短編 #0631の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「もしもこれが夢なら覚めないでほしい」 とか、 「夢だったら良かったのに…」 とか、 「アア恐ろしかった! 夢で良かった」 などという話をよく聞くが、本当にそうなのだろうか? 夢を見ている最中に、それが夢だと分かる人もいるそうだが、大方の場合、夢を夢 とは知らずにいる。 そうであるなら、夢の中では、その夢の世界こそが現実なのだ。目を覚ましてから 「夢で良かった」 と分かってみても、夢を見ている時間にまで遡ることのできない以上、後から知っ た事実など何の役にも立ちはしない。 「 恐い夢を見ても、後でホッとすればいいじゃないか」 という論法はいかにももっともなようだが、その後また恐い夢を見るのであれば、 後先など関係ない。 要するに、夢の世界も現実世界も、人生における重要度は変わらないと私は言いた いのである。しいて言えば、睡眠時間よりも起きている時間の方が長いという比較論 もあるが、実際の時間と主観的な時間で、どちらがどのように長いのかを客観的に知 るよしもない。 そこで、以下は『夢と現実とは同じウエイトである』という観点で話を進めたい。 夢と現実との関連性、例えば『逆夢と正夢』・『夢による深層心理の分析』等につ いては専門家に任せるとして、ここで一つ注意すべきことは、夢が体調により大きく 左右されるという点である。 私の母親は肺結核で亡くなったが、5年に渡る闘病生活の間、毎晩のように「恐い 夢」を見ていた。胸が苦しければ安眠できず当然恐ろしい夢を見る訳で、それを思う と母が気の毒だった。 私の妻も度々恐い夢を見るらしく、おそらく何処か体の具合がよくないのだろう。 私の場合、精神的重圧はともかく、体は健康なので、悪い夢を見ることはほとんど ない。けれども、幼い頃には時々恐ろしい夢を見たから、やはり体調が万全でなかっ たのだろう。 (全盲者が見る夢については、以前にも書いたので省略するが、視覚的ではなく、 聴覚や触覚に伴う自分の心の動きや動作によって進行する夢である。) 以下、先日私が見た夢について書いてみる。 自分の年齢は分からない。10歳くらいのような気がする。 盲学校の仮り校舎の廊下のはずれから外に出て、北の方へ歩いて行った。 寂しい田舎道をドンドン進んで行くと、遠くの方から、瓦製造用の土練機のうなり が聞えてくる。 すぐ前を幼友達のT君が歩いていたが、暫く行くとふと立ち止まり、彼は道ばたの 草を抜いて、その茎を噛みながら、 「苦くないよ!」 と言って私に勧めた。 その草の茎を受け取って、前歯で噛んでみるが、苦くないと言えば苦くないが、決 して甘くもない。 T君は優しい性質の子供で、いつも私を大切に思い、偽ったり裏切ったりすること はほとんどなかった。 だが、夢の中の彼の声は奇妙に濁っていて、思いなしかゾッとするような冷たさを 含んでいた。 私は突然、これは良くない夢の始まりだと直感し、このまま夢を見続けていると、 『あの暗い場面』へ行ってしまうことを確信した。 意図的にか、それとも偶然にか、そこで私はパッと目を覚ました。 「よかった!」 私は救われた気持ちで胸をなで下ろしたが、もう何十年も忘れていた恐ろしげな夢 を、この時まざまざと思い出したのである。 恐ろしい夢と言っても、本人だけが感じた『底知れぬ暗い余韻』にすぎず、具体的 には何等書き留めるほどの物はない。 が、 「苦くないよ!」 と言ったTの一言がキーワードとなって、幼い頃の暗い暗い夢を想起させたのであ る。(以下は、昔の夢である。) 「苦くないよ!」 確かに苦くはないが…。 私はそのまま歩き続けたが、Tははるかに先へ行ってしまった。 (現実に、幼い頃のある日、隣村へお遣いに行った帰り、田圃のあぜ道でTが私を 置いてきぼりにして、さっさと先へ行ってしまったことがあった。あれは何故だった のか、滅多にないTの勝手な態度だったが…。その時の記憶が形を変えて夢に出てき たのであろう。) 