短編 #1299の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
大迫剛は一九九三年に隠遁生活に入った。遺産をはたいて野山を買い、小屋 を建て、畑を耕し、日々の糧を得る。世間との関わりを断ち、自給自足の暮ら しを送った。新聞やテレビ、電話に郵便といった物も一切断った。唯一、電気 だけは水力を利用した自家発電を行っていた。彼は夜、暗いのが苦手だった。 こうした隠遁生活を選んだのには無論、理由があった。親から受け継いだ会 社を切り盛りするのが嫌になったのだ。経営の才覚がなかった訳ではない。む しろ先代のときよりも業績を上げていた。 会社を放り出した表向きの理由は、体調不良とされた。そして大迫剛本人は、 家族親戚その他近しい者に対して、企業の抱える矛盾に嫌気が差した、腹黒い やり取りはもうたくさんだと言っておいた。 だが、それもこれも嘘だ。はっきり言えば、大迫剛は飽きたのだ。企業を動 かすことが面白くなくなった。だから放り出して、やりたいことをやろうと思 っただけなのである。 そんな彼の元へ、双子の弟からの使いの者が訪れたことで、事態は動き出し た。 朝から雨のそぼ降る日だった。雨がある程度降れば川まで水を汲みに行く必 要がなくなり、楽ができるのだが、大迫剛にとって大して嬉しくなかった。日 課としている散歩を、おんぼろ傘片手にしなければならない面倒の方が大きい。 いっそ、風呂に入るつもりで濡れて行こうか。雨の日にいつも考えることを、 今日また考えていた彼の名を、男の声が呼んだ。 「会長」 「ん? 何だ、おまえさんか」 かつて自分の秘書を務めていた男だった。しばらくぶりの対面だが、面影は 充分に残っており、すぐに分かった。 「雨降りに登山とはご苦労なことだ。何しに来た?」 「会長、戻っていただけませんか。いえ、戻ってください」 「まだ私は会長なのかい」 にやりと笑った。こんな笑い方をするのはいつ以来だろうと思った。 元秘書は傘を持ち換えながら、強い口調になった。 「当然です。社長の地位を弟の徹さんに譲られて以来、会長はずっと会長職に あります」 「俗世間では言葉が乱れているみたいだな。『会長がずっと会長職』とは、滑 稽だ」 「会長っ」 「怒るな。何年かぶりの冗談だ、許せ。とにかく突っ立ってないで、屋根の下 に入らんか」 いつまでも外にいる元秘書を、大迫剛は手招きした。 「では、失礼させていただきます」 「身体が冷えただろう。茶でも飲むか? 今年の茶葉はちょっと出来がよくな いが、緑色に染まることは染まる」 「いえ、私は結構です。それよりも、現在、我が社は窮地に陥っているのです」 大迫剛は相手の講談調の喋りに、思わず吹き出しそうになった。 元秘書はかまわず、資料を取り出し、あれこれと数字を列挙して説明をする。 久々に聞く人の声を懐かしく感じる気持ちもあって、適当に聞き流していた 大迫剛だったが、やがて嫌気が差した。 「もうやめろ。今の私にそんなこと言われてもな、分からんよ。関係ない」 「分からないと言うのは嘘でしょう」 「……ああ。おまえさんも昔と変わらんね。ずばずば言ってくれる」 「懐かしんでいる場合ではございません。このままでは、徹社長が追い落とさ れ、我が社は大迫家の外の者に渡ってしまいます」 「かまわんじゃないか」 「いいえ。大迫家の」 伝統やら栄誉やらを云々し始めた元秘書に対し、大迫剛は耳を押さえた。 「要するに、私にどうしろと言いたいのだ」 「会長に向かってああしろこうしろと大それたことを言うつもりはありません。 社に戻って、立て直してください。それだけです」 「おまえさんはそれを言いに、徹の命を受けて派遣された訳だ」 「そうなります。お願いします、会長」 「無理だ。私の感覚は七年前のままだからな。期待外れに終わるのが落ちだ。 恥を掻きたくないなあ」 本心ではない。今の大迫剛にとって、経営なんて面倒臭いものなのだ。 「そうおっしゃらずに」 急に敬語を混ぜてきた元秘書に、大迫剛は失笑してしまった。 「何がおかしいのですか」 「いや、別に。怒るな。気が向いたらやってもいいが、当分、その気にはなら ん。そういうことだ」 「どうしても、ですか」 「ああ。くどいのは嫌いだ」 大迫剛は元秘書に背を向け、することを探した。時間に縛られていないから、 いつ何をしてもいい身分なのだが。 特に必要でもないのだが、二日ほど放ったらかしにしていた縄をなおうとし たところへ、元秘書が額を床にこすりつけるように伏した。 「では、せめてこの山を下りてください。そして一度でかまいません、徹社長 にお会いになっていただきたいのです」 「……そんなに必死になるな。じっくり落ち着いて考えろ。馬鹿馬鹿しいぞ。 おまえさんにとったら、誰が会社を仕切ろうが関係ないだろう。おまえさんの 能力なら、次の経営者も重宝する」 「そういう問題ではございません。どうか、お願い申しあげます」 一向に面を起こそうとしない元秘書に、大迫剛はため息をついた。向き直り、 ゆっくりと答える。 「……しばらく考えさせてくれるか」 「ええ、ええ、もちろんですとも」 ようやく姿勢を戻し、歓喜の声を上げる元秘書。そんな彼に、大迫剛は言い 足した。 「ただし、条件がある。私の結論が出るまで、おまえさん、ここに泊まり込み だ。