#298/598 ●長編 *** コメント #297 ***
★タイトル (lig ) 06/09/01 20:40 (276)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[10/10] らいと・ひる
★内容
「どういうこと?」
「おまえの持っているその書物は、契約者を捜す為に人間の精神に僅かながらの影
響を与える。おまえは知らぬうちに幻を創り出していたのだ。『一番の理解者』と
いう自分の分身をな」
「自分の分身? じゃあ、ラビは……」
「最初から存在などしない。あえて言うならば、おまえ自身。そしてただの妄想だ」
それはうっすらと予感していた。
羽瑠奈と見ているものが違うと気付いたとき、最悪のシナリオが頭を過ぎってい
たのだ。
ありすは創作の世界だけでなく、現実の世界にまで幻想を創り上げてしまった。
ホワイトラビットの存在は、自分自身を勇気づけ慰める為に生みだされたもう一
人の自分。
思えば、なぜあのネコ耳のカチューシャに拘ったのかも理解できる。あれは、友
達と最後に遊びに行ったテーマパークでお揃いで買ったものだ。当時はお気に入り
で、普段でも着けていた時もあった。そのうち周りから馬鹿にされて、付けるのが
恥ずかしくなってしまったのだ。
だが、なんのことはない、ありすはあれを堂々と着ける口実が欲しかったのだ。
マジックアイテムだと思い込んで、羞恥心を打ち破りたかったのだ。
──バカだよ……情けないよ。
理解者だと思い込んでいたホワイトラビットは、自分の心の創りだした幻。仲良
くなった羽瑠奈も所詮、幻想の中での危うい関係。
壊れてしまわないように必死だった。
いや、壊れてしまうことは必至だったのだ。
ありすはまたもやこの世界で独りぼっちになってしまう。
──でも……。
ありすは自分自身に問う。
自分はこんなにも過酷な世界から逃げ出したいのか?
自分はこんなにも残酷な世界を壊してしまいたいのか?
──あたしはそれでも憧れてしまう。
現実世界でいくら裏切られても。
現実世界でいくら孤立しても。
『優しさ』というファンタジーに憧れてしまう。
それは、破壊や破滅が心の隙間を埋められないと理解しているから。
「ねぇ。えーと、悪魔さんでいいのかな」
ありすは怖々と声をかける。初対面で相手の名前を知らないのと、自分が置かれ
ている状況から目の前に存在するものを『悪魔』と判断したのだ。
「なんとでも呼ぶがいい。『愛すべからざる光』と呼称される場合もあるがな」
それはギリシャ語で『メフィストフェレス』と言う。ありすの呼び名はあながち
間違いでもなかった。
「どんな願いも叶うのかな?」
「我にできることなら」
「んーとね。じゃあ」
ありすは照れながら悪魔に向き合う。
「あたしと友達になって」
その言葉に悪魔の鋭い眼光が一瞬だけ和らいだような気がした。
だが、変化はその一瞬だけであった。
「それはできぬ」
歪んだ声には感情は読み取れない。
「どうして?」
「我には人間と同じ感情はない。我の力で偽りの感情を作り出すことは可能だ。し
かしながら、それは人間のみに有効である。そして我は我に力を使うことは叶わぬ」
「だって、なんでも叶えてくれるって」
ありすは人間ばかりか悪魔にまで見捨てられた。誰一人、彼女の味方になってく
れる者などいないのだろうか。
彼女の頬を一筋の涙が伝う。
「願いにも例外はある。例えば我を殺せという願いも聞き入れることはできぬ。理
屈は同じだ」
「だったら、どうすれば……」
「人間にその偽りの感情を植え付けることは可能だ。例えばそこに転がっておる人
間に『友達』という感情を永遠に持たせることもできる」
悪魔は気絶している羽瑠奈に視線を移し、そう答えた。
彼女との想い出が頭を過ぎる。初めて出会った公園、ティーパーティーでの不条
理で楽しい一時、絡まれた女の子を助けた彼女に素直に憧れたこともあった。
