短編 #0969の修正
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伊井暇幻読本本編・南総里見八犬伝「MockingBird」 ここでMockingBirdと謂うのは、<(読者を)愚弄して囀(サエズ) る鳥>、ぐらいの意味である。モッキンバード。狂言回し、トリック・スター。八 犬伝の前半で、なんだかんだと故事蘊蓄を振り回し、読者を煙に巻く人物が登場す る。里見治部少輔源季基(サトミヂブショウユウミナモトノスエモト)の嫡男・又 太郎冠者御曹司(マタタロウカジャオンゾウシ)こと里見義実(ヨシザネ)である。 いや、本人としては眼前の事象を、自分なりに解釈して読者に披露しているのだが、 度々的を外す。蓋を開けてみると、彼の精密なる推測とは、まったく逆の結果だっ たりする。読者を右往左往させるのだ。この右往左往が実は、読者にとっても楽し い。何故なら其処に、<意外性>が生まれるからだ。緻密な論理で読者を一応は納 得させる。しかし、現実は、彼が描いて見せたモノとは、まったく違う様相を呈す る。結局、これは彼が<捏造した意外性>に過ぎないのだが、読者は「またかよ」 と言いながら、彼の狂言を楽しむのだ。 ● ● 官位官職というものがある。官位とは、官人すなわち天皇制国家において朝廷も しくは地方(国、郡)の役人の、身分。皇族と非皇族では、やや異なる点もあるが、 非皇族は正一位、従一位……正四位上、正四位下……従八位下、大初位上、大初位 下、少初位上、少初位下の三十階となっている。数字は天皇からの<距離>と考え ても良い。五位以上は各種の恩典があり、いはば<貴族>、三位以上は更に特権が あり<上級貴族>と言える。 官位官職については、岩波書店の日本思想体系『律令』と講談社学術文 庫の『官職要解』が便宜である。この二冊は、多くの図書館にあろうし、 大きな書店にも置いている筈。特に『官職要解』は安価でコンパクトなた め座右の参考本として重宝である。ただし、何分、とても古い本なので、 使用するに当たっては、新しい参考書、例えば吉川弘文館や山川出版社が 出している辞典類で確認しながら用いた方が良いとは思う。マジに研究す るなら、膨大な研究史の蓄積があるので、とても大変そうな気がする。 官職は、役職である。法制と個々の実質的な機能は、此処では殆ど扱わない。此 処で取り上げる官職は、ほぼ実質的な意味を失っていたものだ。官職は律令もしく は慣例によって職掌が決まっているのだが、古代後半になると、天皇を頂点とした、 いわゆる律令(リツリョウ)体制は、秩序を失う。十分に機能しなくなるのだ。ま た古代末期になると、地方で、いわゆる武士階級が現れる。中央(京都)から派遣 された地方官の親類や子孫が土着した場合もあり、また地元の人間が力を付けた場 合もあったようだ。この武士たちも中央貴族や朝廷と関係を結んで、官職を手に入 れた。武士たちは地元で、近隣の武士たちと「一所懸命(イッショケンメイ)」に 争うこともあった。土地の奪い合いである。その場合の箔を付けるため官職を求め ることもあっただろう。また、中央貴族の側も、収入は地方の荘園から得ていた。 そこからの収穫の徴収を武士に任せるたりしていた。武士の忠誠心を持たせるため に、官職を与えることもあっただろう。しかし、武士は地方の土地に本拠を置いて いたため、官職を受けても、その仕事を果たせない。また、そんな期待もされてい なかっただろう。また、武家は公家と同じ官位官職でも、格下とされた。 もちろん、一部には機能していた官職もあったが、機能していなかった官職も多 かった。天皇自体の機能が律令体制時と変わってしまったのだから、当然といえば 当然である。元服と同時に親の官職を勝手に名乗ることもあったやに思う。こうな ると、既に「官職」は、一種の<称号>に過ぎない。本稿が対象としているのは、 八犬伝の時代、中世である。