短編 #0959の修正
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伊井暇幻読本・南総里見八犬伝 本編「姑の陰口」 鵙(もず)という鳥がいる。『礼記(らいき)』「月令(がつりょう)」の 五月の条に「鵙始めて鳴く、反舌は声なし」とある。この礼記月令は月ごとの 暦で、各月の条には天子/皇帝の行う行事などを記している。簡単に言えば、 各月の特徴と、その特徴に合わせて時の流れを順調に進めるための象徴的な呪 術が記されている。ちなみに、「反舌」は<百舌鳥>とも書く。モズを百舌と も書くが、百舌鳥はモズではない。 因みに、本稿で使用する『礼記』は、その出所を詳らかに出来ない。古 本屋で買ったため、奥付がないのである。あうぅ。実は表紙も、剥げてい たりする。でも、中身は、ちゃんと『礼記』だから、大丈夫である。多分 江戸時代あたりの刊本を、近代、恐らくは戦前に翻刻したものであろう。 だから、活版印刷ではなく、木版本のようである。いわゆる、和本である。 和紙に刷って糸で綴じたヤツ。表記は白文でなく、返り点を打っている。 参照する場合は、どこかで簡単に見つけられる筈だから、「月令」条を見 れば良い。いわゆる、昔の基本文献たる「四書五経」、その五経の一つだ から、一定規模以上の公立図書館には、何かの形である筈。私は昔、確か 明治書院だったと思うが、紺色の表装の全集本を参照したとき、読み易く 感じた記憶がある。また、月令というのは、一種の<予定表付きカレンダ ー>のようなものなので、『礼記』だけに載っているモノではない。従来、 色々な学者が、五行説に関する自分の説を織り込んで、色々な「月令」を 書いている。でも、やっぱり、基本は『礼記』だろうから、コレに拠った。 鳥が鳴いたり鳴かなかったりしても、別に如何ということはない筈だが、此 処で「鵙」を鳴かせたのには、意味がある。この「五月」は旧暦なので、今の 七月に当たる。「仲夏」すなわち夏のちょうど真ん中の月だ。このとき皇帝は、 収穫された麦を、雛などと一緒に食べる。十二支で言えば、「午(うま)」の 月、<火>気が最も旺(さか)んになる月、即ち<太陽>の月である。火気で 暑い夏は、皇帝が「赤衣」を着る季節だ。「赤」は火気を象徴する。この月に 鳴き始める以上、鵙は<陽鳥>であり、鳴き止む反舌は<陰鳥>であると思わ れる。この鵙が鳴くとき、それまで陰気に抑え付けられていた火気は、最高の 状態となる。 『和漢三才図会』巻第四十三 林禽類に記された鵙の条を引用する。「(鵙 は)クウクウと鳴く。俗に、この(姑苦とも聞こえる)鳴き声により、姑に苦 しめられて死んだ女性が、化したものとされている」。<陽鳥>だからと言っ て、縁起が良いとは限らない。それどころか、自分を虐待して死に至らしめた 姑を恨んで鳴く、不吉な鳥だ。鵙の声を解する事が出来たなら、きっとそれは 姑への、戦慄すべき呪詛であるに違いない。死に至るほどの虐待、それは如何 ように苛酷なものであったか。 例えば、南総里見八犬伝中には、姑が嫁を虐待する話が、一度だけ出てくる。 犬士の一人・犬村角太郎(いぬむらかくたろう:後の大角だいかく)の妻・雛 衣(ひなきぬ)は、姑・船虫(ふなむし)に苛め抜かれた。実家の財産を根こ そぎ騙し取られ、舅と密通したと事実無根の噂を立てられて離縁され、挙げ句 に胎内の子供の生肝を舅の薬にするためだと要求されて自害を強いられた。し かも最愛の夫・角太郎は、父の赤岩一角(あかいわいっかく)に憎まれて勘当 されたにも拘わらず、孝心が篤いため、父の後妻である船虫に、逆らえないで いた。若い夫婦は両親に、まるで猫に嬲られる雛の如く為す術なく、虐げられ 続けた。実は十数年以前、化け猫が父・一角に擦り替わっていたのだ。偽物の 父・赤岩一角と、その後妻・船虫は、角太郎・雛衣にとって赤の他人だったの である。この若夫婦を助けるために登場するのが、やはり犬士の一人、犬飼現 八信道(いぬかいげんぱちのぶみち)であった(第五十九〜六十七回)。現八 は「信」の玉を持つ勇士である。 中国では早く失われたが、日本では一種のバイブルとして存続し江戸期には 印刷出版もされた『五行大義』(明徳出版中国古典新書所収)「論五常」条に、 「信」の五行配当に関して両説が載せられている。五常とは、人として行うべ き、もしくは有するめき五つの徳目、仁義礼智信である。「信」の徳目を水気 とし、「智」を土気とする説と、逆に「信」を土気とし「智」を水気とする説 を併記している。 角太郎は、「礼」の玉を持っている。「礼」は火気である。