短編 #1092の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「もうそろそろ出ていってもいいんじゃないだろうか」 度の強そうな黒縁眼鏡をかけた中年の男が、誰に言うともなくつぶやいた。 「もう、こうしているのも限界だ」 しきりに薄くなった頭をなでながら、もう一度言った。彼は皆から「教授」 と呼ばれていた。それは、ここでは「役立たず」と同義だった。 「それなら教授、あんたが出ていけばいいだろう」 普段はあまり話さないが、時々言う言葉に凄みのある「和尚」が言った。 「そうよ。何もみんなで出ていく必要は無いじゃない。誰か一人が出れば済む ことよ」 こちらは「ソプラノ」。派手な化粧をした、水商売風の女で、頭のてっぺん から抜けるようなキンキン声を出す。 「そういえばあの親方はどうしたんでしょう。出ていってもう三日ぐらいたっ たと思うんですけど、何の連絡もないですね」 「ソフィ」が、せわしなく両手の指を絡ませながら言った。まだ若く、時折 意味もなく哲学的な言い回しをするため、そう呼ばれていた。 「親方」が、もう我慢の限界と、ここを出てから確かに三日がたっていた。 外の様子が分かり次第、必ず知らせると言っていたにもかかわらず、何の連絡 も無かった。 外に出た途端、動けなくなり死んでしまったのかもしれないし、外に出て安 全だと分かるや否や、他の連中のことなど忘れ、どこかへ行ってしまったのか もしれない。どちらとも判断はつきかねたが、このまま待っていても帰って来 る望みは薄いように思われた。 「もう一人出るしかないね」 櫛も入れないボサボサの髪を、輪ゴムで無造作にひっつめた「バボ」が言っ た。どこかのテレビ局でやっていた、バレーボールのキャラクターで、ボール に手足の生えたようなその姿が重なる。巨体を揺すりあげながら、人身御供を 探そうと、周りを見回している。自分のことははなから念頭にないらしい。 シェルターとは名ばかりの、殺風景なその地下室には、七人の男女がいた。 「教授」、「坊主」、「ソプラノ」、「ソフィ」、「バボ」、そして「ロダン」 と呼ばれる若者と、「ミミ」という二十歳の女性、それで全員である。 始めは三十畳ほどの部屋に十二人がいたが、五人目の「親方」が三日前に出 ていった。 「ロダン」は、ほとんど口も開かず、動こうともしないで、いつも部屋の隅 で膝を抱えて座っていた。皆、いつ「ロダン」が食事を摂っているかも知らな いくらいだった。普段は顔も膝の間に埋めているので、起きているのか、寝て いるのかさえ分からない。もう一人の「ミミ」は、「ロダン」の肩に頭をもた せかけ、目を閉じていた。少し顔色が悪い。 その「ミミ」に目を留めた「バボ」が、いやらしい笑みを唇の端にはりつけ ながら言った。 「おや、あの子、具合が悪そうだねえ」 「よせよ。奴に聞こえるぞ」あわてて「ソフィ」が止めた。 単に何を考えているのかわからないというだけではなく、「ロダン」には得 体の知れない不気味なところがあった。出ていった五人のうち三人は、自分の 意志であったが、残りの二人はいつの間にか消えていた。皆が眠っている間に 外に出ていったのだろうとほとんどのものは考えたが、唯一「ソフィ」だけは 二人目が消えるのを目撃していた。ふと目が覚めたとき、彼は「ロダン」が顔 を上げているのに気がついた。初めて見る顔だった。その氷のような視線の先 に、消えつつある男の脚があった。上半身はすでに消えていた。男は消える前、 無反応な「ロダン」に向かって執拗に嘲りの言葉を投げつけていた。 「ソフィ」はそのことを誰にも言わなかった。それでも皆、何かを感じるらし く、「ロダン」をからかうものはもういなかった。 