もしくは、八犬伝が書かれた近世である。此処では官 職を、実質的意味を失い、せいぜい家格を表す、イメージの表徴ほどに、考えてほ しい。また、馬琴が八犬伝を書いた江戸時代、読本や講談や落語などの文芸では、 登場人物を官職で表す場合もあった。実質的な意味を失った官職は、称号として特 定人物を示すこともあったのだ。 また、官位官職に就いては、両者が「相当」した点も覚えておいてほしい。これ を、「官位相当制」と言う。ある官職に就くためには、一定の官位に就いているこ とを要件とする、という制度である。従五位下の人が、いきなり官人の常設最高職 である左大臣(サダイジン)にはならない。これは律令の「官位令」で、厳密に定 められている。多少の幅はあったようだが。 結局、ここでは、官位も官職も、天皇を頂点とする体制において、身分や格式を 表す指標と考えてほしい。付言すれば、水平平面上で天皇を中心とする同心円が官 位、天皇を始点とする放射線が官職のラインだと思っておいてほしい。官位と官職 で、天皇とのイメージ上の位置関係を表す、と。 ● ● さて、八犬伝は、里見家という大名家に、生前からの因縁に導かれて八人の優れ た武士が集まって同家を盛り立てる、という話だ。とても乱暴な要約だが。この里 見家は中世後期、実際に千葉県南部に勢力を張った武士である。いわゆる「戦国大 名」。南北朝時代の動乱を描いた『太平記』でも、後醍醐天皇の系譜(南朝ナンチ ョウ)の有力武士であった新田義貞(ニッタヨシサダ)の一族として活躍している。 馬琴は八犬伝の中で、この『太平記』から幾つかのエピソードを紹介し ている。里見家のイメージを語る上で、この『太平記』は重要である。ま た後日、この点に就いては言及する機会があろう。 安房里見家は、戦国時代に千葉県南部、旧国名で安房(アワ)上総(カズサ)に 勢力を持ち、江戸幕府の時代が始まっても、暫くの間は同地方の大名として生き残 っていた。江戸初期に、ある事件に連座、実質的に取り潰されて、断絶する。 さて、八犬伝の話に戻ろう。冒頭で出した里見義実は、後に「治部大輔」となり、 最終的に「治部卿(ヂブキョウ)」となる。治部Hは、治部省の長官、大輔は上席 次官、少輔は次官である。治部省は、神官や僧侶の人事なども扱った役所であるが、 楽(雅楽など)を司る。「五行マジック」の末尾に挙げた『五行大義』「論諸官」 の一節を再掲する。「周官に云う、天官は冢宰(会計を主ツカサドる)、地官は司 徒(土地を主る)、春官は宗伯(礼楽を主る)、夏官は司馬(兵戎を主る)、秋官 は司寇(刑罰を主る)、冬官は司空(造作を主る)」。このうち「宗伯」が、治部 卿に当たる。「春官」である。くどい様だが、春は五行のうちの木気である。重要 なのは、治部省が木徳を以てする役所であることだ。 さて、義実のフルネームは、里見治部卿源又太郎義実(朝臣)サトミヂブキョウ ミナモトノマタタロウヨシザネ(アソン)とでもなろうか。里見を名字とする治部 卿で姓は源の生まれた時に付けられた名前もしくは呼び名は又太郎だが本当の名前 は義実。長い名前である。 ところで現代では、名字と姓は同じモノとされているが、昔は違った。姓とは、 簡言すれば<天皇を頂点とする社会で天皇/朝廷に認知された血統を示す標識>で ある。この姓を持っている家は、<血統書付き>なのだ。犬にもある、あの血統書 である。ただし、犬ほど厳密ではなく、雑種になっても構わない。姓で代表的なモ ノは、源平藤橘(ゲンペイトウキツ)といって、ミナモト、タイラ、フジワラ、タ チバナである。このうち藤原だけ、ちょっと違う。他は、天皇の子供が皇族の籍を 離れ、即ち「臣籍降下(シンセキコウカ)」したときに天皇/朝廷から与えられた ものだ。藤原だけは、元々臣である。ただ、藤原氏は歴代天皇家の外戚となったの で、皇族に限りなく近いのだが。姓は天皇/朝廷から与えられるものであり、勝手 に名乗るモノではない。