AWC 又貸しされた殺意 1   永山


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#409/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  12/06/16  23:55  (499)
又貸しされた殺意 1   永山
★内容
 川尻優(かわじりまさる)は酒好きだが、強くはない。顔に出ないのと飲み
っぷりとで、強いものと思われることしばしばだが、実際は違う。落ち着きの
ある態度とは裏腹に、頭の中で独楽が回っているかのように意識はぐらぐら揺
れ、視界もはっきりしない。何よりも厄介なのが、翌朝目覚めると酒を飲んで
いる間の記憶が極めてあやふやになり、酷いときはきれいさっぱり忘れてしま
うことがある。
 今朝もそうだった。船室で一人、目覚めたあと、昨晩の出来事を思い出そう
とするが、バーカウンターで若い女の子相手にマッチや紙ナプキンを使ったく
だらない手品をやって、結構受けがよかったことばかりクロースアップされる。
他に何かあったのは確実なのだが、のどの手前で引っ掛かって入るみたいに出
て来ない。
 頭をすっきりさせようとシャワーを浴び、着替えてから煙草に火を着ける。
脱いだ服のポケットからライターを取り出したとき、指先に何か別の物の触れ
る感触があったので、引っ張り出した。
 それは、手帳のページを破ったと思しき一枚の紙切れで、ボールペンで書い
たらしい字が踊る。

  7/1  10:00−21:00
 川尻優   → 平井和美
  7/2   9:00−14:00
 小渕満彦  → 沼崎麗子

 とあり、その上下には破いた痕のぎざぎざが斜めに走っている。川尻自身の
名前及び小渕なる人物の名前の前には、拇印が押してあった。「川尻優」及び
「沼崎麗子」は自分が書いたもの、あとは別人の手による字である。
(沼崎麗子は俺の恋人だ。今や疎ましいだけの存在だが……あ)
 川尻は朧気ながら昨夜の出来事を思い出してきた。己の親指を見ると、右手
の方に赤い何かが残っていた。血かもしれない。
 裏返すと、やはり黒のボールペン字で、「万が一ミスったときはこの紙を
処分!」と、走り書きがあった。これも自分の字らしい。
 川尻は煙草の火を消すと、記憶の再生に真剣に努めた。そして、思い出した。
 昨晩、船のバーで男と知り合い、交換殺人を約束したのだ。この紙の書き付
けは、その契約書であると同時に、お互いが交換殺人完遂まで裏切らないよう
にする証文でもある。
 記憶が定かでないが、この書き方から見て、平井和美なる女性が小渕の殺し
たい相手であることは間違いない。七月一日の午前十時から午後九時まで小渕
は絶対のアリバイを確保するから、その間に殺人を実行しろという意味だ。
 川尻は、自分自身が七月二日にアリバイを確保できるのかどうか、思い起こ
してみた。早朝からゴルフの約束が入っていたと気付く。多人数と長時間、一
緒にいる訳だから完璧なアリバイになろう。
 七月八日にも同様の状況でアリバイが確保できるのだが、そちらにしなかっ
たのは何故だろう。殺人の間隔は近い方がよいと判断したのだろうか。報道を
注意深くチェックしなければ、ターゲットの死に気付かない恐れもある気がす
るが。そこまで考えを巡らせてから、相手の都合もあることに気付いた。多分、
小渕の方が七月八日は自由に動けないのだ。
(他にどんな会話を交わしたっけ……)
 目を瞑り、昨日の晩の光景を思い浮かべる。まだ判然としない。五感に訴え
るものがあれば、鮮明になるもしれないと考えた川尻は、椅子を離れて酒瓶を
取ってくると、蓋を回して外し、中の液体の匂いを嗅いだ。
 効果はあった。
 相手の男の顔こそまだもやが掛かったような具合にしか思い出せないが、会
話の方は明白になった。上着の内ポケット、その奥底に別のメモ用紙を押し込
んだ記憶が、しかと甦った。
 平井和美の名前のあとに、五十という年齢、住所と電話番号の記載が続き、
当日の行動予定として“午前十一時から午後一時の間に、近所のスーパーマー
