#70/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/04/21 23:08 (500)
溶解する屍 3 永宮淳司
★内容
「定さんの度の過ぎた悪戯という線を捨て切れませんから、朝を待って、池を
調べる。枝川監督だって、一杯食わされるのはお嫌でしょう?」
「うむ……よかろう」
枝川の賛同を得て、方針が決定した。
参加者を代表して、枝川と福井が、琴恵を問い質すことになった。
だが、これがままならない。
いつの間にこうなったのか分からないが、本館へは立入りが禁じられ、あり
とあらゆる出入口には鍵が掛かっていた。また、別館で働くお手伝いの誰に聞
いても、若き女主人がどこにいるのかはお答えできないという言葉が返って来
るのみである。
「これは緊急事態なんだよ」
枝川が信念をぶつけるように、堂々とした物言いで詰め寄る。
「客人の一人が行方不明になったのに、一流モデルともあろう琴恵さんが、知
らんふりですまそうっていうのかい」
「そのようなつもりはありません」
「じゃあ、どのようなおつもりがあるのか、はっきり言ってもらいたい。これ
がゲームの一環ならそうと言ってくれりゃいいんだよ。事件性がなくなったっ
て、我々は真剣に取り組むさ」
「全てを自由に解釈してくださってかまいませんとのことです」
「苛立つなあ。そんなこと言うのなら、警察に連絡するよ」
「失礼ですが、それはご無理かと」
「ん?」
眉間のしわを深めた枝川。彼に着いてきた福井はしばし思慮し、腑に落ちた。
「枝川監督。僕らは電話を使えない立場に置かれてるんですよ」
「……ああ! そうか」
携帯電話は使用不能、館内に設置された電話も見当たらない。館を出ずに警
察へ通報するには、狼煙を上げても無理だろう。
枝川は自らの額を手のひらで打った。
「携帯電話云々とやかましかったのは、そういう意図もあったのか。一本取ら
れたな」
「どうしても通報したければ、失格覚悟で館を出るしかありませんね」
福井もあきらめ気分になった。
「琴恵さんが慌てふためいてゲームの中止や延期を宣言したら、明らかにハプ
ニングですけど、そうじゃないみたいだから、これも予定通りなんですよ」
「うむ。同感だ」
腕組みをしてしっかり首を縦に振ると、枝川はお手伝いに向き直った。
「悪かったな、長らく引き留めて。答がないのが答という訳だな。よく分かっ
たよ。ついでに、琴恵さんに伝えてくれんか。早く本当の出題をしてくれとな」
「かしこまりました」
お手伝いは静かに礼をして、下がった。
「一筋縄で行かんな。若いくせして、琴恵さんは曲者だよ」
「若さだけなら、負けてないんですけどね」
笑いながら答えた福井。枝川にも笑いが伝染し、「そうだな、君も曲者だ」
と手を打って喜んだ。そして少し咳き込んでから続ける。
「私も曲者になるとするか」
「何か考えてますね、その顔は」
「そうとも。これからみんなに報告しに戻る訳だが……琴恵さんに聞きに行っ
たら、思わぬ事態に困惑しているが、ゲームは続行する、と言っていたことに
しようと思う」
「他の皆さんをだますんですか」
「作戦だよ。ゲームに勝つには、これも立派な戦略だ」
「なるほど。当然です」
「協力してくれるかな」
悪戯げな目つきになって、心持ち腰を屈めた枝川が下から覗き込んでくる。
福井はほとんど時間を取らず、返事した。
「いいですよ。ただし、この協定は今回限り。次の局面ではどうなるか、保証
できませんということをお断りしておきます」
「ははは! 言いおるな、御主」
枝川は時代劇めいた台詞を吐くと、また咳き込んだ。
夜も十時を過ぎ、琴恵の言う消失がいつ起きるのか、やきもきする空気が別
館に流れ始めていた。
「こんなことしてて、大丈夫なのかなあ」
福井の部屋にやって来た竹中は、不安を露にした。腰を落ち着けず、部屋の
中をうろうろ歩き回る。
「ヘンリー定が消えた事件、どうなるんだろうか。放っておいていいとは思え
ない」
「いや、まだ事件と決まった訳じゃあ」
枝川と一緒になって他の参加者に嘘の説明をした手前、福井も心配するふり
