短編 #1116の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
『沖縄の梅雨明け』 転がる達磨 車が一台やっと通れるくらいの道に、街灯がぽつぽつと光の輪を落としてい た。午後十一時、酒の入った体を引きずって門限前になんとか宿に辿り着いた。 国際通りという繁華街から歩いて十五分ほど、下町といった風情の静かな住 宅街に、僕が泊まる宿はあった。二〇人も入らない相部屋当たり前の小さなボ ロい民宿である。周囲の民家は明かりこそついているものの、静寂に包まれて いた。 玄関の引き戸を開けると、食堂兼談話室から笑い声が聞こえてきた。宿のオ ヤジ主催の酒盛りが行なわれているのだろう。宿が小さいだけにこういう家族 的な雰囲気ができあがるのか、意外にも泊まり客のほとんどが参加して夜毎の 宴が行なわれる。 「ただいま」 とりあえず帰った事をオヤジに伝えるため、談話室の扉を開けた。煙草の煙 が冷房の効いている締め切った部屋に充満していた。泊まり客のほとんどが連 泊しているので、顔馴染みである。赤い顔したみんなが僕のほうを見て口々に 言う。 「おかえり、早よ、飲みや」 「なんや、今日も酔っ払ってきたんか」 オヤジが皮肉にも取れるようなことを、言ってきた。このオヤジとはどうも 反りが合わない。前日の、楽しいはずの酒盛りの場でちょっとした口論をして しまっていた。その声を無視して、 「すいません、今日のとこは失礼しますわ、もう僕で最後ですかね?鍵閉めま しょか」 毎晩一人になるまで酒を飲んでいる人間が真っ先に部屋へ戻るのが信じられ ないのか、それともまだ帰っていない客がいないか探すためか、みんな、首と 眼をキョロキョロさせている。 そんなに酔っていたわけではなかったが、妙に疲れていた僕は、返事を待た ずにそそくさと二階へと階段を上っていった。談話室では、またすぐに談笑が 起こっていた。 八重山諸島石垣島から本島に戻ってきたのは一昨日の朝だった。沖縄が暑す ぎるせいか、旅が長くなりすぎたせいか、このところ僕の頭はもうもうと温か い霧に包まれていた。どんな風光明媚な景色を見ても、名所旧跡を訪ねても、 心踊ることなく神経は弛緩したままだった。ほどよく湿り弾力に富み過敏なほ どに反応していた精神は、今や膿んできていた。 八重山の海は、太陽の暑い光りを目一杯受けているにもかかわらず、温かく なることも沸騰することもなく、涼気を帯びていた。波は蒼く澄んだ海面に、 ときおり白い濁点を作り出す。そんな海を見ていた。そろそろ潮時かな、唯一 そう反応した僕の頭のままに石垣島を離れた。 人の少ない隔絶された世界から戻ってきた時、那覇の繁華街は刺激に満ちた 場所に感じれるはずだった。甘かった。弛み切った心の糸に引っかかるものは なかった。久しぶりに歩く人混みの中でも、排気ガスに満ちた熱気の中でも、 僕の持つ好奇の根が震えることはなかった。 逆に気持ちとは裏腹に、見るもの聞くもの触れるものすべてに煩わしさを感 じていた。 人がすれ違うのもままならないくらい狭い廊下を過ぎて、自分の部屋に入っ た。四畳半の部屋には、セミシングルとでも言うような小さなベッドが二つ。 テレビ、灰皿、ごみ箱、枕。そしてリュックサック、Tシャツ、文庫本、目覚 まし時計、観葉植物。物が詰まりすぎているこの部屋に、熱い空気までが詰ま っていた。窓を開ける。生ぬるい風が階下のテレビの音声といっしょに入って きた。ベッドに腰掛けて帰りがけに買ってきたジュースの栓をあける。那覇の 過ぎる熱気とほどよい酒精で火照った体に、冷たい液体が沁みわたった。背中 を流れる汗をにわかに、敏感に感じ取った。 Tシャツを脱ぎ捨てて、テレビをつけた。