短編 #1038の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
永劫の呪詛にとらわれたその者どもにすれば、一瞬にもひとしい短い時間のでき ごとだったかもしれない。 獣たちは渇えていた。いつからそうだったのかはおぼえていない。そもそも、お のれらがどのような運命に翻弄されていまの境遇におちいったのかさえ、さだかで はなかった。ただ少数のものどもだけが、かつておのれらが人間と呼ばれる脆弱き わまる存在であったことを、はじける寸前の泡沫のように記憶のかたすみにとどめ ているだけだった。大半のものどもは、気がついたとき呪われた獣そのものとして ただ、存在しているおのれを見出したのだ。 世界は苦痛と混乱にみちあふれていたが、とりわけ獣らにとっては生そのものが 憎悪すべき枷にほかならなかった。外界にかげろうのようにあらわれては消えるさ さやかな幸福や満足はかれらには無縁のものであるのみならず、そのかすかな芳香 がただそのみにくい鼻先をかすめるだけでも、おそるべき苦痛と憎悪と、そして絶 望とをかれらにもたらしてやまぬのであった。 あふれだす呪詛と憎悪のいきつくどぶどろの底で獣どもはうめきつづけた。かれ らを忌みきらい、そういった境遇にかれらを追い落とした人間どものもとへといつ の日か舞い戻り、そののどもとにくらいついて思うさま苦痛を与えつつ永遠にでも その魂をむさぼりつづける、ただそのときだけを夢みることが、かろうじてかれら の底しれぬ飢餓にほんのわずかに、慰撫らしきものを与えてはいたかもしれない。 だが見果てぬ夢であることを、だれよりもかれら獣どもこそ知りつくしていた。 そんなあるとき、不断の苦悶がうずまくかれらの世界に、いつのまにかひとりの 赤子が捨てられた。だれがそんなことをしたのか、あるいは、かれら獣どもに見と がめられることなく、どのような存在にそんなことが可能だったのかはわからない。 そのようなことなど、どうでもよかったのだろう。ただかれらは、突如おとずれた 好機に、その呪われた脳髄を血一色に染めておどりかかった。 だがふしぎなことに、群がる獣どものどの一匹として、赤子にその牙や爪をたて ることはできなかった。がちがちと牙をならして迫る獣の、おそるべきするどい爪 があがくように飽きず薙ぎつづけたのは、ただ虚空ばかりであったのだ。 まぼろしであるのかもしれない。認識は、呪われたる者どもに、以前にもまして 底知れぬ絶望をもたらす。血のよだれをまきちらして獣どもは地団太をふみ、決し てとどかぬことを知ってでもいるかのように無垢に笑う赤子の姿にむけて、むなし く群がるばかりだった。 永劫の呪詛にとらわれた獣どもにすれば、一瞬にもひとしい短い時間のできごと だったのかもしれない。永遠にもひとしい、一瞬。 地をもがき虚空に牙をたてるばかりの獣どもが、みたされぬ飢えを血まみれの眼 にこめて見守るなか、赤子はゆっくりと、だが着実に成長していった。乳を与えら れることも、ゆりかごにゆられることも、愛撫やささやきを受けることさえなくた だ赤子はそこにありつづけるだけだったが、ガルガ・ルインのまわす車輪は着実に 世界を老いさせていく。そうしていつしか、赤子はすこやかな声をたててほがらか に笑う幼女になっていた。 娘が成長しても獣どもはあいもかわらずもがきまわり怒り狂い、みたされぬまま ただ果てしれず膨張していくばかりの渇望に攪拌されつづけた。その者どものあさ ましき姿を見て娘は無邪気に笑い、その笑いがますます獣どもを追いつめていった。 そしてあるとき、なんの前触れもなく、不断の憎悪に力強くもがき苦しむばかり であった獣どもの一匹に、かすかなかげりがおとずれる。 どれだけ求めようと、決して手に入れることなどできぬのを、いまさらさとりで もしたというのか。ふいにその獣は、こんこんとただひたすらわきだしつづけるば かりであった怒りをついにとぎらせ――そのすきまに、悲哀をすべりこませたのだ。 よわよわしく地に伏した獣があげた声音は、慟哭。 その、おぞましくも哀切きわまる鳴声に幼女は気づき――そのとき初めて、ほが らかに笑うばかりだった娘の目じりに涙が流れる。 