短編 #0622の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「無言電話」 女は、ごく無造作でありふれた、コンクリートで塗り固めた建物の二階に入ってい く。一階と二階にそれぞれ穴を穿っただけのような窓のある、単調な二階建ての庁舎 にはとるに足らない協議会や事務局が並んでいる。○△区福祉事務所、女の職場もそ の一つだ。職員は3人しかいない。女は留守番を兼ねながら帳簿や僅かな助成金の記 録を付ける。捨ててもいいような文書を細かく分類し、ファイルにとじる。 部屋の中には書類やロッカー、いくつかの事務机と椅子、電話がある。旧式の使い 古されたポットと茶渋のついた湯飲み茶碗がいかにこの場所が退屈であるかと言わん ばかりに、片隅に置かれている。女は離婚したあと、何とかこの仕事にあり就いた。 給料はお世辞にも高いと言えなかったが、選り好みしている余地はなかった。 離婚した夫とは、音信不通である。彼女はいったいどんな偶然によって、あの男と結 婚したのか未だに理解にしかねるのだった。水と油、火と氷ならまだしも、彼女と夫 はいかなる放物線、いかなる軌跡の上にも一致点は見いだせないように思われた。 二人の間に子供はなかった。家庭とは名ばかりの、一つの家の中で全然別の、関連の ない2つの生活があった。7年もの空白。分かったことは、自分はもう若くないとい うことだった。 電話が鳴る。「はい、○△区福祉事務所でございます。ご用件は・・・・」彼女は 事務的だが誠意を見せようと精一杯の努力する。 「やすこかあ〜。なにしてっと。早く迎えにこおってば〜。」ぼけた爺さんからの 間違い電話だ。相手は電話先をまちがえていることすらわかっていない。 「出前まだなの!はやくしてよ。え、そば屋じゃないの。あら。」ずうずうしい中 年女は間違い電話だとわかっても謝りもしない。 「息子がねえ、嫁にそそのかされて、わたしのねえ、雀の涙の年金のねえ、証書を 見せろって言うんですよ、ひとりでご飯作って食べてるっていうのにねえ。ほんとに 年寄りに、ひどいでねえだか。」長々と終わりそうもない孤独な老女の話を聞く。 はあ。そうですか。そうですね。おっしゃるとおりです。では。 女は眼鏡を直してまた仕事にかかる。でなければ、一人でお茶を入れて飲む。もう 何日も会話らしい会話をしていなかった。しかし女はおしゃべりがしたいとは思わな かった。そもそも、会話をするということを知らなかったのだ。彼女はベルトコンベ アー式の面白味のない女であった。ただ、用心深さだけは人一倍強く、朝出かける前 や夜眠る前に、異常なほどの執着をもって何度も施錠の儀式を繰り返すのだった。 この傾向は離婚してから強くなっていた。彼女の生活は一時が万事儀式化していた。 別れた夫は最近再婚したらしい。叔母が親戚の法事の折り、聞きかじった話らしかっ たが彼女より十も年若い、顔立ちの良い女性だという。 女は強い嫉妬を感じた。 ふと電話帳を見た。前夫の名を探す。あった、同じ市内のごく近くだ。 電話を見る。・・・掛けてみようかと思う。 電話を掛けたら、出るのは前夫だろうか。新妻の方だろうか。 電話をつかむ。ダイアルをする。思い直して、すぐに切る。 また、ダイアルする。今度は呼び出しのベルの音を聞く。1回、2回、3回・・・ 「はい、中澤でございます。」新妻らしいしおらしい声が答えた。 すぐに、切る。 女は、それから前夫の家に電話を掛けては切ることに熱中し始めた。 男は、一見聡明そうな目の中に常にトゲを宿していた。彼は自分を潔癖で正義感に 溢れた人間だと自負していた。彼の車は、彼と同じように埃一つなくいつもぴかぴか だ。毎朝ピッタリ同じ時間に愛車で家を出、同じ時刻に同じ曲がり角、同じ踏切を通 過する。出勤がストップウォッチで計ったように確実であるように、彼は己を曲げた ことはない。絶え間なく周囲を伺い、誰かに否があれば決してそれを見逃さなかった 。 誰かがふと漏らした言葉一つ聞き逃さなかった。 久しぶりに同窓会が催され友人達が集まったが、その中に親友と呼べる人間はいな かった。彼は出席した恩師がしきりに勧められる酒を断りきれず、二口、三口と口に するのを見た。彼は恩師の車の後を付けた。恩師の車は走り出して間もなく、T字路 で曲がりきれずブロック塀にぶつかってフロント部分をへこませていた。彼は、ため らわず警察と新聞社に通報した。 男は直属の上司がキセル通勤をしているのに気がついた。上司は新幹線での遠距離 通勤者だった。受験生の子供を二人抱えていた。彼は忠告したが止める気配がなかっ たので駅員に知らせた。 机を並べて仕事をしている同僚が、雑談の折りに漏らした扶養手当の不正受給も彼 は聞き流しはしなかった。庶務担当者に疑わしい点を細々と告げ口したのだった。 「わたし、子供が出来たようなの・・・」年若い妻が恥じらいながら言った言葉に 彼は狂喜した。前の妻との間には、長い間子供がなく別れた。再婚したばかりであっ た。 「よかった。男の子を産んでくれよ。」俊一は妻に飛びつかんばかりだった。 「いやだ、まだ出来たばかりだもの。男か、女かなんてわからないわ。」「そうだな 。 どっちでもいい、元気な子が産まれれば。」彼は有頂天になった。