AWC 反転する殺意 2   永宮淳司


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#66/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/04/21  23:06  (471)
反転する殺意 2   永宮淳司
★内容
 下田のヒントに、吉山は写真を改めて見つめた。端から一枚ずつ、一定の時
間を掛けて凝視する。有島の顔は真ん中にある。オールバックの髪型は、特徴
的と言えよう。
「この男……」
 果たして、吉山の人差し指が、真ん中の写真を示した。
「こんな感じの頭だった気がする。ポマードとかの匂いはしなかったが」
「確かか?」
 下田は立ったまま、有島の写真を吉山の前へ押しやった。
「男か女かも分からないと言っていたんじゃなかったか?」
「あのときは逃げるのに必死だったからさ。冷静になって考えてみたら、ぼわ
ーっと、このオールバックが頭に浮かんだ。顔までは覚えていないが、髪型は
これに違いない。こいつが犯人だ」
「よし」
 吉山の喋りをストップさせる。思い込みを強くさせてしまうと、あとで困っ
た事態につながることもある。ほどほどで止めておく。
 下田は花畑を手招きし、部屋の片隅で短い相談をした。声のボリュームは極
力落とす。
「どう思う?」
「正直言って、自分にはさっぱり」
 花畑は頭を掻いた。
「深読みすれば、全部が芝居のように思えてきてしまいますよ」
「そうだな。私も迷っている。写真の有島こそが被害者だという事実を切り出
すかどうかだが」
 吉山には殺人事件被害者の名前は告げてあるが、容貌までは知らせていない。
「それなら、反応を見る価値はあると睨んでます」
「そうか。では、そっちに任せるよ」
 意思決定の後、花畑は机に戻り、下田は再び壁に寄りかかった。
 花畑は椅子にどっかりと腰掛けると、また上半身を相手に乗り出す形になり、
早くも札を開いた。
「実はね、吉山さん。あんたが指差した男、死んでるんだ」
「死んでる?」
 嫌な予感を覚えたのだろう、吉山の唇が歪む。花畑は大げさにうなずいた。
「あんたが襲われた日、近くで発生した殺人事件の被害者、有島洋だ」
「こ、この人が」
 写真を手に取り、その腕を一杯に伸ばして驚愕の表情を浮かべる吉山。演技
だとしたら過剰な驚き方だった。
 これを機会に花畑は厳しい調子に転じるのかと思いきや、彼はにやりと笑っ
た。
「あんたを襲ったあと、別の誰かに襲われたのかねえ。いや、それはいくら何
でもないな。うーん、あんたに逃げられたあとも同じ場所に留まり、別の誰か
を襲おうとして失敗、逆に殺されたと考えれば筋道が通る」
「そ、そうですよ、刑事さん」
 同意する吉山だが、どこか薄気味悪がっている。花畑の態度を怪訝に思って
いるに違いない。
「あんたに逃げられた有島が、ずっと同じ場所にいたっていうのが気に入らな
い。それにもう一つ分からないのは、大学の先生ともあろう人物が、無差別通
り魔のような犯行をするかってことだ」
 無差別通り魔とは重複表現ではないか。下田は内心、苦笑を覚えた。
「そんなこと、分かりませんね。人が裏で何を考えているかなんて、誰にも分
からない。助教授が殺人をしでかしたり、殺し損なった犯人がその場に留まっ
たりしても、あり得ないこととは言えないでしょうが」
「かもしれん。だが、俺が思うに、有島洋があんた一人を狙って、襲ったと考
えた方が、より筋道が通るんじゃないかねえ」
「まただ!」
 信じてないじゃないかとばかり、癇癪を起こす吉山。下田のいる位置からは
よく見えないが、目が血走っているようだ。
「私は交換殺人のターゲットにされたかもしれない。その可能性があるのは認
める。だけど、襲われただけであって、逆に殺すなんて、絶対にしてないっ」
