#224/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 04/07/25 00:02 (470)
天衣無法 2 永山
★内容
「このレモンは勿論、本物です」
天野が力を込めて皮を剥いた。確かにレモンの果肉が見える。それから、
「疑うのなら、手に取って調べてみてもいい」
と、挑戦的に七尾に言葉を投げた。
ところが、七尾は椅子から立とうともせず、頭に手をやった。
「あのさあ、非常に悪いんですけど……一体何が不思議だったの?」
「はあ?」
天野が表情を歪める。そのあと、しょうがねえなと見下すように小声で吐き
捨てた。七尾への返事がすぐに出て来ないのは、呆れたからかもしれない。
彼の演技はほぼ無言で行われ、不思議さの説明はなかった。だが、目で追っ
ていれば充分に理解できるはずである。
それとも、小学生には少々難しいのだろうか……横路はそんな不安を持った。
「不思議さが分からないとは、もう一遍やれって云うのか?」
レモンとステッキを握りしめ、声を荒げる天野に、七尾は首を横に振る。
「そうじゃなくて。レモンを入れたカップからレモンが出て来たって、ちっと
も不思議じゃないわ」
「!?」
再び絶句した天野。だが、今度は先ほどとは違って、追い詰められている。
「カップやステッキを持った手の中に、うまいこと隠していたでしょ。ボール
もレモンも。それを入れたり、引っ込めたりしてただけじゃない」
「……」
やや動揺の色の見えた視線が、七尾を離れ、ケシンへと向く。
天野の先生は、微かに笑って肩を竦めるだけで、何も云わなかった。
天野は七尾へ向き直るなり、叫んだ。
「お、思い付きで云うな!」
「思い付きじゃない。ちゃんと考えて、それしかないと思ったから、注意して
たら、ちょろっと見えたときがあったもの」
「じゃ、じゃあ、もう一度やるから、ボールの位置を云い当ててみろ!」
天野は七尾の返事を待たず、がちゃがちゃと音を立てて、再演の準備に掛か
る。そして合図も何もなく、たださっきとはがらりと変わって必死の形相で演
じ始めた。
七尾はしばらく黙っていたが、一つため息をつくと、唐突に答え出す。
「今、左手に一個」「カップを伏せる瞬間に入れた」「あ、また入れた」「ボ
ールをポケットに戻すふりをして、一個取り出した」「ステッキを持つ手に二
個隠してる」「レモン取り出した……あ、入れた」という具合に、次々と云い
当てていった。それが正しいことは、天野の顔色の変化で明白に分かった。
「どう? 当たってたんじゃない? 間違ってたら云ってよ。もう一回ぐらい、
考える時間くれるんでしょ」
無邪気な口ぶりの七尾。本当に当たっているかどうか、彼女自身はまだ分か
っていないようである。
台詞を無視するかのように道具を片付けた天野は、七尾をじろりと横目で睨
みながら、舞台を降りた。奥歯を噛みしめているのが、遠目からでも分かる。
「いや、私は全然分からなかった。小学生とは思えない、素晴らしかった」
横路は場の空気を和ませるつもりで拍手をしたが、逆効果だったらしく、か
えって白けてしまった。
そこへ椅子の脚が床を擦る音が響く。二番手の子が立ち上がったのだ。今度
は女児童。少し茶色がかったショートカットの髪の持ち主で、かなり背のある
方だろう。そのせいか、腕も長く見える。
「かなりの強者であることは、今ので分かったわ」
呟きながら教壇に立った彼女は、衣笠妙子(きぬがさたえこ)と名乗った。
同じく小学六年生で、マジックのキャリアは二年半という。眼鏡の向こうの細
い目が、冷静さと理知的な感じを醸し出している。それ以上に、黒のワンピー