「ふん」 ふてくされながらも、「ソフィ」の勢いに気圧されて「バボ」は口をつぐん だ。話もせず、落ち着き払っている二人の様子が気に入らないらしい。 「そうですね」「教授」が話を元に戻した。「食料はこの人数でもまだ半年分 ほどありますけど、やはり外の様子が知りたいですよね」 「あたしは嫌よ。やっぱりこういうときは男性が行くべきだわ」 普段は男女同権をうたっている「ソプラノ」が堂々と女性の特権を主張した。 「わしは最後まで見届けなくては」「和尚」が腕組みをしながらつぶやいた。 「だいたい一番大飯ぐらいの人が出ていくのが道理に適っているだろう。食料 は限られているんだから」 そういった「ソフィ」をにらみつけて、「バボ」は銅鑼声を轟かせた。 「なんだってえ、このひよっこが。ふみつぶすよ」「ソフィ」は首を竦めた。 「あたしだって女なんだからねえ。めんどくさいねえ。誰か勇気を持って名乗 り出る奴はいないのかい」相変わらず自分は棚に上げている。 「私が出よう」 四人の視線が一点に集まった。 「私が外に出て行くよ」もう一度「教授」が言った。「私が外の様子を見て、 安全なようなら君たちを呼びにくるよ。だが、もし戻ってこない場合は外は危 険だということだ。といって、食料はあと半年程度しかもたない。半年の間に 事態が好転するとは考えにくいから、ここにいても間違いなく全滅だ。いいで すか。いままでの人たちと違って、安全ならば、私は必ず戻ってくる。だから 戻らない時は覚悟してくれたまえ」 何度も念を押して「教授」は出て行った。 皆は最後の希望を「教授」に託し、すがるような目で見送っていたが、「ロ ダン」と「ミミ」だけは身動き一つしなかった。 灰色のドアをゆっくりと開けて出てきた「教授」は、慣れた足取りで長い廊 下を歩いて、ある部屋へ入っていった。 「教授。お疲れさまでした。実験は成功のようですね」 教授に白衣を差し出しながら、若い男が出迎えた。 「野口君。記録の方はどうかね」 野口と呼ばれた若者が何かの記録を持ってきた。教授は、一通りそれに目を 通すと、モニターに視線を向けた。 モニターにはかなり広い部屋の隅にうずくまる一人の痩せた青年が写っていた。 彼は膝を抱え、その間に顔をうずめている。マイク内蔵の超小型カメラが、天 井の隅に巧妙に埋め込まれている。そのマイクから甲高い、ヒステリックな声 が聞こえてきた。 「怖い。あたし怖いわ」 「わめいてもどうなるものでもあるまい。少し静かにしてくれんか」 「そうだよ。どうせ助からないならわめくだけ損だ」 「ふん。あんたらだって本当は怖くて仕方がないくせに。気取ってると踏みつ ぶすよ」 キンキンと響く声。錆を含んだ低い声。若い声。銅鑼声。それらの声は、部 屋でうずくまる一人の青年から発せられていた。 それらの声を聞きながら、満足そうに教授は言った。 「この実験が成功すれば、一両日中にパニックが起こってまたいくつかの人格 が消えるだろう。その他も時間の問題……」 「教授。どうかされましたか」教授の表情の変化に気づいた野口が声をかけた。 「いや、何でもない」 そう言いながら、教授は取り出したハンカチで汗を拭った。モニターの向こ うに見える青年「ロダン」が笑ったように見えたのだ。教授は、わずかに見え る横顔の唇の端がキュッと上がったような気がした。ほんの一瞬のことで、今 は何の変化もないように見える。気のせいだったのだと教授は自分に言い聞か せた。 モニターからは見えない反対側の唇は、確かにつり上がっていた。邪悪な笑 いの形に。「ロダン」の傍らで眠っていた「ミミ」のお腹の中には、新しい人 格が芽生え始めていた。 それに気づくものはいない。
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