短編 #0828の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「手の幽霊」 私がこれといった特色もない、ひっそりした東北の小さな町のR市に赴任したのは 40歳の誕生日を迎えてすぐ、本格的な夏の始まりを思わせる日差しに照らされた7 月始めのことだった。 そのような急な人事異動は異例のことで、なんでも在任中の支店長が急死したため で、死因はあまり定かではなかったが、銀行勤め17年、ただ一途に働いても上役の 評価に恵まれなかった私にとっては降って湧いたような昇任人事であった。 私は、宝くじにでも当った気分で多少訝りはしたものの有頂天になるのは抑えきれ ず、長年の地道な努力もこれで認められたのだと忙しさも苦にならず、未だ独身の身 軽さも手伝ってさっさと荷物をまとめ、支店長としてR市に向かったのだった。 ずいぶんと急な転勤命令であったのでろくろくアパートを選んでいる暇もなく、前 支店長が単身赴任で住んでいた借家に結局は落ち着かざるを得なかった。そこは銀行 にすぐ近い昼でも静かな一帯だったが、後からもっと賑やかなところに好みの住居を 探すつもりだった。とはいえ、前支店長が住んでいた家は古いけれどもところどころ 染みのある障子や襖、畳から立ちのぼる臭いが、子供の頃住んだ家を思い起こさせる 懐かしさがあった。代々の住人達によって大変丁寧に使われてきたとおぼしい様子が 随所に伺われ、自分がその一員になるのはまんざら悪くもなかった。 家の裏手と西側は広葉樹が葉を鬱そうと茂らせて薄暗かった。東側は普通の人の首 ほどまで丈のある生け垣を挟んで、旧家らしいおもがげを湛えた和洋折衷様式の家と 隣接していた。その家の庭は東側に広がっているらしく、敷地は狭いが大変に凝った 植樹で木が視界の邪魔をしており、玄関は到底見えなかった。 借家からは、隣家の西の白壁が見えた。白壁には、丸窓に竹の模様をあしらった縁取 りに浮かし模様の障子が張り付けてあった。その瀟洒な装飾は古めかしいが趣があり 、 しとやかで憂いを秘めた令嬢が住むにふさわしいように思われた。 「とてもきれいなお嬢さんだったんですよ。器用な方でねえ。お茶、お花はもちろ ん、お琴やピアノ、油絵なんかもお習いで。編み物も大変お上手でね。市役所でやる 福祉のバザーによく出品なさっていたんですが、レース編みでもセーターでもそりゃ あ目を見張るような素晴らしい出来なんです。売るのがもったいないわ、と私達はた め息をついたもんでした。そんな手間のかかった作品も惜しげもなく寄付してしまう のですからねえ。 お嫁に行ったらさぞかしよい奥さんになられたでしょうね。おとなしい方でしたし 。 でも、10年になりますか、もう。亡くなってから。なんでも原因のよくわからない 病気で、免疫不全症の一種らしいのですが、全身アレルギー疾患にかかられて体が衰 弱していたところに肺炎を併発してあっけなく亡くなってしまったんですよ。」 大家の佐伯さんは旦那さんを亡くした初老の婦人だったが、話好きで、親切にも引 っ越しの手伝いをしながら、隣家の話をしてくれた。 しゃべりながらも荷物をてきぱきと片づける手並みはさすが、とあっけにとられ、私 は薄命の女性より、目の前の年季の入った女性のバイタリティーに感心していた。 「支店長さんは、どうして結婚なさらないんですか?」 きたか、と思った。この手の質問にはうんざりしていた。 「もてないんですよ。おばさん、誰かいい人がいたら紹介してくださいよ。」 冗談めかして適当にごまかすつもりだった。 「あらまあ。支店長さんは結構男前だし、いい人の一人や二人どうでもなるんじゃな いんですか。」 「いやあ。これは、という人になかなか巡り会わないものですからねえ。