今思えば初めから歯車は噛み合ってなかったのだ。ありすは『white rabbit(白
兎)』を生み出し、羽瑠奈は『march hare(三月兎)』を生み出した。住んでいる
世界は同じでも、見ている世界はまったく違うものであったのだ。
公園での殺人はたぶん彼女だろう。双子であることを知らず、公園でよく見かけ
るあの男を兄と勘違いし殺害を計画したのだ。彼女は短絡的な思考の持ち主である
ゆえに、一度思い込んだ事に疑いをもたなかったのかもしれない。
公園にいたあの男の背中に、怪我を負ってまで入手した山楝蛇を入れ、犬に追い
立てさせて障害者用トイレに閉じこめる。二匹以上使って巧く追い込めば容易に誘
導できるはずだ。なにしろ相手は犬を苦手としている。そして、山楝蛇は本来攻撃
的ではないが、下手に動けば攻撃されていると思い込み噛まれてしまう。背中に入
れた事で男は状況が把握できず、ただ違和感を抱いてもぞもぞと動いていたに違い
ない。背中から出そうとして無理矢理蛇の身体を掴もうとしたのだろう。だから噛
まれるのは必至だった。
トイレに逃げ込んだ男は噛まれた違和感から外へ出ようとするが、ちょうどその
前を犬に番をさせていれば足止めは可能だ。犬が苦手な男は出られないまま徐々に
毒が回り手遅れとなってしまう。鍵をかけたのも男自身が犬への恐怖で行った事だ
ろう。結果的に密室になってしまったが、羽瑠奈がそこまで考えたかについてはわ
からない。たぶん、偶然だろう。密室にさせる意味などないのだから。もしかした
ら、毒蛇を使って殺人を計画したというより、恨みのこもったいたずらに近いのか
もしれない。ただし、本当に死んでもいいと思っていたのだろう。
犬が苦手だということは事前に知っていたのか、もしくはありすが公園で男に魔
法をかけた時、ちょうど犬の散歩にやってきた羽瑠奈がそれに気付いたか。
どちらにせよ、ありすの魔法は初めから存在などしていなかった。あの時、男を
退散させたのは彼女の魔法ではなく、羽瑠奈が散歩の為に連れてきた犬なのだ。す
べてはありすが都合良く生み出した幻だった。
しばらく羽瑠奈の顔を眺めると、悪魔に向き直りしっかりとした口調でこう答え
る。
「ううん。そんな偽りの友達はいらない。そんなことじゃたぶん、あたしの心は満
たされない。優しさには憧れるけど、でもね、現実の世界にまで幻想を持ち込むの
は空しいだけだってわかったから」
「ならば願いが思いついた時、再び我を呼ぶがいい。我はいつでも汝の下に現れよ
う」
そう言って悪魔の身体は細かく、まるで粒子レベルまで分解したかと思うと霧散
してしまう。
ありすは一人取り残された。
近くでパトカーのサイレンが鳴っている。どこかで人の悲鳴が聞こえる。
ありすは家に戻る道を一人寂しく歩いていた。
途中、追いかけられて転んだ時に落としたトートバッグを見つける。
しゃがみ込んでそれを手に取り、散乱した中身を拾い集める。
奇跡的に財布もポーチも無事だった。身分証代わりの生徒手帳があるので、運が
良ければ誰かが警察に届けている可能性もあったが、それさえもしっかりと路面に
転がっている。穴掘中央高等学校、二年三組叉鏡ありす自身のものだ。
今となってはなんの意味もないネコ耳の付いたカチューシャもしっかりとある。
カチューシャの裏側には、白の顔料系マーカーで書かれた名前が見えた。それは、
ありすのものではない。
いつだったか交換した友達の名前であった。
『京本ありす』
かつて『キョウちゃん』と呼んでいた少女だ。
■The true world
原稿用紙から顔を上げて美沙がありすを見つめる。その瞳には穏やかな優しさが
込められているようだ。
「作風、変わったね」
「うん」
アイスティーの入ったグラスを両手で抱えるようにして、ありすは口元へそれを
持って行くと一気に飲み干した。
「こういう物語も嫌いじゃないよ。だけど、どういった心境の変化があったわけ?」