ケットAに自家用車で買い物に出掛ける、それ以外は独りで在宅のはず”とあ
る。平凡な主婦といったところか。
 期日まで二週間。この船旅から帰ったら、早速調べねばならない。スーパー
マーケットの所在地と、そこの防犯カメラの設置状況、利用者の多さ等々。店
で実行するのが困難なようであれば、家を出てすぐか、帰宅直後を狙うことに
なろう。
 計画に全く躊躇していない自分に感心し、少し気分がよくなった。顧客の厚
意からプレゼントされた一泊二日の船旅に、あまり気乗りしていなかったのだ
が、今は来てよかったと感じる。交換殺人を成し遂げれば、憂いはなくなる。
 サイドボードに置いていた携帯電話が鳴った。出る前にディスプレイを見る
と、将来義父とよぶであろう男性からだと知った。
 米木民夫(よねきたみお)の娘とめでたく結ばれるために、川尻は長い付き
合いの恋人を殺そうとしていた。

 人を殺すという行為は、呆気ないほど簡単だった。何の恨みもない見ず知ら
ずの相手だから、少しはためらいが出るかもしれないと事前に想像した川尻だ
ったが、それは杞憂だった。スーパーマーケットの広い駐車場の片隅で、彼は
平井和美に自然に接近し、声を掛け、そして絞殺した。
(場所がよかったというのも無論あるが、赤の他人を冷静に観察することに慣
れているから、殺人もここまで冷静にやれたのかもしれないな)
 川尻は帰途、そんな風に自己分析した。興信所のボスである彼は、探偵とし
て百を優に超える男女を観察してきた。
 自家用車の時計は、ちょうど正午を示していた。助手席の足下には、折り畳
み式自転車が置いてある。現場近くの図書館まで車で行き、そこから折り畳み
の自転車を使ってスーパーマーケットに到着。犯行をなしたあと、また自転車
で図書館まで行き、車に乗り換えた。動機なき殺人とはいえ、逃走ルートには
注意を払ったつもりだ。現行犯で捕まっては、元も子もない。
 あとは、この殺人がニュース等で報じられるのを確認し、明日、沼崎麗子が
始末されるのを待つばかりだ。

 七月二日の夜。上得意の顧客らとのゴルフを終えた川尻は、宴席の誘いを断
り、興信所の入るビルにいそいそと戻った。部下の調査員達を帰したあと、買
ってきた弁当を食べながら、部屋でテレビを観る。番組は無論、ニュースだ。
 ニュースはまず、弁護士が交通事故のため本日予定されていた重要事件の公
判に出廷できなくなり、公判自体が延期になったとトップで伝えたあと、殺人
事件が相次いでいることを伝え始めた。最初に、昨日関東圏で起きたスーパー
マーケットでの独身女性殺し、つまり川尻がやった件だ。あの年齢で独身だと
は思っていなかったので、少し驚いた川尻だったが、どうやら夫に先立たれた
ようだ。
 二番目は、やはり昨日発生した殺人で、場所は東海圏。被害者は主婦で、観
光旅行中の転落死だが、突き落とされた可能性が高いと見られているらしい。
が、川尻にとって興味があるのは、沼崎麗子が被害者の殺人事件だけなので、
ほとんど聞き流していた。
 三つ目は本日の午後にあった殺人で、いよいよかと画面に意識を集中した。
が、川尻の期待を裏切り、九州圏での事件だった。新幹線の車中で若い女性が
毒殺され、目撃情報から不審な男性を追っているとのこと。
 殺人事件のニュースはそれで打ち止めだった。
 川尻は多少怪訝に感じながら、まだ公式発表されていないのか、されていて
も情報が少ないから後回しにされたのかと考えた。少なくとも、発覚していな
いことはあるまい。交換殺人の約束をしておきながら、死体を隠すなどされて
は、アリバイ作りの意味がなくなるのだから。殺害後間もなく発見されるのが
理想的だ。
 川尻はしばらく弁当をぱくついてから思い立ち、パソコンを起ち上げた。つ
いこの前、依頼人になったメーカーの重役から、最新式の物をプレゼントされ
たが、使い慣れた旧式の方を未だに愛用している。ネットに接続すると、ニュ
ースサイトに飛ぶ。早速、より新しい殺人事件のニュースを探しに掛かる。し
かし、目に付くのは最前、テレビニュースで聞いたものばかり。沼崎麗子の名
