連載 #7245の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「譜面?」 郷野にはとっさに佐藤が何を言いたいのか、分からなかった。それが顔に出 たのだろう、憎々しげに顔をゆがめて佐藤が怒鳴った。 「良香は今夜、あんたの前で演奏するのを楽しみにしていた。バイオリンもこ の間の校内コンクールに使った特注品をわざわざ持ってきて、演奏もあんたの アレンジが良いと、Q音大に保管してあった譜面を借り出してきた。俺の教え 子なのに、俺のアレンジじゃ満足しない。まあ、あんたは確かに世界の郷野だ。 良香があんたの譜面を使うって言い出しても、文句は言えない」 「ああ、そう言うことか」 それでも郷野には、佐藤が怒っている原因が分からなかった。たかが、その 譜面がなくなったくらいで、どうだと言うのだ。 「そう言うことだよ。そして良香はあんたの部屋へ行ったんだよ」 「なんだって!」 とんでもない言いがかりだった。郷野は佐藤をにらみつける。部屋に居合わ せた他の二人、松倉信吾と蒜野有紀は話の意外な展開に固唾を飲んでいる。 「良香は俺に嬉しそうに言ったんだ。この譜面で郷野先輩に指導してもらう約 束になっているんだってね。だから、あんたが別荘についたら、すぐに良香は 譜面を抱えて、あんたの部屋へとすっとんで行ったはずだ。ところが良香は殺 され、持っているはずの譜面が見あたらない。これがどういう意味か分かるだ ろ」 佐藤はそこで息を切った。興奮が収まらないらしく、肩で息をしている。一 方の郷野は、佐藤の言葉が理解できないのか、ぽかんとした表情は変わらない。 「彼女は私の部屋には来ていない」 わずかにそれだけが郷野の口からこぼれる。 「バカ言っちゃいけねよ、あんたが良香を殺したんだ。譜面がないのが何より の証拠だ。良香は譜面を持ってあんたの部屋に行った。そこでお前が殺して、 良香だけを部屋に戻した。譜面はうっかりして自分の部屋に忘れた。そうだろ う!」 佐藤が郷野の胸倉を掴んだ。慌てて松倉が仲裁に入る。 「佐藤様、落ち着いてください。なんてことを仰有るのですか」 「こいつが良香を殺したんだ。俺の大事な教え子を。こいつが殺したんだ」 「佐藤様、滅多なことを仰有ってはなりません。郷野様は良香お嬢様の尊敬さ れる大先輩です。お嬢様に招待されて、何とか都合をつけてお出でいただいた のです。そのようなことをなされる理由がありません。そうでしょう。落ち着 いてよく考えてみてくださいませ」 松倉にそう言われて佐藤はふんと不満げに鼻を鳴らすと、渋々、郷野の上着 を掴んでいた手を離した。さすがに犯人呼ばわりされて、郷野の表情も硬くな っている。 そんな郷野を蒜野有紀が、じっと見つめていた。何か言いたそうな顔をして いる。松倉が佐藤を部屋の外へと押し出し、佐藤のだみ声が廊下の向こうに遠 ざかった頃、郷野がふーっと大きくため息をついた。 「すみません」 蒜野有紀がおずおずと郷野に声をかけた。郷野ははっとしたように、有紀を 見た。まるで有紀がそこにいることを忘れていたかのような感じだった。やは り、佐藤の言葉がかなりショックだったらしい。 有紀はどうしようかと迷っていた。相手は世界的なバイオリニスト郷野弘幸 だった。ご機嫌を害しては今後の取材に影響しかねない。郷野ネタで今回の取 材チャンスをもらったのだ。当人の郷野に嫌われたら困る。 しかし、どうしても尋ねたいことがあった。 「なんだい、私になにか?」 郷野は平静を保ったつもりだったが、うまくゆかなかった。声がわずかに震 えている。それほど佐藤の言葉に動揺していた。 「こいつが良香を殺したんだ」 言われた瞬間、本当に自分が殺したかのような錯覚を覚えた。この手で、こ の指で。そういえば、別荘に着いてからすぐに仮眠を取った。あのとき、良香 は本当に郷野の部屋にやってきたのかもしれない。確か部屋に案内してくれた とき、郷野の演奏を聴きたいとかなんとか喋っていた。あれはガラホールでの 余興演奏をやってくれというくらいの意味にしか郷野は受け取っていなかった。 しかしもし、あれが郷野からバイオリンの「個人教授」を受けるつもりで良香 が言っていたのなら。佐藤の言うとおり、郷野が眠っている間に、良香は郷野 の部屋にやってきたに違いない。 しかし、郷野は眠っていた。目を覚ました記憶はない。だが、待てよ。意識 の底にあった殺意が勝手に郷野の体を動かし、良香を絞め殺したのかも。いや いや、そんなバカげたことはあるまい。