んだ。
「殺しとは無関係の第三者が、自分の名前が書かれているのをいきなり見たら、血文字
を消すのが精一杯だと思うがな」
「どういう意味です、土岐沢さん?」
「犯行に関係のないXが、血に染まった他殺体の足だか腕だかを持って動かすなんて、
普通の人間には無理だろうって意味さ」
「うーん、普通の人ならそうでしょうね」
割と素直に納得する八島。
「まあ、その辺の検討は後回しになるだろう。まずは小野寺真矢に会って、話を聞いて
からだ」
この時点では、早々と片付くかもしれないなと、飛井田は捜査の先行きを楽観視して
いた。
小野寺真矢の連絡先は、被害者の携帯端末に登録されていた。と言っても、電話番号
のみの簡単なもので、住所は分からない。現時点で最有力容疑者である小野寺に、おい
それと電話を掛ける訳に行かない。
門口編集者にも改めての事実確認の際に聞いてみたが、住所は知らなかった。仕方が
ないので、小野寺真矢がデビューを果たし、つながりの強いL文芸の連絡先を教えても
らった。このご時世、電話で作家先生の住所を聞き出すのはなかなか難しく、直に足を
運ぶことになったのが事件発覚からほぼ六時間後の午後三時。
警察だと名乗り、簡略化して事情を伝えて、小野寺の住所を聞き出す。川崎の方に居
を構えているらしい。
その直後、応対してくれた事務員の女性が、飛井田達の思いも寄らぬことを口走っ
た。
「――市浜先生がお亡くなりになったこと、すでに報道されたんでしょうか。小野寺先
生、旅先でもう知ったのかしら。私どもから先生に一報を入れるのはいけないんですよ
ね?」
「ちょ、ちょっと待ってください。旅行中? 小野寺真矢は現在、旅に出ているのです
か」
「はい。えっと、二日前から、夏休みと取材をかねて北海道に出掛けておられるはずで
す」
「確かですか」
「嘘は言いません。何かあったときのためにこちらから連絡できるよう、先生から簡単
な旅程表をもらっています。ご覧になります?」
一度引っ込んだ事務員はすぐに戻って来て、小野寺真矢のスケジュールを見せてくれ
た。
小樽まで足を伸ばした以外はほぼ札幌ばかりだが、定番コースを回ったらしいことが
見て取れる。それによると同行者の女性が二人いて、今日の夜、揃って東京へ帰ってく
る予定らしい。
飛井田は事務員の顔を見ながら聞いた。
「ここ、今夕までに帰ることになってるが、この嵐だし、予定通りに戻れそうなのか
な」
「さあ、そこまでは……小野寺先生の原稿は先日上がったばかりだと聞いております。
そうなると、お仕事に関係しない限り、休暇中の先生へ私どもの方から連絡を入れるこ
とは、まずありませんので」
「同行されている|野々村啓子《ののむらけいこ》さんと|多川香恵《たがわかえ》さ
んというのは?」
「すみません、小野寺先生の親しいお友達の方としか、存じ上げません」
「この二人は北海道の人ではないですよね?」
旅程を見てそれは間違いないと思われるが、念のために確認する。が、これにも事務
員は申し訳なさそうに首を横に振った。
「分からないんです。ただ、小野寺先生は北海道がお好きなんだとは思います。先月も
行ったばかりなのに、また行きたくなるなんて」
「なるほど」
それなら現地に知り合いがいるかもしれないなんてことを思い付き、頭の中のメモに
刻む。
可能であれば、同行者のどちらかの携帯番号を得て、小野寺には気付かれないように
電話で接触を試みたいところだが、現状ではそう簡単には行きそうにない。小野寺への
容疑が若干薄まった今の段階で、現地の警察に動いてほしいと頼むのも難しい。
「小野寺真矢がやっていようがいまいが、ニュースで事件を知ったなら、こちらの会社
に電話かメールでも入れるんじゃないですかね」
八島が希望込みの見解を口にする。その線はなくはないなと飛井田も判断し、小野寺
真矢の担当編集者に会いたい旨を、事務員に告げた。
「こんなことなら、最初っから自分が応対に出てればよかった」
小野寺真矢を担当するという|鹿島礼治《かしまれいじ》が、いくぶんぼやき調で言
った。三十前後に見えるが、声がしわがれており、飛井田らは最初、病気かと聞いたく
らいだ。
「その方が話が早かったのに」
「と言うと?」
出版社の入るビルの一階にある空き会議室を借り、長テーブルを挟んで話を聞いた。
L文芸のフロアにも応接のスペースぐらいはあるのだが、内密な話には向いていないた
め、場所を移動する必要があったのだ。
「ついさっき、三時を過ぎた頃にメールをもらってます」