前は見当たらない。もしかすると氏名不詳の遺体として見つかったのかもしれ
ない。ならばと改めて見出しをチェックしていく。
 と、そのとき携帯電話が鳴った。着信音で麗子からと分かる。
 一瞬、びくりとする。十秒ほど硬直していただろうか。しかし川尻は思い直
した。麗子の携帯電話からの着信だ。麗子が掛けてきたのではなく、彼女の遺
体を発見し、調べた警察が携帯電話のアドレスを順番に当たっているに違いな
い。
 そう判断した川尻は、深呼吸をしてから電話に出た。
「はい、もしもし……」
 警察官、それも男の声が返ってくることを想像し、いくらか堅い調子で始め
た川尻。その耳に、女の高い声が入って来た。
「遅いよ、優。それにどうしたの、何か変に他人行儀な言い方して」
 沼崎麗子本人だった。
「あ、ああ。ちょっとうとうとしていた」
 川尻は取り繕った。己の動悸が激しくなるのが分かる。この音が、電話の向
こうまで聞こえやしないかと、余計な心配までした。
「こんな時間に? あっ、接待ゴルフとか言ってたっけ」
「うん。疲れたんだな。実は悪い夢を見てさ、麗子が事故で死んだっていう」
「何それ。冗談きついというか、悪趣味」
「すまんすまん。そんな夢から覚めた直後に、おまえから電話があって、妙な
心地だったんだ。今はほっとしたよ」
 取り繕い、どうにか普段通りの会話に持って行く。その間、川尻は交換殺人
のメモ用紙を取り出した。そこに書かれた時刻を凝視する。間違いなく、今日
の九時から十四時に決行予定となっている。なのに、麗子は生きている……。
「なあ、念のために聞くけど、今日、危ない目に遭わなかった?」
「心配してくれるのは嬉しいかもだけど、予知夢でも見たつもり? そんな神
秘主義だっけ、優って」
「夢が生々しかったからさ。一応――いや、気にしないでくれ」
 話の流れで、「一応、これからも気を付けるようにしろよ」と言いそうにな
り、慌ててやめた。気を付けられたら、小渕が麗子を殺そうと襲ったとき、し
くじる恐れが高くなるのではないか。
 そもそも、小渕という男は、やる気があるのだろうか。自分の殺したい相手
が死んだからもういいと思ったのではあるまい。例の拇印付きメモがある。ま
さか、怖じ気づいたのか? だとしたら、せっついてやらねばならない。
 殺してやりたい恋人との会話を続けながら、川尻はそんなことを考えていた。

 小渕をせっつこうにも、連絡方法が不明であった。船上で約束を交わした折
に、メールアドレスなり電話番号なりを交換したかもしれないが、川尻の記憶
にはなかったし、そのときの着衣のどこを探ってもそれらしきメモは発見でき
なかった。
 自力で調べ上げる外ないと判断した川尻は、職業上の調査能力を活用した。
あの船の乗客名簿を入手し、小渕満彦の名を探す。偽名の可能性もあったが、
最初から交換殺人の仲間を探す狙いで乗船したのでもない限り、その線は薄い
と思っていた。というのも、信頼関係を構築するためには身元を証す必要があ
るとして、それぞれ運転免許証の氏名欄のみを見せ合ったことを覚えているか
らだ。
 果たして、簡単に見つかった。小渕満彦は医者で、都内で個人病院をやって
いる。ネット検索で周辺情報を集めてみると、ホームページを構えており、顔
写真まで載っていた。
「この男だったかな。自信が持てないな」
 職業柄、川尻は人の顔を覚えるのは苦手ではないが、飲酒が過ぎた場合は別
だ。曖昧模糊とした記憶の中にある共犯者の顔を思い浮かべると、確かに小渕
満彦のようでもある。しかし、どことなくしっくり来ない。記憶の不確かさ故
の感覚で、小渕が共犯者に間違いないとは思うのだが。
 川尻は小渕病院の住所と電話番号をメモに取り、個人的に引き受けた依頼の
名目で、昼前に車で出掛けた。駅近くの公共施設の駐車場に入れ、
 ひとまず様子だけ見て、昼食を取ったあと、小渕満彦に接近できるチャンス
を窺おう。そんな算段を立てていた川尻だが、医院に隣接する小渕邸を目にし
て、ちょっとした意外感にとらわれた。
(葬式? いや、通夜の準備か)
