連載 #5126の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
アゲイン(その6) りりあん 人が何をしようと宇宙の営みは変わらない。昼が終われば夜が来る。 真砂はひとりテーブルの椅子に腰掛け、頬杖をついてテレビを見てい た。息子を寝かせたばかりなので音声を低くしてある。それでもバラエ ティー番組特有の、わざとらしい観客の笑い声が耳につく。 立ち上がり、棚からカップとインスタントコーヒーを取り出す。プラ スティックのふたを開け、スプーンも使わず目分量でこげ茶色の粉末を カップに振り入れた。ポットのお湯を注ぐと、白い器の底から湯気と共 に漆黒の液体が上がってきた。かすかな芳香がする。普段ならこれを嗅 いだだけで落ち着くのだが、今夜ばかりはそう上手くはいかなかった。 電気仕掛けの箱の中では、まだばか騒ぎが続いている。真砂は急に大 声をあげたい衝動に駆られた。でも実際にはため息をついただけだった が。 パソコンをもう一度いじってみようか。真砂は振り返って夫の部屋の 扉を見た。やっぱりよしたほうがいい。昨日のことがあってからすっか り臆病になってしまったようだ。 真砂はカップをテーブルの上に置いて椅子に座った。壁に掛けてある 時計は10時過ぎを指している。今夜は時間が経つのが遅い。彼女は爪 を噛んだ。行き場のない苛立ちが胸の中で渦巻いていた。 突然、電話が鳴った。ひとりにしておいてよ。真砂は感情のない無機 物の塊を睨みつけた。電子音は神経を逆なでするように叫び続ける。こ れを切るためには受話器を取り上げなくてはならない。仕方ないか。 「はい、南でございます」 真砂はていねいに答えた。習慣とは恐ろしい。でも返事がない。 「あの……、もしもし?」 ただの無言電話だろうか。そう思ったとたん、苛立ちが怒りに変わっ た。汚い言葉が喉元目指して駆け上がってくる。 「……真砂」前触れもなく、低い声がした。 「えっ……?」 その響きが彼女をとまどいの中に突き落とす。 もう一度、何か言って。 「……藤原です。夜遅くすいません」 その台詞を聞いた瞬間、息が止まった。受話器を命綱みたいにきつく 握りしめる。全身の血が沸き立ち、汗が吹き出す。 「いま、大丈夫? 迷惑じゃなかったかな」 穏やかだが、どこか怯えているような声だ。 「ううん、迷惑だなんて……そんな。でも、よくうちの電話番号がわか ったわね」 真砂は額に浮かんだ汗を指で軽く拭い、顔のあたりを手で軽くあおい だ。 「調べるのなんて簡単さ」 拓巳は事もなげに言った。彼の立場ならそうかもしれない。自分のし てきたことはまるで道化だった。でもそれはもうどうでもいい。拓巳の ほうから電話してくれたのだから。 「えっと……、この前はどうもありがとう」 いざとなると何を話していいか、わからなかった。頭の中はすでに色 がなくなっていた。 「いや、お茶をごちそうになりにいったみたいなもんだよ」 拓巳は笑いを含んだ声で言った。 「それにしても、真砂に会えるとは思わなかった」 「私だって……、ほんとに驚いたわ」 引っ越してきた最初の日が目の前に甦る。 「正直言ってうれしかったよ」 私もよ。そう言いたかったのに真砂の口をついて出たの台詞は、 「あれからどうしてたの?」 もっと素直になりたいのに。 「大学行って、まじめに就職して。お決まりのコースさ」 拓巳の言い方は投げやりな感じがした。彼にとってその選択は本意で なかったのかもしれない。 「真砂は?」 「似たようなものね。でも私の場合は出産退職して、いまはご覧のとお り、ただの主婦よ」 卑屈な物言いになってしまった。