短編 #0587の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
その男は鏡の前に座り、両手を見つめていた。 肉が落ち、節ばかりが目に付く、枯れ枝のような手だ。指が人一倍長いので よけいにそう見える。 「この手にもずいぶん働いてもらった。だがそれも今日までだ」 そうつぶやくと、男は視線を鏡の向こうに漂わせた。 最近はめったに思い出すこともなくなった妻と子の後ろ姿が、今朝から何度 も現れては消えていく。最後のステージに少し感傷的になっているのだろう。 あのとき、去っていく妻と子を見送りながら、男は何も言えなかった。いや、 言わなかったのかもしれない。そのとき心の奥底になんともいえない安堵感が わき上がってくることに、男は自分自身驚いていた。 去っては行ったが、妻の希望で籍はそのままにしてあった。それがいつまで も未練を残す原因かもしれない。 それから数年は全国を回った。どこへ行っても評判がよく、そのうちテレビ にまで出演を依頼されるようになった。 男の得意とするのはカードとコインを使ったもので、とりわけコインのマジッ クは常に真新しい技を加え、他の追随を許さなかった。しかし、いつからか指 が思うように動かなくなり、よく道具を落とすようになった。それからはまた キャバレー回りに逆戻りだった。それもショータイムにマジックをやる店はほ とんどなくなっていた。男がそれでもこの世界にとどまっていられたのは、そ の失敗を笑いに変えるすべを身につけたからにほかならない。それでもだたの 失敗に終わることも多く、ギャラを手に入れられるのは、三回に一回ほどだっ た。 そこまで思い出したとき、支配人が顔を出した。男とは年格好も同じくらい の、もう初老と呼んでもいいほどだ。 「ピエール。そろそろ準備よろしくな」 本名を忘れてしまうほど、この名前とのつきあいも長くなっていた。この名 前を付けてくれたのもキャバレー「葵」、この店の支配人だった。だが、男を こう呼ぶ人間も、もうほとんどいなくなった。 「ありがとう、支配人。最後の花道を用意していただいて」 「水くさいことを言うな。俺ももうそろそろ引退だ。オーナーも最後のわが ままと思って聞いてくれたんだろう。最後をここで飾るっていうのも皮肉な 話だが、まあそれもいいだろう」 「ええ、そうですね」 男は寂しそうに笑って言った。 相変わらず、客の相手に飽きたホステスが時折視線を走らす他は、誰も男の ステージなど見るものはいなかった。 大きな舞台で観客の注目を集めていた頃の男の技は、手を動かしたとも見え ないのに、開いた五本の指の間にいつの間にかコインが現れ、次の瞬間には一 斉に消える。そして、指名した客のポケットからその消えたコインが見つかる というものだった。これは観客の注意をそらせている間に投げ入れるのだが、 薄暗いホールのかなり高い位置まで飛ばすので、観客は気付かない。そもそも、 舞台からかなり離れた客席まで、コインが飛んでくるなどとは、誰も予想して はいないし、しかも正確にそのポケットに入れること自体、人間離れした技量 と言えた。続けざまに四枚のコインを別々の客のポケットへ、となればなおさ らだ。 また、束になったカードを一斉に客席に向かって飛ばすと、一枚のカードだ けがブーメランのように弧を描いて戻ってくる。それが前もって一人の客に選 ばせておいたカードと同じであることを認めると、観客は歓声をあげたものだ。 他のカードにはメッセージが書いてあり、後で記念品と替えられるようになっ ていた。 それもこれも、客にコインを当ててしまったり、カードが返ってこなくなっ てからはやめてしまった。 かといって大がかりな仕掛けを使ったマジックは男にはできなかった。 最後くらいは失敗しないようにと、男は慎重にステージを続けていた。 男が開いた指の間にコインを並べようとしたそのとき、一枚のコインが落ち、 澄んだ音を立てた。 ざわついていた店内が、耳慣れぬ音に一瞬静まり返った。思わぬ静寂に笑わ せる余裕を忘れた男は、あわててそのコインを拾おうとし、バラバラと他のコ インも落としてしまった。一人の客が笑い始めると、次々に笑いの波は広がっ ていった。男はそれに笑顔で答えようとしたが、なぜか顔がひきつってうまく いかなかった。一枚一枚コインを拾っていると、客はもう飽きたのか、またそ れぞれの馬鹿騒ぎに戻っていった。 すべてのコインを拾い終わり、男がふと視線を上げると、店の奥にひっそり と座っている一人の客が見えた。