 喪服姿の男達が忙しそうに動き回っている。病院の方は臨時休診の札が掛か
っていた。理由を告げる張り紙はないが、小渕家の誰かが亡くなったのは間違
いなさそうだ。
(ひょっとして、小渕満彦自身が自己か何かで死亡し、そのため、麗子は今も
ぴんぴんしているとかじゃないだろうな)
 頭を掻いた川尻。そのとき、彼の目の届くところに、通夜及び葬儀を告知す
る張り紙が張られ、案内看板が置かれた。
 被葬者の名は小渕夏穂とあった。もっと接近して文章を読めれば、小渕満彦
とどのような関係にあった女性なのか分かるのだが、印象に残る行動は取りた
くない。出入りする人々の会話に耳を傾けていると、亡くなったのは小渕夫人
らしいと知れた。
 いつ死亡したのかは分からないが、こんな事態では、交換殺人に出掛ける暇
がかったとしても合点が行く。さっさと殺してもらいたいのは山々だが、延期
はやむを得まい。中止ではなく、決行する意志があるのかが重要だ。再度コン
タクトを取る必要があるが、いつならよいだろう。
 川尻は頭の中で計算した。延期期間は六日。七月八日なら、アリバイ確保が
容易だ。向こうの都合もあるだろうが、こちらも待たされている。今日が三日
だから、明後日までにはつなぎを取りたい。が、葬儀の片付けや弔問客への応
対で、簡単には行かない気がする。
(いっそ、今日か? 服と金を用意し、弔問客を装えば、入ることはできる。
そのあと、小渕に接近できるだろうか。仮にできたとして、小渕と二人でいる
ところを見られるのは、好ましくない。ひょっとしたらカメラを回している者
もいるかもしれない)
 川尻は悩んだ結果、慎重な振る舞いを優先した。気は急くものの、一旦引き
返し、出直すとしよう。
 小渕邸から事務所に帰り着くと、駐車スペースに見知らぬ男が一人立ってい
た。川尻を見ると近付いてきて、「川尻優さんですか」と丁寧な調子で尋ねら
れた。校庭の返事をすると、相手は満面の笑みを浮かべた。
「突然の訪問をお許しください。私、六月半ばの船旅でお会いした者の代理で
参りました。寺田伸人(てらだのぶと)といいます」
「船旅の?」
 目を見張る川尻。相手を上から下までざっと観察した。身長は川尻とほとん
ど変わらない、中肉中背。スーツに包んだ身体は、何とはなしに密度が高く、
頑丈そうだ。広い額にしわはほとんどなく、怒りの感情を露わにするタイプで
ないことが想像できる。色白なのはデスクワークを主にこなすからだろうか。
が、靴だけはくたびれており、普段よく歩き回っていることが窺えた。
「先生の命で参りました。最初に言っておかねばなりません。私は旅の船上で
先生と川尻さんとの間で何があったのか、全く存じていません。秘密を要する
事柄であるとだけ理解しています。川尻さんも、そのつもりでお聞きください。
そして無論、そのつもりでお話しください」
「あ、ああ。分かりました。場所はここでいいのかな」
「そうですね。あなたの車の中はいかがでしょう」
 二人は川尻の車に乗り込んだ。運転席に川尻、助手席に寺田と名乗る男が座
る。
「こっちも最初にいくつか聞いておきたい。寺田ってのは本名?」
「ご想像に任せます」
「寺田さん、あんたが代理人である証拠は何かないのかい?」
「そう聞かれた場合、こう答えよと先生から指示されています。『K・Hの始
末に感謝する』」
 平井和美のイニシャルか。きわどい表現だなと川尻は思った。小渕満彦の使
いの者なんだろうが、こう見るからに忠実そうな部下?なら、平井和美の存在
も承知しており、K・Hのイニシャルだけでぴんと来るのではなかろうか。
(まあ、この男の様子なら、たとえ気付いても裏切りはなさそうだが)
 寺田に一応の信頼を置いた川尻は、相手の用件を促した。
「先生の言葉をお伝えします。 『のっぴきならない事情により、私は定めた
日に動けなくなった。どうやってそのことを知ったのだ? 教えてもらいたい』
とのことです」
「うん?」
 川尻は思わず首を捻った。メッセージの前半は理解できる。妻の葬儀で約束
の殺人を期日には果たせなかったという意味だろう。では、後半は?