 机を拳で叩く吉山。
 堂々巡りだな。頭が痛くなってきた下田だった。

 我が友・地天馬鋭は口に手を持って行き、退屈げに欠伸をかみ殺した。多分、
ポーズに違いない。下田警部の話は行きつ戻りつして、重複が目立った。私で
すらいらいらしていたのだから、地天馬はなおさらだったろう。
「交換殺人について、ここまで微に入り細に入り解説なさるとは、下田さんは
交換殺人の権威ですね」
「何のことですかな、そりゃ」
 皮肉が通じたのかどうか、下田は目を見開いた。きょとんとしたその様が、
警部には似合わず、おかしい。
 わざわざ事務所まで尋ねてきてくれた刑事二人に対し、地天馬の応対ぶりは
相変わらずだった。自らは腰掛けたまま、来訪者に椅子を勧めようともしない。
仕方なく、私が代わりにやった。
 ただ、下田警部達にしても、民間人に知恵を求めに来た負い目からか、それ
とももはや慣れたのか、その表情に特に不平は出ていないので、幸いだ。
「それよりも、どうです? 事件発生から一週間になるのに、壁にぶち当たっ
てしまい、弱っとるんですよ」
 席を立った下田が作り笑いを浮かべて、地天馬に近付く。警部の後方では、
花畑刑事が「最初は簡単に見えたんだがなあ」とぼやき気味につぶやいた。
「たった一週間で、僕のところに話を持って来たのには、何か理由があるんで
しょうね」
「あります。交換殺人のもう一方のラインを断ち切らねばならない」
「ん? 話を聞く限り、有島と森谷の共謀による交換殺人は不発に終わったか、
計画自体が元々存在しなかったとお考えなんだなと感じましたがね」
 興味を引かれた風に、身を乗り出す地天馬。下田はデスクに片手をついた。
「我々がそう簡単に方針転換できないのは、よくお分かりかと思いますが、敢
えて言うと、我々は有島と森谷が交換殺人を企てたと考えており、よって吉山
犯人説を捨てていません」
「交換殺人の計画が真実あったとしても、有島が目的を遂げずに死んだ今、森
谷が律儀に倉塚暁美を殺害するはずないし、あなた方警察の保護下にある吉山
を改めて狙って来るとも考えにくいでしょう」
「交換殺人の組み合わせが別に存在する可能性も、考慮に入れておるんですよ。
有島が吉山を殺す代わりに、倉塚を殺す何者かがいるかもしれない、と」
「そこまで信念を持ってやっておられるのであれば、僕に会いに来なくてもい
い。お帰りはあちら、というやつですよ」
 地天馬は右腕を鎌首をもたげた蛇のような形にして、ドアの方を示した。
「いや、疑問点があるのです。だが、まだ捜査の方向性を揺るがせるほどのも
のではなくて。だから弱っておるんです」
「疑問点とやらを、まだ聞かせてもらってないような気がしますが」
 地天馬の催促に応えたのは、花畑だった。彼もまた椅子から離れると、地天
馬の机の前まで足を運んだ。
「まず一つ目。吉山の提出した衣服に付着していた血は本人の物ばかりで、有
島の血はなかった。細身の刺身包丁でやられたにしては、返り血が皆無という
のは、絶対にない状況とは言えないが、不自然には違いないです」
「衣服が違っている可能性は?」
「証券会社の人間に尋ねたら、吉山が当日着てきたスーツに間違いないと」
「なるほど」
 地天馬がすんなり納得したようなので、私は別の可能性を追うことにした。
一歩進み出て、花畑刑事に質問する。
「同じスーツを複数着持っていたのかもしれませんよ。警察に提出した物は、
適当に自分の血だけを付けたスーツという訳です」
「残念ながら、家宅捜索の結果、それは否定された」
「処分したんじゃないかな。帰宅してすぐ、返り血をたっぷり浴びた服を燃や
すか何かして」
「ロスは極力省こう」
 地天馬が割って入ってきた。しかし、言うに事欠いて、ロスとは何だ。
「私は、衣服が二着以上ある可能性を君が見落としたようだから、代わりに質
問しているんだよ」