スという衣装が子供らしくない。
「ついでに、弱点も分かったつもり」
「へえー……」
七尾の反応はきょとんとしたものだった。
「ただ、私が得意なのは、あなたの弱点を衝くタイプの技じゃなくて残念。恐
らく、四番目に登場予定の法月(のりづき)君が、披露してくれると思うけれ
ど」
「見破られて恥を掻くのが嫌だから、演技を辞退したいってことかい」
話題に上ったばかりの法月が、さらさらの前髪を撫で上げながら云った。随
分大人びて見えるが、彼も小学六年生なのだろうか。
「いいえ。尻尾巻いて逃げるのは格好悪いし、トップバッターを志願して犠牲
になってくれた天野君に悪いし」
「それなら」
法月の発言の途中で、七尾が口を挟んだ。「おーい。早くしてくださいませ
んか」ととぼけた調子なのはわざとなのだろう。
衣笠は左右の手それぞれで指先を擦り合わせる仕種をすると、ふうとため息
をついた。
「用意していたマジックだとあっさり見破られそうだから、時間稼ぎして、違
うのをできないかって考えていたのに。急かされたんじゃ仕方がないわね。踊
る藁人形を楽しんでくれるかしら」
そう云って彼女が懐から大事そうに取り出したのは、藁人形だった。サイズ
は藁人形と聞いてぱっと思い浮かべるよりもだいぶ小さく、せいぜい高さ五セ
ンチぐらい。本当に藁でできてるのかどうか、横路達のいる位置からは判断で
きなかった。
衣笠は右手に藁人形を持ち、左腕を前に真っ直ぐ伸ばし、手のひらを上に向
けて開いた。そこへ人形を持って行く。どうやら、手のひらに人形を立たせよ
うとしている。
だが、なかなかうまく行かない。それもそのはず、よく見れば藁人形の足は
二本ともとても細く、いかに巧みにバランスを取ったとしても、手のひらに立
つことはないと思えた。
しかし、何度か繰り返す内に、不意に藁人形が立った。
衣笠は右手を人形からそっと放し、徐々に距離を取る。右手を自らの頭の横
辺りに持ってくると、人差し指と親指とを合わせて何かを摘むポーズ。そうし
て右手をこめかみ付近まで引く。
すると左手の上の藁人形が、前に傾いた。だが、倒れはしない。右手の動き
に合わせて、前後にふらりふらりと揺れるだけ。
「物凄く細い糸を付けたと疑ってる?」
徐に聞いてきた衣笠。七尾はしばらくの沈黙の後、「うん。その可能性もあ
るわ」と答えた。
「じゃあ、ここまでご足労してもらって、糸がないことを確かめてみて」
言を受け、七尾はすぐに席を立つと、すたすたと教壇の前まで向かう。相手
に「いい?」と最後の確認をしてから、藁人形と衣笠の右手の間に手を入れ、
上下に激しく振った。藁人形が倒れることはなかった。
「気が済むまでやって」
「……糸はない」
七尾は云ったが、別のことを考えているようにも見える。
そこへ衣笠が新しく手伝いを頼んだ。
「右手の人差し指と中指で、鋏の形を作ってみて」
「チョキってこと?」
すでにチョキの形を作りながら、七尾が尋ねる。演者は小さく頷いた。
「その鋏で、この見えない糸を切ってちょうだい」
「よく分かんないけど……こう?」
云われるがまま、七尾は再び藁人形と衣笠の右手の間に手を入れ、チョキを
閉じた。
と同時に、藁人形が衣笠の左手に倒れ込む。右手の方は、糸を切られたせい
とでも云いたげに、のけぞった。
「見えない糸が、手の鋏で切られちゃったわ。でも、こうすると」
今度は右手の人差し指を立て、遠くからおまじないを掛ける風に、くるくる
と回す。するとどうだろう。藁人形は生命が吹き込まれたかのように、ぴょこ
んと起き上がった。
目を見張る七尾の前で、衣笠は右手を左手に被せ、藁人形を包み込んだ。拝