(確かに突き止め、今日、病院まで出向いたが……互いに詮索しないことも交
換殺人の約束に含まれていたんだっけか。だとしても、こっちは麗子死亡のニ
ュースを首を長くして待っていたのに、いつまで経っても何も起こらないと来
た。気になるのは当然だろう。興信所をやってる身だから、この程度の調査は
朝飯前。そもそも、あんただって俺の仕事場を把握してるじゃないか)
 文句を言われる筋合いではない。
(よほど、自分の正体を突き止められない自信があったのか? それは危機管
理の意識が甘いってものだ)
 交換殺人のパートナーを怒らせても、利益はない。川尻は返答に使う言葉を
選んだ。
「まあ、見ての通り、興信所の人間ですから、これぐらいはお茶の子さいさい
……とまでは行かなくても、その気になって調べれば分かることです」
「はあ、さようですか」
 寺田はそう応じたものの、納得していない風に唇をぐっと噛んだ。だが、そ
れだけで、特に追及はなかった。
「分かりました。先生にお伝えしておきます。時間を取らせて、申し訳ありま
せんでした」
「――ちょっと」
 ドアを開け、出ようとする寺田を川尻は呼び止めた。
「あんたの先生が、約束を果たしてくれるのかどうか、聞いてないかな?」
「これは失礼をしました。忘れていた訳ではなく、お尋ねされたときのみ、答
えるようにと言われていたもので」
 シートに戻り、ドアをしっかり閉めた寺田。
「『当初の予定通り、八日に』とのことです。これでよろしいでしょうか」
「……ああ。分かった。できればもう二度と会わずに済むのが望ましいね」
 寺田は黙ったまま、笑顔で頭を下げた。その姿を車中から見送りながら、川
尻は考え、呟いた。
「当初の予定通りってことは、何らかのハプニングで殺人を延期せざるを得な
くなった場合、第二候補の日時を指定しておいたんだろうな。――酒、少しは
控えないとだめだなこりゃ」

 七月九日早朝、自宅のテレビで待望のニュースを確認した川尻は満足し、あ
る種の安らぎを得た。
 その後のワイドショーの報道によると、七月八日の正午頃に、沼崎麗子は殺
されたようだ。休日の昼前、ショッピングに出掛けたデパートで襲われ、絞殺
されていた。有力な目撃証言は今のところなし。防犯カメラの映像も、犯行現
場自体は死角になっていたし、日曜の混雑のおかげか、被害者をつける等の怪
しい行動をした人物は見つかっていないとされた。
(これで終わり、か。交換殺人なんて裏切りのリスクが大きい絵空事だと思わ
ないでもなかったが、実際にやってみると、便利さが分かるな)
 そんなことを感じつつ、川尻はインスタントコーヒーを飲み干した。カップ
を持って席を立ち、キッチンに向かいがてら、テレビの電源を切ろうとする。
が、続けて始まったナレーションに、耳を疑うフレーズを認めて動きが止まる。
<――病院長、小渕満彦さんが遺体で発見されました。七月六日の午後に死亡
したと見られ、行方不明になった直後に殺害された可能性が高いとのことです>
 川尻は何か短く叫んでいたかもしれない。訳が分からなくなった。
(七月六日? ばかな。その二日後に、小渕満彦は麗子を殺したはず)
 テレビの真ん前に立ち、フレームを鷲づかいにした上で、画面を食い入るよ
うに見つめる。流れてくる説明で、小渕夏穂の死も他殺の疑いが濃厚であるこ
とを知った。
 川尻はそのニュースを、七月二日の時点で見聞きしていた。七月一日に東海
地方のS市で起きた主婦転落死亡事件。柴崎麗子が殺されたかどうかばかり気
になって、よその土地で死んだ女性の名前なんてまるで注意していなかった。
(こんな偶然があるのか。交換殺人に応じた俺が、小渕の殺したがっていた平
井和美を殺したのと同日、小渕の妻も殺されるなんて。いや、小渕って男は、
もしかして、交換殺人を二つ同時並行的に成立させたのか?)