僕ぁ、喉が 乾いたなっと思ったら、こうやってさっと麦茶を出してくるおばさんみたいな人が居 てくれた方がよっぽど助かりますよ。」 「ほっほっほ。まさか。支店長さんは理想が高すぎるんですよ、きっと。」 褒められてだれも悪い気はしない。佐伯さんはもう一杯麦茶を注いでくれた。八島は 麦茶を啜りながら、目の端に白くうら若い女性の手を見たような気がした。 何度となく繰り返してきた言い訳は、半ば本当だ。八島は40歳になる今も心から 女性に惹かれたことはなかった。自分に欠陥があるのかと疑ったこともある。でも、 「どうせすぐ飽きるさ。」という思いが常に念頭にあって、せっかく心惹かれた女性 でも自分の気持ちを示したりすることもなく、そのまま疎遠になるのだった。女性に 対する態度も優しく紳士的なものだったが、慇懃すぎる紳士ぶりが逆に親しみをなく したのかもしれなかった。 八島はビールを飲みながら、荷物の片づいた借家に落ち着いて、夜空を見上げた。 涼しい夜風が心地よかった。隣家の生け垣から七夕飾りが見えた。短冊が風にひらひ らとなびいていた。 正式着任の日になった。冷房がぐんと利いた銀行の店内に好奇心と緊張が走った。 次長が八島の紹介を型どおり行員に対して行った。6歳も年長の次長は、皮肉めかし て「独身です。」と言うのを忘れなかった。 その間、八島はふっと眩暈を感じた。自分が遠くへ行ってしまうような予感がした。 天井に目を移すと、そこには女の白い両手が宙に浮いているのが見えた。そんな馬鹿 なことがあるかと八島は自問した。他の人にも見えるかどうか聞いてみたかったが、 挨拶の途中でそんな失態は演じられなかった。 八島は必死にこらえながら、女の両手を見つめ続けた。なぜか脂汗が流れた。こん な幻覚は信じられなかった。 しかし、挨拶が終わるとともにその手は消えてしまった。 一通りの就任の挨拶回りを忙しく終えると、八島はだんだん気力が萎えていくのを 感じざるを得なかった。行員は全部で6名、静かな住宅地の中にある銀行は他からの 人の往来もなく、付近の住民が預金の出し入れに訪れるだけであった。商業地の銀行 勤めが長かった八島にとっては物足りなかった。行員にも間延びした雰囲気が漂って いた。若い2人の女子行員は八島よりはるかに年下でまだ二十歳前後、とても話し相 手になるものではない。吉永という女子行員は八島と同じくらいの年齢だったが、長 年銀行勤めをしているからだろうか、支配的な気質であまり親しく話をしたいとは思 わなかった。 男性行員は八島を除けば、次長の川村と30代始めの村上という男だけだった。こ の村上とは話が合い、仕事が引けると2人でスナックに飲みに行った。 「次長と、吉永、ありゃ、くせものっすよ。くせものっ。」 酔いがまわってきた頃の村上の口癖は決まっていた。よほど日頃体よくあしらわれ て、不満が溜まっているのだろう。八島はそんな村上の素直さに好感を持った。 8月になってから大家の佐伯さんが、孫が作ったという小さな七夕飾りを携えてや ってきた。 「いえね。孫二人が大はしゃぎして作ったんですが、飾りが余ってしまいましてね。 竹もあったものですから、こちらに飾っていただこうと思いまして。こういうのも風 情がありますでしょ。」 そして、佐伯さんは手作りのうまそうな切り干し大根の煮物も差し出した。 「それはご親切に。なつかしいですね、七夕飾りなんて。でも、もう時期は過ぎたん じゃあ?」 「ああ、こちらではね、旧暦で七夕様をやるんです。だから、一ヶ月遅れになるんで すよ。」 「へえ。なるほど。」 佐伯さんは縁側の端っこに、うまく七夕飾りをくくりつけた。 「あとで取りに来ますから。捨てるのはご面倒でしょうから。」 そう言って、佐伯さんは相変わらずにこにこしながら帰っていった。 その夜、私は奇妙な夢を見た。目の前に女の白い両手があった。