短編 #1320の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
ぼくがそのひとを見捨てたのは、そのひとが境界の向こう側にいるひとだったか らなんだよ。 イルミネーションにデコレーションされた泥の塔がいくつもいくつも立ちならぶ 街でぼくは、ひとびとの吐き出す汚念を食べながら暮らしている。だからその日も いつものように、よい匂いをまきちらしながら行き交う派手に着飾ったきらびやか なひとたちでごったがえした雑踏のなかで、ぼくは間断なく吐き出される汚念を一 心不乱に消費していたのさ。 リゲルからおとずれた八本腕の旅行者や大気中をゆるやかにただよう羽の生えた 一族、滅亡したヴェガから逃げ出してきた皺だらけの隠者たちや踊り狂いながら派 手はでしく汚念をふりまく道化師まで、そのときもいつもと同じように街はにぎや かな狂乱であふれ返って、すこし疲れているようだったよ。 ゆるやかにカーヴしながら断崖に沿ってのびるアーケードは地平線のかすみの向 こうまでつづいていたし、極彩色の露店が建ちならぶ広い街路にひとびとは隅々ま であふれ返って、いつものように暮れてゆく陽の朱に染められてとてもきれいだっ た。 だから最初は、そのひともほかのひとたちと同じように躰の奥底にたまりにたま った汚念を噴き出させながら歩く、ふつうのひとだと思っていたんだ。 ただ、何がぼくの目をひいたのかだけははっきりしてる。そのひとは、ガラスの ように透きとおったボディにつるんとした顔のない頭を乗せた姿をして、一糸まと わぬ裸でゆったりと、ぼくのいるほうに近づいてきたからさ。 笑いさんざめく喧噪の流れとは明らかに異質の時間を、衣がわりのように身にま とってそのひとは、奇妙にうつろな足どりでやってきたんだよ。 ぼくはいっしょうけんめい汚念を吸いこみながら、ちらりちらりと横目でそのひ との様子をうかがっていたのさ。なぜって、近づくにつれてそのひとが、ほかのひ ととは明らかにちがっていることに気づいたから。 何がちがっていたかって。 そのひとは、汚念を吐き出していなかったんだよ。 狂騒にあふれ返ったこの世界で、汚念を吐き出さずにすむひとなんているわけが ないと思っていたから、ぼくはとてもびっくりして口をあんぐりとあけ、やらなき ゃいけないことも忘れて思わずそのひとをしげしげと見つめてしまったんだ。 でも、すぐに目をそらして、ふたたびもとどおり汚念をいっしょうけんめい吸い こみつづけるふりをしたよ。 だってそのひとが、死にかけてることに気づいたから。 心臓の部分が砕けてひらき、そのあいだから静かに魂のかけらが、もやになって ゆらゆらと立ちのぼっていくんだ。ああなったらもうながくはないって、ぼくには わかっていたからね。 そのひとは死にかけたひととは思えないほどゆったりとしたおちついた足どりで、 気づかないふりして汚念の吸引に精出すぼくの目の前を横ぎっていった。 そしてぼくの背後にあった噴水池のほとりの、月片石でできた囲いの上に静かに 横たわって、そのままきたるべき時を待つ姿勢に入ってしまったんだ。 正直いって、ぼくはかなり困惑したよ。猟場をすぐにかえるわけにもいかなかっ たし、かといって死んでいくひとのかたわらで汚念を食べつづけるのもあまりいい 気分ではなかったし。 なにより、そのひとの体内に、あるべき汚念がまったくないというその一点が、 ぼくをひどく居心地の悪い思いにさせていたからね。 美々しく着飾った雑踏をいくひとびとは、静かにそのときを待って横たわるその ひとの存在になど気づきもしないように、あいかわらず笑いさんざめきながら自分 たちの時間を消費していたよ。 なかには横たわるそのひとの姿に気づくひとたちもいたことはいたけど、だれも そのひとに手をさしのべようとはしなかったね。どっちみち、たすけようとしたっ てできることなんか何もないのはひとめ見ただけでわかるけど、やっぱりだれひと り声をかけさえしない光景は、うらさびしいものがあったのもまちがいないな。 でも、なぜだれも声をかけようとしないのか、ぼくにはわかっていたんだ。 そのひとは身体のなかに汚念を抱いかないひとだったから。 だから、ガラスのように透きとおった姿をしているくせに衣服ひとつまとうこと なく街を歩くことができたんだと思う。 着飾る必要なんて、ないから。 そしてたぶん――だからそのひとは、胸を砕かれて命を奪われようとしていたん だと思う。 このたそがれたにぎやかな世界で、そのひとひとりだけが完全に異質で――そう。 孤高だったから。 だからぼくもそのひとに声をかけることすらできないまま、ただひたすら一心不 乱に汚念を食べつづけるしかなかったし、それで正しかったんだと今でも思ってい るよ。 太陽が地平線の向こうに沈んできらびやかな電飾の映える夜がおとずれ、行き交 うさまざまなひとびとが垂れ流す汚念もいよいよその勢いを増していき、ぼくはい つのまにかほんとうにそのひとの存在なんか忘れていっしょうけんめいやるべきこ とを果たしつづけていたんだ。 気づいたときは、夜明けだったよ。 ひとの流れもとぎれ、電飾だけが空々しく点滅する街路にひとりぽつんと残され ている自分に気づき、そのときようやくぼくは噴水池のわきに横たわるガラスのひ とのことを思い出したんだ。 もちろん、わかっていたことだよ。 そのひとの命の息吹はもうとっくに、最後の一片まで気化しつくしてしまったこ とは。 月片石の上に横たわるのは、もうただのガラスのかたまりに過ぎないんだって。 魂を喪くした躰だから、そのひとのガラスのからだだってたぶん、ぼくがちょっ とふれただけで塵と化して消えてしまったにちがいない。 でもぼくは最後の弔いもせず、ただ疲れ果てた肉体をひきずって寝るだけの窓へ と帰っていったのさ。 きっと、夜が明けきる前に吹く常世への風に吹き払われて、あのひとのガラスの からだはちりぢりに世界に消えていったと思う。 それだけのこと。 それだけのことだから、ぼくは、躰のなかに汚念を抱かぬひとがこの世には存在 するのだという驚くべき事実も単なる事実として受け入れ、もしまた出会ったとし てもあの日と同じように関わりあうこともなく、その汚念を受け入れることすらし ないまま、ただすれ違っていくだけなんだ。 そういうわけで、ぼくはいささかくたびれながらもあいかわらず、ひとびとが飽 きもせず吐き散らす汚念を貪りながら生活しているんだ。 あの街ではない、どこか別の場所でね。 きらびやかに着飾ったさまざまなひとびとはどこにでもいたけど、でもあの日以 来、ガラスのからだでゆったりと歩くひとにも、汚念をはかないひとにも出会った ことはないよ。 出会いたいかときかれれば、応えに困ってしまうけれどもね。 誤解――了
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