 川尻が想像したのは、次のような構図だ。
 小渕は川尻と交換殺人の約束をした裏で、別の人物Aとも交換殺人の約束を
交わした。小渕と川尻の間では、それぞれ平井和美と柴崎麗子を殺し、小渕と
Aの間では小渕夏穂とB(Aが殺したい人物)を殺す。両方の計画に関与して
いる小渕にとって、同じ日に二人が始末されれば、アリバイ確保の手間が一度
で済む。その代わり、己が手を汚すのは二回に増えるが。
 そこまで考え、川尻はかぶりを振って打ち消した。
(現実には、麗子が殺される二日前に小渕は死んだ。あり得ない。小渕の代わ
りに、誰かがやってくれたのか? あの男――寺田か? まさか。他人の交換
殺人を、どんな理由があって受け継ぐというんだ。俺がまだ殺人をやってない
のなら、『こちらは義務を果たしたのだから、そっちも殺しを実行しろ。ただ
し、殺す相手は変更だ』とでもやれば、メリットがあるかもしれない。だが、
実際には俺の方はもう済んでるんだ。じゃあ、何故……。小渕の体面を守るた
め? 麗子を殺さないと、俺が交換殺人の約束を暴露するとでも危惧したんだ
ろうか)
 ジグソーパズルの断片がいくつかあって、色々組み合わせることはできるが、
どれもすっきりした絵にならない。そんな感じがした。
(だいたい、小渕を殺したのは誰なんだ。俺達の交換殺人に関係しているのか
いないのか)
 気を揉む川尻だったが、一方では楽観的に構える彼もいた。彼自身の目的と
義務は達成しているのだ。小渕を殺した犯人を捜そうなんて真似、わざわざす
る必要は全くない。
(万が一、小渕殺しの犯人が交換殺人計画の全貌を知っているなら、俺を脅し
て金を要求してくる恐れも皆無ではない。そうなったときは臨機応変に対処す
るまで。こちらから動くことはしない)
 心に決めると、当初沸き起こった強い動揺は消え去った。念のため、捜査の
進展具合に注意を払う、それだけで充分だろう。

 川尻の内に僅かに残っていた懸念は、意外と早く払拭された。
 小渕満彦殺しの容疑者が逮捕されたのだ。以前から小渕は、彼の妻の兄・五
味靖(ごみやすし)と病院経営に関してもめており、小渕夏穂の死によってそ
れが一気に表面化。葬儀や刑事からの聴取に忙しい最中、秘密裏に小淵と五味
は話し合いの場を持つも決裂、かっとなった五味が小渕を突き飛ばすと相手は
転倒し、打ち所悪く死亡した……という経緯らしい。
(一応、すっきりしたが……麗子を殺したのが誰なのかは、不明のまま。五味
という男が麗子を殺したとも思えない)
 喉に刺さった魚の小骨を取り除いたはずなのに、まだ何やら違和感が残って
いる。そんなイメージを川尻は否応なしに抱いた。
「警察の吉田(よしだ)さんがお見えです」
「あ、そうか。お通しして」
 興信所で待機していた川尻はテレビを消すと、経理兼受け付けの女性にすぐ
に指図した。昨夕、沼崎麗子殺人事件を担当している刑事から再度話を伺いた
いと電話があったので、今日の午前中、仕事場に来てもらうように言っておい
たのだ。
 すでに一度、吉田刑事の聴取を受けている。麗子の事件が発覚した翌日のこ
とだ。携帯電話の履歴でも辿ったのだろう。その際にアリバイの有無を尋ねら
れた川尻は、懇意にしている客達とゴルフをしたと申し立てておいた。
「調べた結果、川尻さんのアリバイ成立です」
 姿を現した吉田は大柄な体躯に似合わず、猫なで声で切り出した。パイプ椅
子を勧めると、がたがたと音を立てて座った。
「応接室にソファもあるのですが、依頼者が来るかもしれないので」
「硬い椅子には慣れてる、かまいやしません。それでですな、補足事項をいく
つか質問していきたいんですが、時間は大丈夫でしょうね」
「ええ」
「ではまず」
 太い指で手帳のページを繰る吉田刑事。紙の擦れ合う乾いた音がしばらく続
いた。
「沼崎麗子さんを恨む、あるいは逆恨みでもいいんだが、恨んでおかしくない
人物に、心当たりは?」
「ちょっと待ってください、刑事さん。最初、アリバイを尋ねられたときも不
思議に感じたんだが、沼崎さんを殺した犯人は、金品目的の強盗ではないので
すか。財布からお金が抜き取られ、アクセサリー類も奪われたらしいと聞いた
んですけれどね」
「偽装の恐れありと見て、念のためですよ」
「差し支えがなければ、偽装かもしれないと考える根拠をご教授願いたいな。
いえね、興信所の仕事にも役立つんじゃないかと思って」
「たいしたことではありません。財布をわざわざ開けて、金を取っているのが
ちょっと気になるだけです」
「強盗の仕業だとしても、さして不自然ではないように思える……」
 川尻が首を傾げると、刑事はすぐに答えた。
「財布は、殺害現場に落ちていた。普通、財布ごと奪って、現場から少しでも
遠ざかりながら中身を抜き取るんじゃないかと。そのあとで財布を植え込みな
り川なりに捨てればいい」
「なるほど。空の財布を遺体のそばに放り出していたのは、強盗の仕業に見せ
掛けたいあからさまな工作かもしれないという訳ですか」
「まあ、決定打にはならないんですがね。同じ強盗殺人でも、被害者の財布を
一刻も早く手放したいと考える犯人もいる。で、心当たりは」
「私から見ても彼女が万全の人間だったとは言えませんが、殺す殺されるの関
係となるとちょっと思い付かないな」
「あなたが沼崎さんとの付き合いの中で、いらいらさせられたり、ここは直し
た方がよいと感じたことがあると思うんですが、それを教えてもらいましょう
か。糸口になるかもしれない」
 刑事の求めに応じ、川尻は正直なところを答えた。言葉の選び方が無頓着、
執着心が強い、小さな嘘をついて追及されると忘れたふりをする、陰口が多い
等々。
「分かりました。次に、本件と直接つながりがあるかどうかまだはっきりせん
のですが、別のある事件と――」
 吉田刑事の台詞を途中まで聞いて理解した刹那、川尻の脳裏に閃光のような
ものが走った。
(小渕満彦は交換殺人メモを処分することなく、殺されたのではないか?)