できるか?」 「むぅ……承知しました。ですが、結論が出るまでとは、いつまでも引き延ば される可能性がございますね」 元秘書の慎重な物言いに、大迫剛は再びにやりと笑った。 「よかろう。五日以内に出してやる。その間、私の気持ちを動かせるよう、せ いぜい頑張ってみるんだな」 結論から言えば、二人の生活は五日間続かなかった。 ただし、元秘書が音を上げたのではない。大迫剛が病に倒れたのだ。一人で 隠遁生活を送る間は全くの健康体でいられた彼が、元秘書が来たと同時に体調 を崩してしまうとは、妙な因果である。あるいは、元秘書が意識せずに風邪の ウィルスでも運んできていたのかもしれない。 ともかく、脱水症状に陥った大迫剛は元秘書の肩を借りて山を下りることに なった。高熱のため、意識も定かでない有り様だった。 大迫徹の死が報じられたのは、兄の剛が退院し、大迫邸に滞在を始めた翌日 のことであった。 当日の予定を一方的にキャンセルして、一人で山道のドライブへと出発し、 谷底へ転落。そのまま帰らぬ人となった。激しく炎上した車内から、変わり果 てた焼死体として発見された。 自殺・事故の両面で調査が開始されたが、その日の内に自筆の遺書が社長室 から見つかり、自殺に落ち着いた。私の死によって得られる多額の保険金を会 社の最後の起死回生策の資金に充ててくれとの旨が、遺書に記されていた。そ れまでにかき集めていた金と合わせて、それは充分に失地回復を見込める軍資 金と言えた。 「大迫さん、お加減はどうですか」 下田警部は仏頂面で大迫に話し掛けた。 「あまりすぐれません。ようやく退院できたと思ったら、弟の死。気も滅入り ます」 ロッキングチェアに深く腰掛け、大迫は超然と言った。 「今日は何の用ですか、刑事さん」 「弟さんの死について、まだちょっと気になる点がありますのでね」 肩をそびやかす下田警部。彼は内心、疑っていた。死んだのは大迫徹ではな く、兄の剛ではないか。経営立て直しのため、あと少しの金がいる。徹が自分 の身代わりに剛を殺し、保険金をせしめたのではないか……と。 「今、時間はよろしいですか、徹さん」 「……下田警部。私は剛だ。徹ではない」 「おお、これはとんだ失礼を。つい、勘違いしてしまって、申し訳ない」 頭に手をやり、ついで深々とお辞儀する下田警部。今度は大迫の方が仏頂面 になった。 「ふん。まあよいでしょう。時間は今ならありますからな」 「と言いますと?」 「会社に復帰するんですよ。弟が命を賭してまで守ろうとしたのだ。心動かさ れた私を誰も非難できまい」 「ほう、それは会社にとっちゃあ何よりですねえ。いや、非難なんてしやしま せん」 下田警部はこのあと、正体を見極めようといくつかの会話をやり取りした。 しかし、最前の名前と同様、相手に引っかかる気配はなかった。 仕方なく、直接的な質問を重ねることにする。だが、これも微妙な問い掛け になると、弟の死がショックで……という逃げ口上を打たれてしまう。 しびれを切らした下田警部は、真っ向勝負で、指紋の採取を願い出た。 「応じる気はありませんね。必要ないからという理由で」 「いや、それは、あなたが大迫剛だという証のために……」 「だから、そのようなことをする必要がないんだ。どうして証を立てねばなら ないんだね? 刑事さんが疑うに足る根拠を持っているのならともかく、現状 のままでは言われなき濡れ衣だ。違いますか」 下田警部は焦った。早く指紋採取を行わないと、大迫徹だけが触り得た物品 を処分されかねない。もしくは、この大迫剛を名乗る男に指紋を付ける機会を 与えてしまうことになる。いずれにせよ、指紋が証拠になる道を封じられては、 警察としても打つ手がなくなる。 「では、疑問を抱く根拠を示せば、応じてくださるのですね」 「ああ。もっとも、そのような根拠なぞ、あろうはずないが。言うまでもあり ませんが、私を納得させるだけの根拠でなければだめだ」 下田警部は考えた。だが、名案が即座に思い浮かぶはずもなく、言葉を継げ ないでいる。 「今日のところはこれで退散します。また日を改めて……そう、あなたが文明 の利器に慣れた頃に伺わせてもらいましょう」 「そうですな。私も身辺が慌ただしいから、世の中がどう変わったのか、まだ 全然把握できていない。今度は刑事さんに話が合わせられるだけの知識を身に 着けておくことにしますよ」 皮肉混じりに言う大迫に背を向け、下田警部はドアに向かった。と、そのと き、演歌のメロディが懐から流れた。携帯電話の呼び出し音だ。娘に勧められ て、半ば無理矢理に着信音を楽曲にさせられた。 (……そうだ) 閃いた。絶対確実ではないかもしれないが、うまくすれば押し切れる。 きびすを返し、駆け戻った下田警部は、頭を掻きながら尋ねた。 「ええと。一つ、忘れていたことが」 「何ですか」 「弟さんが乗っていた車ですがね」 「――刑事さん、話を始める前に、電話に出るか止めるかしてくれないか」 大迫の口から待っていた言葉が飛び出し、下田警部は内心、ほくそ笑んだ。 ――終
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「短編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE