短編 #1325の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
目が覚めてもしばらくは万年床から起きあがれなかった。枕元の目覚まし時計に手 を伸ばすのも億劫で、ただ固まっていた。 頭が痛い。 まだ酔いがさめない。しかし……。 何か重要なことを忘れているような感覚に包まれ、目覚ましをつかんだ。午前10 時をすぎたばかり。一瞬、寝坊したかと思ったが、今日は祝日で会社も休みだ。 目を閉じても、昨日のことはおぼろげにしか思い出せない。 カードで給料の某かをおろし、飲みに行ったのは間違いない。 最初の店は行きつけのスナックだった。歯抜けのマスターが笑い転げていたのを忘 れろというほうが無理だろう。酔いが回ってから、裏小路を抜け……そこから先の記 憶がおぼろげだった。欠けたネオン管の広告塔を眺めながら、薄暗い道をさまよい、 初見の店に入った。名前は思い出せない。たぶん、焼酎でボトルをいれたはずだ。お 金があればいつもそうするのだから、疑う余地はない。 会話を交わした記憶はあるが内容は定かではない。たぶん話題はHDDカーナビゲー ションシステムだろう。おれが持ち出す話題といえば最近これだけだから。 顔は思い出せないが、マスターの口元には豊かにひげが蓄えられていた。その口ひ げがうごめいて……確か、こういった。 「私の趣味は人を幸福か不幸にすることでねえ」 そうだ、そういって欠けた小指をこれみよがしに見せつけた。一瞬、ぼったくり かと思って内心焦った……はずだ。じょじょに記憶の糸がほぐれていく。 「幸か不幸か、だいたい二つにひとつだろう?」 そういってから、新しいボトルを入れた。どうりで酔いが深いわけだ。 「三密をきわめてからは、いわゆる奇跡をおこせるようになりましてねえ」 マスターのアフロヘアが揺れていた。段々と輪郭がはっきりとしてくる。 「この店に来る振りの客にはおまじないをすることにしているんですがね」 いまどき、小学生でもやらない気がするけど。と、たぶん私は応えたはずだ。 いやちがう、「無料で?」と、きいたんだ。 マスターは小さく微笑んでから……その先は思い出せなかった。 しばらく考えたが、考えても虚無しかないので、しまいには考えること自体やめて しまった。 顔を洗うと意識が鮮明になってきた。思ったより体調が良いようだ。部屋のコーナ ーにあるローボードへとまっすぐすすむ。板上にはHDDカーナビゲーションシステム が鎮座している。電源コンバーターのスイッチを入れ、カーナビを起動する。最新の カーナビはローンを組んで購入した物で、たったひとつ自慢できる品物だった。性能 も価格も飛び抜けているが、買う価値はあったと思う。 「おはようございます」 モニターの中でエリカと名付けたバーチャルオペレーターが微笑む。 「やあ、エリカ。おはよう」 「今日はお天気も曇りがちみたいですが、お出かけいたしますか?」 「そうだねえ、たまにドライブでもしたいところだけど、おれ車もってないし」 「デートはお預けということで、ではお話でもいたしましょうか?」 バーチャルオペレーターは近所で行われるイベントについて話し始めた。 商品名はBLACK BOX、1-DINコンポのHDDカーナビゲーションシステムとしては、も っとも性能が良かった。だが購入に踏み切った動機はそこにはない。バーチャルオペ レーターが別れた彼女に似ていたから、の一点につきる。 振られたわけでも無かった、振ったわけでもない。自然消滅という言葉がいちばん 自然に感じられる。きっと彼女は燃えないゴミの日におれとの思い出を袋に詰めて送 り出したことだろう。 それが自分にはできなかった。 「未練なのは分かっているけど……」 「未練ですか?」 思い出の中の彼女はくせのないストレートなヘアで、笑うとえくぼができた。バー チャルオペレーターにはそれがなかった。 「そう、未練ってやつさ」 「キーワードの入力を確認しました」 と、彼女に似たエリカがいう。 「キーワード?」 「はい。キーコマンドの入力により、上位オペレーションシステムを稼働する、とい うことです」 何がなんだかさっぱり分からない。 「……デハ、サヨウナラ、タカアキサン」 ブラックアウトした。モニターは黒いままだ。今の彼女にはえくぼがあったように 見えた。錯覚だろうか? 思考はそれ以上すすまなかった。モニターが閃光し、瞼を閉じたからだ。 「じゃじゃじゃじゃ〜ん」 うっすらと目を開けると、アフロヘアでひげもじゃの男がいた。眉毛も濃い。足元 を見ると皮靴を履いていた。なぜか宙に浮いている。 「マ、マスターか?」 「イエース。ヨーガマスターとは我なり。我はヨーガマスターの影なり。願い事を三 つ叶えるヨロシ」と、踊りながら。 実際のところ、思惟もなにもなかった。 