子供が産まれれば 、 もっと生活が活気ずくだろう。もっとバリバリ働くようになるだろう、と心が躍った 。 決算の時期で、大手スーパーに勤める彼は毎日残業が続いた。絵里子ともろくに話 しもしないで帰って寝るだけの日が多かった。 やっと休みが取れた日曜日に、妻はこう訴えた。 「あなた、この頃無言電話がよく来るのよ。心当たりないかしら?毎日なの。あなた が会社に行ったすぐ後の頃から。午前中はそんなにひどくはないわ、5、6回ぐらい 。 午後からだんだんひどくなってきて、10回とか、20回ぐらい来るときもあるのよ 。」「無言電話だって?そんな心当たりはないぞ。ただ当てずっぽうに掛けてくるだ けだろう。構わないから、受話器をはずしておけよ。」俊一は深く考えなかった。絵 里子は不安げにうなずいた。 「そうね、そうするわ。昼間は受話器を外しておくことにするわ。」 妊娠6ヶ月を迎えて、絵里子もお腹が目立つようになっていた。マタニティドレス というものを着るようになっていた。 絵里子はまた無言電話のことを持ち出した。 「無言電話が、本当にひどいの。昼間、5分か10分おきに掛かってくるの。気味が 悪いの。ぞっとするわ。わたしもお腹が大きいし、電話に出るのに、何度も電話のと ころに行くのがつらいの。」 「受話器を外したままだと実家の父母からの電話がつながらないし、この間、あなた の親戚の人から電話がいつも話し中だって、とても叱られたわ。」 そう言う絵里子を眺めてみると、腹だけは目立つが、げっそりとやつれているよう で腕だけが細く、青白かった。「電話局に頼んで番号を変えてもらおう。」俊一は決 心した。 絵里子は幾度もうなずいた。目に涙さえ浮かべながら・・・。 電話番号を変えても無言電話は一向に止まなかった。むしろ、状況はさらに悪化し た。夜も絶え間なく掛かってくるようになったのだ。これには俊一も閉口した。無言 電話がいかに耐え難いものであるかが、彼にも痛切にわかった。いまや電話は夜昼問 わず、朝も夕方も、さらには真夜中までも、その無遠慮なベルの音を家中に鳴り響か せた。 妻はますます病み衰えていった。大きくなる腹を抱えながら髪は乱れ、目はげっそ りと落ちくぼみ、顎がとがっていた。妻は、腑に落ちないほど憔悴していた。無言電 話のもたらす心労と言うより、何物か形容しがたい、強力な意志を持つものに支配さ れ、心身ともに蹂躙されているかのようだった。絵里子は身重でありながら、いかな る手段を弄しても助かりようのない病人に似つかわしくなっていた。 妻の出産時期が近づいた。妻の腕は小枝のように細く、顔は土化色で、動くのもま まならぬようだった。突き出た腹が張ると言っては、しきりにさすっていた。 その姿は、昔歴史の教科書で見た中世の絵巻物の中の”餓鬼”に酷似していた。 俊一はしばらく妻に触れていなかった。病躯のような妻の体と、物の怪に憑かれた かの様が、俊一自身にもあたかもペストの病原菌が襲いかかって来るような気がして 、 恐ろしかったのだった。 子供は女の子で、死産だった。大変な難産であった。妻も大量の出血をし、出血が 止まらず、その命を絶えた。輸血の血が不足していたが、誰も病院に駆けつけた者は いなかった。 「はい、○△福祉事務所です。」と電話を受けた声の主は、髪を茶色に染め、ミニ スカートをはいた若い女だった。 彼女にとってこの仕事は結婚前のほんの腰掛け、化粧品代と遊ぶ金ほしさに働いて いるにすぎなかった。彼女は、いかにも若い女が好みそうなファッション雑誌やタウ ン誌のたぐいばかり読んで毎日過ごしていた。仕事など放ったらかしであった。もと もと、たいした仕事などないのだ。しかし二人の男性職員にしてみれば、年増女にお 茶を入れてもらうよりも、ミニスカートからのびる溌剌とした足の方がはるかに魅力 的だった。 彼女はいつものように”夏はこのメークが決め手!”といった雑誌の記事を読みな がら福祉事務所で留守番をしていた。 突然、ひときわ苛立たしげに電話が鳴った。彼女は、驚いて電話を取った。 プツン。・・・すぐに切れた。 また電話が鳴る。受話器を取る。切れる。電話が鳴る。取る。切れる。 何回同じ事を繰り返しただろう。たまりかねて、彼女は電話を床に叩きつけた。怒り のあまり、自ずと息をはあはあと荒立てていた。 一瞬、目の前がぼおっとぼやけた。 陰鬱な顔をした一人の中年にさしかかった女の姿が見えたような気がした。 それから何日か後、彼女は一枚のスナップ写真を未整理書類の中から見つけた。写 っている3人のうち2人は、今一緒に働いている男性職員だが、もう一人は前の事務 員だろうか。どこにでも居そうな眼鏡をかけた地味な女がいる。 彼女は写真の女の事を尋ねた。 若い方の男が、首を斜めに曲げながら答えた。 「ああ、この人?相澤さん・・・だったかな、相原さん、だったっけ?君の前の人。 無口で愛想のないおばさんだったな。一年くらい居たよ、ここに。ろくに話しもしな かったけど。少し変な人だったよ。どこが変て、そりゃ、フィーリング。いつ頃から だったか、来なくなっちゃったんだ。特に理由もわからないんだけどね。」 ・・・・・・・・了 by ルー RJNO8600
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