短編 #0604の修正
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2度と浮かび上がれない 1996年7月14日 切田 和秀 960714A0.NET 【2年前の事件】 1994年8月4日、「イトーキ」「オカムラ」等の板金塗装 を請け負う東大阪市の富士電装(株)(宮田和夫社長、電話07 29−62−5551)で、当時社員だった私は、社長の息子の 「宮田潔」(韓国人、奈良県奈良市中登美が丘2−1984−6 4、電話0722−44−2885)から、30分以上にわたり 暴行された。 工場の塗装ラインは回り続け、社員達の目の前で 暴行は続けられたが、誰一人止めようとはしなかった。 それは 富士電装(株)は暴力団が、からんでいるからだ。 詳細は後述。 私は、救急車で大東中央病院に運ばれ、暴行の証拠の診断書を 得て河内警察署に訴えた。 ところが河内警察署は、暴行事件の 受理を拒否。 「宮田潔」加害者は、起訴はおろか書類送検さえ されていない。 暴行の翌日の8月5日の朝、再び河内警察署に訴えるために出 かけようとすると、会社の事情を知らない筈の父と母が突然「ビ ラをまくなんて頭がおかしい」と私を精神病院に監禁しようとす るのだ。 しかも河内警察署に面会を約束した午前9時に、病院 に行くと言う。 「大事な用事で出かける」と言う私の腕を離そうとしない父を 振り払い、車に乗ったが、トヨタのスターレットがエンスト。 私は無事故・無違反の「ゴールド免許」を所持しているが、こん な事は1度も無くタイミングのよいエンストは「偶然」では無い。 私はJAFに電話して電車に乗った。 河内警察署は、事件の受理をまた拒否。 しつこく文句を言い、 午後にやっと受理させ調書を作成した。 一方、自宅に電話する と母が「JAFが来る前に車は移動した。 どこも異常は無かっ た」と奇妙な事を言う。 これでエンストに両親が関与していた 事が判明。 帰宅しても「みうち」の手で「暴行事件に対して泣き寝入りさ せられる」か「精神病院に監禁」のどちらかだと確信し、全ての 生活を捨て釜崎へ逃亡した。 【暴力団がらみの富士電装(株)】 当時、富士電装(株)の有能な社員で暴力団の1人の”O”本 人から話を聞いた。 「昔、ある『義理』で宮田親子を助けた。 計画倒産の時、体を張って債権者から宮田親子を守った」と”O” は言った。 また「宮田親子が韓国人である」事も、”O”と横 山工場長代理から聞いた。 その後、私は裏をとった。 富士電装(株)の関連会社で同じ く宮田親子が経営する「(株)ミヤタ」の登記を調べたら(株) ミヤタは、つい最近設立された事になっているが、(株)ミヤタ の工場は、昔から「水走」に有り、今の(株)ミヤタは同じ社名 だが、昔の債権とは、法的に無関係な別法人である。 事実私は、ホコリをかぶった(株)ミヤタの塗装ラインの改造 工事に手伝いとしてかり出され、溶接無免許の方々の作業を手伝 った。 具体的には、後に退職した当時の寺西工場長、後に首を 切られた三ッ川副工助長、後に実質的工場長となった横山工場長 代理などが、アセチレン溶接で工場を切り刻み、彼らの指示で私 がバラバラにされた板金・支柱を工場前に積み上げたのだ。 こうして(株)ミヤタは、1994年の2月から4月にかけて、 実質的には富士電装(株)水走工場として生産を再開した。 【救済は無い】 精神病院に監禁される恐怖の中で、住民票も健康保険も無い生 活が続いた。当初、この人権弾圧に対して救済を求めたが、救済 など無かった。 とりあえず、住所不定のままで、事実を手書きで書いて、人権 を扱っていると思われる出版社、労働組合、生協に計40通ほど 郵送した。 同時にタウンページを見て人権に関係有りそうな団体に電話を かけまくった。 