をしなければならない。だが、いたずらに煽るのも避けたかった。
「明朝、明るくなれば調べる。全てはそれからです」
「定さんが無事だとしたら、どこかに身を潜めていなければならない。どこに
隠れる場所があるんだろう?」
「これだけ大きなお屋敷ですから、どこかあるんでしょう。定さんはマジシャ
ンだから、鍵を開けるのもお手の物なんじゃないですか。空室の鍵を開けて、
忍び込んでいるのかも」
「ううむ。そうか。仮にそうだとして、彼の狙いは何なんだと思う?」
「マジシャンは他人を驚かせるのが商売ですよ」
「だとしたら、人騒がせだな。だが、あのネームバリューは魅力だ。アイディ
ア提供の話はぜひ守ってもらわないと」
仕事のことで頭が占められたか、竹中がようやく腰を据えた。スケジュール
帳を開いて、何やらメモを始める。
「執筆云々はさておいてですね、あと二時間足らずで今日が終わります」
福井は時計を見ながら、竹中に話し掛けた。
「琴恵さんが動き出すときが近付いているはずです。多分、あの人の方から僕
らを呼び集めるような形が取られるはずですが、先手を打って、こっちから出
て行くのはどうかなと思うんです」
「出て行くって、どこにだい」
「消失はまず間違いなく、本館で行われます。本館を外から見張っていれば、
手がかりを掴めるかもしれません」
「一理あるような。だがまあ、ゲームの方は君に任せるよ。自分の頭はどうや
ら向いていないようだ。食事のとき、定さんがやったグラス消失も考えてみた
んだが、さっぱり分から――あっ、そういえば教えてくれるって言ってたじゃ
ないか、福井君」
「そうでしたね」
福井は完全に忘れていた負い目から、頭を掻いた。そしてグラスが消えた手
品の種明かし、厳密には福井が正しいであろうと想像したやり方を、竹中に話
して聞かせた。
「簡単に言ってしまえば、定さんが手の中で消したグラスは、偽物だったと思
うんです」
「偽物? 偽物にしてもガラスはガラスだろう?」
「違います。僕の言い方が悪かったかな。一見ガラス製だが、実は別の柔らか
な材質でできた作り物のワイングラスってことです。手の力でくしゃくしゃと
丸めてしまえるほど柔軟な」
「そんな物があるのかい」
「粗悪な物なら、手品グッズの一つとして、一般向けにも売られているはずで
す。定さんが今夜使ったのはかなり精巧でしたね」
「いや、待ってくれよ。あのワイングラス、テーブルにあった物を使ったんだ
ぜ。そこんとこを忘れてもらっちゃ困るよ、福井君。まさか、琴恵さんが定さ
んのために密かに用意していたとでも?」
まだまだ高校生だな、と小馬鹿にした顔つきになる竹中。福井は冷静に意見
を述べた。
「多分、定さん自身が、こっそりとテーブル上に置いたんですよ」
「いつ。食事が始まる前に、食堂に忍び込んだとか?」
「そうじゃないと思います。食事中かな」
「食事中に? いくら何でもそりゃ無理だ。みんな見てるんだぞ」
立ち上がった竹中。今夜は興奮気味らしく、どうも落ち着きがない。
「だから、こっそり置いたんですよ。みんなが気にも留めない内に。つまりで
すね、これから手品をやりますと言ってあのグラスを仕掛けたんじゃない。グ
ラスを仕掛けてから、誰かが水を向けてくるのを待ちかまえてたんです。誰か
が手品をやってください頼んできたら、待ってましたとばかりにグラス消失現
象をやる」
「うん? 言ってることは理解できたが、実際は誰も頼まなかったはずだ」
「仰る通りです。定さんは辛抱できなかったのでしょう。プロマジシャンにし
ては珍しいというか、してはならない行為と言えるけど……恐らく、琴恵さん
が消失現象をやるから対抗心を燃やしたのかも」
言いながら、福井は違和感を覚えた。
福井の現時点の感触では、ヘンリー定が部屋から消え失せ、池に沈んだのは
マジックであり、琴恵も承知していると見なしている。換言すれば、定と琴恵
は協力関係にあるはず。なのに、定が琴恵に対抗意識を持つとは、辻褄が合わ
ない。
もしや、定が消えたのはマジックではなく、琴恵の所業によるものなのか?