ウル・シャフラの吐息はつぎつぎに伝染した。群がりわめくだけだった獣どもへ。 いつしか絶望のどぶどろの底は、かつてそこには決して存在し得なかった悲しみに 深くみたされていた。 慟哭は浄化をもたらす。呪詛も憎悪も、そしてあれほど深かった絶望すらも忘れ られ、倦怠と、そして満足にもにた空虚とがおとずれた。 獣どもは突然やってきた空白にぼうぜんと虚空を見やり――そんな獣どものさま を見て泣きやんだ娘の顔に、やがてふたたび、おずおずと笑顔が戻る。 だがもはや獣どもは、狂おしく牙をむく気力を失っていた。呆けたように娘を見 やり、その笑顔の意味をいぶかしむようにただ首をかしげる。 泡沫のごとき時はさらにすぎゆく。幼女は成長して少女となった。いつもふしぎ そうな顔をして、みにくい相貌の獣どもをしげしげと見まわしては、太陽のように、 花のようにくすくすと笑った。 その笑顔が、獣どもの忘れ去られていた記憶のかけらを刺激したのかもしれない。 かつてそうであったかのごとく人の姿と魂をとり戻すことはついになかったが、そ れでもかれらの内にどすぐろい暗黒の渇えとはべつの、あわく、はかない飢えが芽 ばえはじめた。 それを言葉にすれば、まぼろしではなく少女がほんとうにそこに存在して、息吹 や感触をかれらにほんのすこしでもわけ与えてくれればいい、といったものになっ たかもしれない。 望みはかなえられた。奇跡はおとずれた。何者の手によってかは、さだかではな い。ただそれはおとずれた。 少女のほがらかな笑い声は肉声となってどぶどろの底の障気を吹き払い、世界の 果てのその場所にそれまでは決して存在し得なかったものが、さらに新たにおとず れる。 それを平安と名づけてもいいだろう。 それを思い出したかれらは、もはや獣どもではなくなってすらいたのかもしれな い。 ともあれ、少女はその者どもの王女となり、そしてさらに時は加速する。 そして終局の到来が。 憎悪と呪詛の吹きだまりであることをやめたその場所に、生きた人間がおとずれ るのは必然といってよかっただろう。だがおとずれた者が見目うるわしき若者では なく、そのときが少女がたおやかで美しい乙女となったときでなかったとしたら、 運命はもうすこしちがった顔を見せていたにちがいない。 乙女と若者とはとうぜんのように恋におち、かつて獣であった者どもは、ひさし く忘れていたどすぐろいものがおのれらの胸の底にひっそりとしのび寄る気配に、 かすかなおののきをおぼえる。 それでもかれらは、静かに、おだやかに、乙女と若者が笑いあい、恋をかたらい、 くちづけをして狂おしく求めあう姿をただ見守りつづけた。 だがいつのときも、若者は旅立つ。あの山のむこうにあるかもしれない何かを求 めて、ただ茫漠と。 けだるい眠りからさめたとき、かたわらにいるはずの恋人がいなくなっているの に気づいた乙女は、泣き叫びながら想いびとを求めてさまよい歩き、やがて力つき て病に伏せる。 そして時は波濤のようにおしよせる。永劫の呪詛にとらわれた獣どもにすれば、 一瞬にもひとしい短い時間のできごとにすぎなかったのかもしれない。 娘が悲しみのあまり塵となってふたたびまぼろしのむこうがわに消えていったと き、ふたたび世界の果てのその場所を絶望がおおいつくした。 娘をその場所に配したのは、憐憫の神ユール・イーリアであったか。あるいは、 ときに残虐な愉悦を求める運命の神アフォルであっただろうか。 慟哭が呪詛と憎悪に戻るまでには、永劫を呪われたるかれらにしてみれば一瞬に もみたない刹那のできごとに過ぎなかっただろう。さらなる底深き業を背負った者 どもは、以前にもまして凶暴無慈悲な新たなる獣へと転生し、ふたたび呪詛と憎悪 をばらまきはじめる。 やがておとずれる無慈悲の王をかれらが迎えるとき、その憎悪のむけられる相手 はもはや人間のみにはとどまらぬのだ。世界をつかさどりしろしめす神々の失墜の 萌芽は、このときに芽生えたのだという。 ――了
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