美沙は原稿用紙を揃えてローテーブルの上に置くと、グラスを手に取りそれに口
をつける。
「今まではね。綺麗なもの純粋なものをより綺麗に、より純粋に書きたいって衝動
の方が大きかったの。自分が憧れたものが憧れたままの姿で存在する世界を創りた
かったの。でもね、それだけじゃ伝わらないこともあるって気が付いたから」
「わたくしも、それを読んだ時は驚きました。まるで、今までの作品を全て否定す
るような内容でしたから」
成美がありすの空になったグラスにピッチャーからアイスティーを注ぐ。今日は
成美の家でお喋りに華を咲かせていたのだが、書き上がったばかりの新作を美沙が
読みたいと言い出したことから急遽お披露目会となったのだ。
「やっぱりね、伝える意志ってのを明確に盛り込まないと、作品が死んでしまうの。
例えばさ、どんなに綺麗な壁紙の模様も、一人の画家が魂を込めて描いた絵画には
敵わないのと同じ。綺麗だ、正確だそんなものはいくらでも量産できるし、メッセ
ージが読み取れなければ人はただ通り過ぎていくだけだもん」
「ふふ、ありすもいっちょまえに語るねぇ」
美沙がありすの額を小突く。
「それで、ありすさんはどうしてこの物語を書いたのですか?」
「偶然かな」
それは偶然物語を思いついたという意味ではない。偶然を追究する上で生まれた
という事だ。
「偶然?」
美沙が不思議そうに声を上げる。
「例えば、あたしたちが出会った偶然。出会わなかった偶然も確率的にそこには存
在するわけじゃない。そうすると現実では一つしか見えない世界も、物語ならば二
つの世界を同時に描けるわけ。多世界構造を同時に観測できるのは今のところ物語
だけだからね」
「つまり二重の存在を描きたかったと」
「うんとね、それだけじゃないんだ。ただの偶然に人は意味を置くでしょ。それが
占いだったりジンクスだったり、宗教的に神の行為だと思い込んだりね。あたし自
身が行ったことでさえ、実は偶然だったなんてのはよくあることなの。そう考える
と誰かに対する『優しさ』でさえ、偶然でないとは言えないんじゃないかって」
だからといって人間性を否定するつもりはなかった。全てが決められた世界であ
るならば人に意識は宿らない。例えば、人の身体も世界の全ても細かく分ければ粒
子や電子などの物質から成り立っている。そんなニュートン力学が通用しないミク
ロの世界での物理現象は、全て確率的にしか予言できないのだ。だとしたら、その
どこに決定された事象があるのだろうか。
「そうですね。世の中、必然と思えることですら本当は偶然だった場合も多々あり
ますからね。神様だってサイコロを振りたくなる時があるかもしれませんわ」
「ところでさ、この物語ってこれで終わり?」
「ううん。この子の物語はまだ始まったばかりだよ。絶望はけして終わりじゃない。
あの子にはそれを乗り越えて世界と向き合ってほしいの。だって、この優しくも残
酷な世界は、あたしの全てが詰まっているの。その世界をそう簡単に嫌われてなる
ものですか」
ありすは自分の構築したもう一つの世界にいる少女に想いを馳せる。
「しかし、まさかね」
美沙が含みを持ったように笑う。
「なによぉ」
「時代劇を書いてくるとはね。予想外と言えば予想外。しかも戦乱ものだからね。
こりゃこの先、ますます化けるかもね」
茶化すように、でも本心は期待を込めているかのように美沙がそう呟いた。
■The end of the story
公園のベンチに座り、まるで魂の抜けたように虚空を見つめるありす。服は破れ、
肩口からは血が染み出ている。はたからみれば何事かと思われるだろう。
膝の上にはボロボロになった一冊のノートを、無意識にその表面を撫でている。
身体の痛みは感じない。
ただ心の痛みだけが化膿しかけた傷口のようにじくじくと疼いていた。
手にしている一冊のノート。
これを守る為に何を無くしてしまっただろう。