それとも、琴恵と定は無関係で、定が勝手に消えただけか? だとしたら、琴
恵は何故ゲームを中止しないのか。
福井はちょっとした混乱を来した。だが、これを口に出すことはせず、胸に
仕舞っておく。
「ワイングラスは偽物だった、かあ」
感嘆した様子でつぶやき、竹中はまたも椅子に収まった。
「同じ方法で、ヘンリー定自身が消えることは無理かね?」
「は?」
竹中をまじまじと見返す福井。対照的に竹中の瞳は、にやりと笑みを湛え、
得意げでさえあった。
「だからさあ。君が見た定さんは、定さんではなかったんだ。別人が三〇一号
室に入り、本人は池で溺れたように見せかけ、水底でアクアラングを着けて我
々をやり過ごした」
「それ、変ですよ」
突拍子もない、段階を無視した推理なので、相手を思わず指差してしまった。
「何歩か譲って、三〇一号室に入ったのが別人だとしましょう。その別人さん
はどうやって消えたんですか」
「うぇ?」
竹中の口から奇妙な呻き声が発せられる。途端に自信喪失の体をなし、両肩
が下がった。座った姿勢のシルエットが、おにぎりのようになった。
「……俺は酔っ払ってるんだ」
独り言のように言って開き直った竹中は、数秒遅れで照れ隠しに、手を頭に
やった。
「酔っているのなら、僕一人で本館を見てきましょうか。天気も崩れ掛かって
いるみたいですし」
「うむ。どうせ個人参加のゲームだから、こっちに気を遣うことはないんだよ。
どうぞ行ってらっしゃい。あとで情報をくれると、嬉しいんだがね」
「考えておきます」
言い置くと、福井は手早く準備をすませ、部屋を出た。
一階まで降りる間、誰ともすれ違わなかった。枝川を誘ってもよかったが、
常に行動をともにしているようなのもおかしいかなと思い直し、そのまま別館
を出る。強風に顔を背けた。空気も湿気を含み、むっとする感じがあった。
本館に向かう前に、どうしても気に掛かるのは池の様子。本物の事件なら、
池にはヘンリー定が沈んでいるかもしれない。
マジックだとしても、その方法が見当も付かない。まさか竹中が言ったよう
にアクアラングを担いで身を潜めているとは考えられなかった。池から何者か
が上がれば、当然、周囲は水浸しになるはずだが、実際には濡れていないのだ。
夕食後から今までずっと潜ることはなかろう。
吹っ切り、改めて本館に足を向ける。
すると、視界に人影を捉えた。まるで福井が出て来るのを待っていたかのよ
うに、ためらいのない足取りで近付いてくる。
「あら。高校生探偵のお出まし?」
琴恵の声が言った。館からの明かりで、その顔がはっきり見て取れた。
「探偵じゃありません。作家です、駆け出しの」
「ゲームの参加者は全員が探偵みたいなもの」
決め付ける口調の琴恵は、手首を返して腕時計を見た。こちらの方は光が足
りず、ライトの力を借りて読み取る。
「予定通りだわ」
「それって、つまり」
「これから参加者の皆さんを、本館前にご招待するところだったのよ」
そう言うと、琴恵は手を伸ばし、福井の顎を軽く撫でた。
「待ちかねたでしょう?」
高鳴る心臓を胸の上から押さえ、深呼吸した。自分も割と健全な高校生じゃ
ないかと思い、苦笑がこぼれる。
「――ええ。まるで、最愛の恋人にやっと逢えるかのような気分ですね」
福井の返事を気に入ったのか、目を細める琴恵。それから、おもむろに歩き
出した。
「あなたはそこに残っていてもいいわよ。私が皆さんを呼んでくるから、待っ
ていてね」
「あ、その前に、ぜひとも教えてほしいことが」
授業中みたいに挙手してしまった。幸い、琴恵が振り返るときにはもう手を
降ろせていた。
「何?」
「ヘンリー定さんの消失がゲームに関係あるのか否か、明言してください。そ
れがフェアというものです」
「え? 何のこと、定さんの消失って?」