若い割に、古い型の携帯端末だ。その画面を飛井田らに向ける。
<万里奈が死んだってニュースで見たわ。詳しいことがもし分かったら情報ちょうだ
い。あと、荒天のため戻るのは大幅に遅れそうです。>
簡潔な文章で、そうあった。
門口から聞いた話では、小野寺と市浜万里奈こと磯田愛子は相当いがみ合っているイ
メージだったが、今見たメールの文面からは、そのような感情は読み取れない。淡々と
している。これが、<ざまあみろだわ>とでも書いてくれていたら、たとえアリバイが
あろうと容疑濃厚なのだが。それにしても……と疑問が浮かんだ。
「市浜さんと同じく、小野寺さんも推理作家ですよね?」
確認をすると、目の前の男性編集者からはもちろんですと即答があった。
「推理作家なら、市浜さんが殺されたらご自身が警察から疑われるだろうなと、想像が
及ぶと思うんですが、メールにはそのような雰囲気が全くない。どうしてなんでしょう
ね」
「どうしてと言われましても。あ、北海道にいたから、まさか疑われるとは考えてもい
ないのではないですか」
「そういうのを解き明かすのが、推理小説の醍醐味であり、推理作家の見せ所なので
は。複雑なアリバイトリックを駆使して」
「うーん、刑事さん達は読まれたことがないでしょうから、無理ないですけど、小野寺
先生の作風っていうのは、そんなにトリックトリックしてないんですよ」
「トリックトリックしてない? だいぶ前に流行った社会派ってことでしょうか」
「そういうのでもなくて……トリックは機械的な物も含めて多く用いられているが、手
堅いって意味です。ある意味、リアリティがあると言えばいいのかな」
鹿島はあごを撫で、斜め上を見やった。
「ダイイングメッセージなんかは、犯人は見付け次第すぐに破壊すべしって書かれてい
るし、これだけ街に防犯カメラが増えると、通り魔を装って憎い奴を殺すっていう手も
案外難しくなるかもねって述べられていたな。で、アリバイトリックに関しては、時刻
表というか公共の交通機関を使ったアリバイトリックに限定しての話ですけど、『時刻
表トリックはどんなに複雑であろうと、他人に見破られないという自信が持てそうにな
い。だから私はなるべく使いたくない』とお考えのようです」
何となく理解できた。
「それなら疑われるとは微塵も思わないのは、分からなくもないな。ただ、全く別のア
リバイトリックを使ったのかもしれない」
「もう、刑事さん、勘弁してくださいよ。僕に言われてもどうしようもない。そもそ
も、小野寺さんがやる訳ないですよ。裁判沙汰にしても総合的にマイナスになるからっ
て、我慢できる性格なんですから」
「ああ、その話なら耳にしましたよ。――そうだ、あなたにも伺っておこうかな。市浜
万里奈について、どういう感情をお持ちですかね?」
「市浜先生について? ええっと、何だか僕も疑われているかのように聞こえますが」
「まあ、念のため。市浜万里奈のあのヒット作のあのネタ、ほんとはうちの小野寺先生
の物なのになあ、と悔しく感じたことは?」
「ありません」
震え気味の声ではあったが、しっかりとした答が返って来た。
小野寺真矢は夜遅くに戻って来た。
捜査陣としては、非常識な時間帯に自宅へ押し掛けて事情聴取するだけの理由がな
く、見張りを付けるにとどまった。
この頃になると市浜万里奈の死亡推定時刻が速報されていた。遺体発見の二十日から
遡ることおよそ半日の、十九日の夜八時から十時までの間だろうと推定された。死因は
包丁様の刃物で背中を刺されたことによる失血死。二度目の刺し傷が致命的ダメージを
与えたと考えられる。凶器の行方は依然として不明。現場周辺の捜索も当然進められて
おり、特に近くを流れるV川が怪しいというのは、捜査員全員の一致した見解であろ
う。が、いかんせん悪天候の名残を引きずっており、川底を浚うまでには到っていな
い。現状では、川岸から濁った水に目を凝らすか、川岸の水草をちょいとかき分ける程
度がせいぜいだった。
一帯の防犯カメラ映像の収集も試みられているが、市浜万里奈宅の周辺は比較的治安
がよいためか、カメラの設置数が少なく、過度な期待はできない様相を呈していた。無
論、めぼしい映像はまだ全く出て来ていなかった。
「ごめんください」
午前九時になるのを待って、飛井田と八島両刑事は、小野寺真矢宅を訪問した。玄関
先で身分を示し、用件を伝える。
「どうぞお上がりください」