み合わせる感じに手のひらを擦り合わせると、藁人形を教卓に置いた。
「これにて幕よ。あなたなら簡単でしょう?」
言葉とは裏腹に、彼女の声には挑発的なニュアンスがあった。
七尾はそれを即座に受けて立った。
「座ったままだと、分からなかったかもしれない。近付けたから、ちょっと見
えたわ」
「さあ、何が見えた?」
「その前に一つ質問。藁人形を手のひらじゃなくて、机の上に置いても、同じ
マジックができる?」
「……工夫すればできなくはないけれど、今は無理ね。どうやらもう分かって
しまったみたい」
「女の子が好きこのんでやるマジックじゃない気がする。――あなた、自分の
手のひらに藁人形を突き刺したでしょ」
突き刺した? 何だそりゃ!と声を上げたいのを、すんでの所で堪える横路。
それにしても突き刺すとは穏やかでない……。
「皮膚をほんの少しやるだけだから、痛くないのよ。痕も残らないし」
降参の意味か、軽く両手を上げてから、左手をしっかりと開いてみせる衣笠。
自由な右手で藁人形を持った。それを七尾に見せながら、説明は続く。
「足の先に、細い針が出ていて、簡単には抜けないようにフックが着いてるの」
「それで手の筋肉を使って、起こしたり倒したりしてたのね。気付かれないよ
うに筋肉を動かすのって結構疲れそうだし、演技がうまいから、糸が結んであ
るのかと一瞬思ったわ」
「そういうこと。見抜かれても、誉められると嬉しいものなのね」
衣笠は最後に微笑むと、マジシャンらしくお辞儀をして舞台を降り、席に戻
った。座る際に、隣のもう一人の女児と手と手でタッチをする。選手交代だ。
「私の近未来予想図では、二つとも解けずにギブアップ、よって私の出番はな
しということになってたんだけれど」
衣笠とは対照的にロングヘアの彼女は気怠い調子で云い、座ったまま伸びを
した。それから勢いを付けて立ち上がると、「無双美咲(むそうみさき)よ。
よろしく」と名乗り、挨拶した。カールした毛先をいじりながら、前に出る。
無双もまた小学六年生で、マジックを習い始めて約二年半とのこと。
「私は二つ、弱点を見つけたつもりなのよね。さっき妙子が云ってた分は、法
月君に任せるとして、もう一つを私が試してみることにしようかな」
自信満々の発言。演目を決めて来ず、それでいてこの態度を取れるのは、抽
斗を多く持ち、緩急自在に演じられる実力の証か。
「私はこれを使うわ」
Tシャツにジーンズというマジシャンらしくない出で立ちの彼女は、尻ポケ
ットからトランプのケースを取り出した。赤色をしたケースの蓋を開け、中身
を抜く。ケースを置くと、七尾に向かって手招きをした。
「目の前で見て欲しいのだけれど」
「分かった」
七尾は椅子を持って前へ移動した。横路も同じようにする。
「味も素気もない演じ方をするけれど、それは飽くまでこのタイプの種を見破
ることができるかどうかを試すためよ」
「じゃあ、何をやるのかを初めに教えてくれない?」
「いいわよ。カード当てと予言。さ、まず、カードが全部ばらばらで、順番も
ばらばらということを確かめて」
カード一組を丸ごと渡された七尾は、素直に調べた。
「確かにばらばら。順番も、数字が三ずつ大きくなってるなんてことはないみ
たい」
「……じゃ、カードを返して」
七尾は無双の手のひらにカードを載せた。
無双はそれを一旦まとめ、揃えると、裏向きのまま扇形に開いた。
「好きなカードを一枚、選んでいいわよ」
「……数字とマークを下から覗いてもいい?」
七尾の質問に、無双は一瞬だけ怪訝な顔つきをしたが、じきに元の平静さを
取り戻すと、「ご自由に」と応じた。
「それなら見なくていいわ。許可するってことは、関係ないってことよね」
