#287/598 ●長編 *** コメント #286 ***
★タイトル (RAD ) 06/08/25 23:06 (250)
白き翼を持つ悪魔【16】 悠木 歩
★内容
「バカ、危ない」
無音のはずの空間に、そんな声が聞こえた。
それから強い力で身体が後方へと流される。いや、これは当然だろう。力尽き、
流れに負けたのだから。
「あっ」
しかし失われたはずの感覚が戻っているのを知り、優希は驚きの声を上げた。
そしてその声は、耳に届く。何かの温もりを感じ取ると共に、目の前の闇が急速
に遠退いた。間髪を入れず、臀部に衝撃を覚える。
「なにやってのよ、危ないじゃない!」
耳に馴染んだ声に振り返ると、そこにあったのは見知った顔だった。
「あっ………えっと……梨緒?」
険しい表情でこちらを睨みつけていたのは室田梨緒であった。しかしそれは理
不尽な健司の憎しみを甘んじて受けようとしていた大人の梨緒ではない。優希が
死の直前に見た、中学生の梨緒がいたのだ。
「ここ、どこなの?」
状況が分からず、優希は視線を周囲に振る。
見覚えのある松の木。
見覚えのある道路。
見覚えのあるガードレール。その向こうに広がる闇からは音が聞こえる。波の
音だ。
「ちょっと、優希ったら、何言ってんの。ひょっとしてボケちゃった?」
「………あっ、やだ、冷たい」
尻に感じた冷たさに、思わず跳ねるようにして立ち上がった。
「やだ、泥だらけじゃない」
そう言った梨緒の手が、パンパンと大きな音を立てながら優希の臀部を叩く。
「痛っ、ちょ、ちょっと痛いよ、梨緒」
「あーだめ、はたいたくらいじゃ、落ちないよ、これ」
「あっ」
それまで頭の中に掛かっていた霞が、突如として晴れて行く。街へ買い物に出
た帰り道、梨緒と別れた後、一人この場に留まっていた優希。うっかり海に落と
してしまった買い物袋を取ろうとして、優希自身も転落しそうになっていたのだ。
「ごめーん、梨緒。助かった………ああっ!」
優希の上げた大声に、一瞬、梨緒が身を竦める。
「何々、どうしたのよぉ。びっくりするじゃない」
「ああん、どうしよう………買ったばかりのコート、海に落としちゃったあ」
「ばっか、そんなもの。自分が落ちるよりいいじゃない」
「だけど………コートの袋の中に、通帳とカードも入ってたの……」
「ええっ!」
優希と梨緒、並んでガードレールから身を乗り出して、海を見下ろす。無意識
のうち、互いが転落しないよう、手を繋ぎ合いながら。
そこに見えるのは、吸い込まれそうな深い闇ばかり。直下の海は音で存在を示
してはいたが、その波すら視認することは出来なかった。
「明日、朝一で銀行に連絡するしかないよ」
「………だね」
暫しの沈黙の後、優希は刺すような風の冷たさを感じた。いまはまだ冬である
ことを思い出すと、興奮していた心が徐々に落ち着きを取り戻して行く。
「そうだ、忘れるとこだった」
「えっ、何をさ?」
優希は梨緒の手を引き、ガードレールから三歩ほど、後ろへと下がる。それか
ら繋いでいた手を離すと、深々と頭を下げたのだった。
「どうもありがとうございました」
「なによ、いきなり」
「いま、助けてくれたでしょ。梨緒がいなかったら、私、きっと死んでいた」
「やだ、大げさだよ」
「ううん、大げさじゃない。戻ってきてくれてありがとう」
「ん、いえ、どういたしまして」
真剣な優希に気圧されるように梨緒も謝意を受け入れ、頭を下げ返す。
「なんかさ………アタシいろいろ喋り過ぎた気がして。優希、混乱してたみたい
でしょ? 気になって、戻って来たの」
―――多分。
優希は思う。
梨緒が戻っていなければ、自分は本当に死んでいたであろうと。
そのまま帰宅してしまっても何も不思議はない。いや、普通はそうしたであろ
う。それが単なる偶然か、あるいは勘が働いたのか。梨緒は優希の様子を見るた
め、この場に戻って来た。本来なら、ごく小さな選択の違い。優希が気になって
いたのであれば、帰宅後、電話をするのでもよかった。明日、学校で会うことも
出来た。しかし引き返すという道を選び、それが優希の死を防ぐという大きな結
果に繋がる。
人の運命とはこんなものなのかも知れない。
小さな事柄の積み重ね。
些細な選択の違い。
それが気付かぬところで運命を大きく変えているのだろうと。
「あとね、もう一つ。梨緒に言わなくちゃいけないことがあるの」
それから一つ、優希は大きく深呼吸する。
「私、田嶋優希は、笠原健司が好きです」