知らない道を、全盲の私は、杖も持たずに足探りでトボトボと進んだ。 途中、草原を過ぎ、細いドブ板のような橋を恐る恐る渡り、路肩の石垣が崩れそう な所も手探りで進んだ。 それは大変長い道のりだった。 そして、大きな川の橋にさしかかり、橋板が腐って落ちかけているので、四つん這 いになってようやく渡り終えた。 それからさらに何時間も歩いて第三の橋に来た。 これは長い長い橋で、その橋の脇に壊れかけた家があって、何故か私の母が病気で 寝ていた。ところが、初め母だと思ったのが、いつの間にか知らないおばさんに変わ っていて、病気が移らないようにと、私は橋の下を通ることにした。 川は深くて私は泳げない。崩れそうな石垣に沿いながら、橋桁につかまって横歩き に進んだ。 この第三の橋は400メートル以上もあり、ようやくこれを渡り終えると、その向 こうに第四の橋があるはずだった。 その橋まで行ってはいけない! そこまで行けば、もしかしたらもう戻ることがで きないかも知れなかった。 私は大急ぎで元来た道を引き返すことにした。 来た時と同じように、長い長い時間をかけて、やっと先ほどTが 「苦くないよ!」 と言った地点まで帰ることができたのであった。 夢の長話になったが、こんな夢よりずっと恐ろしい夢を私は何度も見ている。 だから、子供の頃、なんとかして恐い夢を見なくて済む方法はないものかと真剣に 考えた。 「胸に手を当てて寝ると必ず恐ろしい夢を見るから気を付けた方がいいよ」 と教えてくれた上級生もいて、実際にそれを試したこともある。 「恐い夢を見ても、それが夢だと分かればいいんだが」 そう考えるのは誰しも同じだろうか。 それで、私は毎晩寝る前に神様に祈った。 「神様! どうか僕に夢の中でも夢だと分かる方法を教えて下さい」 まさかと思っていたその祈りが通じたものと見え、ある夜、夢枕に神様が現れて、 次のようなお告げを下さったのである。 「わしがお前に良いことを教えてやろう。よく聞けよ。今度恐ろしい夢を見た時には、 続けて息を三度吸うがいい。そうすれば必ず目を覚ますことができるであろう」 小学3年生の私がどんなに喜んだか、ちょっと想像してもらいたい。 夢の中の神様の声は、少し鼻の詰まったかすれ声で、それでも霊験あらたかな老人 の音質だった。 そして、「三度続けて息を吸え」という発想は、グリム童話か何かに登場する魔法 の影響を受けているようである。 その後何年もの間、私は神様からのこのお告げによって随分救われた(と思う)。 ウトウトと眠っていて、恐ろしい夢や苦しい夢に入りそうになった時、私は思いっ きり息を3回吸うのである。 多くの場合3回では目覚めることができず、5回も6回も、10回以上も、連続し て息を吸い続ける。ところが、目が覚めるまでの苦しさは相当なもので、眠りたいと いう体の要求と起きたいという心の格闘が暫く続くようだ。 そして、かなりの努力をもって、ついに神様のお告げの通りに、はっきりと目覚め ることができ、その後眠りに入っても、恐ろしい夢を見ることはなかった。 さて、この『お告げ』の種明かしをする必要はないであろうか? …… 左様、ご想像の通りである。 恐ろしい夢に突入しそうな状況が判断できるという時は、多分夢うつつ、すなわち、 睡眠と覚醒の中間の意識になっているのであり、この時に、3度はおろか、8回も 10回も連続して息を吸おうとすれば、当然息苦しくなって目を覚まさざるを得なく なる。例え夢の中で息を吸うことはできないとしても、呼吸を止める動作くらいには なるから、その時間がとても苦しくてたまらず、目を覚ます結果になるのである。 いったん目を覚ましてから、もう一度睡眠に入った場合に、恐ろしい夢を見ないの は何故かと言うと、不自然な姿勢や無理な体への圧迫を無くしてから、再び眠りにつ くからであろう。 しかし、それでもなんでも、神様のお告げはありがたかった。 [1996年8月10日 竹木貝石]
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