「早くして」
「はいはーい」
巫山戯気味に明るい口調の七尾は、端から二、三枚目ぐらいのカードを選び
取った。こんな端っこを選ぶ辺り、この子のひねくれた性格を表しているかの
ようだ。
「私に分からないよう、カードを見て、数字とマークを覚えて。それと他の人
にも見て貰って」
七尾は両手で覆うようにしてカードを顔の前に持って来た。横路にも見える。
スペードの7。
そのあと、七尾はご丁寧にも、ケシンや法月達にもカードを見せた。
「見せ終わったら、カードを戻して」
「僕が好きなところ、どこでもいいのね?」
ゆっくりと首を縦に振る無双。その手元にあるカードへ、七尾はスペードの
7を差し込んだ。さっきとはちょうど反対の端っこに。
「何だか面倒になってきちゃったな」
突然、とんでもないことを云い出す無双。横路は思わず、ケシンの顔色を横
目で窺った。だが、無双の師匠は腕組みをして涼しい表情を保っている。
「楽しませるためのマジックなら気合い入るんだけど、テストするためのマジ
ックなんて、かったるくて。えーっと。七尾さん。あなたが選んだカードの数
は、偶然にも名字に合わせて七よね」
「当たってる」
「で、マークはスペード」
「当たってるよ」
噛みしめるように言葉を吐く七尾。目つきが急に険しくなる。種が分からず
悩んでいるのは、傍目にも明らかである。
皮肉にも、これに限って横路には種の予想がついた。恐らく、裏から見ただ
けで表の数字とマークが分かる特殊なカードなのだ。裏の模様に微妙な違いで
区別する。横路ですら知っているのだから、古典的な仕掛けに分類されよう。
細工を施した特殊な手品道具を使われるのは苦手と、七尾自身が認めていた。
図らずもそれを実証した形である。
「……他のカード、たとえば僕のカードでも全く同じことができる?」
七尾はそう云って、自宅から持って来たトランプを持ち出した。やや遅れた
ものの、カード自体に仕掛けがあると気付いたらしい。
無双はまともには返答せず、
「それ、プラスティック製? ちょっと貸して」
と、手を伸ばした。七尾が渡すと、早速ケースを開けてカードを捌く。手に、
指に馴染むかどうか試している様子だ。
「これなら何とかなるかな。やってみましょう。ただし、法月君の出番がなく
なるかもね」
無双は七尾を通り越し、しんがりに控える男児に視線を送る。受けた法月は
何も応えず、前髪をいじった。
「突然だから、うまく行ったら御慰み」
今度は手品師らしい口上を多少は交えつつ、トランプをシャッフルし、ばら
ばらであることを示す。そして伏せたトランプを扇形に開きながら、ゆっくり
と七尾の方へ両手を差し出す。
「好きなカードを指差してみて。あなたが自由に思ったとこ」
「……」
黙って真ん中辺りの一枚を指差す七尾。
「それでいいわね?」
「いい」
「じゃ、あなたがそれを見る前に、私、予言をしておくわ」
さっきよりはやる気が出たのだろうか、マジックの演出らしき振る舞いをす
る無双。ケシンから書く物を借り受けると、何事かをさらさらと記した。“予
言”を書き付けた紙片を教卓に起き、その上にトランプ一組をケース毎載せた。
重し代わりということか。
「そのカードと予言、どちらから見てもいいんだけれど、どっちを選ぶ?」
「……同時に」
七尾の上目遣いに、無双は含み笑いをして「かまわないわよ」と答えると、
置いたばかりの重しを退けて、予言の紙を指で押さえるように云った。七尾の
左手に引いたカード、右手指先に予言の紙がある。
「さ、開けて」
云われるがまま、カードと紙を同時に表向きにする。次の刹那、七尾は明ら
かに息を飲んでいた。