刻まれた年月は隠しようもないが、男にはそ れが誰であるか、すぐにわかった。あのときに去っていった妻であった。妻は 男に静かな視線を向け、かすかに微笑んでいるように見えた。 男は一枚のカードをその客席にとばした。カードは回転しながらきれいな弧 を描き、ふわりとその客のテーブルに落ちた。 まだステージは残っていたが、一人をのぞいてだれも見ていない客席に向かっ て、深々とお辞儀をすると、男は黙って舞台を降りた。 「しかしどうして妻が・・・・・・」 男が動揺を沈められないままそうつぶやくと、思わぬ答えが返ってきた。 「サービスです」 振り向くと、見知らぬ男が立っていた。 その男は黒い服を着、マントをつけている。燃えるような赤い髪を除けば、 この男の方がよほどマジシャンに見えるかもしれない。異様な光を放つ目をまっ すぐに男に向けて、赤毛は丁寧すぎる口調で言った。 「お忘れになられては困ります」 「いったい何のことだ」 「お約束のものをいただきにまいりました」 男にはその言葉の意味がまだ分からずにいたが、赤毛の光る目でじっと見つ められているうちに、ぼんやりとある光景が浮かんできた。 「あのとき、もし世界一器用な手があれば、他には何も要らないと言って、 私をお呼びになったではありませんか。これがその証拠です」 赤毛はそう言って茶色い羊皮紙を開いて見せた。やけに古いその紙には、な にやら模様のようなものがびっしりと書き込まれており、一番下にはそれだけ は鮮やかな、赤い印があった。男にはすべてがのみこめた。 「しかし・・・・・・」 「おっしゃりたいことはよくわかります。でも一生使える手とはあなたは言 われなかった」 赤毛は片手で男を制するように言った。 「わかった。少し待ってくれ」 男は心を決めたように力強くそう言うと、背中を向けた。そして振り向きざ まにコインを親指ではじいた。二枚のコインは、吸い込まれるように赤毛の目 に向かって飛んだ。両目を押さえてうめく赤毛をロッカーに押し込み、男は部 屋を出た。 メッセージを見た妻は、まだ店の外で待っていた。男は黙って妻の手を取る と、少し急ぎ足で歩き始めた。 「すまない。時間がないんだ」 二人は近くの喫茶店にはいると、向かい合わせに座り、コーヒーを二つ頼ん だ。 せめてお茶を飲む間だけ待ってくれ、男は心に念じていた。 「相変わらずですね、あなた」 「最後まで勝手なことを言ってばかりだな、俺は。徹は元気でやっているか い」 「最後だなんて・・・・・・。あの子はもうお嫁さんをもらって、一人前の顔をし ているわ。わたしはもうお役御免で、ただの邪魔者よ。あなたに送っていた だいていたお金も、全部持たせてやりました。ありがとう、あなた」 「俺は何もしていないさ。すべてを捨てて選んだマジックもこのざまだ。お 前には本当に苦労をかけた。これからお前には楽をさせてやりたいが、それ もできそうもない。すまない」 薄暗い部屋の隅にあるロッカーから声が漏れてきた。 「なるほど。お見事ですがやはり腕が落ちていますね。私も少々遊びすぎま したか」 ゆっくりとロッカーの扉が開き、なかから燃えるような赤い髪と、漆黒の体 が現れた。 「サービスもここまでです。ノルマがあるもので。申し訳ございません」 そう言うと、赤毛は羊皮紙を持った手を目の前にかざした。その眼が強い光 を放つと同時に、一瞬にして紙は燃えてなくなった。 「あなた。実はあなたに話しておかなければならないことがあるんです。あ の赤い髪の人と契約を結んだのは私なんです」 「なんだって。今なんて・・・・・・」 「あなたとあの人の話を聞いてしまったんです。あなたが少し考えさせてほ しいと言った後、わたしが・・・・・・。徹が一人前になるまで、あなたがこの世 界を自分から去るまで待つ、という条件で。さっきあの人に会いました。今 日が期限だと」 「なんだってそんなことを・・・・・・こんなおれのために・・・・・・ばかな・・・・・・ば かな・・・・・・」 「ごめんなさい、あなた。徹のことお願いします。でも、最後にこうしてあ なたとお茶が飲めて・・・・・・よ・・・・・・」 男は怪訝な顔をして通り過ぎる店員をよそに、ただの灰となってしまった妻 をぼんやりと見つめていた。 しばらくして、男はテーブルの上の灰をそっとハンカチに包んでポケットに しまうと、店を出た。 左手をポケットに入れ、右手に数枚のコインを握りしめて、男は強い足取り で歩いていた。キャバレー「葵」へ向かって。
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