琴恵の目が大きく開かれる。首を傾げた様子は、モデルとして撮影されたな
らとてもキュートに写るに違いない。
「……訳が……分からない」
福井はそう答えたきり、しばし絶句せざるを得なかった。これまで積み上げ
てきた物が、音を立てて崩れる様をイメージした。
冷静になれと自らに命じ、選択を自らに課す。
事情を目の前の主催者に伝えるか、それともあのお手伝い(ああ、特定でき
ない! どんな顔だった?)を今すぐつかまえて、問い詰めるか。
犯罪がらみかもしれないという予感が走る。よほど後者を選択しようかと思
ったが、琴恵を放って動くのも無責任だ。お手伝いが信用ならないとなると、
琴恵にも危険が及ぶ可能性が生じる。
福井は琴恵の腕を掴み、一呼吸挟んでから話し始めた。彼女が夕食の席を離
れて以降、本館の外で何が起きたのかを知っている範囲で、説明し尽くす。お
手伝いが嘘の応対をしたらしいことも、もちろん付け加えた。
福井が喋り終わっても、琴恵は表情をかすかにしかめたまま、しばらくの間、
黙っていた。ようやく出て来た第一声は、判で押したかのようにお決まりのフ
レーズ、「信じられない」だった。
「信じられない気持ちは分かりますが、事実です。僕以外にも証人はいます。
枝川監督がそうです」
「全然、報告が上がってきていないわ」
「お手伝い三人の内、あなたに報告する役は特定の一人に決められているんで
すか」
「いいえ。何かあったら知らせるように、みんなに言ってある。それが当然で
しょう?」
「ゲームの中身について知っているのは?」
「大まかな流れは全員に伝えていたけれど、種まで知っている者はいないはず」
誰が情報を彼女に伝えなかったのか、特定したいのだが、決め手がない。三
人のお手伝い全員が共謀している可能性もある。
何よりも不気味なのは、狙いが明らかでないことだ。
「三人の身元ははっきりしているのですか」
「え、ええ。元木栄美、松本知香、渡辺亜矢奈。細かなことは履歴書を見つけ
ないと分からないけれど、父と母が選んだ、きちんとした人よ」
「……どんな字を書くか知りませんが、“あやな”さんはやけに若い感じがす
る名前ですね。あのお手伝いさん達、みんな少なくとも三十五は越えているよ
うに見えたんですが、実際は若いのかな」
「松本さんは今年四十になるはずだけど、他の二人は三十五より下。今言った
渡辺亜矢奈は私と同い年じゃなかったかしら」
「ってことは、二十三、四?」
「まあ、そんなところ」
曖昧に答えてかすかに笑う琴恵。実年齢を言いたくないようだ。
「年齢が関係あるとは思えないわ」
「身元を偽るとしたら、年齢が一番ごまかしやすいかなと思って。でも、女性
が年齢のさばを読むのは、特別なことじゃないんでしたっけ」
福井はため息をつき、頭を切り換えた。
「今、この三人はどこに」
「一人は本館で、さっきまで私の世話をしてくれていたわ。渡辺よ。あとの二
人は多分、別館にいるはずだけれど、確かじゃない」
「そうですか。……あ! ヘッドフォンマイクは?」
琴恵の頭にあるそれを指差す。アクセサリーのように見えるから、すっかり
失念していた。
「それでお手伝いさん達に呼び掛けることはできますか」
「もちろんよ。寝るとき以外はスイッチを入れておくように言ってあるから、
通じるはず。ただ、個別に話すのは無理だから三人全員に聞こえる……」
福井が次の指示を出すよりも早く、琴恵はマイクを摘んで口元まで引き出し、
耳の後ろにあるスイッチに触れた。抑えた調子でありながら、怒りを含んだ声
で呼び掛けを行う。
「あなた達、聞きたいことがあります。至急、別館の玄関に集まりなさい」
そうして質問を許さず、電源を切る。
「あ、あの、琴恵さん。大変結構ですけど、もしもお手伝いの誰かが悪意を持
っているとしたら、命令したって現れないかも」