枕元にある煙草を取り出して火を つける。もうだめかな、ぼやけた思いが頭に浮かぶ。 テレビでは、とりとめの無いバラエティ番組をやっていた。どこで笑ってい いのか、どういう感情を起こせばいいのか、まったく解せない。階下の談話室 とテレビのスピーカーから同時に笑い声が響いてきた。枕元の灰皿を引き寄せ て、煙草の灰を落とす。煙が温かい風に翻弄されながら、幾重にも絡みつつ消 えていく。つい先刻火を付けたライターは早くも見えなくなり行方不明になっ ている。けれどもアルコールの入った僕の頭は、まったく必要の無い事象とし て受け付けない。深い歎息をつきながら横になると、視界の周りに薄い霧がま とわりつきだした。どこかでヤモリがトッケッケッと泣いていた。 しばらくして、うつろな眼を灰皿に向けると、煙草の火は根もとまで燃やし 尽くして消えていた。階下から何やら怒鳴り声が響いてきていたが、テレビで は相変わらず笑い声が起こっていた。 煙に巻かれた視界の定かでない孤独な妄想から、ふと現実に耳をすましてみ ると、宿のオヤジと相部屋の兄ちゃんの声である。また酔っ払ってもめとるな。 気に止めえることもなく勝手な想像を膨らましていると、ドタドタという足音 の後に部屋の扉が開いた。 「おお、わかった、わかった!」 隣のベッドの占有者が入ってきた。続いて同じようにわめきながら、 「お前は何様のつもりや」 オヤジまで入ってきた。僕は途切れ途切れになった神経をつなぎ合わせて、 扉のほうを見た。廊下から数人の見知った顔が覗き込んでいた。みんな顔をし かめている。 自分のベッドの上に散らかった荷物をまとめながら、兄ちゃんが言い放つ。 「あんたにかかったら、神もお客もぼろくそじゃね」 「ええから、早よせえよ、お前見たいな神さんいらんねん」 大阪育ちのオヤジの声が、窓の向こうにまで響いていく。二人ともなかなか 上手いこというな、と眠気と酒気と熱気にとらわれた頭で感心しながら、惚け た眼で見ていた。 「お前も何しとるねん、毎晩毎晩酔っ払って帰ってきやがって」 気がつくとオヤジは僕に向かって怒鳴っていた。あらら。ベッドに座り直し て煙草に火をつけた。毎晩毎晩ってまだ来て三日目やんけ、音にならない声で 応えた。 「部屋も散らかすな言うとるやろ、ほんで寝るんやったら寝るで、ちゃんと テレビ消せ。電気代かてバカんならんねんぞ」 微かに意識が残っている脳味噌が思いを紡ぎ出す。『旅行中はいつ、どうゆ う状態でトラブルに巻き込まれるかわかりません』ガイドブックの片隅に必ず 書かれてある、普段気にも止めていない言葉が浮かんだ。ははあ、こういうこ とか。初めてその言葉の真意を得て、僕はベッドの上でほくそえんだ。 「なに笑っとるねん、聞こえたんやったら、さっさと片づけんかい」 隣の兄ちゃんは、明らかに不機嫌な顔をして黙々と荷造りにいそしんでいる。 廊下にいた客たちは飛び火を恐れてか、もうそこにはいなかった。蒸し暑い空 気だけが、部屋の中で立ち往生していた。 ようやく神経がつながり始めた。兄ちゃんと僕は、小さな公園のベンチに座 り込んでいた。日付が変わっている。 「ごめんな、僕のせいやね。巻き込んでしもうて、これからどうする?」 にいちゃんは、激情覚めたようすで俯いていた。空には薄い雲が掛かってい て月も星も見えない。すぐそばの木の下では、ホームレスらしきオッチャンが 眠っている。車がけたたましいエンジン音を響かせて走っていった。兄ちゃん の問いには応えなった。かわりに足元の大きな荷物を見ながら、声にならない 笑いを噛み締めた。 「くっくっくっ」 沖縄は、もうすぐ梅雨が明ける。
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