#386/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 11/07/26 23:55 (324)
お題>せどり (前) 永山
★内容
古本屋を一旦出て、すぐさま携帯電話をいじる。現在の価格帯をチェックす
ると、少し前に記憶していたのと大差ないと分かった。これなら、あの絵本は
“買い”だ。
店内に引き返し、百円均一のワゴンから、目を付けた絵本を掘り出して手に
取った。極々希に、店外で値を確かめている合間に、“お宝”を他人にかっさ
われてしまったなんてことも起こるが、店内で携帯電話を操作するのはマナー
違反だと考える。携帯電話のカメラで本の中身を撮影していると疑われかねな
い行為は避けるべし。それが僕、瀬島理人が己に課したルールの一つ。
ところ変われば千円以上の値が付く百円の絵本に、値の安定している写真集
一冊、テレビ出演で人気が出て来た評論家の過去の著作一冊、絶版になって久
しい少女漫画十五冊で、しめて二千二百五十円。駐車場の車まで運ぶや、書影
を撮り、携帯電話を使って販売サイトにアップする。物によっては、オークシ
ョンサイトに出品した方が高く売れると見越せるが、今回の“仕入れ”にその
手の本は皆無だった。
と、午前中にアップしておいた怪獣図鑑に、早くも注文が入っていることに
気付いた。すでに古いプロレス雑誌がまとめて売れたし、なかなか幸先がよい。
ノルマは簡単に達成できそうだ。あと一軒、仕入れのために回る予定だったが、
どうしようか迷う。
アダルトに重きをおいた店で、正直言って、自分はあまり詳しくない。だが、
“せどり”のノウハウやコツを教えてくれた先輩・小笠原庄介さんから、定期
的なチェックを頼まれているため、時折足を向けている。何でも、現時点では
販売自体が違法とされる類のヌード写真集をたまに置いているのが美味しいん
だそうだ。いや、ていうことはそれを買い込んでネットで転売するのもやばい
んじゃないかと思うんだが。
でも、同じ方角に、僕好みの古書店がある。古書の価値を充分に理解した価
格を付ける店で、仕入れの対象とするには不向きだ。でも古い小説や雑誌に特
化した品揃えは、店舗自体の古色蒼然とした趣と相俟って、独特の雰囲気を醸
し出している。もし将来、自分の店を持つなら参考にしたいと思っている。
そういう風にしてアダルト書店のある方角へ向かうモチベーションを高め、
エンジンキーを回しかけたそのとき、注文が入ったことを報せるメールがまた
届いた。操作して内容を確かめると、オークションへ出品したある“特別な物”
への入札だった。
「本当に来た……」
思わず声が出た。
* *
オークションサイトにはウォンテッド、つまり欲しい品物としてユーザーが
登録するコーナーがあるものだが、かれこれ五週間ほど前、とあるサイトに自
費出版物をほしがっているユーザー登録者が現れた。「芽森」なるニックネー
ムのその人物は、『透き通る剣の風』という題名の小説を探していた。著者名
は美幕志文(みまくしもん)。どこの自費出版会社かは不明。驚かされたのは、
希望価格だ。十万円で即決するという。
興味を持った自分は、この本と著者について調べてみた。だが、美幕という
著者は、無名のアマチュア作家らしく、検索しても全くヒットしない。活動時
期が最近ならネットに創作を発表するなどの痕跡を残していていいはずだが、
昔の作家なら、公になった情報がゼロというのもあり得ない話じゃない。
無名作家の小説に十万……ますます興味がわいた。できうるなら、『透き通
る剣の風』を手に入れ、読んでみたい。転売は二の次。
手掛かりを得るため、芽森氏宛に、「いつ頃活躍した作家ですか」「出版さ
れたのはいつですか」と問い合わせるメールを出してみる気になったのだが、
同じことを考える者は大勢いるらしい。自分が行動に移すよりも先に、追加情
報として「一九九四年頃の出版で、活動時期も同じ頃と思われます」との一文
がサイトに上がった。他にも「何部刷られたかや、どのように配付もしくは流