その手は、ひしひ しと現実感に溢れていて、艶めかしく、青い静脈が少し浮き出ていた。長くしなやか な指はいかにも器用そうで細かく繊細な作業に向いているように思えた。 手は口に劣らず、なにか言いたげであった。指が訴えるように動く。 手は八島の顔をおずおずと撫でてから、遠くに飛んだかと思うとかいがいしく家事 を始めた。汚れた鍋や皿を洗い、洗濯物を丹念に畳んだ。針と糸を持ってきてワイシ ャツのボタンを付けたり、ズボンのしわを伸ばしたりした。新聞を片づけ、落ちてい るゴミを拾った。手の動きはしとやかで、新妻もかくやという一途さがあった。 手が窓のカーテンを掴んだ。 「開けないでくれ。」私は思った。 朝の光が、私の目に飛び込んできた。 私は布団から跳ね起きた。まるでハネムーンだ。こんな気持ちは初めてだった。一 目でもよいから無性にあの手を持つ女性の顔が見たいと思った。名前も顔もわからな い夢の中の女性に恋をするなんて事があるだろうか。八島の思いは揺れた。しかし、 手の面影は休日の一日の間、八島をとらえて離さなかった。 「こんどの支店長って、やる気あるのかしら。」 「なんだか、いつもぼーっと別なこと考えてるみたいね。」 若い女子行員二人が、客の途切れた合間にひそひそと話し合っていた。 「私がお茶を出しても気づかないこともあるわよ。決裁文書もめくらばんみたい。変 ね、最初はやる気満々だったのに。」 「こんな小さな支店だから手を抜いているのかしら。それとも不倫とか?」 二人はそう言って皮肉っぽく笑った。 「いらっしゃいませ。」二人は、自動ドアの開く音がしたので反射的に姿勢を正した 。 事実、八島は上の空であった。この頃では夢でも何でもなく始終、女の手が見える のだった。彼は女の手の動きをいちいち目で追わずにはいられなかった。「手」は、 八島にとってもはや恋人であり、妻であった。お茶やコーヒーを煎れて持ってきてく れるのは「手」である彼女だった。書類を目の前に置くのも「彼女」の手だった。一 人で居るときはいつも「手」と一緒で、八島は幸福だった。 「この手を持つ女性はいったいどんな人だろう。きっととても美しい人なんだろう。 お願いだから顔を見せておくれ。この切ない気持ちをわかっておくれ。僕は君が欲し い。」八島は男の力で「手」をきつく握りしめた。 8月も終わろうという頃、再び佐伯さんが八島の家を訪れた。 佐伯さんは憔悴した八島の顔を見て、驚きを露わにした。 「ごめんなさいね、七夕飾りのこと、すっかり忘れていたのよ。お邪魔でしょうから 持っていきますわ。」 そう言って佐伯さんがそそくさと七夕飾りを取り払ったとき、陽にさらけて色の落ち かけた短冊が床に落ちた。それには、幼い字で 「おりひめにあいたい」 と書かれていた。 暑苦しい夜でなかなか寝付かれず、八島は胸騒ぎを感じて起きあがって寝室の電気 をつけた。昼間の短冊のことが気になった。縁側に座り込んで、なぜだかわからぬた め息をついた。 東側の家に目をやると、丸窓の障子をすかして薄ぼんやりと明かりがついていた。 窓の竹模様の細工も見分けられた。 時計が静かにひとつ打つと、明かりが、命が尽きるように、消えた。 しんと波打つ静けさが走った。 ぎい、と借家の廊下がきしむ音がした。また、古びた木が軋んだ。その間隔は着実に 短くなっていった。 八島はわかった。この世でないものが近づいてくる。 「おりひめ・・・・・」 彼はうめいた。 両手のない女の幽霊が、彼の住居を浸食しようとしている・・・・・・ 洪水の水が自然に流れ込むように。 幽霊は、一歩一歩、彼に届こうとしている。 もうすぐ、彼は見るだろう。彼が愛した手の幽霊を・・・・・ ・・・・・・・・・ 了 by ルー rjn08600
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