いくら憎悪が深かろうとも、眠ったま まで人を殺せるわけがない。 郷野は自分の妄想を完全に払拭できないまま、頭を振った。 小柄な女が郷野を見つめていた。じっと真剣な眼差しで。 「すみません」女はもう一度繰り返した。「埼京新聞の蒜野有紀と申します。 ひとつ伺ってもよろしいでしょうか?」 「ああ、いいよ」 郷野の返事は素っ気なかった。しかしそれは有紀を疎んじているのではなく、 千葉良香の死に対する動揺に違いないと、有紀は思おうとした。 「内村友美さん、ご存じですよね」 有紀は質問してから、そのことをすぐに後悔した。質問を受けた郷野の顔が 異常なほどに強ばってゆくのが、はっきりと分かったからだ。両目が開き、白 目に血管が浮き出して、唇がぶるぶると震えている。唇の震えは素早く全身の 揺れになり、郷野はそのまま床に膝をついた。 「どうして、友美のことを」 絞り出すような郷野の声だった。 結局、有紀はそれ以上の会話を続けられなかった。佐藤を連れていった松倉 信吾が、血相を変えて駆け戻ってきたのだ。 「郷野様、大変なことになりました」 松倉はどうやら、郷野弘幸を頼りにしているらしく、異常事態を真っ先に彼 に知らせようとしている。郷野はその時、まだ千葉良香の部屋で片膝を着いた 状態だったが、松倉の声に頭だけ振り返った。 「どうした」とかろうじて絞り出すような郷野の声。 「良香お嬢様のお友達ふたりが」 「ああ、瀬戸山と京崎とか言う」 郷野の胸を嫌な予感が横切る。まさか。 「はい、そのお二人なのですが。ガラホールにお見えにならないので、手伝い のものに部屋まで行かせたところ、お二人とも・・・」 あとは言葉にならなかった。 「死んでいたのか」と郷野。「はい」と松倉が肯いた。 有紀が息を飲む。郷野が何か呟いたようだった。よく聞き取れないが「そん なバカな・・・」と言ったような。 「とにかく、警察には電話をいたしましたが、後はどうすれば良いやら」 松倉の顔が苦悩に歪んでいた。 松倉は千葉家の執事役としてもう二〇年近く働いている。財産管理や千葉家 の関わる様々な事務処理はそつなくこなしてきた。夫婦で仕事を持つ千葉夫婦 の対外折衝も社会福祉関係も、今日まではそれほど苦もなく順調に処理してき た。 しかし、今夜の情況はこれまでの問題とはまったく違っていた。吹雪と雪崩 に閉ざされた別荘で、千葉家の一人娘が殺害され、そしてその友人二名も死ん でいる。警察を呼んだが、途中の雪崩で道路は閉鎖され、猛吹雪が収まらない とヘリも飛ばせないという。 いったい、私にどうしろと言うのか。 松倉は今夜の自分を呪った。自分の不運な巡り合わせと、パーティーをやろ うと言い出した千葉良香を。せめて千葉家の主人たる千葉敬造がここにいてく れれば、と思う。急患で来られなくなったという千葉敬造。その急患までも恨 みたくなる。 パーティーに集まった連中は誰も頼りになりそうにもなかった。みんな千葉 家に経済的な援助を受けているか、それを期待してご機嫌伺いにやってきたや つばかりで、こういう事態にはおろおろして、右往左往するだけなのだ。 佐藤のように暴れ出すやつもいる。あいつのQ音大での研究費はほとんどを 千葉家から出してもらっているくせに、恩着せがましく良香のことを「教え子」 と主張する。良香の前では平身低頭してぺこぺこ言いなりになっていたという のに。 佐藤が郷野にかみついたのは、自分の金蔓である良香が死んでしまったから じゃないか。佐藤は良香の死を悲しんではいない。それよりも明日からどうや って、千葉家の資金を引き出し続けることができるかが、最大の関心事なのだ。 さすがに世界の郷野弘幸は大人だ。彼は信用できる。あれだけ佐藤に悪態を つかれても、泰然としていた。変に反発しないところが、人間の器の違いなの だろう。この情況で頼れるのは、招待客では郷野弘幸、彼くらいか。 松倉は郷野という有名人がいてくれて良かったと心底思っていた。 ガラホールは良香の死に加えて、良香の友人二人も死んでいたと言う話で、 すっかり混乱していた。招待客は警察からの電話指示で、全員一カ所にまとま るように再度、念を押された。松倉からもそういう説明が繰り返し行われた。 ガラルームは演奏会にも使えるように正面には小ステージがあり、松倉はそ こに上がって、マイクを使って事情を説明した。松倉の脇にはグランドピアノ があるが、カバーを掛けられたままだった。 表だって不満を述べる招待客はいなかった。