短編 #1000の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
今日もさよならを聞いた。 何度さよならを聞いただろう。 それもほとんどが決まって夕刻、オレンジ色に染まる空間の中で。 もちろん雨の日もあったけれど。強く記憶に残るのは、やっぱり夕焼け。 相手の性別も問わない。分け隔てなく愛を注ぐ。注がなければならないのだ、 私は。 思えば何十、何百という人が私から離れていった。 別れの季節もまた決まっている。運命で決められているのだ。それは寒さが まだ残る頃。 代わりの出会いはいくらでも訪れる。 現在は……そう、一度に三十二人の相手をしている。昔に比べると、少し減 ったかしら。まだ老け込む年齢じゃないと思っているのだけれど。 頭の中で思い出の旅をしていた私を、現実に引き戻したのは扉が乱暴に引か れる音だった。 机の表面を見つめていた視線を起こし、そちらへ向けると、ついさっき別の 場所で別れた一人が息を切らして立つ姿があった。戻って来たのだ。 息を整え、彼は言った。 「先生! 質問があるんだけど、いい?」 −−私のつまらない比喩は途切れ、私は本来の職務に復帰する。 「もちろんよ。いらっしゃい」 私は職員室の中から、その子を手招きした。 一人住まいのアパートに戻ると、電話が赤い色を明滅させていた。 私は嫌な予感を覚えたので、ひとまず部屋を明るくしてから間を取った。 思い付いてお湯を沸かすことにした。コンビニエンスストアで買ってきたサ ラダ弁当は、ビニール袋に入ったままだ。食事を作る暇はないのに、お腹が空 くのよ。 急須と湯呑みを座卓に置き、お茶っ葉の缶を手にしたところで息をつく。 聞かない訳にもいかない。 電話のボタンの一つに触れ、お茶の準備を整えながら声を待った。 「−−ん、んっ−−。直美、お母さんだよ。このところ遅いようだねえ。先生 っていうのは小学校でも忙しいんだね。早くいい人を見つけて、収まった方が おまえのためだと思うんだけれど……。たまには連絡なさい」 毎回同じことを言われているような気がする。母も、いつも同じ台詞を留守 番電話に入れている気がするに違いない。 ケトルに呼ばれて立ち上がる。ああ、何だか大儀。 お湯を注ぐ瞬間だけ、茶のいい香りが盛り上がってくる感じで私の鼻や喉を 襲う。むせそうになるのは、湯気のせい。 湯呑みに急須を傾けてから、今日もまたお茶っ葉が多かったと気付かされる。 弁当を袋から音を立てて取り出し、いつものように手を合わせた。さすがに 「いただきます」と声には出さないが。 テレビがあるのだけれど、観たいとは思わない。思わないのにスイッチを入 れてしまうのは、やはりどこかで寂しいからだろう。 バラエティ番組かアニメか迷う。子供達の話題に着いていくためには、どち らも知識として必須条項のようだから。 コマーシャルの度にザッピングしていたら、弁当一個を平らげるのにやけに 時間がかかってしまった。二つの番組の意味合いは、どちらも中途半端にしか 分からなかった。 いい男が画面に現れたので、ふっと思い出した。 母の電話のことではない。 いや、もちろんそれも思い出しはしたが、その奥にもう一つの記憶がある。 結婚の対象として考えたことのある、あの人の記憶。 数えてみて、彼と会えなくなって九年になると知った。 そう考えると、この九年はあっと言う間だった。 顔の描写なんて面倒だし無意味。あなたが女であれば、一番憧れている男の 顔を脳裏に浮かべればいい。そうしてもらえば、少なくとも心理的には、私と 一緒になれる。 あなたが男のときは、そうね、同性にも関わらず認めてしまうような色男。 そんなのがいれば、そいつを思い浮かべてちょうだい。 私にとって木藤政隆はそういう男だった。 木藤はでも、性格はよくない方だ。顔がよければ性格は悪いの当たり前だと、 テレビで誰かが言っていた。