「それならそれでいいわ。現れない人がいれば、その人こそ何かを企んでいる
張本人。明白な証拠だわ」
単純に考えていいのだろうか。たとえば、三人全員が悪意を持っているなら、
どう展開するのか、予測不能のところがある。
「照明器具があるから、それを庭に持ち出して、池を捜索しましょう」
「え?」
「警察への通報は、池から何か出たあとでも充分間に合うでしょ?」
「い、いや、それはまあいいとしても、誰が池を浚うんですか。お手伝いを信
用できない状況の今、僕達がやることに……」
「心配いらないわ。あの人達にやらせます。私に背いたら、それもまた容疑を
深めることになるのだから」
琴恵が若き女主人らしい言葉を発したそのとき、本館の方から足音が聞こえ、
じきに新たな人影が現れた。
渡辺亜矢奈は、この薄明かりの中でも、琴恵と同年齢には見えなかった。
幸いにも強風が治まり、池の水面の揺れは極小さなものになっていた。濁り
もほとんどないため、大型の照明スタンド二機で左右から照らすだけで、池の
中の様子はほぼ見通せた。
「……何にもないわ」
ヘンリー定を除く十二名が居並ぶ場で、琴恵が判断を下した。水面下に、特
に異物は見当たらない。岩や泥、漂う藻のような物。定の肉体が沈んだとはと
ても思えなかった。
「でも、まだ安心できる状態じゃない」
断定的に言うと、彼女は三名のお手伝いに顔を向けた。
「もう一度聞くけれど、あなた達全員が定さんの事件を私に伝えなかったのは、
私のゲームの進行を妨げないためだった。そう主張するのね?」
三人の内で最年長の松本が沈黙のまま首肯した。
お手伝い三人の言い分はこうだ。今回のゲームは、琴恵が綿密に計画を立て、
準備をし、スケジュールを調整してようやく実現にこぎ着けたイベント。それ
を無駄にするような事態は極力排除しようと、事前から三人で話し合い、結論
を出していた。全ては雇い主を思う余りの出すぎた真似だった。それは申し訳
なく思うし、いくらでも謝罪するが、悪意はないというのである。
「今夜は、別館で皆さんと一緒に休むわ。本館で一人だなんて、耐えられそう
にない」
そう言い放つと、今度は参加者達に向き直った琴恵。深々とお辞儀をし、謝
意とお願いの言葉を口にする。
「ハプニングに数々の失態、大変申し訳ございません。加えて、消失現象は明
日以降に延期させていただきますが、何卒ご了承ください」
「大変なようだから、それはかまわない。皆さんもそう思うだろう?」
枝川がいち早く反応し、承知した上に、他を説得に掛かる。そうされずとも、
福井を含む残りの面々もまた琴恵に従った。
「残る問題は、定さんがどこに行ったのかだけだが、本当に彼が勝手に消えた
のであれば、どこかに安全に身を潜めているに違いない。探すか、呼び掛けて
出て来てもらうか……」
枝川は意見を求める眼差しを琴恵に向けた。いや、意見を求めると言うより
も、館の主に判断を仰いだ形だ。
「皆さんお疲れでしょう。定さんはご無事だと信じて、お休みください」
「警察に言わなくていいのかね」
気になってたまらない風に、幸田が口を開いた。きょときょとと目玉を動か
して四囲の状況を注意する様子は、脅えた小動物のようだ。
「まだ事件と分からない内から騒ぎ立てても、警察はまともに動いてくれない
でしょう。今夜のところは放っておきます。明日、明るくなったら、新たに分
かることがあるかもしれません」
「そうか。まあ、ここの責任者はあなたなんだから、あなたがそう言うんであ
れば、いいんだ」
幸田は額を手首の辺りで拭い、息をついた。
「そいで、この人らは今晩どこに寝泊まりするん?」
山城寿子が、お手伝い三人を指差した。事態の説明を受けて、彼女もまたお
手伝い達に恐怖心を抱いたとしても、不思議ではない。