「それはありがとう。だがね、その可能性は最初からないと判断できる。質問
の必要もない」
「何だって? どうして断言できるんだ」
 食って掛かる私に、地天馬は微苦笑を投げてきた。
「警察の描いた“真相”に沿えば、明らかだろう。吉山は有島に殺されそうに
なったところを、必死の思いで反撃し、殺した。全てはハプニングだ。あらか
じめ同じスーツを用意しておけるはずがない」
「あ……」
 死角をつかれた思いだ。やりこめられ、しばし絶句してしまう。でも、反撃
の糸口はじきに見つかった。
「地天馬。吉山が元々、同じスーツを二着所有していた可能性は、排除できま
い? 証券会社の営業なんだから、連日、きれいなスーツを着用する必要があ
るはずだ」
「同じタイプ、同じ色のスーツを複数着持っていたかもしれない。だが、吉山
にとって、下田さん達警察の来訪自体が、ハプニングだったはずだ。いつ来る
か分からない警察を想定して、返り血を浴びていないスーツに自らの血を着け
る偽装工作をし、さらに鍵や手帳などの小物を移し換える下準備をするとは思
えないね。蓋然性が低すぎる。何らかの手を打つなら、むしろ、血塗れのスー
ツそのものの処分を優先したはずだ」
「しかし」
 未練の残る私の台詞を、今度は下田警部が遮った。
「スーツ二着説は、私も認められませんな。我々警察は、吉山の家を隅々まで
調べましたが、めぼしい物は出て来なかった。血を浴びたスーツを跡形もなく
処分するのは、想像以上に困難なもんですよ」
 警部直々に諭されては、私も引き下がるほかない。警察の捜査能力は信頼で
きるものに違いない。
「血痕の他、どんな疑念があるんです?」
 地天馬に促され、花畑刑事が説明を再開した。手帳のページを繰り、顔の間
近に寄せる。
「もう一点は、吉山が負った傷の程度です。えーっと」
 花畑は細かな数値を列挙して、有島が本気で吉山を殺すつもりだったにして
は、傷が浅いことを言った。彼自身が科学的に立証したわけではないせいだろ
う、やや辿々しかったが、内容の理解はできた。
「以上二点から、有島が吉山を襲い、逆襲されたという線は、やや怪しくなっ
たと言えなくもないんですが……」
 部下の話を引き継いだ下田だったが、歯切れが悪い。語尾は宙に霧散し、眉
間にしわを寄せた。
「ここから話が少々ややこしくなります。逆ではないかという見方が出て来た
のですよ」
「吉山が計画的に有島を殺害したとでも?」
「な……」
 口を開け、しばらく固まってしまった下田警部。花畑は考えを見透かされた
のが悔しいのか、歯ぎしりさえした。
 彼らの反応を見れば、地天馬が一発で警察の新たな仮説を見抜いたのは確か
なようだ。
「どうしてそう思われました?」
「逆と言われたら、今のところそれしかないでしょう。吉山は有島を殺害後、
遺体の懐に偽りの交換殺人のメモを入れ、自らの身体を軽く傷つけた。正当防
衛を主張するために……」
「え、ええ。その通り。だが、これも吉山は否定している。あくまでも自分は
襲われただけだと主張して譲らんのですよ」
「真実を語っているか否かはひとまず置くとして、吉山が有島を計画的に殺す
ことはあり得るんですか。動機は言うまでもないが、他にも、交換殺人の人間
関係を把握する術を、彼が持っていたのかどうかも気になる」
「現在のところ、吉山と有島に直接のつながりは見つかってません。また、メ
モにあったもう一人、倉塚暁美との関係も出て来ない有様でしてね」
「――ああ、そうだ。僕としたことが、肝心な点を聞き忘れていたよ。倉塚が
カッターナイフで襲われたときの、有島のアリバイは成立しているのだろうか」
 手を挙げ、話を戻す地天馬。だが、これは文字通り肝心な点だ。花畑が大き
く縦に首を振った。
「普通、死人のアリバイを立証するのは難しいが、今度の場合、大学に問い合
わせたら簡単に分かりましたよ。有島洋は先月の二十九、三十日と東北で開催
