短編 #0754の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
世の中に、母の愛を賛美した文学や回顧談は無数にある。 しかし、私は何故そんなにも母の愛が貴ばれるのか不思議でならない。 母が我が子に愛情を傾けるのは当然のことであり、何も事改めて、「美しい」だの 「素晴らしい」だの「貴い」などと讃える必要はない。 私に言わせれば、むしろ、母の愛ほど身勝手な物はないとさえ言える。 何故なら、母の愛は我が子にのみ傾けられるものだからである。 我が子を献身的に愛することが何故美しいのか私には分からない。 「自分を犠牲にし、死をもいとわず、無償の愛だからこそ貴い!」 という感覚なのだろうが、もっと冷静に分析してみると、それは単なる本能・自己 愛・所有欲に他ならない。 「母の愛は自己愛でないから美しい」 と言う人も居るが、我が子は自分の腹を痛め、手塩に掛けて養い育ててきた大切な 〈自分だけの子供〉であり、これはとりもなおさず自己愛の変容ではないか! 中には、血のつながりのない子供を慈しんで育てる母親もいて、それはある意味で ありがたいことである。しかし、そういう例は極めて少なく、逆に継母の残酷な物語 の方がはるかに多い。 継母の話と並んで、母親の身勝手な愛情による弊害に、嫁舅の反目やマザコン息子 の問題がある。これらについて、ここでくどくどと述べるつもりはないが、要するに、 母の愛は必ずしも良い結果ばかりを生むものでないことを明記して置きたい。 「今日私が在るのは、ひとえに母の愛情の賜物です。」 という話は飽きるほど聞いた。母親によってはぐくまれ励まされて成功した人は何 億人居るか計り知れない。けれども、母親によって駄目人間にされた者も無数に居る のだ。 それにもまして、母親の居ない人間が大勢居ることを忘れてはならない。そういう 人たちにとって、母親の思い出話など、単なる配偶者や恋人ののろけ話を聞かされて いるのと同じである。 私事になるが、数え年5歳の時に、母が肺結核を患って病床に就き、数え年10歳 (満年齢8歳)の冬に亡くなった。だから、私がこのような暴論を書くのは、母の愛 情が少なかったゆえのひがみ心と言えなくはない。とはいえ、私は母の優しさと深い 愛を十分に知っている。 だが、母に寄せる思慕の情愛や感謝の思いはあくまでも個人のものであって、一般 論としての「母の愛は貴い」という理念に、私は今一つ共感できない。 (大方の人々を不快にする文章であれば謝罪申し上げるが、これも一つの論法とし てお許し願いたい。) [1997年3月9日 竹木貝石]
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