「ホールしかありませんね。あなた達、今夜はホールで眠るように。そしてむ
やみやたらと出歩かないこと。明日の……そうね、少なくとも午前中までは、
私達のことにかまわなくていいわ」
疑いが晴れぬことに表情をわずかに曇らせたものの、松本、渡辺、元木の三
人はこうべを垂れ、承知の意を表した。
彼女らがホールで寝泊まりするための準備をしに、庭から立ち去ったのを機
会に、琴恵と参加者八名も別館に入った。
「ねえねえ、琴恵さん。ひょっとして、ゲーム中止なんてこともある訳?」
そう聞いた中澤は靴を脱ぎ掛けて、ここは脱がなくていいんだっけという風
に手足を戻した。
「あり得ます。そうなった場合、何らかの補填をさせていただきますから、ご
心配なく」
中澤の心理を先読みし、にっこりと笑みを作った琴恵。案の定、中澤は手を
叩いて喜んだ。彼女の前を行く飯田も聞き留めたか、えびす顔で振り返った。
「そりゃあありがたい話だ。貴重な時間を割いてやって来たのが報われるって
もの。やはり世界的なモデルは違うな」
「残念ながら、使用人には恵まれていないようですわ」
自嘲し、口元に手を当てた琴恵。
頃合を見計らっていた福井は、彼女の横に着いた。階段に差し掛かる。
「琴恵さんは何号室に入るんですか」
「え? ああ、そうね。順番に埋めていくのなら、三〇二号室がいいかしら。
ちょうど、鍵を取りに戻る手間が省けるようだし」
三〇二号室の鍵は、枝川に要請されてお手伝いの元木が持って来たところだ
ったのだ。鍵を預かった琴恵が三〇二号室を利用しようと考えるのは、自然な
成り行きと言えた。
「本館の方は、今夜一晩、無人になるんですね。大丈夫ですか?」
「きちんと戸締まりをしたから、簡単には侵入できないわ。もし仮に、誰かが
強引に侵入して、中にある金目の物を持ち出したとしても、それはこの敷地内
までで、塀の外には運べない。お忘れ? まだゲームは一応、進行中ですから
ね」
「あ、そうでした。僕達もある意味、軟禁状態な訳か。でも、防犯装置を解除
するボタンなんかは、本館に備わってるのでは?」
「別館にもホールにもあるわ。でもね、その装置……パネルをいじるには、作
動キーを差し込む必要があって、そのキーは私が肌身離さず管理しているとい
う仕組み。ご安心を。そうそう、ついでに言っておくと、皆さんに渡した部屋
の鍵は一つしかない物だから、ロックしておけば安全よ」
「それならいいんですけど」
「あ、ついでのついで。地下室を空けるためのキーは、本館に残したままだか
ら、どうしても地下室を見たいのなら、今夜の内にこっそり行ってみたら?
ちょっぴり度胸がいるわね」
「冗談はやめてくださいよ。そんなつもりはありません」
話が終わると、ちょうど分岐点に辿り着いた。福井は二階の自らの部屋に向
かい、琴恵はそこからさらに三階へ。
「お休みなさい」
どちらからともなく挨拶を交わした。
「ちょっといい雰囲気に見えたなあ。うらやましいね」
着いて来ていたらしい飯田が、後ろから一気に駆け寄ってきて、からかい気
味に言った。
「はあ?」
部屋の前で立ち止まる福井。飯田も足を止めて話を継続した。
「いかに高校生作家として有名な君でも、あの横木琴恵をゲットできたら、大
金星と言われるぜ。やってみるかい?」
「そのような方向の話題には、全くなってませんけどね」
「いやいや。今、彼女は事件の影に脅え、不安な心理状態のはずだ。そこを君
の名推理で助けてやれば、君に傾くこと間違いなし」
「飯田さん、まだ酔ってるんですか」
「まさか。とっくの昔に覚めた。興醒めってやつさ」
「ゲーム、そんなに楽しみだったんですか」
「まあね。このでかい賞品を獲得すれば、手切れ金に充てられる」
「ん? 手切れって」
「そろそろ別れたいんだが、しつこくてね」