その言葉に梨緒は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにどこか嬉しげな笑み
へと変わった。
「ふふっ、やっぱり?」
「ん、………でも正直言うとね、まだよく分からないこともあるの。えっと、あ
の、なんだろう………」
「分かるよ」
鼻先を何かが掠める。梨緒の人差し指であった。
「好きだけど、それが愛してるって気持ちなのか、分からないんでしょ?」
指で優希の鼻を軽く押しながら、梨緒が言う。
「………うん」
「でも、まっ、これでライバル関係成立、ってとこだね」
「………」
ドラマのような台詞を吐きながら、梨緒は笑う。優希にはそれが、恋慣れた女
の余裕に感じられた。
「私、梨緒になら………負けてもいいな………あ、痛い!」
突然後方へと引かれたかに見えた梨緒の指が、次の瞬間、優希の鼻を弾く。
「うそつき。本当は絶対、負けたくないくせに」
少し頬を膨らませた梨緒の表情は、怒っているようでも、優希をからかってい
るようでもあった。しかしすぐにまた笑顔へと戻る。
「アタシは負けたくないよ。けど、負けるなら、絶対優希以外の人じゃ、イヤだ
な」
「梨緒」
パアン。
「きゃっ」
突然の音に驚いた梨緒が、尻もちをつく。目の前で、優希が手を叩いたのだ。
所謂、猫騙しというものである。
「あははっ、おあいこ」
「おあいこじゃなあい」
笑いながら手を差し伸べた優希だったが、逆にその手を取った梨緒に引き倒さ
れてしまう。そのまま優希は、土の上に倒れ込んだ。
「これでおあいこだね」
「違うー」
まるで幼子のような声を上げながら、二人は笑った。
「いたあっ!」
果てしなく続くかに思われた泥遊びを中断させたのは、男の叫び声であった。
我に返った優希と梨緒は、声の方へと視線を遣る。
きーっ、という軋みを立てて一台の自転車が停まる。自転車に乗っていたのは、
若い男。暗くて顔貌を見て取ることは出来なかったが、優希にはそれが健司であ
るとすぐに分かった。
「お前、こんな時間まで何してたんだよ、おばさん、すごく心配してるぞ」
怒気も露な声。自転車のスタンドを立てた健司が、大股で近づいて来る。
「ああっ?」
ようやく顔が確認出来るまでに距離を詰めた途端、その声の調子が変わった。
「その歳で泥遊びかぁ?」
健司は明らかに笑いを噛み殺しながら、言う。その言葉に促され、優希と梨緒
は互いにまず相手を、それから自分を見遣った。
「サイアク………」
「………だね」
どちらからともなく、そんな会話が交わされる。
そして泥まみれの相手と、自分とを笑う。
街路灯の下まで来ると、その汚さが一層よく分かる。ハンカチを手に泥を拭っ
てはみたが、一枚ではまるで足りない。
「あれっ? 君は」
わずかに驚いたような健司の声は、梨緒の顔を見てのものだった。街路灯の下、
梨緒が先日助けた少女であると、ようやく気付いたらしい。
「あ、この間はどうも………あのときは、ちょっと動揺してて、ちゃんとお礼も
言わないで、ゴメンなさい」
戸惑うように、はにかんだように答える梨緒。歳相応の少女らしい反応を少し
可笑しく、そして嬉しく優希は感じた。二人のやり取りに無関心を装い、身体の
泥を落としながらも聞き耳を立て、横目で様子を窺う。
「ああ、いや………」
小声で言いながら、健司は一瞬だけ、立てた人差し指を口元に充てた。あくま
でも先日の件を、優希には秘密にしたいと言う意思表示である。
「じゃ、私はこれで」
突然、梨緒が小走りに駆け出す。
「あっ、待って、君。送って行くよ」
「君、じゃなくて梨緒。室田梨緒です」
呼び止める健司に、足を止めた梨緒はそう答え、再び駆け出した。
「そうだよ梨緒。けんに送らせるからー」
「自転車に三人乗りは、ムリでしょ。それと………武田信玄だよ」
優希の呼びかけには振り返らず、梨緒は駆けて行く。
「敵に塩を贈る、ってヤツー」
「それ、上杉謙信のほうだってば」
優希の声が届いたのかどうかは分からない。梨緒の姿はカーブした道の向こう
へと消えてしまった。
「塩を贈るって、何のことだ?」
「そんなことはどうでもいいの! さっさと梨緒を追いかけなさい」
幼少時から習慣。それは力と体格で逆転したいまとなっても、簡単に変わるも
のではない。半ば怒鳴るような優希の声に反応し、健司は自転車へと跨る。
梨緒を追った健司を見届け、優希は一人家路に着く。そこに自転車の健司が追
い付いて来たのは、十分ほど歩いた頃であった。
「ごめん、あの子、見失っちまった」
「もう、役に立たないんだから」
「だからこうやって謝っているだろう。本当にごめん」