通されたのかは、全く分かりません。書籍のタイプは多分ハードカバーですが、
確証はありません」との説明もあった。
そうなると、この芽森氏はどういった経緯で『透き通る剣の風』の存在を知
ったのかが気になる。実は大傑作で評判を聞きつけたのなら、それをもたらし
てくれた人物が手掛かりを握っている可能性は大いにあろう。あるいは、そう
いった伝を頼り尽くしても本を見つけられず、最終手段的にネットに載せてみ
た、なんていういきさつかもしれないが。
これを問い合わせるメールを出したのが二十日ほど前。だが、返答に当たる
新たな追加説明はなされなかった。プライベートな部分に関わるため、明かせ
ないのかもしれない。
手掛かりはほとんどなかったが、それでも十万円という値付けにつられ、古
書店巡りの際には留意するようにした。と同時に、ライバルをむやみに増やし
たくないという思いから、小笠原さんにはこのことを伝えずにいた。元々、稼
ぎの柱を写真集や週刊誌に置いている人だし、誰でも見られるサイトに載って
いる情報なのだから。
ところが、つい六日前に、判断が間違っていたと知った。ファミレスで昼食
を一緒に摂っているとき、小笠原さんがいきなり話し始めたのだ。
「おまえのことだから、当然、『透き通る剣の風』の情報は掴んでいるよな」
口に含んでいたパスタの束を噴きそうになった。顔と目で、どうしてそれを
と問い返す。
「俺もたまには文芸書関連に目を通すさ……てのは嘘。実を言うとな、あのウ
ォンテッドを出したのは、俺なんだ」
「え? 何でまた……わざわざ別人になりすまして」
馬鹿丁寧な文章を綴り、質問メールを送ったことを思うと赤面ものだ。
「あれから二ヶ月になるかな。古書店の手伝いで、出張買取に同行したんだ。
引っ越しを機会にいらない本を処分したいとか、亡くなった主人の蔵書を整理
したいとかな。その日は二軒回ったんだが、二軒目の方で面白いネタが転がり
込んできた。そこは娘さんが若い内に不慮の死を遂げられてな。亡くなってか
らも、部屋や持ち物なんかはずっとそのままにしておいたそうだ。けど、十七
年が過ぎて、
気持ちに区切りが付いたということで、思い出の品の整理に踏み切ったそうだ。
何でも娘さん――月田優って名前なんだが、小説の類が大好きで、大学も文学
部に通っていた。その二年の夏、アルバイトの最終日から帰る途中、川に落ち
て亡くなったんだが、事故なのか事件なのかはっきりしないまま、結局は事故
で片付けられてしまったらしい」
「家族の方は、当然、事件性ありと考えていた?」
「ああ。ご両親が納得行かなかったのは、優さんがもらったばかりの本が見つ
からなかった、この一点。アルバイトの帰り道、駅の公衆電話から優さんは家
に電話を入れてる。その際、『バイト代の他に自費出版の本をもらった。読む
のが楽しみ』みたいな会話を残している。両親の話では、娘さんは本を持ち運
ぶとき、大きめのショルダーバッグに入れるのが常だ。そのバッグから本が、
本だけが飛び出て流されてしまうなんて、不自然だというんだな」
「実は鞄から出していたのかもしれませんよ。小説好きが高じて、歩きながら
本を読む癖があった、とか」
「そういう真似はしない子だったそうだ。第一、現場の道は夜暗くて、本を読
める明るさはない」
ああ、夜道だったのか。それなら本をバッグにしまっていたに違いない。
「だが、警察は『本のサイズや形状が不明である以上、バッグに収まりきらず、
小脇に抱えていたのかもしれない』として、事故死だと結論づけたということ
だ」
「道すがら、防犯カメラはなかったんですか」
「お、よく気付いたなあ。俺も気になったんで聞いてみた。今なら整備されて
いるが、当時はまだだったそうだ。無論、二つ三つはあったが、不鮮明だった
り角度が悪かったりで、本をバッグに入れていたかどうかは確認できなかった
らしい」
「うーん。それでも目撃証言があるんじゃないですか。小脇に本を抱えていた
なら、見た人が覚えていておかしくない」