中澤万知子のことを言っているのは間違いのないところだ。この場には姿の
ない彼女を指差す風に、親指を立てた右手で、明後日の方角を示す飯田。
「ゲームで大金をゲットできなきゃ、万知子の命をゲットしなきゃいかん……
と考えたくなるほど、しつこいんだよ、あの女」
何と応じていいのか、困ってしまう。飯田は福井の肩に腕を回してもたれ掛
かるようにし、言葉を重ねた。
「だから、さっき騒ぎが持ち上がったとき、しめたと思ったんだ。殺人が起き
れば、どさくさ紛れにあいつを始末する、なんてのは無理にしても、殺人犯の
手に掛かって犠牲になってくれればありがたいなと夢想したのさ」
「飯田さん、早く部屋に戻った方がいいですよ。やっぱり酔ってるんだ」
「ふふん。ご忠告ありがとう。ま、高校生の君にこんな話をしてすまなかった
な。戯れ言として聞き流してくれよ」
福井から離れると、後ろ向きで手を振りながら、飯田は与えられた部屋に向
かい出した。
相手が部屋に引っ込んだのを認視した後、福井は深く息をついて、自分の部
屋のドアを開けた。素早く閉め、鍵を掛ける。
途端に、力が抜けた。まるで疲れが天井から降ってきたようだ。ドアに背を
当て、ずるずると腰を落とすと、腕で両瞼を押さえた。
体験は財産になる。作家を志したときからも、なってからも、それは正しい
と信じていた。だが、少なくとも今この時間を取り出して論じるのなら、体験
は彼の執筆能力に悪い影響しか与えない。精神的な高ぶりはあったが、疲労感
はそれ以上だ。
何が事実で何が偽りか、依然として混乱が残っていた。事実の中にも、日常
生活での事実と、ゲームとしての事実が存在する。これが混乱に輪を掛けた。
「眠りたいけど、眠れるかな」
口中でもごもごとつぶやき、立ち上がる。
犯罪が起きた証拠はない。ヘンリー定がいなくなり、お手伝い三人が不審な
行動をしただけだ。飯田の危なっかしい発言は気にするほどでもあるまい。用
心はせねばなるまいが、見えない犯罪者に過剰反応し、いたずらに震える必要
はないと思う。
故に、恐怖で眠れないということはない。
眠れないとすれば、整理しきれない状況に原因がある。明日何が起きるか分
からない。そんな当たり前をこれほど強く意識したのは、初めてだった。
「仕事に取り組んでいたら、嫌でも眠くなるさ」
自分自身に言って、彼は持ち込んだ執筆道具を広げた。
それからおよそ三時間後。眠気が急激に襲ってきた。午前二時が近い。
しかし、福井はベッドで横になることはなかった。
道具を片付ける最中、窓の外に物音を聞いた気がしたのだ。それも一度なら
まだしも、三度ほど続いた。
感覚が鋭くなっているらしく、普段なら無視するような小さな物音も、正体
を確かめずにいられない。
福井は窓際に立った。カーテンを少しだけめくり、地上が見えるよう、スペ
ースを確保する。
庭の池や花壇の一部を視界に捉えた。だが、怪しい人影等は見当たらない。
次に福井は、花壇の草花に目を凝らした。風が再び強まり、その音を聞き違
えたのかもしれないと考えたのだ。
「違うな」
見づらかったが、草花はそよとも揺れていなかった。風は凪いでいた。
福井はしばらく外を見ていたが、もはや物音はしなかった。窓辺を離れ、片
付けを終えてから、再考する。
もしかすると、ヘンリー定が歩き回っていた(いる?)のかもしれない。だ
が、福井達へ害を及ぼすつもりがあるとは思えない。
定が姿を現さないのは、大ごとになって出て来にくくなったか、何らかのハ
プニングで出て来られないのか、他の目的(もっと驚かしてやる!等)があっ
て身を隠しているかのいずれかだろう。何らかの犯罪行為のために身を隠した
と仮定すると、あの消失は大げさに過ぎ、定の行方を誰もが、いつまでも気に
する。甚だ不都合ではないか。
では、ヘンリー定でないとしたら、誰だ?