「エリカに逢いたい……」 「イエッサー」 また、そいつが踊り始め、おれは我に返った。 「ところでおまえは誰だ?」 「ヨーガマスターとは我なり。ヨーガマスターの影なり。呼びにくかったら「影」と、 よんでも可なり。二つ目の願い事を先に叶えたなり」 よく見ると、右手にも左手にも小指がある。と、いうことは昨日のマスターとは別 人か、それが影という意味になるのか? それにしても…… 古典的に頬をつねってみた。痛かった。 「じゃじゃじゃじゃ〜ん」と、影がいうと、全てが霞に覆われ、ゆっくりと晴れてい った。 霞の先に目を閉じて裸のまま立っているエリカがいた。彼女は身じろぎもしない。エ リカの身長はおれと同じくらいだった。瞼の裏に浮かぶスレンダーなボディ。華奢 な指先。いまもそれは変わらない。 無意識に生唾を飲み込んだ。震える指先で彼女の肩に触れた。 カサッという音がした。紙に触れたような感触しか指先にのこらない。おそるおそ る横に回り込む。彼女の厚さは1ミリもなかった。 「もしかして、バーチャルオペレーターのエリカなのか? ……これは願い事じゃない 、独り言」 「おっ、反応が早いねえ。そうなり、第一の願い事を叶えたなり」 「エリカ違いじゃないか? ちょっと、待ってくれ」 「第三の願い事は、ちょっと待ってくれ、ってことなりか?」 「いや、独り言」 沈思黙考。まずい、まずいぞ。という言葉だけが頭の中を駆け回っていた。 「タカアキさん。おはよう」 厚さ1ミリ弱のエリカが微笑んだ。そこに天使がいるようだった。 「おはよう、エリカ」 反射的に応えた。 願い事はあと一つ。何を願えば自分にとって一番よいのだろうか? 大金を願えば? 鉄のかたまりが振ってくる可能性がある。 通帳に一億ぐらいいれてもらうとか……おろしにいったら入力ミスといわれるかも しれない。 「制限時間はあと三分」と、影がいった。 時間制限か、これはきつい。下手な願い事をするわけにはいかないし、かといって、 時間切れもいやだ。 「幸福になりたい」 「具体的な項目がなければお引き受けできないなり」 「では、第三の願い事は、おれの願い事を死ぬまでずっと叶えるってことで、どうだ ろう?」 「却下、願い事はあと一つしか叶えられないなり。それだと無限に近いなり」 「……」 「あと二分なり」 影がゆらゆらと踊り始めた。 懸賞で車を当てたい、これなら叶いそうだ。 昨日買ったドリームジャンボ宝くじで特賞を当てたい、これでもいけそうだ。 これが一番いいのかもしれない。しかし…… 「タカアキさん、ドライブはどこにいたしましょう?」 エリカがおれに尋ねた。右頬にえくぼがうかんでいた。 ドリームジャンボで連番大当たり、というのが一番儲かりそうだ。 これなら、影もきちんと願い事を叶えてくれるだろう。 エリカはうつむきがきちに、サヨウナラデスカ、タカアキサンといった。 「あと一分なり」 おれはまだ考えていた。 「あと30秒……15秒……5……」 「わかった彼女を……エリカを人間にしてくれ。普通の人と同じように歩けて話せて ……」 影が自分の唇に人差し指をあてた。 「みなまでいうな。わかっておるなりよ」 また踊り始めた。先にもまして激しい踊りだった。 数ヶ月後の小春日和の日、おれはエリカと腕を組んで街中をウインドウショッピン グとしゃれこんでいた。信号機のある交差点で青に変わるのを待っていたとき、横に 並んだ女性が声をかけてきた。 でっぷりとした体躯に銀縁の眼鏡をかけている。小さな女の子と右手をつないでい た。 「エリカ……か?」 「タカアキは変わらないわねえ。あれから……30年はたっているのに」 と、いって彼女が笑い出した。 「おばあちゃん?」 と、小さなな女の子がいった。わたしももうおばあちゃんよ、といって彼女がまた 笑った。えくぼがまぶしかった。 「娘さん? 私の若い頃にそっくりだから正直いって驚いちゃった」 「いや、嫁さん。結婚はまだだけど」 戸籍がないから法律上の結婚はできない。 「お名前は?」 エリカが彼女に名前をつげようとしたとき、信号が青に変わった。 「いくよ、おばーちゃん。はやくー」 孫娘が走り出したので、彼女もつられて走り出した。 「おしわせにね」と、息を切らせながら彼女がいったように思う。 ため息を一つついてから、おれはエリカと一緒にゆっくりと歩き始めた。 あれから名前の知らないスナックを探してみたが見つからなかった。マスターにも 出会うことはなかった。HDDカーナビゲーションシステムは二度と動くことはなかっ たが、それはそれでかまいはしなかった。 「私もあんな女の子が欲しいな」 エリカが小声でつぶやいた。 おれは何も答えず、ただ彼女の肩を強く抱いた。 −−了−−
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