 総毛立つ感触に、身震いする川尻。
(麗子を八日に殺す予定だったが、その前に殺されたんだから、メモが残って
いても何らおかしくない。吉田刑事が今から言おうとしているのは、そのこと
なのか?)
 危機を予感し、川尻はめいっぱい知恵を絞り、答を探す。が、あまりにも時
間が足りなかった。刑事の話は止まっていない。
「――関連を示唆する発見がありまして。そのことで川尻さんに確認いただき
たい」
「何でしょう」
 声がかすれぬよう、意識して力を込める。刑事は手帳に視線を落としたまま、
淡々と続ける。
「小渕満彦なる男性をご存知ありませんか」
「いえ」
 早口の返答になってしまった。川尻は刑事の顔を窺うが、特に変化は見つけ
られない。
「誰ですか。麗子と関係のある人物とか?」
「別の殺人の被害者です。この方の身に着けていた手帳を調べたところ、何枚
かを破り取った次のページに、文字の痕跡が残っていましてね。筆圧がかなり
高いんでしょうな、沼崎麗子さんの名前と住所が読み取れました。その他にも
何やら書いてあるんだが、悪筆と重なりのせいで、まだ判読できていない」
 どうやら小渕は、メモそのものは慎重に隠すか処分したようだが、メモを書
き付けたときの痕跡にまでは気が回らなかったと見える。
「他の人の名前なんかはなかったんですか。小渕という人が何をされているか
知りませんが、名簿を写し取ったとか……」
「そうではなさそうでしたよ。小渕氏は医者ですが、彼の病院に沼崎さんがい
らしたという記録はなし。別のことで知り合っている可能性もなさそうだ」
「他にメモはなかったんですか?」
 川尻が念のため発した質問に、刑事は目を向けて答えた。
「現時点では見つかっていませんな。思い当たる節でも?」
「いえ、そうではなく、他にもメモがあるなら、ヒントになると思っただけで
して……」
「そうですか。弱ったな。沼崎さんの周りの人に聞いても、皆目分からんので、
あなたに期待していたんだが。あちらの殺人事件を捜査している面々は、小渕
氏の周囲の人に同じように聞いているはずですが、成果が上がったとの報告は
まだないんですよ」
「力になれず、残念です。麗子のためにも、何かしてあげたいんですが」
 声や表情に無念を滲ませる川尻。刑事の質問はこれで終わりと思っていたが、
違った。
「気になることは、まだありまして……それこそ関連あるかどうか、今はまだ
見通しが立ってないことなんですが、小渕夏穂さんという女性をご存知じゃあ
りませんか?」
「――まったく、記憶にない。誰ですか? 小渕と言うからには、小渕満彦氏
の血縁のようですか……」
「細かいことは言いませんが、小渕氏の関係者とだけ。つい最近、小渕氏より
も前に亡くなっており、ここに来て小渕氏自身も死んだので、この二件につな
がりがあるかどうかが、目下の焦点になってるんですよ。その関連の輪に、沼
崎さんの事件を含めるべきか否か見定めるのが、私に与えられた今の役目」
 にっ、と笑う吉田刑事。決して柔和とは言えない顔立ちをしているので、些
か不気味だ。
 刑事が帰ったあと、川尻の頭の中を、一つの疑問が占めた。
(小淵夏穂に触れておいて、平井和美の事件に言及しなかったのは何故だ? 