「電車内で座って、本を開いている月田優らしき女性を見掛けた人なら大勢い
た。でも、肝心の電車を降りたあとはからっきし」
「なるほど。うまく行かないもんですね……。ところで小笠原さん。一向に話
が見えてこないんですが」
皿をあらかた空っぽにした僕は、あとの予定を頭の中で描きつつ、率直に尋
ねた。小笠原さんは灰皿を引き寄せると、煙草に火を灯した。
「義憤に駆られたって訳じゃなく、事実をはっきりさせたいと思ってな。想像
を膨らませたんだよ。もしも月田優の死が事件、つまり殺人や過失致死なら、
犯人が本を持ち去ったと考えられる。殺しの動機にしても、その本を奪うこと
だったかもしれない。じゃ、とりあえず問題の本を手に入れなきゃなと、ネッ
トでアピールしてみた訳」
煙を吐き出しながら、得意げに語る小笠原さん。でも、こっちにしてみれば、
そう簡単に入手できるとは思えなかった。事実、一ヶ月ほどが経過しても手に
入れられていないようだったし。むしろ、月田優にその書籍をくれたというア
ルバイト先を訪ねた方が、近道なんじゃなかろうか。
そういった疑問をぶつけると、小笠原さんは一層得意満面になって、まだ吸
えそうな煙草を灰皿に押し付けて火を消した。
「バイト先を当たる方が早い。普通、そう考えるわな。実際、親御さん達も問
い合わせている。いや、今の俺みたい娘さんの死の謎解き目的ではなく、単に
娘が最後に受け取った本はどんな物なのか知りたかったのと、できれば一冊い
ただいて娘の墓前に備えてやりたいと考えてのことだったとさ。ところが、そ
のバイト先は当初、お話の意味が分からないの一点張り。月田優がバイト代を
受け取った事実を突き付けて、ようやく自費出版で本を出そうとしていたこと
は認めた。何でも、某大企業の鬼門ていう社長さんが関連子会社の印刷屋に命
じて作らせた自費出版小説のお披露目パーティが企画され、月田優のバイトっ
てのはその会場のセッティングの手伝い、スライドショーの準備なんかをする
仕事だったそうだ」
「その自費出版物が、『透き通る剣の風』か……。小笠原さんの口ぶりだと、
パーティは開かれなかったんですね?」
「ああ。準備万端整った前夜になって、急に中止が決定されていた。ここから
は俺が調べた結果になるんだが、中止の理由は判然としない。知り合いを大勢
招いていたのに、都合により中止としか説明されていないんだよな。ま、噂レ
ベルでは、小説の中に飛んでもない誤字脱字が見つかったんじゃないかと社員
間で囁かれたみたいだが、それも一時のこと。じきに自費出版の件に触れるの
はタブーになった」
「……なーんか、においますね」
小笠原さんが興味を持って調べるのも理解できる。そういうつもりで頷いた
僕に対し、当人は「だろ? 金のにおいがぷんぷんする」と笑った。半分冗談、
半分本気と言ったところか。
「そもそも、その社長は何でまた自作の小説を自費出版しようと考えたんです
かね? 若い頃は文学青年で、財と名をなしたあと、その情熱が甦ったとかか
な」
「それが違うんだな。作者は鬼門社長じゃねえ。その息子の鬼門真澄だ」
「え?」
「さっき言ったように社員達は口が堅く、当時の話を聞き出せる状況にない。
だが、月田優のご両親が、娘さんからバイトの内容をちょこちょこっと聞いて
いてな。そこから分かった。予定されていたスライドショーってのは、鬼門真
澄の生涯を振り返るものだった。本の帯には弔意を窺わせる文言が踊っていた。
そして鬼門真澄は、小説を書くことを趣味としていた……。想像するに、鬼門
社長は息子を交通事故で亡くして、父親らしいことをしてやれなかったと思い
知らされた。何かしてやれないかと考えた末に、息子の小説を本にしてやろう
と思ったんじゃないか。出版記念パーティやスライドショーはやり過ぎという
見方もあるだろうがね」
「聞いた限りじゃ、いい話じゃないですか。誤字脱字ぐらいあっても、直して
改めて出せばいい」
「現実はそうはならなかった。何かがあったに違いない」
小笠原さんは確信を持っているようだが、やや性急に過ぎるのではないか。
