短編 #0544の修正
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「 運 命 の 逆 転 」 内 田 有 希 夫 作 プロローグ 平成8年元日。 その日の早朝、多くの日本人が初日の出を拝もうと各地に散在していた。 そして、何事もなく朝日が上り始めた。歓声があがる。 太陽は約8分かけてそのすべてを地上に現した。皆、帰路に着こうとしていた。 その時だ。突然太陽が沈みだした。 「あっ!」悲鳴に近い声が一斉に発せられた。 太陽は再び8分かけて地平線に沈んでいった。 午前7時過ぎ、気象庁、各地の気象台、警察そしてありとあらゆる関係官庁の 電話が一斉に鳴り出した。 しかし、再び太陽は上り始めた。 そして数分前の出来事がうそのことであったかのように、平成8年は始動した。 その頃、高知県の桂浜海岸で不思議な現象を多くの見物人が目撃していた。 大晦日の夕方から、そのダイハツのミラはその場所に止まっていた。 そして、翌朝、太陽が異常現象をおこした瞬間、ミラは突然、浮揚し、太平洋へ向か っ てゆっくり動き始めた。太陽が沈み、同時にミラは薄暗い夜明け前の太平洋上空で 突然、輝くばかりのコバルトブルーに輝き、そして消えた。 ─────────────────────────────────────── ─ 昭和46年6月20日。大阪、長居陸上競技場。 一人の少年がレース前の選手控え室で孤独に耐えていた。 少年の名は鈴木恵一。神戸学院高校2年生、17歳。 彼はなみいる3年生スプリンターを押し退け、200m競争での決勝進出を 果していた。このレースで6着以内に入れば、憧れの全国インターハイに駒を 進めることができるのだ。 競馬の世界でG1レースに出場することが、すべての競争馬の夢のように 彼にとっても全国インターハイへの出場はオリンピックへの夢をかなえる 大きな入口であった。 しかし、予選記録から見ると彼の記録は確かに6番目だったが、7位,8位 とは僅か0.1秒差。しかも相手はすべて先輩の3年生。 不安と緊張が極限に達していた。その時だった。 「おい、ケイイチ」 恵一はその声で我にかえり、顔をあげた。 そこにひとりの見知らぬ男が立っていた。男はいきなり言った。 「君は負けるよ。7着になる。」 <<何だ、このおっさんは>> 「縁起でもないこと、言うなよ!」 しかし、男は話を続けた。 「君は無心でレースに望もうとしている。それはいいことだ。しかし相手は3年生 だ。決勝はそんなに甘くないよ」 恵一はむきになって 「そんなこと良くわかってるさ」 <<早くどっかへいっちまえ、この疫病神が>> 「わからないなら、結末を教えてあげよう。君は150mまで確実に6着のポジション にいる。そして勝利を確信するだろう。ゴールと同時に後ろを振り返る。その時君に見 え るランナーは一人だけ。そう、君はラスト5mで地獄に落ちるんだ」。 <<恵一の怒りは頂点に達した>> <<馬鹿やろ・・・・・>> そう言おうとした時、男の姿は忽然と消えていた。 それから、1時間後、恵一は失意のどん底の中にいた。 あの男の予言が現実となったからだ。 <<単なる偶然だ。まだあしたの400mが残っている・・・・>> 恵一は本来、400mを得意としていたから気持ちの切替えも早かった。 その晩はぐっすり眠れた。 翌日、恵一は予選、準決勝と自己記録を大幅に更新して順当に決勝に駒を進めた。 ところがである。あの男がまた現れたのだ! 「また、7着になるっていうのかよ」。 恵一は乱暴に言った。 「そうだよ」。 「殴るで、おっさん」。 「時間がないんだ、よく聞け、恵一。俺はお前の人生を狂わせたくないんだ。 頼むからおれの言うとおりにしてくれ。最終コーナーを回ってもし6着以内にいたら 君はまた最後で抜かれる。微妙なペース配分だが、最終コーナーを7着で通過して 最後の50mで渾身のラストスパートをかけろ!」 男の目には涙がたまっていた。 それを見て、恵一は男にそれ以上のことが言えなかった。 恵一はレース直前まで躊躇した。400mレースにおいてトップギアをいったん サードギアに落とすと再び加速するのにものすごいエネルギーを要する。特にレース 後半の局面ではそれは致命傷となる。 <<位置について。用意。カーン>> 恵一は3コース。前には5人のランナーがいた。理屈の上では2人抜けば、6着。 しかし、インコースの2人がブラインドとなる。49秒台を持つ強豪3名のランナーは ダントツでバックストレートを走る。恵一はマイペースを保ったまま、200mを通過 した。インコースから抜かれる気配もない。 <<いける!>> 恵一はそう思った。 恵一は長い競技生活の中で「ギャザー」というテクニックを体得していた。 400mという短距離レースは苦痛を伴う過酷な種目である。 スタートで加速したまま一気にゴールを目指すと必ずラスト100mで失速する。 そのため一流ランナーは一応にこの「ギャザー」の技術を活用している。 「ギャザー」とは一口で言えば、意識的に「ニュートラル」状態で走ることである。 それは僅か0コンマ1秒の世界。微妙な狂いがラスト100mの勝敗を左右する、まさ に 「デッドゾーン」である。 