短編 #0592の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
自分は〇〇病院で精神科医をしています高見と申します。医者だからきっと実家も金 持ちだと思われるでしょうが自分の家は貧乏のどん底でした。自分が3歳の時、父が農 業が厭だと島原半島の実家を飛び出し一家4人で長崎で生活を始めました。父は自動車 のセールスマンをしていましたがギャンブルに狂ったりして母が内職で生活を支えてい ました。貧しくて、自分は小さい頃、卵かけご飯ばっかり食べていました。卵かけご飯 を一回に十杯食べたことがあります。そんな中で自分が4歳の頃、父がセールス先の人 の紹介で入会しました。しかし父が最初に入会したものの次第にしなくなり代わりに最 初反対していた母が信心するようになっていきました。 そして自分が四歳半の時、母が経済苦に耐えかね店を開きました。市場の二階での生 活が始まりました。毎月月末になると支払いに追われ僕の貯金箱も姉の貯金箱も空にな っていました。自分が小学3年の頃まではいつ夜逃げするか解らない状態が続きました 。 家は経済苦とギャンブルに狂い仕事せず女遊びもする父のため毎日のように父と母が 喧嘩していました。夜ご飯は母が仕事に追われ夜遅くなることがときどきありました。 母は毎晩夜十二時頃、仕事に疲れ果て眠りながら夜の勤行をしていました。自分は学校 で非常に重い蓄膿症で苦しんでいました。学校でも家でも地獄でした。そして小学三年 の時、自分は自分から勤行を始めました。 勤行を始めて通信簿の成績が2から4までだったのがいっぺんに3から5にあがりま した。 中学1年の時、長崎市の中等部員会の司会をすることになりました。そしてそれから 朝晩の勤行はもちろん一日二時間近くの唱題を始めました。中等部の担当の人から、力 を込めて題目をあげなければならない、と指導され、力を込めて題目をあげるようにな りました。でもそれから大きな声が出ないという珍しい病気に罹りました。休み時間に 友達と喋ったりすることができないなどとても辛い経験をそれからするようになりまし た。でもそういう病気になりながらも自分は毎晩声がかすれてしまうまで勤行・唱題に 励みました。 高校一年のとき、吃りがひどくなり国語の本も読めなくなりました。そして学校に行 かなくなりました。高校を辞めようと思いました。でも自分は一度も御本尊様を疑った ことがありませんでした。そして『医者になろう。自分のような病気で苦しんでいる人 たちを救うため医者になろう。』と思いました。一度も御本尊様を疑ったことがなかっ たからそう決心できたのだと思います。 それから落ちこぼれで一番悪かったときは学年で最後から5番だったことがありまし たが少しずつ成績は上がり高校三年の終わり頃、学年で1番を取った伝説を15年前、 長崎東という長崎の進学校で造ったのは高等部員でした。 高校三年の後半は題目は二時間になりました。終わり頃は三時間になりました。でも 二月の終わり頃、自分は対人恐怖症に罹りました。宿業が出たのかもしれません。そし て現役の時は試験中にパニックになって落ちました。一年間の浪人中、仏法対話も少し ながら行いつつ、パニックになっても合格できるように一日三時間題目をあげて勉強し ました。 しかし宿業は強く、宿業の病気に勝てず、目標にしていた大学でないところを選ばざ るをえませんでした。でも失意の中でも自分は負けませんでした。 大学入試が終わった日からかその次の日からか一日一人の仏法対話を始めました。三 ヶ月半それが続きました。先輩の応援で二人入会決意しましたが二人とも勤行指導を二 週間か三週間程してダメになりました。 どんなに頑張っても一人も救うことができないことに悩み失望し、自分は大学一年の 十一月、退転してしまいました。そしてそれから7年半、退転していました。その間、 何度も何度も戻ろうとしましたがその度に魔が起こり、結局7年半も退転を続けてしま いました。何年も何年も留年を繰り返しました。 長い退転の後、自分は復活しました。大学もやっと卒業できました。 しかし今から4年前、バスを追い越してきたクルマとバイクで正面衝突し、フルフェ イスのヘルメットをしっかりと被っていたにも拘わらず、頭蓋骨骨折で4日半意識不明 になりました。4日半自分は夢を見続けました。現場に来た救急車の方は死んだと思っ たそうです。でも自分は死にませんでした。事故したちょうど二十四時間後、ずっと昔 からの大B長夫妻が駆けつけてきてくださいました。そして一分ほどの間、自分は事故 以来初めて不思議に意識を取り戻しました。生命が感応したのだと思います。そして自 分は大B長夫妻に言いました。今でも覚えています。『勤行しなかったのです。朝の勤 行をしなかったのです。』 そのとき自分は意識を取り戻しても頭がぼんやりしていて大B長、大B長とばかり言 っていました。自分が小学生や中学生の頃、大B長だったからです。僕たち一家が貧乏 のどん底の中、狭い市場の2階に住んでいるとき、よく信仰指導に来てくださっていた その大B長の姿が自分の記憶の中に刻み込まれていたからだと思います。 でもそれは30秒か、1分かのことで自分は再び意識不明の状態になりました。それ から3日半、再び夢の中をさまよいました。意識を失っていたその間、自分はいろんな 不思議な夢を見ました。そして4日半の後、自分は朧気ながら意識を取り戻しました。 今、その後遺症に負けないためにも朝たくさん題目をあげて仕事へと向かっています 。薬の名前を覚え切れません。人の名前を覚え切れません。しかし自分は負けません。 以上
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