された学会に出席していた。完璧なアリバイ。交換殺人の用件を満たす訳だ」
「学会の開催なら、第三者でも調べれば何とか分かるかな……」
 地天馬は頭の中で検討を重ねる風に、小さく首を振った。
「倉塚自身は、襲ってきた人間が森谷に似ていると言ってるんですか」
「いいえ。脅迫の件を白状してから後悔したのか、口が堅くなってしまい、ま
ともに供述しない有様でしてね。粘っこくやってるんだが、さっぱりうまく行
かない。もっと強引に締め上げようかと――」
「あなたの苦労話なら、太陽が南から昇るようになってから聞くよ」
「……」
 花畑刑事は黙り、かみつく寸前の猛犬のように歯を剥いたが、しばらくして
口を固く結んだ。かっかした頭を冷やすためか、何やらぶつぶつ言い始めた。
「そうだ、今すぐ北極に行けば、苦労話や自慢話を聞いてあげられるな。かの
地なら、太陽は南より昇り、南に沈む」
「まあまあ」
 余計な追い打ちを掛ける地天馬を、警部と私とで止めに入った。
 花畑は北極と聞いて頭が冷えた訳でもないだろうが、程なくして捜査状況の
続きを話し始めた。
「とにかくっ。倉塚は有島を脅迫して金をせびり取っていた小悪党だ。大した
金額じゃあないが、年に四回、五年に渡ってちびりちびりとせしめられた有島
には、ボディブローのように効いてきたんでしょうよ。殺意を持ってもちっと
も不思議じゃない」
「有島が倉塚に金を渡していたことは、確かめられました」
 下田が補足した。
「有島は現在独身で、生活を圧迫するほどの額ではなかったようですが……最
近、あるお偉い研究者の娘と結婚話が持ち上がったらしく、その意味で、過去
の傷をもみ消したかったんじゃないかというのが、我々の見解です。いや、我
我の一部の見解ですな」
「その事実を、吉山は知ることができたとお考えで?」
「うむ。難しいであろうとしか言えませんな。倉塚自身及び彼女と関係のある
人物が、吉山を介して証券取引に手を出した形跡があれば、光明を見出せるん
ですが、実際は全くない」
「ふん。それなら、一番目の仮説に立ち返って、有島と森谷の共犯を検討しま
すか。森谷は当然、犯行計画を認めていないんでしたね」
「その通り」
「有島と森谷は表面上、無関係に見えるはずですが、裏で知り合う可能性は?」
「森谷は歯科助手でして、彼女の勤務先である歯科医院に有島が通った形跡は
ありました。記録が残っているから確実です。問題は回数で、たったの四回。
これじゃあ、交換殺人をしようという関係になるとは思えない」
「どこか別の場所で親交を深めたのかもしれない、と考えているんですね」
「ま、そういうことです。行き着けの飲み屋を中心に当たっているものの、ま
だ芳しい成果は上がってない」
 苦渋に満ちた顔つきになる警部。結局のところ、彼自身、方針に自信を持て
ていないようだ。それ故に、地天馬を頼ってきたのだろうが。
「吉山が殺したのは間違いないと確信していたんだが、正当防衛説も、計画犯
行説もいまいち決め手に欠けて、どうもうまくない。地天馬さん。我々警察と
は違った立場から事件をご覧になって、何か気付いたことはないですか?」
「ありますよ。基本的なことを見落としていると思えてならない。メモの内容
を、警察の皆さんは鵜呑みにしたようだが、僕には不思議ですね」
 遠慮のない調子で考えを披露する地天馬。花畑刑事はともかく、下田警部は
拝聴する態度を崩さず耳を傾けた。
「あんな詳細なメモを持って、殺人を決行するとは、何と親切な人物だろう。
それに輪を掛けて愚かだ。失敗したときのことを全く考えていない。メモを見
られたら本人ばかりか、共犯者もセットで捕まる」
「うなずけるものがあることは認めましょう。しかし、あれは有島が、見知ら
ぬ相手を殺すに当たって、間違いの内容に、詳しいデータを常に確認できるよ
うにしたかったと考えれば……」