たとえば、小説の中身に科学的な誤りでも見つかったのかもしれない。そして
それが物語の成立に関わる根本的な問題かつ直しようがなければ、その後、改
めて自費出版が行われなかったとしても不思議でない。
僕がこの考えをぶつけると、小笠原さんは待ってましたとばかりに打ち消し
に掛かってきた。
「いいか。そんな理由で出版を取り止めたなら、どうして今でも箝口令が敷か
れたみたいにタブー扱いされてるんだ? おまえには言ってなかったが、鬼門
真澄が亡くなったのは中三のときだ。中学生の小説に間違いがあったって、そ
んなに隠し通さねばならないほどの恥じゃないだろ。そりゃあ、プロの作品と
して世に出回ったなら、年齢なんて関係ないけどな。今回のはそうじゃないん
だから」
小笠原さんの話し口調の影響も大きいのだろうが、説得力があった。僕が黙
り込むと、さらに調子に乗って続ける。
「俺がオークションサイトで『透き通る剣の風』を探してますよ〜ってアピー
ルしたのは、この小説自体を手に取って見てみたいというのもある。が、それ
以上に、牽制の意味を込めたつもりだ」
「けんせい?」
「想像通り、自費出版の本のせいで月田優さんが死んだとする。そのことを隠
そうとしている犯人は、鬼門社長か社長に近い人物だろう。そいつがネットを
見て、『透き通る剣の風』を探し求める人間がいると知れば、どうだ? いき
なり真相がばれるとまでは恐れないにしても、何のためにあの本を探してるん
だと訝しみ、接触を試みてくる可能性大と思わないか?」
「大きいかどうかはともかく、可能性だけならあるでしょう。でも、そう都合
よく犯人がオークションサイトを見るかどうか……」
「犯人じゃなくてもいいんだ。会社の社員連中の誰かが見て、噂になって、犯
人の耳に入ればいい。それにさ、出版パーティは中止になったとは言え、本が
作られたことは間違いないんだから、何冊かこっそり保管している奴がいても
おかしくあるまい? そいつが小遣い稼ぎに、売ってやると連絡してくる可能
性もある」
くだんのオークションサイトは、当事者達が希望・合意すれば、電話番号や
住所といったお互いの個人情報を明らかにすることなく売買ができるシステム
を採っている。逆に言うと、当事者同士が納得すれば、直接会って手渡しする
のもありだ。
「小笠原さんは結局、どうしたいんです? 危険はないんでしょうか」
「オークションサイトを利用するのに、少々の危険は付きものだろ。詐欺に遭
う危険は常にある」
「じゃなくてですね。『透き通る剣の風』のことで相手と直接会う事態になっ
たら……」
小笠原さんは背が高く体格も大きい方だが、基本的に文化会系の人間だから、
暴力沙汰は苦手なはず。
「別に犯人を脅して金を巻き揚げようなんて、考えてねえから。ただまあ、ほ
んとに事件だと立証できたら、この本の値段は一気に跳ね上がるなと期待して
いる」
また本気だが冗談だか分かりにくい言い方をして、小笠原さんは笑った。
* *
こういったやり取りをしたあと、僕なりに小笠原さんの手助けをしようと考
えた。具体的には、<<別のオークションサイトで『透き通る剣の風』を出品
し、異様な高値を付ける人物がいればチェックする>>というもの。
『透き通る剣の風』の本物は所有していないので、偽物を作る。無論、詐欺
にならないよう、最低ラインは守る。同じ書名の自費出版本を実際にこしらえ
た上で、嘘にならない範囲で情報を添えて出品する。書影は出さない。著者名
などを問い合わせる質問メールが来たときは、汚れて読めないということにす
る。
これに対し、十万円以上の入札をする者が現れれば、一応、怪しいと思って
いいだろう。小笠原さんがウォンテッドしているのを承知の上で、九万円ぐら
いまでで落札を狙う連中が出て来るかもしれないが、さすがに十万超えはある
まい。
出品してから三日間、全く音沙汰がなかったが、今し方、初めての入札があ
った。いきなりの十万円。これは……あからさまに怪しい。本物の『透き通る
剣の風』を小笠原さんの手に渡したくない人物からの入札?