カードはハートの4。予言の紙に記されていたのも“ハートの4”。
「ふふ。うまく行ってよかった。本当は法月君の得意技なのよね。私、専門外
だから、冷や汗ものだったわ」
「ショックを受けているところに、追い討ちを掛けて、とどめを刺してもいい
かい? えっと、七尾さん?」
無双の台詞を遮る形で、法月が云った。すでに腰を浮かせ、臨戦態勢だ。返
事を待つ気も、否応を聞く気もないと見える。
「ちょっと待って。分からないままだと、頭の中がむず痒い感じがするのよね」
気を取り直した風に、強い口調で云い返した七尾。横路は目を見張った。こ
んな姪の様子を見たのは初めてだった。
「君が彼女のマジックを解き明かすまで待てと? だったら何年経っても無理
じゃないかな」
小馬鹿にしたような、いや小馬鹿にした文言でからかう法月。その尻馬に一
番手を務めた天野も乗った。
「そうだそうだ。帰って勉強し直してきた方が、身のためだぜ。時間の節約し
てくれよ。俺達も練習したいんだしな」
「やっぱり、女の子同士だわ」
不意に、そんなことを切り出した七尾。場がしばし、ぽかんとした空気に包
まれる。
「何だ? 考えすぎておかしくなったか」
「考え過ぎってほど、頭使ってないわよ。僕が云ったのは、衣笠さんと無双さ
んがヒントをくれたってこと。気付くのが遅くなっちゃったけど」
伏せがちだった面を起こすと、にっこりとした笑顔。
対照的に、名前を挙げられた女子二人は、困惑も露に互いに顔を見合わせる
のみ。その横では天野が、「ヒントなんか出したか?」と眉を顰めている。
「衣笠さん、確かこう云った。『得意なのは、あなたの弱点を衝くタイプの技
じゃない』とかどうとか」
「ええ。そんな感じのこと、云ったわ」
見つめられた衣笠は、先ほどまで明白だった動揺を即座に隠し、答えた。切
り換えぶりは、マジックを人前で演じた場数のおかげか、大したものだ。
七尾は次に無双の顔を見た。今度は指差し付き。
「そのあと、無双さんがさっきこんなことを。『本当は法月君の得意技』って」
「確かに云った。でも、それが?」
無双もまた平静を装って聞き返したが、最前の勝利で緩んでいた目元が引き
締まったところを見ると、自らの犯したミスに気付いたのかもしれない。
「二人とも、『技』って言葉を使った。なーんか変だなって思ってたんだけど、
なかなかすっきりしなくて。今、やっと分かった。普通なら、『弱点を衝くタ
イプのマジック』『得意のマジック』でいいはずなのに、『技』と云ってる。
ひょっとしたら、無双さんが二番目にやったのや、法月君とかがこれからやる
つもりのマジックは、種なんかなくて、技だけでできるマジックなんじゃない
かなあって思ったんだけど、間違い?」
「……」
再びの静寂。少し前のぽかんとした空気とはまるで別物。
無双は顔を逸らし、衣笠は俯き気味になって嘆息した。天野もまた大きく息
をつくと、隣の女子二人に向かって、「ばーか」と小声で非難した。
「考えてみたら、最初のカップとボールだって、技なんだよね。藁人形が踊る
のだって、技は使われてる。ただ、順序立てて考えたら、この二つの仕組みは
分かるの。でも無双さんの二番目のやつは、考えても分かんなかった。それだ
け高度な技なんじゃないかしら。ね、違う?」
対戦相手を見渡す七尾。問い掛けに応じたのは法月だった。
「君は勉強もできる方なんだろうな」
「そうでもないけど」
「いや、考えることが好きなはずだ。君が今云った通り、マジックは種さえあ
ればできるってもんじゃない。色々な技――テクニックが必要なんだ。たとえ
ば」
法月は言葉を切ると、徐にポケットに片手を突っ込み、五百円玉大のコイン