異性にへつらう必要が少なくなるからだって。木 藤はその言葉にぴたりと当てはまる。 事実、木藤はもてた。私が知る限りでも、付き合っている女が十人はいたの ではないだろうか。そしてこれも私の知り得た範囲でという条件付きだが、彼 は誰に対しても優しくはなかった。しばしば粗野な言葉を吐いて周りの人間を 傷つけていたし、多少暴力的な態度も取っていた。 不可解なのは、それでも彼の周囲は彼を慕う人間が集まっていたことだ。リ ーダーシップがあったという証だろうか。私自身、彼には散々な仕打ちを受け、 手を焼いたのに、それでも引かれた。 結局、木藤は優しかったのだ。 たとえば、私が人間関係に疲れ、自信をなくしかけていたとき。木藤は「く だらないことで悩むなよ、ばーか」と言い放つ。それでいて、ハンカチを差し 出してくれる。「しっかりしろよ」と励ましてくれる。 木藤が他の女に対しても同じように接したのかどうか、そんなことは知らな い。どうでもいい。 とにかく、私は木藤を好きになったし、木藤が私を好きになったと断言はで きないが、結ばれたのは事実だ。 何度も愛し合った。 愛し合う内に、ある結果をもたらすのは必然だったかもしれない。 生命の誕生。 妊娠を知ったとき、私は別れようと決心した。 木藤はまだ社会人ではなかったから当然稼ぎ扶持はない。私の方とてまだ働 き出したばかりで、心許なかった。 そもそも、私は両親に許しがもらえるとはとても思えなかった。今でこそ母 も父もうるさく「結婚しろ」と言ってくるが、当時は全然違ったのだ。 私は木藤に告げず、堕胎した。 同時に素っ気なくもなった私に木藤は愛想を尽かしたのかもしれない。 すぐに別れのときが来て、呆気なく私の前から姿を消した。 でも、最後に彼が私に言った言葉は、現在でも鮮明に覚えている。 「忘れないからな」 木藤のこの言葉は、強く印象に残っている。 多分、私が最初の女だったせいもあるのだろう。 それでもほのかな希望を託してしまいそうになる言葉だった。 彼がもし私の堕胎に気付いていたのなら、恐らく別れはしなかったろう。そ う信じている。 ニュース番組の始まりを知らせる音楽で、私は我に返った。 木藤政隆に会いたいと思いつつ、テーブルの上の片付けにかかった。 その願いが叶ったのは、一週間後。学校が冬休みに入った直後だった。 「直美」 学校近くの道端で後ろからそう呼ばれたとき、私はすぐに分かった。理論的 には分からなくて当然のはずなのに、声を聞いただけで木藤だと分かったのだ。 振り返り、一応、驚きの表情を作ってやって。 にこりと微笑む。 「久しぶりね」 「ああ。やっと里帰りできたからな。会いに来たんだ」 九年ぶりの彼は、前よりもシャイになったらしい。 視線を逸らし、天を見上げる。 たった九年だと思っていたのに、随分と見違えた。 「まだ小学校の教師やってるって聞いて驚いたぜ。とっくの昔に、寿退職した かと思った。いいおばさんだもんな」 「悪かったわね。余計なお世話」 木藤にこう言われて、私は嬉しかった。 「……なあ。決まった相手はいるのか? 将来を約束したような……」 私は少し逡巡してから、正直に答えることにした。 「いないわ」 「そうか」 木藤の顔が笑みに満ち溢れるのを、久々に見ることができた。 そして私達はありきたりの会話を交わすのだ。 「愛しているよ、直美先生。俺、就職が決まって、大学もどうにか卒業できそ うだ。だから……結婚を考えてほしい」 「いいわ。木藤君」 いいじゃないの。 初めて送り出した教え子と結ばれる教師がいても。 木藤が晴れて社会人になる日まで。いいえ、もう少し先になるかもしれない が、そのときが来るまで私は子供達の揃った声を聞く。 「先生、さようならっ。皆さん、さようならっ」 −−幕
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