「――もういいや。物音がしたからって、それが人間だとは限らないんだし」
自ら吹っ切るため、声に出して結論を下した。
布団に潜り込み、目をきつく閉じる。
琴恵さんに物音を聞いたと伝えておくべきだったかな――。
そんな思いがよぎった次の瞬間には、福井は睡魔に囚われつつあった。
普段なら目覚めてもしばらくは布団の中でごそごそするのだが、今朝は違っ
た。即座に飛び起き、身なりを整えると、福井はドアを慎重に開けた。万が一
にも廊下で殺人鬼が待ちかまえていたらたまらない、と思ったからだが、これ
は全くの杞憂(ほとんど妄想の域である)で終わった。
福井は隣の部屋を訪ねた。ノックをすると、竹中が意外に早く顔を出した。
朝の挨拶を交わした後、今が朝七時だと確かめ、食堂に出向いていいものか
どうかの話になる。
「琴恵さんとお手伝いの関係があれじゃあ、朝飯の準備ができているとは考え
にくいな」
「ですね。そもそも、本館に入るには、琴恵さんに言って、開けてもらわなき
ゃいけませんし」
「朝っぱらから、ホスト役の部屋を訪ねるのは、礼儀に反するのかねえ?」
「あの。ホステスですよ、女主人なんですから」
「いいじゃないか。我々は日本人なんだから。ホステスだと別の意味に取れる」
くだらない会話をしながら、結局、三階の三〇二号室を目指した。すでに起
きているのならそれでいいし、まだ眠っているとしたら、そろそろ起きてもら
っていい頃だろう。
「琴恵さん、おはようございます。朝早くから失礼します」
竹中が堅苦しい言葉を並べ、ドアを軽くノックした。
返事がない。
竹中と福井は何度か室内に呼び掛けたが、いつまで待っても部屋は静かだ。
「まさかとは思うけど」
ノブを握ってがちゃがちゃさせると、鍵が掛かっていると知れる。
「ま、まさかっ、中で死んでるなんていうことに」
「冗談はやめてくださいよ、竹中さん。大方、とうに起きて部屋を出て、鍵を
掛けただけなんでしょう」
「あ、そうだな。だが、殺されてる可能性もゼロじゃあないぞ」
「それを言い出したらきりがなくなります。琴恵さんの無事を確認するのが先
です」
福井は手始めに、隣の三〇一号室を覗いてみた。定が失踪して以来、鍵がな
いため、扉の開閉は自由である。琴恵が定の荷物を調べることは充分ありそう
に思えた。が、ドアをノックせずに開けてみると、定の部屋に人の姿は見当た
らなかった。昨夜から手を着けられた様子はない。
「琴恵さんが朝一番に行きそうな場所は、やっぱり本館か」
竹中が妥当なところを述べる。
「ホールもあり得ますよ。お手伝いさん達の様子を見に行くために」
「そうか。ホールに向かうのは御免だよ。と言うか、お手伝い達の疑惑が晴れ
ない限り、接したくないよ。どんな態度でいればいいのやら、困る」
「じゃあ、本館に行きましょう。閉まってるかもしれないけれど、いずれ琴恵
さんが開けてくれるでしょう」
一階へ降りる途中で、枝川と合流した。挨拶もそこそこに、「三階に、何を
しに?」と問われた。
「琴恵さんに、朝食がどうなるのか尋ねようと思って。でも、もう起き出して
いるみたいでした」
「そうか。お手伝いのことがあったな」
合点した風にうなずくと、枝川は話題を換えた。
「遅くに何人かがゲームを辞退して、帰ったようだよ。幸田君も帰った」
「え?」
「夜、幸田君が部屋を訪ねてきてな。自分は元々ゲームに大して興味なかった
し、こういう事態になるとは思ってなかったから帰ると言い出した。私に断っ
たのは、気を遣ったんだろう。私も止める権利はないから、琴恵さんに言って
出て行けばいいと送り出したんだ」
「何時頃でした?」
「彼が部屋に来たのは、十一時だったな。そのあとすぐ、琴恵さんの部屋に行
ったはずだ」
――続く