五行相克の理か らすれば、「水克火(水は火を消滅させる)」となる。「信」の玉を持つ現八 が、「礼/火神」の玉をもつ角太郎を救出するのだから、「信」が水気だと具 合が悪い。土気ならば五行相生の理によって、「火生土(火は万物を燃やし尽 くし焦土を現出せしめる)」、火気の精たる角太郎と親和するに矛盾がない。 また『五行大義』「論扶抑」条には、「土は火を扶(たす)け」とあり、現八 を土精とすれば火精たる角太郎を助けることは、理の当然である。故に馬琴は 南総里見八犬伝に於いて、「信」を土気、そして「智」を水気に配当する説を 採用していると、断ずることが出来る。Q.E.D また、偽・赤岩一角と船虫は、水気の精と解釈したい。同じ<気>が相乗し 即ち同気相和して、火気の精たる角太郎を苦しめる。「水克火(水は火を消す)」 の理である。しかし、「土克水(土は水を堰き止める)」の理のもとに、土精 たる現八の登場によって、滅ぼされ放逐されるのだ。 この現八と角太郎/大角との親和性は相当なもので、契りを結んだ後に 現八は、大角の入浴シーンを覗き白い尻を見つめる、という変態的な行為 に及んでいる。これだけ深い結びつきをしているのだから、人格の気/本 質として親和していなければならない。もっとも現八は以前に、人目を忍 ぶ宿屋の一室で、乳(ち)を分けた弟、乳兄弟・犬田小文吾(いぬたこぶ んご)の色白でムッチリした巨尻を鑑賞して喜んだ前科もある(第三十三 回)ので、単に白桃好きの変態だったという可能性も、なくはない。因み に、見られた側の小文吾は、「智」の玉を持つ女装の美少年・犬阪毛野 (いぬざかけの)に騙され結婚まで約束してしまう(第五十六回)という 総身に智恵の回りかねた大兵肥満の偉丈夫だが、毛野が男と分かった後も、 彼に深い関心を向けている。……などということは、本編と、実は関係の ないように見えて、重要な意味をもつ、かもしれない。 さて、南総里見八犬伝のストーリーに話を戻そう。第五十九回、仲間とはぐ れ、迷犬となった犬飼現八信道は文明十二年九月七日、下野州真壁郡綱苧(し もつけのくにまかべぐんあしお)を過ぎった折、山道に差し掛かろうとしてい た。麓の茶屋の老爺から一奇談を聞かされる。この先の山には野猫(やまねこ) がおり、白昼でも通行人を害すると。これだけなら旅人の安全を気遣う言葉で あり、現八にとっても有用な情報である。しかし老爺は饒舌に、世間話を聞か せる。 十七年前、山を越えた赤岩(あかいわ)の武術道場師範・赤岩一角が、門弟 の制止を振り切って山を探検した。帰りが遅く皆が心配している所に、手傷を 負って帰ってきた。その後、一角は人柄が変わり、長子・角太郎を虐待し始め た。獣の肉を好んで食べた。角太郎は、憐れんだ親類の犬村蟹守儀清(のりき よ)に引き取られ、娘・雛衣の婿となった。儀清夫妻の死後、角太郎夫婦は実 家で暮らすようになった。しかし、一角の角太郎に対する虐待は止まず、雛衣 も船虫に前記の如く虐げられた。 この話を聞いて現八は、角太郎の人柄に魅せられ、一目会いたいと願う。一 方で、角太郎は夢中、駆け寄った大型犬を抱きしめ愛撫するうちに、自らも犬 に変ずるよう感じていた。これが、八人目の犬士・犬村大角礼儀(まさのり) の初出である。 「礼」の玉を持ち、後に大学頭(だいがくのかみ)に補任される礼儀は、 そのうち男根が縮んで陰戸になるのではないかと心配になるほど、柔和な 人物である。白面秀眉の美男子だが、犬とジャレ合っているのが、これほ ど似合う犬士もいない。とても温かい印象の人物で、もう一人の火精、呪 われしサラマンダー道節(どうせつ)の、表面的にはお調子者だが、実は ドロドロした復讐の陰火を燃やす冷酷さとは、正反対のキャラクターであ る。多分、礼儀は丙(ひのえ/火の兄)、道節は丁(ひのと/火の弟)で あろう。 現八が野猫を退治するケレン味たっぷりの活劇は甚だ魅力的なのだが、ここ では論じないことにする。此処で問題とするのは、茶屋の老爺である。この茶 屋の老爺は、確かに本シリーズ本編初回を飾るに相応しい資格を有している。 八犬伝は、活劇物語ではあるが、強固な論理に支えられ、しかるべくしてスト ーリーが展開する。それは馬琴個人が創作した論理ではなく、五行説であった り天文地誌であったり俗説であった。一種のイデア世界を構築しようとした馬 琴にとって、「信」の玉を持つのは礼儀ではなく「信道」でなければならなか った。 同様に、「土」の精気たる現八に奇談を告げ、結果的に<火の犬士>礼儀を 「水」の抑圧から救い出すよう促すため、姑・船虫の悪行を暴くのは、この老 爺しかいなかったのである。その名は、「鵙平(もずへい)」。 