 下田の反論に、地天馬は片手と頭を小さく横に振った。
「感心しないなあ。吉山のデータだけを記しておけばいいじゃないですか。共
犯者の名前まで書く必要はない」
「それは……うむ、いざというときのために備えたんだろう。万が一、犯行に
失敗しても、自分だけが捕まるのは避けたかったと」
「おや。警部が『万が一、犯行に失敗』云々なんて言うのは、まずいんじゃな
いかな」
 吹き出してみせてから、地天馬は下田警部の考え方を再び否定しにかかった。
「何故、印刷した文字なんでしょうね?」
「は?」
「道連れにするつもりであれば、共犯者の森谷本人に肉筆で書かせるはず。そ
れも、『私、森谷裕子は、有島洋に吉山卓也殺害を依頼し、その代償として倉
塚暁美を殺害するものである』というような殺人告白書の形でね。名前を挙げ
ただけの印字では、極めて低い証拠能力しか持たない」
「い、や、しかし。直接書かせられなかったからこそ、印字で代用したとも考
えられる」
「だったら、メモの中身には、共犯者の個人データをもっと盛り込むべきじゃ
ないですか。もしも住所や電話番号を知らないとしても、森谷の職場だけは確
実に把握しているんだから。とにかく、そのメモは、有島にとって不利なこと
ばかりで、おかしい」
 地天馬の推論に、警部は思考の糸が絡まったのか、考えあぐねた様子を覗か
せた。それでも腕組みをして、やがて一つの指針を示す。
「メモが不自然だったという点は認めましょう。だが、事件解決に近付いたと
は言いがたいんじゃないですかね。有島と森谷による交換殺人が否定されただ
けで、たとえば、我々のもう一つの仮説、吉山による計画殺人の方は否定でき
ていない。むしろ、メモが偽りだとすれば、補強されたと言える」
「だが、さっき検討したように、吉山にはメモの内容を知ることができそうに
ない。つまり、吉山は偽のメモを用意し得ない」
 警察が用意した説は二つとも消えた。
「くそ。どうなってるんだ、一体」
「花畑刑事。そう慌てなくていいでしょう。答はきっと単純だ。馬鹿々々しい
ほどにね」
「何があるんだ、地天馬さん。もったいぶらずに言ってくれ」
 花畑は頭をかきむしった。
「有島と倉塚は交換殺人の約束を交わしてはいないし、ましてや吉山は正当防
衛を装った計画殺人を行ってはいない。彼ら三名を疑いの目で見るのをやめ、
殺されたのが有島洋だという事実だけを考える。換言すれば、有島を殺害する
動機を持つ人物を洗えばいい」
「なんと」
 基本的に過ぎる、だが的を射た指摘に、刑事二人は暫時、呆気に取られてい
た。沈黙のあと、「調べてみましょう」と言い置き、出て行こうとする。
「ストップ! まだ伺いたいことがある」
 彼らの背中に、地天馬の大声がぶつけられた。足を止め、頭だけ振り向いた
格好の刑事二人が、「何ですか」とかなり焦りの滲む口調で言う。
「いつ説明してくれるのか期待していたが、とうとう出て来なかった。土手下
の川底に沈んでいた遺体は、いかなる経緯で発見されたんです? 目に触れに
くい場所なんでしょう?」
「おお。自明のことだったんで、忘れてましたよ。通報があったんです」
 全身振り返った下田警部は、笑顔で応じた。花畑に命じて先に行かせてから、
説明を再開する。
「現場を通りかかった男性が、川に異物を見つけたとかで、『人の死体みたい
な物がある。赤い液体が広がっている』と所轄署に携帯電話で知らせてきた。
それが十時十分過ぎ。警官が駆け付けたときには、その男性の姿はありません
でしたがね。残念だが、面倒に巻き込まれたくなかったんでしょう」
「最初は、その男性を疑ったんでしょうね」
「もちろん。だが、懐から見つかったメモを手がかりに、現場のすぐ近くに吉
山がいると分かったもので……」
 話す内に不安をかき立てられたか、下田は沈黙してしまった。一旦うつむい