一枚を取り出した。その銀色のコインは、彼自身の右手のひら中央に置かれた。
左手は手のひらを下向きに、右手の二十五センチほど上空で構える格好をした。
「練習を積めば、こういうこともできる」
言い終わるのよりも若干早く、コインに変化が起きた。
右手も左手も全く動かしていないのに、コインが浮いたのだ。
真っ直ぐ上に。
重力に逆らって、吸い込まれるように、左手の中へ。
「わぁ……凄い」
七尾はマジックを観て初めて拍手した。部屋の隅では、ケシンが腕組みをし
たまま、口元に笑みを浮かべていた。
三年後。
マジックコンテストのジュニア部門に初めて出場することになり、七尾は日
曜日も朝から張り切って練習を重ねていた。最初にマジックと出会ったときは、
単なるなぞなぞとしてしか見ていなかったのが、今や最大の趣味になり、見破
るだけでなく、演じる腕前も上がっていた。無論、テンドー=ケシンに教わっ
たのが大きい。
「電話って云ってるでしょうが、さっきから!」
部屋のドアが短い強風を伴って開き、何事かと思って顔を上げると、頭から
角を生やしそうなほどぷんぷんしている母親の仁王立ちが見えた。
「あ。電話。練習に夢中になってて、聞こえなかった」
「程々にしなさいよ。だいたい、携帯電話ぐらい持ったらどうなの。あんたの
年頃でもってない方が少ないでしょうに」
「そんな物に使うお金があったら、マジックに使うもの、僕」
当たり前のように答えると、七尾はカードを一応片付け、廊下に出た。
「ところで電話って、誰からか云ってた?」
「そうそう。無双さんから。何だかとっても切羽詰まった雰囲気だったわ。だ
から大声で呼んだのに、あんたがうんともすんとも反応しないから」
「はいはい。ごめんなさい」
これ以上小言を食らってはたまらない。小走りになって、電話のあるところ
まで急ぐ。
「お待たせ、すみません。無双さん」
同学年だが学校が違うし、マジック歴では向こうが圧倒的に先輩なので、微
妙に丁寧語を交える。
「そののんびりした様子だと、まだ知らないんだね。大変なことが起きた」
「はい?」
唐突に、しかもいつになく真剣な口調で切り出され、七尾は戸惑った。背後
を通過する母の気配を感じつつ、声を潜める。
「何なんですか、大変なことって」
「ワンダーマン、知ってるでしょ」
「子供向けの番組で、マジックのコーナーを持ってるワンダーマン? それな
ら毎週観てますから、知ってる」
黒覆面をすっぽり被った上に、仮面舞踏会で着用するような白のバタフライ
型マスクを付けた仮面のマジシャンだ。目と口元しか露出していないが、二枚
目を想像させるのに充分な整った形をしており、全身のスタイルもよく、ちび
っ子以外にも人気を博す。背高のシルクハットとシルバーのマントもトレード
マークで、演じている間、全く喋らないのは神秘性を強めるためらしい。七尾
自身は、マジックにしか興味がないので、当の番組もマジックコーナーだけを
楽しみにしている。
「ワンダーマンさんは、ケシン先生のお弟子さんで――」
「へえー。知りませんでした。それだったら同門のよしみで、サインもらえる
かも? クラスでプチファンの子が結構いるから」
「残念ながらサインは無理。お亡くなりになったのよ」
「え……」
送受器を握りしめたまま、絶句してしまった。テレビで活躍する有名人が知
り合いの知り合いだと教えられ、次にその人物は死んだと告げられては、無理
もない。悲しみや驚きよりも先に、訳の分からなさが先に立つ。
「でも、亡くなったって、そんな歳じゃなかったんじゃ……」
「要するに、変死っていうやつ。実際に死んだのは三、四日前なんだそうだけ
れど、正体不明で売っていたし、死んだときは素顔だったらしいから、秘密が