鵙平は現八に情報を与えた後、翌年二月上旬に死ぬ。ちょうど現八が礼儀を 救い、自害して果てた雛衣の法事などを済ませて、ともに赤岩を出発する直前 だった。この鵙平の登場は、悪しき父と姑により死に体となったいた礼儀の復 活と雛衣の死を予告、先取りしたものでもあった。因みに、鶏の子供をヒヨコ という。鵙の前身は、まぁとにかく、鳥である以上は、雛である。そしてまた、 雛は鳥の子供一般を指すが、鳥は五畜、生物を五つに分類して各々五行に配当 した場合、「羽類」すなわち、火気に分類される。雛衣も、鳥に関する名であ る以上、夫の礼儀と同じく、火気であり、偽・一角と船虫が水気であるならば 虐待されねばならなかったのだ。 五行説は、やや複雑に思えるため、少しく解説を加える。陰陽五行の説 は、一律に、互いに独立した定義の寄せ集めではない。互いに侵食し合い 補完しつつ否定している定義が、有機的に絡まっている、そういう論理の 体系である。しかし、そこには、矛盾がない。すなわち、記述上の便宜の ために静態的な表現を採ったりしないだけである。万物が流転、変化する ことを前提にしている。その表現の仕方は、大雑把、甚だイーカゲンだっ たりする。 例えば、火気は、陽気に分類される。しかも、より強く積極的な性質を 表す「太」を冠して、「太陽」とも言われる。しかし、陽の精とされてい る「太陽」お日様には、三本足の烏がいるとされる。月に兎がいる如く、 太陽には烏がいるのだ。カァカァ鳴く、あの烏、可愛い七つの子がいる烏 である。 烏は、鳥であるため「羽類」だから、火気に配当される筈だけれども、 そうはならない。「陰の禽(きん:トリと読みたいところだが、原文で 「禽」は動物一般を指している)」(『五行大義』「論三十六禽」条)な のである。何故というに、黒いからであろう。漆黒の美しい髪、この黒髪 を表現する言葉は、「烏の濡羽色」である。黒は闇、闇黒である。闇黒は、 陰である。 陽と陰は、互いに流転する。陰は陽へと流れ、陽はやがて陰へと変ずる。 それ故に、大陽には陰を象徴する烏がいる。大陽が、永遠ではないことを 示しているのだ。 一方、同様に、陰の精である月には、兎が棲んでいる。ピョコタンピョ コタンと跳ねながら、ペッタンペッタン餅を突いている。この兎は、「陽 虫(ようちゅう:「虫(ちゅう)」は動物一般を指す)」(『五行大義』 「論三十六禽」条)である。兎とは、卯である。卯は東方、木気、そして 春を象徴する。木気は陽に配当される。陽気が兆すのは、春。月で兎が餅 を突いているのは、伊達ではないのだ。兎は、陰の精たる月とて、その裡 に陽を含んでいることを、主張しているのだ。 それ故に、陰陽五行説では、「とりあえず、此処ではコレは陰」とか、 「ここでは木気」とか、文脈により、時と場合によって、適用する論理を 変えなければならなかったりする。もちろん、恣意的に論理を擦り換える ことは、許されない。譬えば、五行説が浸透している日本人の論理が「矛 盾している」と表現する場合、これは単なる比喩であって、本当に矛盾し ているものを正当化するものでは、決してないのと同様である。もしくは 西洋的論理とは「矛盾」という語の意味が違うだけだ。論理は飽くまでも 論理であり、説明されねばならず、都合の良いイーワケをするための、安 易なマジナイではない。 八犬伝では、実在の人物や、その近い眷属以外、奇妙な名前の者が多い。そ れらは、キャラクターの性向によって、名付けられている場合が多いためだ。 悪役は、いかにも悪役らしく醜怪な動物などを名前にしている。八犬士は必ず 自分の持つ玉の字を、名前に織り込んでいる。何と不自然で、何と分かりやす い世界であろうか。しかし、そこに意外性がないワケではない。いや、些末な ことは明らかに、しかし重大なことは密かに、というのが、どうも馬琴流の隠 微であるらしい。注意深く隠してるだけでなく、きら星の如く故事蘊蓄を散り ばめ、本筋から目を逸らすよう仕組まれてもいる。このような隠微な仕掛けの 典型的な一例が、この「鵙平」であろう。ここまで読者に挑戦的な作品は、類 例を見ない。数百万字を読むだけでも一苦労なのに、既に過去の文化的遺産の 継承を過半放棄した現代人にとっては、謎だらけだ。しかし、この物語の真実 は多分、分断したと思わされている我々の多くが、共有し得るものに違いない。 道は長く険しい。しかし、この山には登らずにいられない。南総里見八犬伝、 その隠微なるイデア界への冒険は、いま始まったばかりである。 (お粗末様)
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