たかと思うと、急に顔を上げ、「まさか、通報者が犯人だったと?」と叫ぶ。
「まだ断定は避けましょう。ただ、犯行に関与した可能性は大いにありそうじ
ゃないですか」
「何ということだ。所轄署に掛かってきたから逆探知も録音もできていない。
恐らく、番号も非通知だったろうし……。案外、吉山が掛けたのかもしれませ
んな。奴の携帯電話を押さえて、発信先を全て洗えば」
「吉山犯人説には、僕は反対しておきますよ。遺体があることを通報するメリ
ットがない」
「そうか、そうですな」
 腕組みをした下田。彼が唸り始める前に、地天馬は新たな理屈を追加した。
「赤い液体という表現が気になるな。吉山が犯人なら、有島殺害は七時前後。
十時過ぎに遺体を見つけた人間が、流れ出る血を認視できるものかどうか」
「ああ……血は水流に紛れてほとんど分からないはずだ。で、では、やはり通
報者こそ実行犯?」
「九時頃に殺害し、遺体を見下ろしながら通報したのかもしれない。つい、川
面に広がる血を描写してしまった訳だ」
 地天馬の言葉を耳にして、私は想像した。
 肌寒い闇に立ち、刺し殺したばかりの死体を見下ろす人影。おもむろに携帯
電話を取り出し、冷静にボタンを押す。声は全く震えていない……。
 何と大胆で残忍な犯人だろう。
「地天馬さん、助言を感謝します。しかしこれでスタート地点に逆戻りだ。ア
リバイの点を含めて、有島に近い人間を全て洗い直す必要が出て来ましたよ。
誤りをしでかすよりはよほどいいものの」
「大した手間は掛からないでしょう。動機を持ち、交換殺人のメモを作ること
ができる人間が容疑者です」
 もはや自分の元から離れたとばかりに、地天馬は手を返すと、下田警部を促
した。

 三日後の午前中、花畑刑事一人が地天馬の事務所にやって来た。と言っても
解決の知らせではなく、途中経過の報告が用件だった。事件のその後が報道に
乗らなかったことから予想できていたものの、残念な事態である。
「またもや、ですよ」
 花畑は自虐的と表してもよさそうな奇妙な笑みを浮かべ、切り出した。目の
下には疲労の度合いを反映した濃い隈ができ、心なしかしわが深くなったよう
にさえ思える。
「行き詰まっております」
「花畑さん、酔っ払っているんじゃないでしょうね」
 椅子を勧めながら、心配になってそう尋ねた。無論、酒臭さはなかったが、
それだけ花畑刑事の態度が気弱なものに映ったのだ。
「とんでもない。早く解決して、浴びるほど飲みたいとは思ってますがね」
 椅子に深く腰掛けると、花畑は私から地天馬に顔を向けた。上司の目がない
気軽さもあってか、粗野な口ぶりで一気に喋る。
「有島洋を殺す動機を持っていそうな人間は、割といるんだ、これが。真面目
そうに見えて、助教授の身分で裏口入学の指南めいたことをやってたんだから、
当然と言えば当然だな」
「具体的に、たとえばどんな動機があるんです?」
 地天馬はいささか白けた感じながら、落ち着いた調子で尋ねる。
「そんなこたあどうでもいいんですよ、名探偵。問題はメモ。交換殺人のメモ
だ。あれをこしらえられそうな奴が、見当たらない」
「……まさか警察は、有島洋、森谷、吉山、倉塚の四人に共通する知り合いを
捜しているんじゃないでしょうね」
「まさかとは失礼な。そうしてますよ。決まってるじゃあないですか」
 理路整然というものからはかけ離れた具合になってきた。寝不足で思考回路
の一部が断絶していることにしておこう。
「それでは見つかりっこないな」
 ため息混じりに地天馬。花畑は疲れているに違いない。地天馬の辛辣な物言
いにも、怒る様子は全くなく、黙ってただうなずいた。
「まず、あのメモを書き得そうな人物をピックアップしてみる。少なくとも四
名、ぱっと浮かぶはずだ」
「……だめだ。何にも浮かばない」
 垂れたこうべをゆるゆると振った花畑刑事。粗悪品のシャンパンを開けると