立食パーティー用の銀色の丸テ ーブルが壁際に片づけられ、その代わりにいつもはホールに置いてあるソファ ー類が持ち込まれて、招待客は好き勝手に座っていた。パーティーではないの で、みんなラフな格好だった。 ところが、良香のみならず良香の友人二人、竜崎京太郎と瀬戸山菊子も殺さ れたらしい、と伝わると、白けた空気の中に憎悪のような匂いが立ちこめた。 それは「この中に犯人がいるかもしれない」という疑心暗鬼であり、「自分も 殺されるかも」という恐れの裏返しでもあった。 いつしか、誰もがいち早くこの別荘を出たいと願い始めていた。たとえ千葉 家のご機嫌を損ねてでも。 「友人の二人は毒殺らしい」 そんな会話があちこちでひそひそ声で交わされ、やがて、それがガラホール の外でソファーに座り、所在なげに降り続く雪を眺めていたタクシー運転手、 茄原作蔵の耳にまで届くのに大した時間はかからなかった。 「なんだか大変なことになってきたのう」 茄原は、思い詰めたような蒜野有紀の顔を見上げる。茄原に最新ニュースを もたらしてくれたのは有紀だった。 「私、とても気になることがあるの。殺された千葉良香、竜崎京太郎、瀬戸山 菊子、みんなQ音大付属高校の生徒なのよ」 「ふーん。それがどうかしたのかい」 「郷野弘幸っていつもは海外で演奏会をやっているくせに、頻繁に日本に帰っ てきていたの。日本ではほとんど演奏会をやらないというのに」 「そりゃあ、日本がふるさとだからだろう、家族や友だちがこっちにいるんじ ゃろ」 「日本に恋人がいたのよ。本人たちは秘密にしていたらしいけど、私は知って いたわ。その恋人がQ音大付属高校の二年生だった」 「だった?」 「ええ、彼女は二ヶ月ほど前に死んだわ。自殺だった」 「ふーむ。それが今日の事件と関係があるのかい」 有紀がそこでためらいを見せた。言おうとしているのは、有紀の単なる推測 だった。今日、ここに来るまではそのことをあまり考えないように努めてきた。 それは郷野弘幸にも、自殺した彼の恋人にも、大変な失礼になると思っていた。 ただ、郷野が千葉家のパーティーに出席すると聞いて、有紀はとっさに恋人 の自殺事件を思い浮かべたのは事実だった。事件そのものはそれほど大きくは 報道されなかった。むしろ、家族の申し入れもあって、最小限の報道しかなか ったように記憶している。 有紀の埼京新聞ではまったく取り上げなかった。郷野弘幸とその恋人との関 係がはっきりできなかったし、ましてや、事件の時に郷野は海外演奏旅行中だ った。郷野との愛情のもつれが自殺原因とは考えられない。相手が高校生だっ たこともあって実名も出せない。写真も駄目。結局、見送った。 しかし、こんな事件が起きてしまうと、そういうわけにもいかなくなる。あ の事件との関連が、あるのだろうか。 「郷野弘幸の恋人、内村友美と殺された千葉良香は、Q音大付属高校で一二を 争うバイオリン奏者だったらしいの。いつも校内コンクールで張り合っていた らしいわ。だいたい、実力は内村友美の方がやや上だったのかな。彼女が自殺 したのは、Q音大付の校内コンクール直前だった。彼女が優勝するという下馬 評だったらしいけど、結局彼女が自殺したので、千葉良香が優勝した。そして 良香は、自殺した友美の恋人、郷野弘幸をパーティーに呼んで殺された」 「ちょっと待て。そういう話はうかつなことで口にしちゃあいかんぞ。新聞記 者になろうという者が、勝手な憶測でそんなとんでもない筋書きを作っちゃい かん。今の話はな、わたしらシロウトが酒に酔っぱらってわめき散らすゴシッ プといっしょじゃ。人の不幸をおもしろおかしくしたいという人間の浅ましい 根性が透けて見える」 茄原の言葉は穏やかだった。しかし、有紀を見つめる目は厳しかった。有紀 は耐えきれず目をそらした。 確かに茄原の言うとおりかもしれない。単なる偶然、巡り合わせ。それを無 理矢理こじつけて、読者好みの記事をでっち上げる。それが夕刊紙埼京新聞で は日常茶飯事だった。でも、私はそんな三流記者にはなりたくない。 ついさっき、当の郷野に同じ話をしかけたことを有紀は思い出す。友美の名 前を出したときの郷野の驚きの表情がよみがえった。冷や汗が出る。あれ以上 話していたら、きっともう二度と口を利いてもらえなかったかもしれない。 「そうね、私の思い過ごしだよね。うん」 有紀はわき上がる胸騒ぎをむりやり押さえつけるように大きな声で言った。 茄原はまだ難しい顔をしていた。 (以下、続きます)
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