公になるまで時間が掛かったのね。恐らく今日のニュースで嫌でも見掛けるだ
ろうし、夕刊には記事が載るだろうから、詳しいことはそっちを見るなり読む
なりして。私も全部は知らない」
「つまり、殺人事件?」
野次馬根性が鎌首を擡げる。知り合いの知り合いと云っても、面識はゼロだ
し、内々の話なんかをクラスメートに自慢できるかも……。七尾がそんな風に
考えたとしても、責められまい。
「まだ分からないみたい。状況は自殺に見えるけれど、他殺かもしれないとか
何とか。それよりも、私達にとってもっと大変な事態になっている。他殺とし
たらの話だけれど、ケシン先生が疑われているみたいなのよ」
二度目の絶句。それを早く云ってほしかった。ミーハー気分は粉微塵に吹き
飛ぶ。喉がからからになった気がして、言葉が出ない。
「今日はレクチャーのある日だけれど、レクチャーは中止。でも、教室には出
て来ること。日野(ひの)さんから事情説明があるから。分かった?」
七尾は黙って二度、首を縦に振ったあと、電話口だったことを思い出した。
「行きます」
レクチャー日には運転手として駆り出されていた横路は今回も、終わったら
連絡してくれと云い残し、帰ろうとした。ぼちぼち着手せねばならない仕事を
抱えており、気が急く。車のローンのためにも稼がねば。
が、姪に袖を引っ張られ、足を止めざるを得なくなった。
「何だ何だ?」
中学三年に進級した今も依然として小柄な七尾を、困り顔で見下ろす。路駐
状態の車も気になる。
「見学して行かない? レクチャー、今日はなくって、代わりに事件の話があ
るらしいから」
「事件?」
横路は何も聞かされていない。だが、姪が次に口にした、ワンダーマンを名
乗るマジシャンが死亡した件は、昼のニュースで知っていた。
「じゃあ、事件の話というのは、君達に動揺を与えないための事情説明ってと
ころなのか」
「多分。僕らはセンシティブな年頃だから、大人は気を遣ってくれるんだね」
「巫山戯てないで、どうしてそれが私が見学することと関係あるのか、教えて
くれないか」
「だって」
左手を拳銃または変形チョキの形にし、胸に当ててきた。背が同じくらいな
らまだ様になるかもしれないが、横路と七尾の身長差では、まるで板書に取り
掛かる構図だ。
「作家なんだから。色んなこと知っておいて、損はないと思いますが何か」
おしまいまで云わず、引っ込めた腕を組んで、文句ある?という風に見上げ
てきた。横路は苦笑混じりに嘆息する。
「刑事さんに直接取材できるのなら、食指も動くけどねえ」
「また断るっ。作家は好奇心旺盛でないと、大成できないっていうよ」
「そうか?」
好奇心の塊みたいな姪から云われた。
ちなみに「“また”断る」とは、横路がマジックスクールそのものの見学に
興味を示さなかった過去を差す。そのとき断ったのは、マジックをやってみる
気がないのに、下手に種を知っても楽しめなくなるだけと思ったからだが。
「とにかく、行こうよ」
「ひょっとして弥生ちゃん。恐いの?」
「少し恐い」
否定するかと思いきや、簡単に認めた。
「会ったことがなくても、身近な人が死んだんだし、先生が疑われているって
いうし……。でも、それと、叔父さんを誘っているのとは話が別よ」
「そういうことにしといてやろう。車をちゃんと停めてくるよ」
締切がぼちぼち迫ってきた短編をどうしようか、その算段を頭の中で立てつ
つ、横路はキーを取り出した。
初対面の横路に、日野秋奈(あきな)と自己紹介をした女性は、ドラマの配
役で喩えるなら通行人Bぐらいだった。細身で背も低く、目鼻立ちもぱっとし