拓巳と話すと何故こうなってしまう のだろう。 「もう仕事終わったの?」 「うん、ついさっき。残業ばっかりだけど」 いま、どこにいるの? 真砂はその台詞を無理矢理飲みこんだ。拓巳 の居場所を知ったら、冷静ではいられなくなるに違いない。すぐにでも ここを飛び出したがっている自分と、ひどく慎重な態度をとる自分とが 彼女の中でせめぎ合っていた。独身ではないのだ、自分は。そしておそ らく彼も。 「忙しいみたいね」 「そのほうがいいんだ。あ、いや……いつものことだから」 あの日玄関で拓巳と会ったとき、彼は疲れた顔をしていた。とてもワ ーカーホリックとは思えなかった。無抵抗のまま仕事に引きずり回され ているといったほうがふさわしい。 「少し痩せたような気がするけれど……」 「ああ、就職してから多少落ちたかもしれないな。でも、村野さんみた いになるよりはましさ」 「拓巳君、まだそんな年じゃないでしょ」 「あのさぁ、村野さんって結構若いんだぜ」 拓巳は喉の奥で笑いをこらえているようだ。 「40才ぐらいなんでしょ? 若いって言っても」 「僕らと3つしか違わないんだよ」 夫と同い年ではないか。どう見ても村野のほうが年上としか思えなか った。拓巳のくすぐったそうな笑い声が聞こえる。真砂もそれにつられ て笑い出してしまった。 「やだぁ、ちっとも知らなかった。あの人ったら何も教えてくれないん だもの」 「話すのを忘れてただけじゃないか?」 きっと拓巳の言う通りだろう。村野さんは苦手なの。真砂はそう言お うとしてやめた。自分自身についていた嘘を見抜かれるような気がして 怖い。これが村野を嫌った理由なのだ。いま、やっとわかった。人の陰 口で拓巳の気を引くつもりはない。それより彼に聞きたいことがある。 「どうしたの? 急に黙っちゃって……」 「ねぇ、聞いてもいい?」 「いいよ」 「昨日……、村野さんと飲みにいった?」 「うん、いったけど。でも、なんで?」 拓巳は軽い調子で答えた。夫が呟いた藤原という名は彼に違いない。 「ちょっと聞いてみただけ。別に深い意味なんか……」 「真砂が気にするようなことはなかったよ」 拓巳の反応は早かった。これには真砂のほうが狼狽した。言い訳しよ うにも言葉が出ない。 「仕事上の意見の食い違いってやつだな。僕もずいぶん酒が入ってたか ら、少し言い過ぎたかもしれない」 拓巳はいくらか早口になり、突き放すような言い方をした。でも彼は 事実を語っていない。 「ほんとに、それだけ?」 「そうだよ」 真砂の言葉を軽くかわしながらも、拓巳はこの話を拒絶していた。も う聞くのはよそう。 「……なぁ、真砂」 拓巳がためらいがちにそう切りだしたときキャッチ・ホンが入った。 「遅くにいきなり電話して悪かった」声が堅い。 「すぐ済むから待ってて」 お願いだから、まだ切らないでよ。 「早く切り替えたほうがいい。また連絡するよ、おやすみ」 キャッチ・ホンは夫からだった。遅くなりそうだから先に寝ててくれ 。ただそれだけだった。 真砂は受話器を静かに置き、すぐ風呂場に向かった。ジーンズ、トレ ーナーを脱ぎ捨て、籐のかごに放りこむ。次に汗でべたつく下着を剥ぎ 取るそばから洗濯機に投げ入れた。 浴室に入ってすぐ、シャワーの蛇口をひねった。暖かい雨が勢いよく 降る。真砂はそれを頭から浴びた。 拓巳は何を言いたかったのだろう。全身を走る無数の川を感じながら 、待つだけの女にはなりたくないと心の中で叫び続けていた。 拓巳はそれから2日後に電話をしてきた。 「どこかで会わないか?」 彼は口を開いた瞬間、はっきりとそう言った。真砂の答えは決まって いた。ためらいはどこにもなかった。 会う日は夫の出張中を選んだ。