き、コルク栓の動きがちょうどこんな風になる。
 地天馬の返答はあっさりしていた。
「有島洋、森谷、吉山、倉塚の四人ですよ」
「は?」
 目が覚めた、そんな感じで面を上げた刑事は、途端に渋い顔をし、椅子から
腰を浮かせた。
「地天馬さん。あんた、俺をからかってるんじゃないだろうね」
「とんでもない。事実を述べたまでさ」
 飄々として応じ、次いで、刑事を指差す。
「花畑刑事、いつもの調子が戻って来たようで結構なことだ」
「――ふん」
 一瞬、唖然とした刑事は、憑き物が落ちたみたいに椅子にすとんと腰掛け、
それから苦笑した。
「いつでもこんな調子です、俺は」
「そうかい? まあ、その議論は最高に暇なときのために取っておこう。さっ
き挙げた四名が、メモを書ける人物像に最も近いことは認めてくれるね」
「え、ええ、まあ。細かいことを言うと、有島と森谷は全てを書けるだろうが、
吉山と倉塚は、一部、知らないことがあるはず」
「いいんだ。有島洋殺しの動機を持つ者を犯人と想定しており、元々、この四
名は真犯人ではないという前提に立っている。いや、本人を除いて三名とすべ
きかな。ともかく、これら四人に近い人間が、有力容疑者なんだ。その中に必
ずいる。全ての人間関係を把握し、この殺人を行った者が」
「お言葉を返しますがね。そういう考え方をするなら、結局は、有島洋に関係
ある連中に絞られることになる。動機の面から、有島に近い人間が犯人と見込
んでるってことをお忘れなく」
「有島洋に近い者で、森谷裕子の存在を知り得るのは?」
「うーん。ま、家族でしょうな。あとは大学の同僚に、歯医者に行ったことを
話すついでに、ぽろっと漏らすかもしれない」
「では、倉塚暁美の存在を知り得るのは?」
「……可能性だけでいいのなら、家族。家族しかいないでしょうな。脅迫して
きた人間のことを、家族以外に話すとは考えづらい。有島に女がいれば、それ
も加えていいが、実際はいないから」
「最後は吉山です。先の二人を知り、なおかつ、吉山の存在を知ることができ
たのは?」
「……だから、そいつが分からないってんですよ」
 小さな癇癪を起こした刑事が吐き捨てた。しかし、地天馬の方は冷静なまま、
「家族の中で株などに手を出している人間はいないのですか」と問うた。
「いますがね。父親がやってる。だが、吉山とは全くつながりがない。違う証
券会社を通じてやってるんだ」
「千鶴夫は?」
「弟ですか。彼は株をやるほど余分な金はないですね。そもそも、興味がない
ような印象でしたが」
「そうですか。ならば、証券でのつながりではなく、別のルートがあるんだな。
徹底的に調べてください」
「調べろって、千鶴夫について? 地天馬さんは、千鶴夫を犯人だと睨んでい
たんですか?」
「怪しいなと思っただけです」
 地天馬は静かな笑みを浮かべた。対する刑事は首を傾げるばかり。
「何の根拠があって? 疑わしいとするなら、何らかのきっかけがあるはず」
「先日、下田さんとあなたがお越しになった際、葬式で有島千鶴夫と会ったく
だりも聞かせてもらいましたが、あの中に不自然さを感じた。殊更にアリバイ
を主張するような言い種をしていたようですね、彼」
 地天馬の話で、私も朧気ながら思い出してきた。“隣町”で、”六時三十分
から二時間、ただただ馬鹿騒ぎに興じていた”と語ったらしい。
「その段階では警察は犯行時刻を七時前後と考えていたため、アリバイ成立と
見なしてしまった。だが、通報の内容を分析すれば、犯行時刻は九時前後では
ないかと推測できる。隣町から殺人現場まで最短何分で移動できるのか知らな
いが、調べる価値はあるでしょう」
「言われてみれば、不自然な気がしてきましたが……やっぱり、変だ。成り立
たない」
 花畑刑事は手を打つと、地天馬を真正面から見た。
「吉山が襲われた六時五十分については、有島千鶴夫にはアリバイがある! 