とにもかくにも、小笠原さんに連絡する。携帯電話の短縮ボタンを押した。
すぐに出た相手は、いつもの調子で「お宝写真集が並んでたか?」と聞いて
きた。その声におっ被せるようにして、僕は入札がたった今あったことを伝え
た。
「ほう。いきなり十万か。もう動かんだろうな。入札者は何か言ってきてるか。
受け取りの条件とか」
「いえ、まだ落札を決定していないので。というか、即決システムを選ばなか
ったので。あと四日ありますけど、早期終了させます?」
「無名アマチュア作家の本に十万円の入札なら、誰も文句は言わないだろ。念
のため、今日いっぱいまで待って、終了させちまえ。で、相手の出方を見るん
だ」
「思ったんですけど、犯人がいるとして、そいつは月田さんの持っていた本を
回収し損なったんじゃないですかね。もしも自費出版した部数分全てが手元に
あるのなら、こんな気の急いた入札をする訳がないような。普通、もっと本の
情報を知ろうとするはずです」
「俺もそんな気がしてきた。『透き通る風の剣』は川の流れに飲まれ……いや
いや、待てよ。鞄の中に入れていたなら、本だけが流されちまうなんてあり得
ない」
「あ、犯人が月田優さんを呼び止め、穏便に本を取り返そうとしたのかもしれ
ませんよ。『不都合が見つかったので、本を返してもらいたい』とか。言われ
た月田さんは一応、本を鞄から出した。そのとき、早々と読み始めたことまで
犯人に伝えた。それで犯人はまずいと思い、命を奪おうと凶行に出た……」
「おまえまで推理を始めるとは、何だかお株を奪われたな。そういう経緯があ
って殺人に発展したという線は、ありそうな気がするぜ。ただ、そこまでして
本を読まれないようにする理由ってのが、いまいちぴんと来ない」
「正体がはっきりするまで、用心するに越したことはないですよ、小笠原さん」
「分かってる。おまえの方も念のため、注意をしておけよ。じゃ、さっき言っ
たように、早期終了させて落札者にコンタクトしてみてくれ」
「了解」
まるで興信所の所長と所員にでもなった気分だ。そう感じながら電話を終え
た。
日付が変わるのを待って、十万円の入札をしてきたユーザーに、落札決定の
報せを送った。
すると早朝になって、拍子抜けするような“お詫びとご相談”の返事が届い
た。一万円と入札したつもりが桁を一つ多く間違えてしまったという。ついて
は、落札自体をなかったものとして、再度出品していただけないでしょうか云
云と低姿勢でお願いする文章が続く。力の抜けた僕は。即座にそれを認める返
事を書こうとしたが、思いとどまった。念には念を入れて、小笠原さんの判断
を仰ごう。それまでは返事の保留を決めた。この成り行きを説明するメールを
小笠原さんに送り、そこからあとはいつも通り、せどりに精を出す一日の始ま
りだ。
* *
鬼門貞一は、息子・真澄の突然の死からしばらく経つと、息子の生きた証を
世に残してやりたいと考えるようになった。だが、事業に力を注いできた鬼門
に、息子のことはさっぱり分かっていなかった。何が好きで、どんな趣味があ
って、どういった知り合いがいるのか……どれ一つ取っても、まるで把握して
いないと気付き、愕然となった。せいぜい、英語が得意でだということぐらい