小渕の周囲で殺された人間として挙がっても、全然おかしくない話の流れだっ
たのに。俺の反応を密かに窺っていた? そんなはずないんだが)

 川尻はまた個人的な依頼ということにして、平井和美の身辺調査を開始しよ
うかと思った。交換殺人の全体像が見えていない気がしてならない。その正体
を掴まないことには、落ち着かないのだ。
 だが、今は調査を思い止まっていた。いくら興信所のボスでも、頻繁に“個
人的な依頼”で動くと目立つし、警察が小渕と麗子のつながりを探っている現
在、川尻の方から動くことは藪蛇の恐れがあった。軽率な振る舞いは、己の首
を絞める。動くにしても、慎重の上にも慎重を期さねばならない。
 この件を頭から追い払うように努め、日々を過ごしていると、不思議なもの
で気に掛けることはなくなっていった。実際、交換殺人の目的そのものは達成
されているのだ。共犯関係を隠し通せさえすれば、川尻にとって勝利は揺るぎ
ない。時効がないおかげで、心の底から安まる日は来ないかもしれないが、ひ
とまずの安寧を手に入れた。そう思えた矢先。
「いやあ、不在ではないかと心配していたが、おられてよかった」
 吉田刑事が興信所事務所に現れた。今回は前触れなしの“急襲”である。
「またお邪魔して、すみませんね。新たな展開があり、どうしても川尻さんの
話を聞かなきゃならんと思いまして」
「新たな展開ね」
 それらしきニュースは目にしていない。一体何を持って来たのか、不安が広
がる。晴天から豪雨に急変する空のように、暗雲が立ちこめていた。
「寺田伸人という男をご存知ですね?」
「――はい」
 少し迷った川尻だが、刑事の自信ありげな口調に否定はまずいと直感した。
かといって、正直にイエスの返事をよこす必要もなかったのだが、今の川尻の
心理状態では、曖昧に応対する芸当は困難だった。
「正確には、そういう名前の男から接触されたことが最近あった、というだけ
ですが」
 遅ればせながら、予防線を張る。吉田刑事はメモを取っていたが、手帳から
興味深そうに目を覗かせた。
「ほう。どのような接触でした?」
「話してもかまいませんが、その前に刑事さん。寺田という男の名が、どうし
て出て来たのかを知りたいですね。軽々に答えるのは危険な匂いがするな」
 体勢を立て直した川尻は、虚勢を張って笑みを作った。
「ふむ、どうしますかな。ま、公表されてますから、調べれば分かることだ。
一昨日、JRのS駅で、プラットフォームから転落、入って来た電車に撥ねら
れ死んだんです」
「寺田が?」
「そう。事件性の有無は調査中ですが、我々――沼崎麗子さんの事件を追って
いる我々にとって、なかなか興味深いメモが寺田の電子手帳に残っていたこと
が分かりましてね」
 またメモか。川尻は舌打ちを堪え、続きを待った。
「普通ならこんな小さなこと、伝わって来ないか、来ても時間が掛かるんです
が、寺田の件の担当者が私と旧い付き合いでしてね。すぐに知らせてくれた訳
だ。これが僥倖かどうかは、今後の展開次第――」
「刑事さん、メモには何とあったんですか」
「ああ、脱線してましたな。電子手帳にはまず、あなたの名前と勤め先の住所
が書いてあった。それとは別の項目に、沼崎麗子さんの名前と自宅住所が記さ
れ、『行動チェックのこと』と注意書きが付してあったんですよ」
「……寺田とは何者なんですか」
「おや。川尻さんの方がお詳しいかと思ってたんですがね。そろそろこちらの
質問にも答えていただきたい。どのような経緯で寺田と会い、どんな話をした
のか」
「言い掛かりのようなことを言ってきた。私どもが過去に行った調査の結果に
より、大きな損害を被ったとかどうとか。要するに、金を取ろうという算段だ
ったんでしょうよ」
 短い間に組み立てた嘘の答を提出した川尻。堂々と断言したつもりだったが、
吉田刑事は「本当ですか」と聞き返してきた。
「疑うんですか? 証拠はないが、間違いなく脅された。その場はどうにか収
まったが、実際に受けたことのある依頼だったのはあとで確認した」
「うーん、この寺田という男、探偵の看板を掲げていて、様々なことの調査を
引き受けとったんですが、脅しをやったとは初耳だ。違法と合法の境界線すれ
すれの調査をすることもあったとはいえ、完全に黒の領域に足を踏み入れると
は考えにくかったもので。それに今は島山(しまやま)弁護士に専属調査員の
ような形で雇われている。危ない橋を渡る必要はない気がするんだがなあ」
 最後は独り言めいてきた吉田の話。川尻は新たな人名を聞き咎めた。
「島山弁護士とは?」

続く




 続き #410 又貸しされた殺意 2   永山
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