犯行は不可能だ」
「交換殺人に偽装した計画殺人を思い付く人間なら、そこへ別の交換殺人を引
っ付けるという発想をしてもおかしくはない」
「ええっ、何ですと?」
「全くの想像だと思って聞いてほしいんだが、今度の犯人はちょっと変わった
交換殺人を画策したんじゃないかな。殺したい相手の始末を人任せにせず、自
分の手で殺す。交換殺人ではなく、むしろ、アリバイ互助組合といった趣だな」
「アリバイ互助組合……」
「二人で組合と言っては少々奇妙かもしれないが、最低二人いれば遂行可能な
計画だからね。この仮説では、千鶴夫の共犯者は、ほとぼりが冷める頃を待っ
て、千鶴夫にアリバイ作りを手伝わせた上で、自らが憎む人間を自らの手で殺
そうとする訳だ。そして恐らく、その共犯者は、吉山を知っている。共犯者と
千鶴夫それぞれの知識を活かして、あの偽のメモは作られた」
「非常に興味をそそられる見解だとは思いますが……証拠がない。共犯者を見
つける作業は、これから取り組めば何か出て来るかもしれないので、そこを突
破口とするほかなさそうだ」
「……いや、もしかすると、何も出て来ない目もあり得るな。犯人が執った手
段によっては、共犯者の影すら踏めないがありますよ、花畑刑事」
「何のことです、地天馬さん? あんたの言うことを聞いてると、頭の中がこ
んがらがる。つまり、共犯はいないって?」
「いえいえ。共犯者はいるでしょう。しかし、これは問題だな。共犯者の招待
を掴むのが骨だとすると、別の方向から攻めねば。千鶴夫の携帯電話を押さえ
て、発信履歴を調べられないだろうか? 所轄署への通話記録が残るはず」
「うーむ。無理をすればできなくはないかもしれない。でも、礼状を取るには、
もう少し強い理由があった方がいいなあ。今のところ、聞かれもしない内から
アリバイ主張をしたっていうだけなんだからねえ」
「だったら、かまを掛けてみてはいかがですか。有島千鶴夫の携帯電話に、例
の所轄署から電話をして、こう言ってやる。『最近は警察への電話はたとえ非
通知に設定されていても、実際には表示される仕組みでしてね。殺人事件通報
者のあなたの話を是非伺いたいと考えておるんですよ』……どうです?」
 そう語る地天馬の目は、いたずらっぽく光ったようだった。
 それよりも私が意外だったのは、花畑刑事が腕を固く組んで、検討する様子
を見せたこと。警察がこんな引っかけの手口じみた捜査をするというのだろう
か。まさかとは思うが……。

 有島千鶴夫が兄殺しの容疑で逮捕されたとの知らせがあったのは、二日後の
ことだった。
 動機は、千鶴夫は中学生の頃から兄のしでかした失敗や悪事を全て被ってき
ており、その積年の恨み、鬱屈感が殺人に走らせたらしい。
 また、犯行当日午後六時五十分に吉山を襲ったのは、有島洋であると供述し
ているそうだ(これを私は非常に意外に感じたのだが、地天馬にとって予想の
範囲内だったようで、かすかにうなずいただけだった)。何でも、兄が倉塚か
ら脅迫を受けていることを知った千鶴夫は、「昔のように僕がかたをつけてあ
げるよ。その代わり、兄貴も別のことを少しだけ手伝ってほしい」云々と言葉
巧みに持ち掛け、殺したい相手を共犯役に引きずり込んだ。有島洋は弟の殺意
を知らないまま、操り人形と化したことになる。
 千鶴夫が吉山卓也の存在を知ったのも、兄を通じてであった。洋は二度目の
通院時に、森谷が吉山へ半ば嫌がらせめいた抗議の電話を掛けているのを、た
またま立ち聞きし、そのことを弟に単なる雑談のつもりで話していた。それが
殺人計画の発端の一部になるとは、夢にも考えなかったに違いない。その上、
自分が襲った相手が吉山であることも知らなかった。
 なお、警察が証拠を掴み、有島千鶴夫から自白を引き出すに当たって、地天
馬の提案した作戦を採用したかどうかは、定かでない。

――終わり




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