しか知らない。それにしたって覚えていたのは、同学年でトップクラスの力を
持っていると教師にお墨付きをもらったその事実が父親として、社長として誇
らしかったからである。
ともかく、とっかかりを得るため、買い与えた真澄専用のパソコンを起動し
てみた。パスワード入力を要求されて頭を抱えたが、思い付くままいくつか試
してみたところ、意外に単純な言葉が当たりだった。名前をローマ字に直した
MASUMI、これをひっくり返したIMUSAMをパスワードにしていた。
真澄はこのパスワードを共通の物にしていたらしく、ファイルを開くにして
もメールソフトやパソコン通信のログインをするにしても同じパスワードで軽
軽と通れた。やはり中学生だなと少しばかりのほほえましさを覚えつつ、ファ
イルをチェックしていく。NOVと名付けられたフォルダにテキストファイル
が大量にあることに気付き、ワープロソフトで中身を見てみる。小説だった。
正直言って、鬼門は小説の善し悪しを判断する能力を持ち合わせていない。
薦められて読んだベストセラーに感心することはたまにあったが、仕事に追わ
れているせいか、内容なんてすぐに忘れてしまう。
だが、息子が自作したと思しき小説からは、何かしら熱のようなものを感じ
取った。現実と幻想とが綯い交ぜになった、不思議な世界観の物語で、鬼門に
とって特に縁の薄いジャンルだったが、その触りを読んだだけでも、引き込ま
れる気がした。親の欲目かもしれない。それでも、息子が一生懸命打ち込んだ
のは間違いない。よし、これを本の形にして残してやろう。鬼門が気持ちを固
めるのに時間は掛からなかった。
鬼門は社長の権限を活かして、社内で文学、それも娯楽小説に造詣が深いと
される数人をピックアップし、そこからさらに口の堅い者を二名選んだ。この
二名に鬼門真澄のパソコンにあった小説全てを読ませ、一番の傑作を決めるよ
うに命じた。社長の息子の書いた作品だと遠慮が出るかもしれぬと考え、作者
については伏せておいた。一冊の単行本とするには分量が足りない場合は、短
い話を付け足せばよいと考えていた。
約三週間後、“選考結果”が上がってきた。二人の社員が一致して推したの
は、『透き通る剣の風』なる長編小説であった。社員達の感想は、「この作品
がずば抜けてよい。他の作品は習作レベルがほとんどで、破綻のある物も多か
った。『透き通る剣の風』は表現に幼い点はあるが、堂々とした娯楽小説で、
手直しすれば新人賞に応募しても結構いいところまで行くかもしれない」とい
うものであった。
気をよくした鬼門だったが、手を加えるつもりは毛頭なかった。真澄の書い
た作品をそのままの形で世に出してやるのが、真澄のためになる。そう考えて
いたのだから、当然である。直すのは誤字脱字ぐらいにとどめる。
鬼門が悩んだのは、筆名である。父親としては、息子の本名そのままで出し
てやりたい。一方、鬼門真澄はいくつもの筆名を使い分けていた。中学一年頃
に書いたと思われる初期の物は本名を多用していたのが、あとに行くにつれて、
五つ六つのペンネームを使ようになっていた。『透き通る剣の風』は見幕志文
というペンネームで書かれていた。この見幕志文は最後に考えついた名前らし
く、まだ一作にしか使われていないようだった。
――続く