しかし「人権」で飯を食う団体ばかりであった。 私は昔、共産党の新聞や文献を熱心に読み「資本家が雇ったヤ クザが襲いかかり組合が勇敢に闘った」という記事を何度も見た。 しかし事実は逆だ。 労働組合、暴力団、「民主団体」、政党、公安委員会、宗教団 体、すべて大衆をまとめる商売だ。 庶民の支持は利益になって も、人権は利益にならない。 「革命」さえ商売で、声高に「人 権」「良識」を叫ぶマスコミや、政党、民主団体、人権団体、組 合の幹部こそが「世の中で一番たちの悪い商売人」だ。 大阪弁護士会にも行ったが、高額の弁護士料も払えない。 以 前あった無料人権相談の窓口は閉鎖されており、人権委員会への 訴えるには「詳細を文書にして郵送すれば、扱うか否か判断する」 と言われた。 当時ホームレスで食うにも困る私に文書をまとめ る余裕など無かった。 【2度と浮かび上がれない嫌がらせ】 不安定な釜崎日雇い生活はもうすぐ2年になるが、今だに「ど ん底」だ。 それは毎度毎度の嫌がらせで職を追われているから だ。 「生かさず殺さず」状態にされている。 私は「忍耐強い」 かまたは「鈍感」だ。 だから陰湿で世間から見えにくい筈の嫌 がらせも、結局、内容がドギツイものになる。 【「嫌がらせ」の例】 社会党系の人から紹介された創価学会系の「ヤマオ警備保障」 (吹田市)では、当時私が「みうち」による精神病院監禁に怯え ていたのに、わざわざ弟の家族が住む生駒市内のすぐ近くの現場 へ連日派遣した。 しかし、この業者は北大阪方面の現場がほと んどで、後にも先にも奈良県の現場は、これ以外に無い。 さら に、この業者は何日も仕事を回さず、たまに仕事がくれば人が余 っているのに、38時間勤務、48時間勤務の連続勤務だったり して、仮眠はエンジンを切られた真冬の車の中で、夜明け前の数 時間だけだ。 【「嫌がらせ」の例】 難波の「神警警備保障」では、「もうすぐ忙しくなる」と嘘ば っかり。 いよいよ電話代さえ払えなくなった頃、江坂でビラを まいた翌日に仕事が来たが、何と交通誘導とは何の関係も無いボ ディーガードの仕事で、「大阪生コン組合の会長が、労働組合と 裁判沙汰になっているので、組合活動家などやっている『わけの わからん怪しい奴』から会長を守れ」との仕事だ。 交通誘導の会社で「3時間で1万2千円のボディガードの仕事」 など例え願っても得られる事など、常識では有り得ない。 それ がよりによって『わけのわからん怪しい』この私に来たのだ。 公安が手を回した露骨な嫌がらせだ。 この話は、その後「中止になった」と言い、家賃さえ払いづら くなった私が他の仕事を見つけると「今、忙しくて人手が足りな い」と会社はほざいていた。 【「嫌がらせ」の例】 京橋の「アクト警備保障」では、連日仕事があり、事務所では 仕事後にジュースやコーヒーなど気をつかってもらい、場所もダ イエーの近くで、しばらくお世話になりたいと思ったのだが、昨 日7月13日の話だ。 契約先は、NTTの一次下請けの日本コムシス(株)関西支店。 現場は、神戸市兵庫区西橘通り1丁目の東南角の「ポーラ」神戸 支店のビル前の交差点。 交差点での工事に伴う交通誘導だが、 通常では考えられない事が起こった。 この交差点の東西の道路は、西向きの一方通行であり、交差点 に立ち、工事現場付近の交通を円滑に保ち、安全を確保するのが 私の仕事だった。 ところが、西側の別の現場からダンプや、トレーラーが、一方 通行を無視して、逆走してくる。 誘導するガードマンも無く、 常時、何度も、一方通行を逆走してくる。 当然、交差点は混乱 した。 ある大型トレーラーは、逆走して、信号機の支柱に接触 し、前から来る自家用車にはさまれ、中央分離帯の歩行者用の部 分に進入して、南行き車線へ突破した。 