落ち着いた声で小野寺は言い、飛井田達を迎え入れた。編集者の鹿島から前もって聞
いたのか、単に想像が付いていただけなのかは分からないが、動揺は見られない。その
一方で、多少やつれた風に映る。美人の部類に入るだろうが、二十八にしては老け顔
だ。肩を覆うぐらいに長い髪は普段は自慢なのだろうが、今は邪魔くさそうにしてい
る。
「お一人ですか」
本当はすでに掴んでいる。元々は両親の家で、小野寺が子供の頃に離婚。母と暮らす
ようになったが、その母も今は四国に帰って両親、真矢から見て祖父母の面倒を見てい
る。
「ええ。書いている内は独り身の方が気楽だと思って」
若干、言い訳がましく聞こえるのは、母親から結婚相手を見付けろとせっつかれでも
しているのだろうか。
「お疲れのところを申し訳ありません」
「お疲れ? 疲れてなんかいないつもりですが、そう見えます?」
応じた声は、最初に比べれば力がこもっていた。刑事の言葉を気にしたのかもしれな
い。
「いえ、旅行の予定がくるったと聞いたものですから」
八島が如才なく答える。
「ああ、そういえば遅れたんだった。もう、遠い記憶って感じだわ。帰ってくる間、そ
れどころじゃなかったから」
「と言いますと?」
応接間に通され、古いがよい質感のソファに座るよう促された。お茶の提供の申し出
とそれを断る短いやり取りがあって、本題に戻る。
「移動中、愛子の事件を知って、気が気でなかった。刑事さん達はどのようにお考えか
存じ上げませんが、彼女に対しては愛憎半ばするというか、一言では表せない感情を抱
いています」
「分かるような気がします」
また八島が言った。今度のは如才ないというのではなく、調子を合わせた感じだ。飛
井田も今のやり取りを糸口に、踏み込んでいく。
「我々警察としては、愛憎の内の憎の方をクロースアップせざるを得ない訳でしてね。
ご旅行中のことも含めて、伺いに参った次第です」
「さすがに警察は早いんですね。テレビやネットで話題になっているから、嫌でも見聞
きしてしまいますけど、私と愛子の間でトラブルが起きていたなんて話、どこにも出て
いないんじゃないかしら」
「把握されていたのは、L文芸とQ出版それぞれの一部の社員だけのようですね。皆さ
ん、結構口が堅くて感心しました」
「それは向こうが――愛子の方が、もし作品やアイディアのことで昔の知り合いと揉め
ている事実が表沙汰になったら編集者の誰かの仕業と見なして、関係を切ると宣言した
からじゃないの。私の方は、別に世間に知られたってかまわないんだから。積極的にば
らすつもりはなくてもね」
彼女は壁の時計を見る仕種をした。
「ねえ、刑事さん。動機の有無を探るのはたいして意味ないでしょう? そちらが知っ
ていること以上の話は、出てこないと思う。それよりも、旅行中のことを聞いてくれな
いのかしら」
「アリバイの確認、ですか。いいでしょう。この十九日から二十日に掛けて、札幌と小
樽を旅していたと言える証拠、ありますか」
「定番でしょうけれども、写真があります。他にもお土産の賞味期限やレシートの打
刻、ホテルの名簿。各施設の防犯カメラにも写っているはず。そうそう、野々村さんと
多川さんの証言もあるわ」
「じゃあ、とりあえず写真やレシート辺りから拝見できますか」
取りに行かせ、その背中に質問を重ねた。
「そういえば、名前の挙がったお二人はご友人と聞きましたが、具体的にはどのような
ご関係で」
「私、作家として芽が出る前は、デザインをやっていて。アクセサリーの。そこそこ売
れていたんですよ。野々村さんはそのときの同僚で、多川さんはお客様だったのが、作
る側に転じたんです」
かいつまんで言うと、昔の仕事仲間と旧交を温める旅行だったということらしい。
「旅行を企画したのは?」
「私です。手配も何もかも」
この返答には、若干の違和感を覚えた。でも、後生大事にとって置くほど重要ではな
いと判断し、すぐにぶつけてみる。
「売れっ子作家のあなたが手配を? 忙しい最中、大変だったのでは」
「それほどでも。売れっ子というのは、悔しいけれども最低でも愛子、市浜万里奈程度
にならなくてはいけない」
「そいつはご謙遜が過ぎるというもの。改めて聞くのは失礼に当たるかもしれません
が、小説家一本で暮らしてらっしゃるんでしょう?」
「いえ。なかなかそううまくは行きません。先ほど言ったアクセサリー造りの他、アン
ティークの掘り出し物を見付けては転売したり、株式に手を出したりしています。――
ありましたわ」