元々は帰宅の遅い優希を、健司が怒っていたはずだったがその立場は入れ替わ
ってしまう。
「私にじゃなくて、梨緒に謝ってよね」
「分かってるよ………なあ、後ろに乗れよ」
優希の少し前で自転車を停めた健司は、顎で荷台を指し示す。言われるまま、
優希はそこへ横座りした。
「どうして女って、そうやって自転車の後ろに座るんだろうな?」
「ばか言ってないで、さっさと漕ぎなさい」
ぺち、ぺち、と優希は健司の背中を二つ、叩く。叩きながら、久しぶりに触れ
る健司の背がいつのまにか大きくなっていたことに驚いた。
「へいへい。それでは出発いたしますです」
自転車は風を切って走り出す。同時に冷たい空気も、勢いをつけて優希の身体
を撫でて行く。
優希は冷たい風を避けようと、健司の背中に顔を埋める。
「おい、こら。あんまりひっつくなよ」
怒った、と言うよりどこか慌てたような健司の声が飛ぶ。
「お? 照れているのかね、健司くん。本当は嬉しいくせに」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、優希はぐりぐりとその頬を健司の背中へと押し付け
た。
「あっ、おい、バカっ!」
自転車は大きく傾き、蛇行する。危うく転倒し掛けるが、どうにか立て直され
難を逃れた。
「危ないわね。ちゃんと運転なさいよ!」
「お前のせいだろう」
前を向く健司は気づいていないだろが、いまの出来事に心底驚いた優希の目に
は涙が溢れていた。それを誤魔化そうと、口調も普段以上に荒くなる。
いや、あるいは健司も気がついていたのだろうか。押しつけられた顔と、身体
に回された手の力が先ほどより強くなっても、そのことについては何も言わない。
それからはしばらく、二人とも声を発さない。無言のまま、互いに自転車の音
と、風の音を耳にしながら時が起つ。
「ねえ、けん」
優希が口を開いたのは、自宅手前、最後のカーブを曲がったときだった。
「ん?」
「もし、もしもだよ」
少し前から、吹く風の勢いが増していた。この季節らしい、冷たい風であった
が、優希はあまり寒さを感じていない。ただ健司に掴まる手の指が悴んでいるの
は分かった。
「私が死んだら」
「何? よく聞こえない」
吹く風と、自転車が切る風。二つの音が入り混じり、互いの声が聞き取りにく
い。
「私が突然死んだらー、けんはどうするぅー?」
「あー? 別にどうもしない」
と、即答した健司だったが、ややあって。
「少しくらい、泣くかもな」
小声で言い直す。
「違うよ」
「えーっ?」
健司の声は優希の耳に、しっかりと届いていた。そして今度は小さな声で返す。
「けんは泣くの。いっぱい、いっぱい、泣くんだよ」
相手に伝えるためではなく、独り呟くように言う。それからまた、冷たくなっ
た頬を健司の背中へと預ける。
「いっぱい、いっぱい泣いて、おかしくなっちゃうの」
「…………」
一際強い風が吹き、自転車はわずかに煽られる。やはり優希の声は届いていな
かったようだ。初めからそのつもりだった優希は、気にも留めない。
「ばか優希」
自転車が止まる。優希の家に着いたのだ。
「何よ、何がばかよ」
健司を馬鹿にすることには慣れているが、馬鹿にされることには慣れていない。
そのため語気も荒くなる。
「本当におばさん、心配してるぞ。ちゃんと謝れよ」
「分かってる………わよ」
荒げた語気は、すぐに萎れてしまった。さすがに優希も非は全面的に自分にあ
ると認めざるを得ない。
予想以上に遅くなってしまった帰宅。視線を落とせば泥だらけの制服。
母にはさぞかし叱られることであろう。覚悟しなければならない。
「今日は………ありがとう。じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
気落ちした声で別れの挨拶を交わすと、優希は自転車を降り、玄関まで五メー
トルほどの距離を歩く。
「………かもな。優希が死んだら、俺、狂っちまうかもな」
そんな台詞が聞こえたのは、優希の手が玄関の戸に掛かった瞬間であった。
「えっ」
思わず、健司へと振り返る。しかしもう自転車はない。優希はすぐに健司の家
へと続く道の先を視線で追った。
夜の闇、いや冬の澄んだ空気の中、まるで無数に輝く星たちに向けて進む背中
を見つける。ただそれだけのことがとても嬉しく、胸の奥が熱くなっていく。
「私、もう死なないから」
自分の言葉の意味すら、よく分からないまま、一人呟く。それから、瞳から勝
手に溢れ出る雫を、指でそっと拭った。
了.