連載 #6636の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
サウナの温度は、いつもより高いような気がした。10人も入れば一杯に なるぐらいの小さなサウナ風呂で、今のところ嵯峨の他に客は入っていない。 壁に埋め込まれた二五型テレビでは若手お笑い芸人が激辛料理を食べさせら れて悶絶するシーンが放映されている。音量がゼロに絞ってあるので画だけ を嵯峨はぼんやり観ている。つまらない深夜番組だ。だが、頭をからっぽに するには、いい。 嵯峨は、もう三時間近くこのサウナに入り続けている。入ったまま、中か ら一歩も外に出ていなかった。 最初の一時間は、頻繁に人の出入りがあった。みんな、一〇分ほどで出て ゆく。何人かは外で水を浴びてもういちど入ってくるが、やはりそれから一 〇分ほどで出てゆく。顔を知っている女も何人かいた。向こうも嵯峨の顔を 知っているだろう。無論、会話を交わしたことはない。 深夜三時をまわってからは、ほとんど客は入ってきていない。 たいていの客はバスタオルで胸から下を隠しているが、嵯峨はそんなこと はしない。股間の上に申し訳程度にタオルを置き、座って後ろに両手をつき、 だらしなく両足を広げている。胸は隠さない。べつに、じぶんのバストに自 信がある、ということではない。とにかくめんどう臭いのだ。 そんな嵯峨の格好を見て、初めて顔を合わせる客は、たいてい、ぎょっと する。ちらりと一瞥をくれて、後は無視するかのように、けっして視線を合 わせてこようとしない。それでも横目でちらちらとこちらのほうを見ている のが嵯峨には分かる。じぶんと同年代ぐらいの女の視線が特にじんわりとし た痛覚を与えてくる。直視されているわけではないので、刺すような不快感 は感じない。無視できるレベルだった。 嵯峨は、だいぶ前、こことは別のサウナで、いちどだけじぶんと同じくア ーティストと思われる女と遭遇したことがあった。五〇近い女だった。その ときは、一瞬、視線が交差してしまい、お互いに目が離せなくなる寸前で危 うく目を伏せることができた。冷や汗がどっと出た。相手も同じだったろう。 数分、何事も無かったかのようにふたりともサウナに入っていたが、嵯峨の ほうからたまらずに外に出た。たっぷり冷や汗をかいていた。うっかり至近 距離で遭遇してしまった猛獣もたぶんこんな気持ちになるのだろう。若いア ーティストにはパワーがあるが、歳をとったアーティストにはテクニックが ある。五〇近くまで生き延びたアーティストなのだから、万が一、一戦交え た場合、おそらく互角とみていい。 嫌な予感を嵯峨は感じた。 さっきから四〇分以上、誰もこのサウナに入ってきていない。深夜とはい え、四〇分というのはおかしい。何か妙な偶然が働いている。 あるいは、何者かが何か仕掛けてきているか、だ。 まったく自然なふうを装い、嵯峨は立ち上がった。ドアを開け、外に出る。 湿っているはずの風呂場の空気すら、ひんやりと心地よく感じられた。シャ ワーの前に腰掛け、水を浴びる。身体じゅうの汗を丁寧に流し落とした。腰 まである黒髪もシャンプーを使って念入りに洗う。これで、二〇時間ほど前 の仕事での相手の血液が、万が一身体に付着してしまっていたにしても全て 洗い流せただろう。禊、という意味もある儀式だ。サウナで三時間かけて頭 の中をからっぽにし、その後、身体を洗い清める。いつもの儀式だった。 髪を洗いながら意識を拡張し、嵯峨そのものを薄く風呂場全体に満たした。 今のところ誰もいない。嵯峨が座っている背後の壁の下隅に小さななめくじ が這っているだけだった。目視はしていない。ただ感じるだけだ。他に生物 はいない。このサウナは特別な場所なので、ここで仕掛けてくる阿呆はいな いはずだ。しかし今回だけは特別に何か妙な予感がした。アーティストなら ば、その感覚を大事にしてゆかねば生き延びることができない。 二〇分ほどかけて身体と髪を洗った。相変わらず誰も来ない。 風呂場を出て脱衣場にゆく。電子体重計があるので、いつものようにそれ に乗る。仕掛けられているかそうでないのか分からない以上、なるべく普段 どおりの行動をとるべきだ。警戒しているのか、警戒していないのか、相手 に分からないよう、情報は極力曖昧にしておかなければならない。体重計に 足をかけた瞬間、爆発でもするのではないか、という思考が一瞬走った。そ れを無視する。五三・三キログラム。嵯峨のベストコンディションを八〇〇 グラムほど下回っていた。汗をかいたせいだ。 髪をドライヤーで乾かしてから、ロッカーを開け、普段どおりに着替える。 誰も来ない。嫌な予感が継続している。 下着と白のTシャツを身につけ、ジーンズを履く。黒の革ジャンを羽織り、 ポケットの中に入っている物の重さを感じたとき、嵯峨は初めてほっとした。 階段を降りてフロントに行き、タオルとロッカーの鍵を返す。フロントの 女が、二つ折りの紙片を黙って差し出した。嵯峨は黙ってそれを受け取り、 ポケットに入れようとした。 フロントの女が口を開いた。 「『至急』、とのことですが」 このサウナのフロントが「至急」と言ったのなら、それは、言葉通り、完 全なる大至急、ということだった。嵯峨はその場で即座に紙を開いた。普段 通りの行動がここで途切れた。 メッセージは、〈葬儀屋〉からのものだった。竹彦がよく利用する故買屋 だ。超一流、と言っていい。嵯峨も何度か顔を合わせたことがある。 メモには、コードを使って時間が表記されている。その時間に、このフロ ントに電話を入れる、とある。嵯峨の携帯ではなく、このフロント、という ところに、非常事態を感じた。携帯は盗聴できる。このフロントの電話は、 まず盗聴できないと考えていい。 嵯峨は紙片をポケットに入れた。後で時間があいたときに焼却しなければ ならない。 「相手は間違いないか」 「はい。いつもの手順で確認済です」 嵯峨がじぶんの腕のデジタル時計を見る。連絡まであと一六秒だった。タ イミングが合いすぎている。何かが起きている証拠だった。やはり、何か嫌 な事態が起きている。フロントに背を向け、電話を待つ。 もはや、普段通りの行動を装う必要はない。右手は革ジャンのポケットの 中の物に触れている。嵯峨が再び意識を拡張した。天井の通風口には、人間 はいない。目の前のエレベーターも、動く様子がない。あとは、非常階段だ。 こちらも、今のところ大丈夫のようだった。二階下の地上三階までしか分か らないが、とりあえずのところその範囲に人間はいない。 そこまで確認したとき、フロントの電話が鋭く鳴った。 【つづく】
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