これに対して名字は、勝手に名乗っても良い。新田という 土地に住む源氏が新田を名乗り、足利(アシカガ)に住む源氏が足利を名乗った。 『尊卑分脈(ソンピブンミャク)』という系図を集めた本がある。これ がない図書館は、まずなかろう。開架している図書館も多い筈だ。大昔の 貴族というか学者が、上の四姓の氏族を中心に系図を集め注釈を施したも のだ。これまた、古い本なので、史実と違う部分もあるようだが、前近代 においては、権威ある家系の参考書として大名家に秘蔵されていたりした。 里見が属するのは源氏である。源氏といっても色々ある。村上天皇の皇子から派 生したのは村上源氏、醍醐天皇の皇子から出たのが醍醐源氏、他にもある。そして 清和天皇の皇子を祖とするのが、後世に最も勢力を広げた清和源氏(セイワゲンジ) である。この清和源氏から、「八幡太郎(ハチマンタロウ)」と呼ばれた義家(ヨ シイエ)、「鎮西八郎(チンゼイハチロウ)」と呼ばれ馬琴の傑作『椿説弓張月 (チンセツユミハリヅキ)』の主人公でもある為朝(タメトモ)など有名な武人が 輩出した。また、この源氏は真っ白な旗印を使った。<源氏の白旗>である。白は 五行のうち、金気を象徴する。里見家は、この清和源氏に連なっている。 清和源氏も苦汁を嘗(ナ)めた時代があった。桓武天皇の後胤(コウイン)桓武 平氏(カンムヘイシ)の台頭である。平治(ヘイジ)の乱という元天皇/上皇が現 天皇に対し企てた反乱で、反乱に与した清和源氏の主立った者が、ほぼ全滅した。 平清盛(タイラノキヨモリ)らが権勢を振るった。清和源氏で、どうにか生き残っ たのは、頼政(ヨリマサ)など一部に過ぎなかった。この頼政も以仁王(モチヒト オウ)という皇族を擁立して平氏を討とうとしたが失敗、死亡した。 しかし、この頼政の挙兵によって、全国に散らばった清和源氏の関係者が、それ ぞれに反平氏の兵を起こすことになった。東国にいた頼朝(ヨリトモ)も、その一 人だ。反乱を起こしたときに「前右衛門権佐(サキノウエモンゴンノスケ:王城の 門を守る右衛門府ウエモンフの定員外次官の前任者)」であったが、後に「征夷大 将軍(セイイタイショウグン)」として、<鎌倉幕府>を開いた、あの頼朝である。 頼朝は、緒戦で敗北する。「石橋の合戦」である。頼朝は、挫けなかった。戦場 近くの山に逃げ込み、追っ手の前から姿を消した。『源平盛衰記』では、ここで頼 朝が「臥木(フセギ)」のウロに隠れ、それからウジャウジャあって、どうにか落 ち延びたことになっている。事実かどうかは別として、ありそうなエピソードに仕 立てられている。 しかし、このエピソードに関して馬琴は、八犬伝の登場人物の口を借りて、<頼 朝は木遁(モクトン)の術で姿を隠した>と言っている(第二十八回)。八犬伝中 で火遁(カトン)の術を使う火精・犬山道節(イヌヤマドウセツ)によると、姿を 隠す「隠形(オンギョウ)」の術には「木遁」「火遁」「土遁」「金遁」「水遁」 の五つがあって、それぞれ木に火に土に金に水に、姿を隠す。 まぁ、ここは道節の言に従って、頼朝は木遁の術で追っ手の目から逃れたという ことにしておこう。そして、頼朝は三浦半島から海路、安房を目指す。そこで勢力 を立て直し、再び平家方の武士に戦いを挑む。やがて勝利を収めて、後には<武家 の棟梁トウリョウ>として天下に号令を下す。 八犬伝中で里見義実は、下総国の結城で戦い敗れ、三浦半島から海路、安房へ渡 った。そのとき偶々現地の最大勢力だった大名家で御家騒動が起こっていた。混乱 に乗じて義実は、<源氏の白旗>を押し立て、兵を起こした。所領を横領、やがて 勢力を伸ばして、安房の国主(コクシュ)となった。また、その過程で八犬伝は、 義実を頼朝に度々擬している。まるで、義実を頼朝の再来だと言いたげに。 さて、頼朝は源氏であるから、氏族としては金気である。里見も源氏である。だ から白旗を押し立てて戦場に赴いた。