ない。一見若そうだが、事件の説明という大役を担うほどテンドー=ケシンの
信頼を得ているのだから、結構行っているのかもしれない。後ろでひとまとめ
にした髪の長さだけが印象に残る、そんな感じだ。
「舞台では、テンドー=ケシンの第一アシスタントを務めています。ケシンの
個人事務所であるKMS(ケシンマジックスタヂオ)では、渉外を」
控え目に、硬い口調で云った日野。
横路は、第一アシスタントと聞いて、目を剥く思いになる。ただ券を貰って
ケシンのショーを観ること数度、人体切断や人間消失等のマジックでいつも美
女が手伝っていたが、まさか、目の前にいる女性がそうとは信じ難かった。
第一アシスタントイコール人体切断の美女と限るまい。他の役目の人を第一
アシスタントと呼ぶ慣習なのだろう。あとで姪に聞くかと横路は思った。
「最初に明言しておきます」
日野は口調を若干改め、生徒ら――七尾、無双、衣笠、法月、天野――に対
して云った。
「マジックスクールは継続されます。中断も廃止もありません。それに今度の
一件で、あなた達に迷惑や危険が及ぶことは一切ないと約束します」
随分自信たっぷりに断言する。警察が捜査中の殺人事件について、素人であ
るはずの日野に裏付けがあると思えないが、子供を安心させるにはこうせざる
を得ないのかもしれない。
「それなら、ケシン先生と同等かそれ以上の新しい先生が来られるんですね?
誰が教えてくださるんですか」
法月がテーブルの上でマジックの練習らしい手の仕種を繰り返しながら、当
然の質問を発した。日野は多少、弱り顔を覗かせた。
「同等はおこがましいけれど、この先二回は私が受け持つ。それまでにケシン
先生が戻られたときは、勿論ケシン先生が」
「三回目以降は?」
「未定よ。これから交渉するので」
法月は不満げだが、それを口にはしなかった。騒ぎ立てても詮無きことと心
得ているようだ。
「レクチャーについちゃそれでいいから、事件のこと教えてよ、日野先生」
大きく片手を挙げ、要求したのは天野だった。
日野はため息を吐いてから始めた。
「一番新しく分かったところでは、ケシン先生は警察から容疑を掛けられてお
り、すぐには帰されそうにないとのことです」
「そうじゃなくって、事件の中身だよ」
天野は云って、みんなも知りたいだろという風に、他の四生徒を振り返った。
「俺達で考えて、犯人を見つけたら手っ取り早い。ケシン先生は無罪放免、俺
達はレクチャーを受けられる」
「理屈ではあるな」
法月が早速同調する。いや、次に彼の口から出たのは、否定の見解だった。
「しかし現実的じゃない。警察に先んじて解決できるとは考えにくいね」
「やってみる価値はあり、だろ」
「それは、僕らがどれだけ手がかりを持てるかが鍵だ。換言するなら、日野さ
んがどれほど警察から話を聞かせて貰っているか」
台詞を途中で放り出し、日野の方を見る法月。
「きっと、あとでがっかりさせるわね。それに、あなた達に話していいものか
どうか、まだ決めかねています」
「説明のために集めたんでしょ、日野さん?」
衣笠が口を開く。
「だったら、知ってること全部教えてくれてもいいじゃない。ねえ? 大人と
子供で差別はよくないと思いまーす」
「あなた達、分かって云ってるでしょう? 教育上、倫理上ってことよ」
さすがに怒ったような、叱るような声になる日野。ただし、表情は至って平
静で、むしろ微笑を湛えてさえいる風にも見える。
天野らが不平を漏らす最中、無双が「とりあえず、話せるところまで話して
ください」と求めた。
「私が話そうと決めているのは、ケシン先生が疑われている理由だけよ。使用
された凶器が、ケシン先生の持ち物だった」
――続く