写真を撮ったのであろうコンパクトタイプのデジタルカメラと、レシート類を持って
戻って来た。
「どうぞご確認を」
撮影データをスライド形式で見ていくが、スケジュール通りに動いていたらしいこと
が分かっただけであった。レシートも、札幌や小樽で買い物したときの物に間違いない
ようだ。あとは、多川なる友人が髪を茶色にし、化粧の派手な年配女性だと分かった。
野々村の方は小野寺と同世代と思しき細面。野暮ったい黒縁眼鏡のせいでだいぶ損をし
ているんじゃないだろうか。
「もしかまわなければ、このカメラとレシート、しばらくお借りしたいのですが。お預
かりする場合、きちんと書類を作りますから」
「かまいません。レシートもデータ化して保存しているので、いらないくらいです」
「ちなみに友人お二人は、あなたが作家をなさっていることは当然ご存じで?」
「知っています。ああ、分かった。次に聞きたいのは、彼女達が、私と市浜万里奈の関
係を知っているかどうか、でしょう?」
「さすが推理作家の先生だ。で、どうなんです?」
先回りされるのは気分のよいものではないが、想定内だ。飛井田は敢えて驚いてみせ
ながら聞き返した。
「知らないと思います。私からは敢えて言ったことはない。ただし、愛子の書いた物を
原作にしたドラマをテレビでやっていると、私もつい辛口になるから、それを聞いたら
市浜万里奈を嫌っているんだなと気付くかもしれない」
「ということは、今回の事件がニュースで流れた際、あなた方の間で妙な空気になりま
した?」
「いえ、そこまでは」
顔の前で片手を振る小野寺。
「だって、私が愛子を、市浜万里奈を嫌っていることを野々村さんや多川さんが察して
いたとして、いきなり殺意には結び付けるものじゃないでしょう? 『あら大変』『ご
同業の方が殺されただなんて、物騒ね』なんていう毒にも薬にもならない会話を交わし
たくらいでおしまい。まあ、愛子は子供向けの物も書いていたようだから、その後は、
野々村さん達の子供の話になったかな、確か」
「なるほど。うん、ちょっとおかしいですな」
「何がですか」
飛井田が鎌掛け目的の台詞を発したが、小野寺に動揺や焦りの色は見られない。
「いえなに、たいしたことじゃありませんよ。先ほど、事件を知った瞬間から気が気で
なかった、みたいな発言をなさいましたよね。親しいお友達なら、あなたのそういった
変化にも気付いて、心配なり何なりするのではないかなあ、と思っただけで」
「何だ、そんなこと」
焦ってはいなかったが、刑事の説明を聞いて安堵する気配はうかがえた。
「私だって感情を隠す術ぐらい、備わっています。社会人の経験のない愛子とは違っ
て」
「……愛憎半ばすると言った意味というかニュアンスが、私にもちょっと飲み込めた気
がするな」
「はい?」
「今のあなたの台詞ですよ。言わなくてもいい一言を付け足したように感じたのでね」
「……余計な一言だったかもしれません。でも、たいした意味はないですわ」
改まった口調で言い切る小野寺。
「彼女が死のうがどうなろうが、私は何も変わらないつもりでいたけれども、複雑な感
情っていうのが勝手に出てしまう。ただそれだけのこと」
飛井田は黙って、頬からあごに掛けてを撫でた。アリバイは成立しそうだし、他に怪
しむべきところはない。動機があるというだけだ。それでも小野寺を容疑者リストから
完全に除外するには、踏ん切りが付かなかった。恐らく、彼女が推理小説を書くプロだ
という点が、どうにも引っ掛かるのだろう。
「ところで小野寺さん。磯田愛子さんを殺害するような人物に、お心当たりはありませ
んかね」
「噂に聞いたところでは、おかしな手紙を受け取ったこともあったようだから、ファン
もどきのストーカーとか? あ、私はしていませんからね、そういう手紙を送り付ける
なんて」
「信じますよ。けど今言われたその話は、とうに得ています。他には?」
「詳しいに現関係となると分かりませんね。世渡り上手でしたから、敵を作らずに来た
んじゃありません? そうでなければ、偉い人や権力を持っている人にすり寄って、敵
を封じ込めるとか」
仲違いが続いていたとは言え、随分な表現である。
殺人事件の捜査できた刑事を前にして、取り繕ったような美辞麗句やお為ごかしを言
わないのは、市浜をよほど嫌っていたか、そうでなければアリバイトリックに絶対の自
信を持っていることになる……。
「札幌にいながらにして首都圏にいる人間を刺殺するトリックなんて、ありませんか」