金気である。また、頼朝は「木遁の術」を使 った。木気を帯びていたと考えられる。義実は<木徳を以てする春官>こと「治部 卿」となった。木気を帯びていたと考えられる。また、義実は「仁君」である。何 度も馬琴は、そう書いている。「仁」は木徳である。理想的な仁君は、金気だけで は不足だ。木気を帯びなければならない。故に、木徳を以てする官職/治部卿を宛 い、木気を注入せねばならなかったのだ。 頼朝と義実、両者はともに、金気と木気を融合させていた。木と金、続けて言え ば、もくきん、モッキン……MockingBird…… 実は、この義実、現代の史家からは<頼朝の行動を倣う理想化された架空の人物> との説も提出されている。そうだったかもしれない。そして、もし、そうであるな らば、馬琴は、理想化された人物を更に理想化して、八犬伝を書いたことになる。 ここで馬琴が参考にしたと思われる、幾つかの史料、「里見九代記」「里見軍記」 「房総里見軍記」「里見代々記」いずれも、『房総叢書』所収だが、安房里見家の 祖を「義実」としてはいるが、あまり詳しい記述はない。 これらの史料は、多くは里見家を、源氏から派生した「新田氏」の分家 であると言っている。しかし、「里見代々記」は義実を「足利刑部大輔義 実」と表記し、「安房里見元祖(の)足利尊氏」と書いている。史実では なかろうが、馬琴の耳に入ったかもしれぬ一つの<情報>ではある。もと より足利氏は源氏であり、新田氏の支流であると言い得る血脈だ。まった く関係がないワケではないのだが……。 実は『太平記』に登場する人物で、「治部大輔」「治部卿」の官職を有 する武士がいる。この人物は、やがて征夷大将軍となり、武家の棟梁とし て天下に号令を下す。<室町幕府>の基礎を築いた、足利高氏(アシカガ タカウジ)、後の尊氏である。 ただ、高氏→義実と考えることには、躊躇ってしまう。八犬伝中で馬琴 が示す同情は、『太平記』の南朝側、新田義貞や楠正成らに向けられてい る。足利尊氏は、南朝とは別の天皇を奉戴した北朝の有力武将だ。馬琴は 八犬伝中、里見家は、南北朝の争乱において、一族でもある新田義貞と共 に南朝側として活躍したと、記してもいる。 しかし、まったく無関係でもないような気が……。この点については、 まだ判断を下せない。 「里見九代記」などでは、いずれも、義実の官職は「刑部少輔(ギョウブショウ ユウ)」もしくは「刑部大輔」だとしている。刑部省は司法関係の部署だ。「治部 少輔」もしくは「治部大輔」、「治部卿」としているものはない。また、いずれも 義実の父を「季基」ではなく、「家基(イエモト)」としている。そして、『断家 譜』(文化六年、田畑吉正:既に断絶した武家の家系を編集して考察を加えた本) では、義実の官職を「刑部少輔」そして父の名を「家基」とする説を採用している。 これらの史料は、いずれも家基の官職を「刑部少輔」としている。 どうも、義実の官職を治部省系のものとし、父の名を季基としたのは、馬琴の作 為のような気がしてならないのだ。確かに、「刑」と「治」、一字の差違という些 末な事は、如何でも良いかもしれない。そうも思う。しかし逆に、些末なことなら、 馬琴は残存する史料の通りに「刑」の字を使ったとも思うのだ。やはり、これは、 些末なことではなさそうだ。馬琴には、義実の官職を「治部卿」に、父の名を「季 基」にする、積極的な意図があったと考えられる。そして、他でもない「治部H」 である所以は、上に縷々(ルル)述べた。では、父の名を「季基」とした理由は? ……申し訳ないが、この件に関しては考えがまとまっていない。また、今回予定し ていた行数も尽きた。 慌てることはない。義実、このMockingBird/狂言回しに就いて語り たいことは、まだまだあるのだから。 (お粗末様)
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