私は、交通安全・法律遵守の為では無く、自己の業務遂行と責 任回避の当然の措置として「2度とここで逆走するな」と、その ドライバーを怒鳴りつけた。 その場に居た日本コムシス(株) 関西支店の現場監督と、アクト警備保障の隊長に事情を話し「ト レーラーのナンバーと会社名をひかえましょうか?」と聞いたと ころ、やめろとの事。 彼らは、その後もダンプ等が、一方通行 を逆走してくる事実をふまえ「よその現場のダンプ等の逆走は無 視しろ」と私に指示し、私は了解した。 また「ダンプのナンバ ーや社名をメモするのはやめろ」と隊長から指令があった。 ところが、その後、交差点西からトレーラーが逆走して、突っ 込んできて、工事表示の立て看板を踏みつぶした。 「バリバリ バリ」という音に気付いた私は、看板がつぶされた事を大声で知 らせた。 しかし、不思議なことに現場監督も下請けの作業員も 騒がず、逆に「看板が潰されたのは、お前が悪い」と私に責任を 押しつけるのだ。 そのトレーラーは、不思議な事に目の前での 破壊行為に対して何一つ文句も言われず、何の責任も負わず悠々 と逃げ去った。 そこに至り、私は切れた。 意識して切れまくった。 その時 点で職場を放棄した。 負う必要の無い責任を回避する為には当 然である。 さらに後から来たアクト警備保障の隊長は、私に、 「無視しろ」と言った指令を「真に受けるのが悪い」と事故後に 言い、私に責任を押しつけるのだ。 切れて分かったが、一方通行を何度も逆走してきた「宮川建設」 「桶高組」との表示のダンプの運転手が「たかがガードマンが文 句を言うな。 田村建設の社長とは親しいんや」とわめいた。 田村建設とは、日本コムシス(株)関西支店の下請けで、ここの 実際の工事をしている。 初回の「ダンプの一方通行の逆走」の 時から「どうせ、今回もそんなこっちゃろう」と仕組まれた嫌が らせを予想していた私は、この言葉で「案の定、仕組まれた!」 と納得した。 【もう、たくさんだ!】 1994年の暴行事件いらい、この手の露骨な嫌がらせにより、 私の意志で職場から離れるように仕向けられる例はまだまだある。 仕事を変えると、最初は有る程度仕事を回してくれる。 しかし 「そろそろ釜崎脱出の貯金を始めよう」と考える程度に金銭的に ゆとりが出れば、嫌がらせで職場追放。 いつまでたっても、浮 き上がれない。 歯はボロボロだ。 しかし歯医者にいくゆとりもない。 まじ めに働き、節約し、現場にはぺットボトルに入れた水道水を持参 し、夏以外は手作りの弁当持参するのが通例で、穴の開いた靴下 で、履ける靴は作業用の安全靴だけで、服も買わない。 酒は弱 く、タバコもバクチも女もやらない。 こんな生活が2年も続いているのに、生活は苦しいままだ。 いいや、さらに苦しい。 先月は死ぬ思いで死守した電子ネット ワークへの通信回線を失うのも時間の問題だ。 いつまでたって も、浮き上がれない。 もう、たくさんだ! もう、うんざりだ! みんな不幸になれ! 【悲惨すぎる】 1994年の暴行事件以後、私は「体制(=公安と商売人たち) に好きなように嬲られている」と認識している。 しかし「嫌が らせを受けている」と認識するのは、まだいい。 私の場合20 歳以後からこの暴行事件までの20年間も、同様な嫌がらせを受 けていた。 今日の私の忍耐強さは「この20年来の嫌がらせ」 に由来している。 ところが悲惨な事に私は、1994年の暴行事件以前は、職場 追放のための嫌がらせや、その他の嫌がらせに対して「現実はこ んなもんだ」「人生とはこんなもんだ」と納得して受け入れてし まった。 「政治団体に所属さえしてないアルバイター」の私が 公安にマークされる等とは考えさえしなかった。 会社の管理職に私のプライバシーが筒抜けで、外出先での出来
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