息子は大学の同窓会に行くという理由 で実家に預けた。 待ち合わせ場所はRというシティホテルだった。友人の結婚式で一度 行った覚えがある。確か当時は新しくオープンしたばかりだったから、 いまでは雰囲気もだいぶ変わっているに違いない。 真砂は拓巳に教えられたとおり地下鉄に乗った。金曜日の夕方のせい か、駅も電車もひどく混んでいる。こうしてラッシュに揺られているの は何年ぶりだろう。昔は厭で仕方がなかったのに、いまでは新鮮に感じ た。 車両の中はむっとするような人いきれに満ちていた。天井では大型の 扇風機が首をゆっくりと振っている。汗臭く、生暖かい風がときどき真 砂の顔にあたった。冷房をつけてもおかしくなかったが、節電のためな のかもしれない。だが空気をかき回すだけでは全然涼しくならなかった 。真砂は胸の谷間にしみ出す汗を感じながら、あの黄色い電車を思い出 していた。 途中で路線を乗り換えて、最寄りの駅についたときは6時をとうに過 ぎていた。繁華街から多少離れているせいか、乗降客は意外に少なかっ た。改札口を出て掲示板の指示に従っていくらも歩かないうちに、ホテ ルのアーケードの入り口を見つけた。彼女は足早に近づいて厚いガラス 扉を押した。 真砂は高級ブティックや貴金属店をしり目に、まずは化粧室に向かっ た。香水の残り香だけが彼女を迎え入れた。 よく磨きこまれた大きな鏡には不安げな顔の女が映っている。彼女は 小さく息をついてバッグを開けた。ポーチから口紅やファンデーション を取り出し、ていねいに化粧を直した。自分自身を鼓舞するように。 ロビーにはエスカレーターで上がった。そこは地下と比べるとまるで 別世界だった。 2階まで吹き抜けた高い天井にはきらびやかなシャンデリアが輝いて いる。これは昔と同じだ。 前方に見えるラウンジはほとんど満席で、人々のざわめきが漣(さざ なみ)となって真砂のもとにうち寄せてくる。サテン地のイブニングド レスをまとった若い女性が、白いグランドピアノの前に進み出た。生演 奏が始まるのだろう。 フロア全体に並べられた本革のソファーには、何人かが思い思いの格 好で腰掛けている。流れるようなソナタの調べを聞きながら、真砂は拓 巳の姿を捜した。 どこにいるのだろう。それらしい姿は見あたらない。思わず腕時計に 目をやる。約束の時間より5分ほど過ぎていた。 太い柱のそばに今日付けの新聞各紙や雑誌、何種類ものパンフレット が置かれたラックがあった。真砂はその中から新聞を手に取り、見出し を眺めた。読んでいるつもりだったが、内容は全く頭に入らなかった。 彼女は仕方なくそれをもとに戻し、今度はホテルの案内パンフレット を取った。落ち着かない様子でページをめくる。時計の文字盤を見るの が怖くなっていた。 ざわめきやピアノの音色が次第に遠くなる。真砂は茫然として通り過 ぎる人々を見送っていた。苛立ちは不思議と感じなかった。ここで永遠 に彼を待って立ち続けてもいいような気さえした。 そのとき、いきなり肩を叩かれた。真砂は小さな悲鳴をあげて振り返 った。 「ごめん、遅くなって。出がけにつかまっちまって……」 拓巳は走ってきたのか、額に汗を浮かべ息を切らしながら言った。今 日の彼は仕事帰りらしく濃紺のスーツを着ている。服のせいでそう感じ るのかもしれないが、この前よりいくらか痩せて見えた。 「よかった、来てくれて。会いたかったわ」 真砂はそう言って微笑んだ。隠す必要はもうない。 それを聞くと拓巳はうれしそうな顔をして、耳を深紅に染めた。 つづく
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