その日、恵一はこの「ギャザー」をいつもより僅かに長くとった。 前を走るランナーの姿が遠ざかり、インコースから選手の息づかいが聞こえてくる。 最終コーナーを回った時、彼の前には7名のランナーがいた。最下位! <<届かない。負ける!>> そう思った時、彼の前に小柄な選手の姿が視界に入った。 <<吉田 暁>> 恵一の宿命のライバル。1年前の近畿ジュニアでは彼に快勝している。 <<負けるはずがない・・・>> 恵一は渾身のラストスパートをかけた。しかし、彼は恵一と違い持久力タイプ の中距離選手。それだけにラストになってもなかなか減速しない。 350mを通過しても、その差約2mはまったく縮まらない。 <<だめだ・・・>> その時である。恵一にも信じられない「神風」が吹いた。今流に言えば 「ターボエンジン」が点火したとでも言うのだろうか。 ゴール手前5mで恵一と暁は並んだ。そして渾身のフィニッシュ。 <<勝ったのか、負けたのか>> 当時は写真判定装置はなく、審判の目による着順判定がなされていた。 従って、結果は場内アナウンスを待つ他なかった。 待つこと10分。1着から次々に名前と記録が放送されていく・・・ そして運命の6着。 <<6着、鈴木恵一君、神戸学院高校、記録50秒0。以上>> 暁が握手を求めてきた。 「君はやっぱりすごいな。僕はあの近畿ジュニア以来、君のことをかたときも忘れずに 練習してきたというのに・・・」 <<恵一は驚いた。>> 1着しか経験したことのない恵一は2着以下になった選手の記憶も まして、その選手の思いも考えてみたことがなかったからだ。 「暁、これはまぐれだよ。勝ったのは俺の実力じゃない。」 でも、暁は言ってくれた。 「和歌山インターハイでは、僕の分までやってくれよな。」 暁の目にはうっすら涙が浮かんでいた。 6月の夕陽がまぶしかった。 ─────────────────────────────────────── ─ それから何ヵ月かたったある日のこと。恵一の家に一つの大きな郵便小包が 送られてきた。 開けてみると、見たこともない、A4サイズの黒い機械が入っていた。 そして1通の手紙が同封されていた。 恵一の記憶からほとんど消えていた、あの男からのものだった。 <<前略 鈴木恵一殿 その後の貴殿のご活躍、新聞にてうれしく拝読致しております。 さて、お送りした機械は「ノートパソコン」と呼ぶものであります。 貴殿の時代においては、コンピュータは汎用型と呼ばれる大型コンピュータしか 存在せず、専門のシステムエンジニアがコボルというコンピュータ言語で操作し、 一個人がコンピュータを扱える時代ではありません。 しかし、昭和50年代に入るとマイクロコンピュータが開発され、それが進化して 私的コンピュータ「パーソナルコンピュータ」略して「パソコン」が開発されるのです 。 初期のパソコンは大きなテレビモニターを要し、能力も汎用コンピュータの足元にも 及ばなかったのですが、平成<<ヘイセイと呼びます>> 詳細は省略しますが、昭和は63年で終わります。 話を戻します。平成に入ってパソコンは劇的な進化を遂げ、軽量小型化し、その性能 も 汎用コンピュータを凌駕するに至りました。 パソコンに同混されている丸いプラスチック状のものはこの時代、「CD−ROM」 と 呼ばれるものです。 このCD−ROMには昭和47年1月から平成7年10月(1972年〜1995年) までの主要な新聞の記事がすべて収録してあります。 パソコンの操作はマニュアルを読めば、すぐに使えるようになると思います。 恵一君、つまりあなたはこれから先23年間の未来を知ることが出来るのです。 この奇跡が君に多くの幸せをもたらすことを祈っています。 さようなら、恵一君>> ─────────────────────────────────────── ─ 平成8年1月11日。自民党、社会党、さきがけの連立与党内閣において自民党の橋 本 龍太郎党首が第82代の首相として任命された。 その閣僚の中に若干41歳の通産大臣、鈴木恵一の名前があった。 完 【付録】鈴木恵一のプロファイル 1954年4月30日 神戸市生まれ 1973年4月 東京大学地球物理学部入学 1976年 モントリオールオリンピック陸上100m代表 日本人としては40年ぶりの決勝進出を果たし10秒24 の日本記録を樹立 1980年 米国マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏と出会い MS−DOSを開発。同年同社日本支社の社長となる 。 1984年 社業のかたわらロサンゼルスオリンピックの代表とな り 世間をあっと言わせる。決勝でカール・ルイス、 ベン・ジョンソンについで3位入賞を果たす。 1985年 阪神タイガースが21年ぶりの優勝を果たしたが、 熱狂的な彼は「道頓堀川」に飛び込み、一時危篤状態 と なる。 1986年 自由民主党に入党 その他 何故か競馬、株に強く100発100中で40歳 にして、資産100兆円。現在、「世界を牛耳る男」 の 異名を得る。
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