でも、これを守った事で確実に何かを得たと思いたかった。
……だけど本当は、ただ憧れていただけかもしれないんだ。
守った事に意味を持ちたくて。
守った事で何かを得られると信じて。
実際には何も失うこともなく、そして何も得られることもなかった……。
『こらっ!』
懐かしい声を聞いたような気がする。空耳だろうか。
その時、風向きが急に変わり、強風がありすの座っている場所に吹き付ける。
頭上にある小枝が大きな音を立ててがさがさとその風に煽られた。
こてん、とありすの頭に何かが落ちてくる。
「痛っ!」
地面に転がったそれは、見覚えのあるウサギのキーホルダー。随分前に彼女が無
くしてしまったものだった。量産品なので、ありすの所有物だったものかどうかは
一目ではわからない。だが、確認する方法はある。
裏には文字が刻んであったはず。それはオーダーメイドで彫られたもの。
願うように、祈るように裏返すありすの瞳が涙で潤む。
『
何があっても私たちの友情は変わりません 成美
未来永劫、この出会いに感謝 美沙
明日も明後日もまた会えるよね ありす
』
忘れていたわけではない。悲しみに沈み、二度と起きあがれなくなるからと心の
底に閉じこめていたもの。
あの日、永遠にも続くと思われた日常は突然終わりを告げた。何があったかは悲
しすぎて思い出すことさえ苦痛だ。だが、一人生き延びたありすがそれを悔やんで
も意味はない。あれは、彼女のせいではない。
それでも、天災とも人災とも噂されたあの日以来、彼女は変わってしまった。
現実を拒み、物語を創ることさえ拒んだ。逃げるのを嫌っていた彼女が初めて逃
げることに躊躇をしなくなる。はては妄想を生み出し、その混沌とした泥の中にど
っぷりと浸かってしまった。
けど……。
『ありすは物語を組み上げているじゃない。根拠のない誤った世界、それを妄想と
言うんだけど、そんな無責任な世界は創らないじゃない。そこがね、なんか凄いな
って思うんだ』
美沙ちゃん?
『でも、ありすさんが物語を大好きなことには変わりはない』
成美ちゃん?
『もう大丈夫だよね』
懐かしいその声は空耳なのか、自分が生み出した幻なのかはわからない。
よくわからないのに、涙が溢れた。その溢れた涙を見て、自分が何をすべきかよ
うやく理解した。
ありすは躊躇わず、手にしたノートを一気に破る。でも、まだ半分に引き裂かれ
ただけだ。だから、今度は一ページ一ページ、丁寧に細かく刻んでいく。
風で空に舞い上がるノートの切れ端。その一つ一つには、彼女の想いが込められ
た文字がびっしりと書き記されてある。でも、それはもうどうでもいいのかもしれ
ない。彼女はこんなものを守りたかったのではない。こんなものを誇りたかったの
ではない。
誇るべきは出会った友たち、そして一緒に過ごした時間。
失ってしまったものを悔やむのではない。
ありすに影響を与えてくれたことを感謝しなければならない。それが生きてここ
にいる理由。
優しくて強くて活動的で、それでいて大らかな美沙に憧れていた。
優しくて気高くて優雅で、それでいて親しみやすい成美に憧れていた。
彼女は想う。
どれだけ裏切られても、
どれだけ痛めつけられても、
諦めることができないのは、自分の中に残る『憧れ』なのかもしれない。
一度知ってしまった『優しさ』というぬくもり。
いっそのこと憧れることなどなければ良かった。そうすればこの世界に未練など
持つことはなかった。いつもそうやって悔やんでいた。
でも、本当は知らないよりはましなのかもしれない。
こんなにも心を純粋にして憧れてしまえるほど、それは尊いものなのだから。
一度知って、それがかけがえのないものだと気付いてしまったのだから。
それだけは胸を張って幸せだったと思える。
だから、この残酷な世界にもう一度憧れを芽吹かせよう。
この優しい世界を取り戻そう。
それがささやかなの願いなのだから。
自身が望むなら、ありすは何度でも再生する。
了